日露関係史
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日露関係史(にちろかんけいし)では、日本とロシア(ロシア帝国、ソビエト連邦を含む)の二国間関係の歴史が述べられる。両国は、ロシア人の極東進出と日本人の北方開拓の結果、隣国として友好と敵対によって複雑に彩られつつ密接な関係を結びながら歩んできた。
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[編集] 鎖国体制下の日露関係
ロシア帝国は東方進出によって日本人漂流民と出会い、彼等によって南方に日本という国があることを知り、1705年には都サンクト・ペテルブルグに日本人学習所を設置していた。1739年に安房国沖に接近したものの、江戸幕府は沿岸防備を強化した為、接触に失敗した。日本もこの頃までには、北方に「おろしや」という国があることを知るようになった。
カムチャツカ半島を領有したロシア人は、毛皮などを獲る為に千島列島でも活動し、日本も在住のアイヌを通じて部分的には交易を行うなど接触はされていたが、東方に土着したロシア人はヨーロッパから遥か離れたこの地で、物資の不足にあえいでおり、食料物資などの補給のために南方の日本との交易を求めていた。こうして18世紀にはロシアとほぼ隣国の関係となり、日本近海、とくに蝦夷地周辺に『赤蝦夷』と呼ばれていたロシア勢力が出現するに及んで江戸幕府の北方開拓を刺激することにもなった。
ロシアは東方のイルクーツクに、1764年に日本航海学校を、1768年に日本語学校をそれぞれ設置し、日本付近への航海を積極的に行うようになり、1771年には阿波国(あわ違いの可能性もある。安房国か?)にロシア船が漂着する事件もあった。そして1778年、ロシア船は蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが、翌年に松前藩はそれを拒否した。
1783年、日本の船頭大黒屋光太夫が伊勢白子浦から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島に漂着した。一向はロシア人によって保護され、1791年には日本人として初めて女帝エカテリーナ2世と謁見した。帰国を望んでいた光太夫は、1792年にロシア使節アダム・ラクスマンに伴われて根室に着いた。ロシアは漂着民を届けることを根拠に通商交渉を狙ったが、再度断られ、老中松平定信は周辺を巡視させた。
光太夫によって伝えられたロシア事情は『北槎聞略』にまとめられ、幕府にとっては鎖国時代における貴重なロシア情報となった。また、海外事情に通じた林子平がロシアの日本近海進出について説く啓蒙活動を行い、長崎出島でのオランダ通詞からの情報などでロシアに関する認識が深まっていった。1799年には松前藩にかわって幕府が蝦夷地の直轄統治を開始し、最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせた。
1804年にもニコライ・レザノフが日本人漂流者を伴い、長崎に来航した。このとき幕府がロシアの開港要求を拒絶したため、レザノフは武力による通商開始を決意して蝦夷地の日本側拠点の攻撃をはかり、樺太と択捉島が襲撃されるが、その病死により中断される。この緊張を背景に、1811年には千島列島を探検中に国後島に上陸したヴァーシリー・ゴローニンが幕府の役人に捕らえられ、その報復として日本の商人である高田屋嘉兵衛が連れ去られる事件が起こった(ゴローニン事件)。このような正式の国交をもたないままの緊張をはらんだ交渉は1821年までに落ち着きを取り戻し、蝦夷地は再び松前藩に返還される。
[編集] ロシアの南下政策と日本の近代化
19世紀半ばに入ると、ロシアは農奴解放を求める国内の改革への圧力と、クリミア戦争などのヨーロッパ方面での南下の試みの挫折を受けて、再び極東への進出を重視してきた。1853年、アメリカのマシュー・ペリー提督の浦賀来航(黒船来航)に続くようにロシア使節エヴフィミー・プチャーチンが3隻からなる艦隊を率いて長崎に来航、困難な交渉の末、1855年2月に伊豆半島の下田で日露和親条約を締結した。さらにプチャーチンは間をおいて再び長崎に来航し1858年に日露修好通商条約を結んだ。これにより日露の国境は千島列島の択捉島と得撫島の間にひかれ樺太は両国これまで通りとして日露の正式な国交が開始するが、これが北方領土の帰属問題の起点ともなる。1875年には樺太・千島交換条約が結ばれて千島列島は全島が日本領とされ、代わりに1867年より両国民雑居の地とされていた樺太(サハリン)はロシア領に定められた。
この間、やはりプチャーチンによって中国(清)に圧力をかけアイグン条約(1858年)で黒龍江東岸の中国領土を獲得したロシアは、中国分割に参加する列強の一角として、1860年中国から沿海州も獲得しマンチュリア(満州、現在の中国東北地区)への進出を強めた。1895年、ロシアは三国干渉を主導して日本から遼東半島を放棄させると、1896年には清と密約を結んで東清鉄道の施設権を獲得、1898年には旅順・大連を租借した。この一連の行動は日本側のロシアに対する激しい敵愾心を巻き起こし、1900年の義和団事変後の混乱に乗じてロシア軍がマンチュリアの全域を占領し、日本が安全保障上確保したい朝鮮領内に陣地を築いて、日本の権益を脅かすに及んで日露の対立は決定的となった。
日本はやはりロシアの中国進出を嫌うイギリスと、1902年に日英同盟を結んでその後ろ盾を得ると、1904年に始まった日露戦争に勝利し、1905年のポーツマス条約で満州におけるロシアの権益を奪取した。また、この条約で南樺太が日本領となる。日露戦争の結果、ロシアの極東進出は後退を余儀なくされるが、ポーツマス条約を仲介したアメリカ合衆国の極東への経済的な影響力強化に対してロシアと日本の利害は一致することとなり、数度にわたる日露協約を結んで満蒙(マンチュリアとモンゴリア)における両国の権益・勢力範囲を分割した。ロシアとの協約成立は、ロシアの報復を恐れていた日本政府を安堵させるものであった。
[編集] ソビエト連邦建国と日本
日露戦争後のイギリス・日本とロシアの間の歩み寄りの結果、第二次大隈内閣時1914年にはじまる第一次世界大戦ではともに連合国側に参戦することとなって友好関係が続き、1916年には第4次日露協約を結んで、日露両国は極東における相互の特殊権益の擁護を再確認した。ところが1917年、ロシア革命が勃発してロシア帝国は倒壊し、日露協約は廃棄されることになる。
ロシア帝国の解体後、ロシアでは中央でソビエト政権を樹立したボリシェヴィキの赤軍と、それに反対して地方で抵抗を続ける白軍の間で内戦が続く混乱期に入った(ロシア内戦)。極東への共産主義の波及を怖れる日本は、同じくソビエトを敵視する英仏伊と歩調をあわせ、1918年1月に居留民保護を名目としてロシア極東の主要都市ウラジオストクに艦隊を派遣した。さらに内戦によりシベリアで孤立したチェコ軍団救援をアメリカが提案したことを受け、8月12日に日本軍は上陸を開始した。ロシア帝国の消滅を受けてロシア勢力圏の北マンチュリア(外満州)・沿海州へと勢力を広げる野心をもっていたとされる日本は、これにはじまるシベリア出兵に7万人以上の兵士を送り込んだ。
この日本の過大な出兵の結果、内戦への協調干渉を断念したアメリカは出兵を打ち切り、日本も1919年から徐々に撤兵を開始した。しかし、同年には日本軍の守備隊がパルチザンと衝突し、日本側は守備隊と居留民を殺害される尼港事件が起こって犠牲を払う。日本はこの事件をきっかけに、さらに北樺太まで出兵を広げるが、結局ソビエト政権の打倒はならず、1922年にソビエト連邦が建国され、ソビエトが沿海州に置いた緩衝国極東共和国もソ連に併合されるに至る。同年、日本はようやくシベリアから完全撤兵するが、列強の一部がソビエト連邦の承認、国交樹立に動く中で関係回復は進展しなかった。また、シベリア撤兵後も石油・石炭資源の埋蔵が期待されていた北樺太には1925年まで駐留を維持していた。
しかし、隣国であるソ連との関係断絶は日本経済界への打撃も強く、またカラハン宣言に基づくソ連の中国への影響力増大から日ソ国交正常化を行ってこそ大陸での日本の権益を守れるとの主張もあらわれた。そのため日本側も国交正常化に前向きとならざるを得なくなり、1925年1月20日に北京で日ソ基本条約を締結した。
一連の動乱の中で、革命に反発してロシアを出国した数多くのロシア人たち、いわゆる白系ロシア人が日本に大量に流入し、ロシア・正教会の文化を日本にもたらした。
[編集] 戦時下の日ソ関係
日ソ基本条約が結ばれた一方で、ソ連の主導した共産党の世界組織コミンテルンは、1922年に日本共産党を日本支部に指定してその地下活動を援助しており、日本の当局者を刺激していた。また、1924年には外モンゴリアでソ連はモンゴル人民共和国を成立させ、モンゴリアを勢力圏に置こうとしていた。このような状況を背景にして、軍部を中心にマンチュリアを極東に押し寄せる共産主義からの防衛線として確保すべきであるという考えが芽生え、これがマンチュリアを確保して日本の生命線とする構想が進められる一因となっていった。このような時代的な背景により、1932年に満州事変が勃発、日本の後ろ盾のもとにマンチュリアを領域とする「満州国」が建国される。
満州国の建国以来、満州に駐留する日本の関東軍と、ソ連軍との間で緊張関係が高まり、何度かの武力衝突が行われた。1938年にソ連と満州の国境紛争(張鼓峰事件)、1939年にはモンゴルと満州との国境紛争から大規模なノモンハン事件が起こる。
しかし、同年にヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、アジアでも日本と英米蘭との間での緊張が強まると、正面に敵を抱える両国は背後を固める必要性に迫られ、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発直前の1941年に日ソ中立条約を結んだ。しかし、その後1941年6月にドイツが不可侵条約を破棄しソ連と戦争を始めると、7月日本軍は70万の兵士を関東軍特殊演習と称して満蒙国境線に配備したが南進計画決定により8月に中止された。
ヨーロッパでは日本の同盟国であるドイツがソ連と全面戦争を行う状況の中で、日本は中立条約によりソ連との間の戦闘を免れていたが、大戦末期の1945年8月8日に至ってソ連はヤルタ協定(秘密協定)を口実として日ソ中立条約を一方的に破棄して対日宣戦布告、日本側勢力圏の満州帝国(マンチュリア)と朝鮮半島北部に侵攻し、日本領土の南樺太と千島列島を侵攻占領した。この数日間の戦争で多くの日本兵が捕虜となり、シベリア(一部は中央アジア)へと抑留されることになる(シベリア抑留)。
[編集] 第二次大戦後の日ソ関係
- 1946年 - シベリア抑留者の帰国が開始される。
- 1948年 - 民間貿易協定の締結。
- 1950年 - ソ連共産党がコミンフォルムを通じて日本共産党の平和革命論を批判。その後の武装闘争路線の採用と党分裂へつながる。
- 1950年10月 - 中ソ友好同盟相互援助条約により、ソ連は中華人民共和国との間で日本の軍国主義復活の阻止を宣言する(-1980年)。
- 1952年 - ソ連代表はサンフランシスコ講和条約への調印を拒否。日ソ間の国交断絶が続く。
- 1956年10月19日 - 日本の鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相が日ソ共同宣言を発表し、国交が回復する。また、平和条約調印後の歯舞諸島・色丹島の返還を約束する。
- 1956年12月 - ソ連は日本の国際連合加盟に対し、拒否権発動から支持に転換し、加盟が実現する。
- 1956年12月 - 最後のシベリア抑留者集団帰国が行われる(注:異説あり)。
- 1960年 - 日米安全保障条約の延長に対抗し、歯舞と色丹の返還を撤回。日本これに抗議。
- 1963年 - 日本共産党が部分的核実験停止条約を批判。
- 1964年 - 日本共産党が部分的核実験停止条約に賛成した志賀義雄を除名。日ソ両国の共産党関係は冷却化し、相対的に日本社会党がソ連共産党との関係を緊密にする。
- 1967年 - 東京-モスクワ間の航空路が開設され、日本航空とアエロフロートが運行を開始する。
- 1972年11月28日 - 日本航空の旅客機がモスクワ郊外で墜落する。
- 1973年10月 - 日本の田中角栄首相がソ連を訪問し、ブレジネフ書記長と会談して日ソ共同声明を発表する。しかし、日本が中国と接近するようになり、両国間の首脳交流は長期間中断する。
- 1977年 - ソ連の200海里漁業水域宣言に伴い、日ソ暫定漁業協定が締結。以後、北洋漁業はその更新や安全操業の確保(ソ連による漁船拿捕の防止)等が大きな課題になる。
- 1978年 - 日中平和友好条約で、中国側が求めた「ソ連覇権主義への批判」が外交問題になる。
- 1980年 - 中ソ友好同盟相互援助条約が失効する(1950年-)。
- 1980年 - 日本はアフガン侵攻に抗議して、モスクワ五輪への参加をボイコットする。
- 1983年9月1日 - 大韓航空機撃墜事件が起こる。民間旅客機がソビエト占領下の樺太・海馬島沖で領空を侵犯した後にソ連軍に撃墜され、日本人旅客を含め全員死亡。
- 1986年5月 - 8年ぶりの日ソ外相会談がモスクワで行われ、両国関係の改善が始まる。
- 1991年4月 - ロシア・ソ連の最高指導者としては初めて、ゴルバチョフ大統領が日本を訪問する。
[編集] ソビエト崩壊後の日露関係
1991年12月のソ連崩壊によってロシア連邦がソ連の権益や対外条約を引き継ぐとした為、日本もこれを承認した。1993年にはエリツィン大統領が来日、細川護熙首相と会談した。エリツィンと橋本龍太郎首相は特に親密になり、相互訪問を行ってロシアの先進国首脳会議メンバー入りを支持し、北方領土問題にも解決の道筋を示したかに見えたが、返還交渉はまとまらなかった。2001年に就任したプーチン大統領は対外強硬派であり、小泉純一郎首相とたびたび会談しているが、北方領土問題を有利に解決したい双方の思惑のずれにより、問題解決には至っておらず、1956年の共同宣言以来の目標である平和条約締結の道筋も見出せない。
2006年(平成18年)8月16日、北海道根室市花咲港所属の漁船が水晶島付近の海域で操業中に国境を侵犯したとしてロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕され、乗組員1人が死亡する事件が発生した(漁民銃撃・拿捕事件)。
また、同年9月ロシア政府は、サハリン(樺太)沖で三井物産、三菱商事、ロイヤル・ダッチ・シェルが出資・開発する海底油田「サハリン2」に対し、環境保護を理由に事業認可を取り消すとの方針を示した。このプロジェクトには以前より、国内外から環境問題に対する懸念が示されていたことも事実であるが、むしろロシア側が国営天然ガス会社ガスプロムの参加など、ロシア側に有利なように生産分与契約の改善等を求めるのではないか、との懸念が浮上している。 実際には、ロシア政府から公式に上記のような要求が出された事実は無いが、もしそのような要求がなされた場合にはサンクトペテルブルクサミットにおける合意に違反するとして、アメリカ等からの懸念も招いている。