アドルフ・アイヒマン
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アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann, 1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ドイツの警察官僚。最終階級は親衛隊中佐。
中間管理職的な生真面目さからナチス・ドイツの大きな歯車の一部となりホロコーストを着実に実行する。「ユダヤ人問題の最終解決」と曖昧に表現されたヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅計画における彼の役割は、各国からユダヤ人をヨーロッパ東部に散在する各種の強制収容所へ送り出すことであった。彼なしには第三帝国においてホロコーストはなかったとされる。
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[編集] 生い立ち
アイヒマンはドイツ西部の都市ゾーリンゲンで、成功したビジネスマンの息子として生まれた。1914年に一家はオーストリアのリンツへ出国する。オーストリアにおける子供時代、アイヒマンはやや暗い顔色をしていたため、他の子供は「ユダヤ人」のように見えると彼をあざ笑った(当時のオーストリアは、ユダヤ人が居住するウィーンを中心に反ユダヤ主義が日常的に蔓延していた。ヒトラーもオーストリア生まれである)。第一次世界大戦が始まるとアイヒマンの父親はオーストリア・ハンガリー帝国軍に従軍した。戦後、父親はリンツで事業を再開し、1920年に一家はドイツへ戻る。
1925年にアイヒマンは機械工学を学ぶため再びオーストリアへ移り住むが、貧しい学生であった彼はすぐに大学を中退した。その後、彼は父親の事業を手伝うため1930年にドイツに帰る。アイヒマンとナチスとの最初の接触は、彼がワンダーフォーゲル運動に参加したときであった。ワンダーフォーゲル活動団体にはユダヤ人のメンバーも所属していたし、反ユダヤ活動は一部に見られたに過ぎなかった。アイヒマンは1932年にオーストリアに移り、26歳でオーストリア・ナチスに加わった。
[編集] ナチ入党

オーストリア人のエルンスト・カルテンブルンナーに助言されたアイヒマンは、1932年4月1日に親衛隊のオーストリア支部に加わる。彼は同年11月に正式な親衛隊隊員と認められ、45326号の隊員番号を与えられた。
翌年彼は一般親衛隊のパートタイム・メンバーとしてザルツブルクで活動した。1933年にナチ党がドイツで政権を掌握すると、彼はドイツに帰国しフルタイムのSSメンバーとなることを申請した。1933年11月に彼は親衛隊伍長としてミュンヘン郊外ダッハウのダッハウ強制収容所で勤務しラインハルト・ハイドリヒに注目された。1937年には、ドイツからユダヤ人のパレスチナへ大規模な移住計画の可能性を評価するためヘルベルト・ハーゲンの副官としてパレスチナに行った。彼らはハイファに到着したが通過ビザしか得られず、カイロへ進んだ。カイロではハガナのメンバーに会った。さらにパレスチナでアラビア人のリーダーに会うことを計画したが、パレスチナへの入国はイギリス当局によって拒絶された。後に、ユダヤ人国家の設立を妨げるというドイツの政策と矛盾したので、経済的理由のためのパレスチナへの大規模移住に反対する報告書を書いた。
[編集] 「ユダヤ人問題の最終解決」
1942年、ハイドリッヒの命令で関係各省庁の次官級の担当者がベルリン高級住宅地ヴァンゼーに集まった所謂ヴァンゼー会議に議事録作成担当として出席し、「ユダヤ人問題の最終解決策」(=虐殺)の決定に関与した。彼は親衛隊中佐に昇進し、国家保安本部第IV局(ゲシュタポ) ユダヤ人課の課長に任じられ、ヨーロッパ各地からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所へ列車輸送する最高責任者となる。続く二年間に彼は500万人ものユダヤ人を列車で運んだと自慢するように、任務を着実に遂行した。
アイヒマンの実績は注目され、1944年には計画の捗らないハンガリーに派遣される。彼は直ちにユダヤ人の移送に着手し、40万人ものユダヤ系ハンガリー人を列車輸送してアウシュヴィッツのガス室に送った。1945年、ドイツの敗色が濃くなると親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。彼は更に武装親衛隊の予備役として委任させられていたため、戦闘命令を回避するために自らの任務を継続していた。
アイヒマンはソ連軍が迫るハンガリーから脱出し、彼の知己であったカルテンブルンナーのオーストリアへ戻ったが、カルテンブルンナーはアイヒマンの任務が、ユダヤ人の根絶であることを知っていたため、連合軍から責任を問われることを恐れアイヒマンとの面会を拒絶した。
[編集] 逃亡・そして逮捕
第二次世界大戦後、アイヒマンはアメリカ軍によって拘束される。しかしながら偽名を用いて復員軍人であったと主張し、捕虜収容所から逃亡することに成功する。1947年初頭からドイツ国内を逃亡、1950年初頭には難民を装いイタリアに到着、修道会の施設で数ヵ月を過ごした。
その頃、リカルド・クレメントの偽名で国際赤十字委員会から渡航証(人道上発行されるパスポートに代わる文書)の発給を受け、同年7月15日には船でアルゼンチンのブエノスアイレスに上陸した。その後16年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ新生活を送った。当時のアルゼンチンは親ナチスのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員の主な隠れ家となっていた。
しかし、モサド(イスラエルの情報機関)のピーター・マルキン率いる秘密工作チームによって1960年5月11日に誘拐、逮捕され、5月21日にアルゼンチン独立記念日の式典へ参加したイスラエル政府関係者を帰国させるエル・アル航空の旅客機でイスラエルへ空輸された。彼の正体が暴露したきっかけは、結婚記念日に妻へ贈る花束を買ったことであった(この逮捕および強制的な出国についてはイスラエル政府はアルゼンチン政府に対し正式な外交的手続きを踏んだものではなかったため、後にアルゼンチンはイスラエルに抗議している)。
イスラエル政府は暫くの間、ユダヤ人のボランティアによって身柄を拘束されたとしてその関与を否定した。しかしながら最終的にその主張は覆された。ダヴィド・ベングリオン首相は、1960年5月25日にクネセトでアイヒマンの捕獲を発表し世界的なニュースとなった。当時のモサド長官イサー・ハレルは後にアイヒマン捕獲に関して『The House on Garibaldi Street』を著した。ピーター・マルキンも『Eichmann in my Hands』という本を著した。
[編集] 裁判と処刑
アイヒマンの裁判は1961年4月11日にエルサレムで始まった。人間性に対する犯罪、ユダヤ人に対する犯罪および違法組織に所属していた犯罪などの15の犯罪で起訴され、その裁判は国際的センセーションと同様に巨大な国際的な論争も引き起こした。イスラエル政府は、ニュース番組が制限なしで裁判を生で放送することを世界中で許可することにより、慎重に世論をあおった。テレビ視聴者は、多くの大虐殺生存者を含む目撃者が、彼および強制収容所への囚人輸送における彼の役割に対して不利な証言をしていた間、得体の知れない人物が防弾ガラス・ブースに座るのを見た。
証言にしばしば伴ったナチの残虐行為の恐ろしい記述は、ホロコーストの現実およびナチの支配の弊害を直視することを全世界に強いた。裁判を通じてアイヒマンは、単に「命令に従った」だけだと主張した。
すべての訴因上で有罪と判決されて、アイヒマンに対し1961年12月2日に死刑(イスラエルでは、戦犯に対する以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルでかつて実行されたただ一つの法律上の死刑)が宣告され、1962年6月1日にラムラ刑務所で午前0時数分後に絞首刑にされた。彼の遺体は焼却され遺灰は海にまかれた。
この際に彼は、「一人の死は悲劇だが、数百人の死は統計でしかない。」という言葉を遺した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- BBC: Adolf Eichmann: The Mind of a War Criminal
- Adolf Eichmann at the Internet Movie Database
- Declassified CIA names file on Adolf Eichmann - Provided by the National Security Archive
- Eichmann trial: The complete transcripts - Provided by the Nizkor Project