営団1000形電車
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1000形電車(1000がたでんしゃ)は、現在の東京地下鉄(旧・帝都高速度交通営団)銀座線の前身である東京地下鉄道が、1927年(昭和2年)の上野~浅草間開業に合わせて製造した電車で、日本最初の地下鉄電車である。
開業時には1001~1010の10両が製造され、1929年(昭和4年)に1011~1021の11両が増備されて計21両となった。
本稿ではほとんど同一構造の1100形電車(1100がたでんしゃ)についても記述する。
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[編集] 車体構造・内装
車体外部塗装は黄色基調に屋根周りえんじ色のツートンで、後の銀座線車両のみかん色とは違う明るい黄色であった。リベットを縦横に打ち込んだ物々しい外観が目を引くが、溶接技術が未発達だった時代ゆえのことである。
地下鉄において最も危険なのは火災事故であり、現在では厳しい難燃基準が制定されている。
1000形はそれ以前に日本国内での実例がなかった地下鉄車両だけに、当時としては最も進んだ不燃対策が施されている。この当時の鉄道車両はまだ台枠のみ鋼鉄製で他はすべて木造とした木造車体が一般的であり、外板と骨組みを鋼鉄製とした半鋼製車体に移行しつつある時期であった。しかし本形式は半鋼製をも通り越し、内張りまで鋼鉄製とした全鋼製車体が採用された。
内装は鋼板に木目焼き付け印刷を施し、木造車に慣れた当時の乗客に違和感を感じさせない配慮がなされている。全鋼製車体・内装木目印刷の先例としては、1926年(大正15年)に登場した阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)600形があるが、東京地区では最初の試みであった。また、床材に不燃材料としてリノリウムを採用したのも画期的であった。
常に闇にある地下においては照明も重要である。1000形では日本の鉄道車両としてほとんど最初の間接照明を採用し、車内灯の光が直接乗客の目に当たらないようにする配慮がなされていた。
客用扉には当時では珍しかった自動扉が採用された。スイッチは客室内にあり、「此の戸」「他の戸」と表記されたスイッチを操作して扉を開閉していた。
つり革には「リコ式」と呼ばれる方式のものが用いられた。これは通常はバネの力で外側に跳ね上がって固定され、乗客がつかまる際に手前(自分)の方へ引っ張る構造で、重い鋳造品だった。長らく営団地下鉄電車の特徴として東西線の5000系登場時まで使われたが、手を放すとバネの力で戻る際に他の乗客の頭に当たりトラブルになることがあるため、同系の1967年(昭和42年)製以降からは通常タイプに変更された。
なお、1000形の登場前年にアメリカJ.G.Brill社で新製されたフィラデルフィア向けの鋼製車に、本形式に極めて酷似した形態のものがあり、本形式の設計にあたって参考とした可能性がある。
参考サイト:[1]world.nycsubway.orgより。黄色系の塗装は事業用車を示すと思われる。
[編集] 保安機能
東京地下鉄道は開業時より最先端の信号保安技術を採り入れた。打子式ATSと称される自動列車停止装置である。
停止信号が現示の際、進行方向左側の線路脇にトレインストッパー(打子)が立ち上がり、万一列車が停止信号を冒進した場合、列車の車上にあるトリップコックが地上側のトレインストッパーに当たり、制動管圧力を開放して非常ブレーキを掛けるという仕組みである。原理は至って原始的だが作動は確実であった。
このATSと連動するブレーキシステムは、アメリカのウェスティングハウス・エアブレーキ(WH)社製M-2-A三動弁を使用するAMM自動空気ブレーキが採用されていた。これは同時期に新京阪鉄道(現・阪急電鉄京都線)が新製投入したP-6形や、その後大阪市電気局(現・大阪市交通局)が高速電気軌道1号線用として建造した100形などに採用した、同じWH社製のU-5自在弁を使用するAMUブレーキと比較すれば見劣りしたが、比較的短編成、かつ低い表定速度で運行される地下鉄電車用としては適切な選択であり、建設費の乏しい民営地下鉄ゆえに、最新かつ最適な機器を選択するが無駄に贅沢な機器は採用しない、とする基本設計方針が徹底していたことを伺わせている。もっとも、言い換えればこの時点では5両編成以上の長大編成は前提外であったということであり、駅施設などを含めこれが前提となっていたことは後年の乗客数激増への対応を困難とし、将来に禍根を残す結果となった。
[編集] 定期運用離脱~その後
1968年(昭和43年)に1500N形の竣工に伴い1100形、100形共々廃車が決定し、1000形2両で1500N形1ユニットを挟んだラストランが実施された。
翌1969年(昭和44年)2月20日から3月15日まで、運輸省(現・国土交通省)船舶技術研究所と自治省(現・総務省)消防研究所の協力の上、中野工場において1002と1004を使用し燃焼実験を実施した。
また廃車当時、銀座線で車両冷房の導入が検討されており、1014と1018を使用して冷房試験が実施された。この2両は試験終了後、丸ノ内線小石川検車区の入れ換え車として使用され、1975年(昭和50年)6月28日付けで廃車となり、形式消滅となった。
[編集] 保存車
現在の東京地下鉄の電車の総合的な基礎はこの1000形にあると言える。
1000形は戦後になって台車交換が実施され、一部の旧台車は高松琴平電気鉄道や山陽電気鉄道などの標準軌間の私鉄各社に払い下げられた。
記念すべき第1号車である1001は廃車後、1970年(昭和45年)に千代田区神田須田町にあった交通博物館(2006年5月14日閉館)へ寄贈された。同館では開業時の姿への復元が進められたが、特に台車については調査の結果、旧台車の払い下げ先である山陽電鉄で250形最終編成(256-257)に装着されて使用されていることが判明し、1980年(昭和55年)の同編成廃車後、同編成が装着していた旧1000形用台車1両分の寄贈を受けて交換を実施している。
その後、1986年(昭和61年)に地下鉄開通60周年記念事業の一環で東西線の葛西駅高架下に開館した地下鉄博物館に移転されて屋内保存されており、開業当時の上野駅をモチーフにして展示されている。そして2003年(平成15年)6月の同館リニューアルにより、1001の隣には丸ノ内線300形301も保存されるようになり、同時に従来は原則非公開だった車内も一般公開されるようになった。
1997年(平成9年)10月から12月にかけて、「地下鉄走って70年」記念イベントの一環として、01系第22編成の先頭車に1001の車体に似せたラッピングを施した記念列車が運転された。
[編集] 1100形電車
東京地下鉄道が1930年(昭和5年)に万世橋(現・廃止)~京橋間を延伸した際に1000形の増備車として9両(車両番号:1122~1130)が製造された。1000形との相違点は溶接組立の導入によるリベットの数の減少程度である。
1000形と同様の経緯で営団地下鉄に引き継がれた。
1968年に全車廃車され、1122は教材用として長らく丸ノ内線中野工場に保管されていたが、現存しない。