大阪市電気局100形電車 (地下鉄)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大阪市電気局100形電車(おおさかしでんききょく-がたでんしゃ)は、大阪市電気局(現・大阪市交通局)が1933年(昭和8年)5月の高速電気軌道1号線(現・大阪市営地下鉄御堂筋線)の部分開業に際して製造した電動客車である。
![]()
大阪市営地下鉄開業時の100形電車
|
目次 |
[編集] 概要
1号線部分開業に備え、神戸の川崎車輛で101~104、大阪京橋の田中車輌で105・106、名古屋の日本車輌製造本店で107・108、東京の汽車製造東京支店で109・110の合計10両が新造された。
当時、関西の私鉄各社が競って導入しつつあった大型高速電車の要素技術を巧みに組み合わせて設計され、これにニューヨーク市地下鉄など欧米の先進的地下鉄の事例にならった各種保安機器等を付加してあり、以後の大阪市営地下鉄における車両設計の基本を確立した。
[編集] 車体
窓配置d1D(1)4D(1)3(1)D2(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)で側窓は下段固定、上段下降による2段式、運転台側にのみ乗務員扉を設置し、密閉式の片隅運転台を両端に備える両運転台車である。
前面は貫通扉を中央に配する3枚窓の、当時としては一般的なデザインで、当初貫通幌は未装着であった。
車体は湿度の高いトンネル内で運用されることを考慮して防錆効果の高い含銅鋼板を使用し、全て鋲接(リベット接合)で組み立てられていた。防火を目的として床材にはマグネシアセメントを、内装化粧板には塗装鋼板を使用した。また、側扉は軽合金製で、その他内装各部にも軽合金を多用し、軽量化に一定の配慮がなされていた。
各部寸法は車体長17m、車体幅2.8m、自重40.3tで、いずれも地下鉄車両として先行した東京地下鉄道1000形を上回る大型車であった。
座席はロングシートで、座席下に各種配線の接続部やドアエンジンが搭載されていた[1]。また車内中央には当初琺瑯引きのスタンションポールが立てられ、短距離運転ということで荷棚も設けられていなかった。
車体両端には連結面でホームから乗客が転落するのを防ぐため、「安全畳垣」と呼ばれる折りたたみ式の転落防止柵が装着されていた。これはニューヨーク市地下鉄の例にならって採用された装備であるが、同様に採用していた阪和電気鉄道や参宮急行電鉄が比較的早い時期に使用を断念して撤去したのに対し、大阪市は本形式を含むU自在弁搭載車全車について、この安全畳垣を廃車まで標準装備のまま[2]としていた。
行先表示は、側面幕板部の受金具に行先表示板を挿して案内する方式であったが、この表示板受金具の脇には列車種別表示板用の受金具も設けられていた。これは当初御堂筋の幅半分を用いて建設される1号線に平行して、残りの幅半分のスペースに主要駅のみ停車の急行線[3]の建設が計画されていたことの名残である。
また、車内櫛桁部には電照式の駅名表示器が設置され、モーター駆動で次の停車駅を表示していたが、これは1935年(昭和10年)10月の心斎橋 - 難波間開通に伴う連結運転開始後、故障が相次いだ[4]ことと、連結運転開始後、車内放送設備[5]が追加設置されて次駅案内には特に不自由が無くなったことから、撤去された。
塗装は、新造時は開業前に京都帝国大学の武田五一博士に委託して、市電1601形10両を用いて実施された塗装試験の比較調査の結果をふまえ、上半分がやや黄みがかったクリーム色、下半分が水色で、客用扉と屋根が銀鼠色、木製の窓枠が薄茶色となっていたが、戦後は新造車に合わせて上半分がクリーム色で下半分がオレンジに変更された。
[編集] 主要機器
[編集] 主電動機
主電動機は芝浦製作所製SE-146[6]を各台車の第1、第4軸に吊り掛け式に裝架し、歯数比は3.05、並列接続としていた。
この芝浦SE-146は新京阪鉄道[7]、阪和電気鉄道[8]、南海鉄道[9]、参宮急行電鉄[10]などの関西私鉄各社が1920年代後半より相次いで導入した大型高速電車に採用された200馬力 (150kW) 級主電動機[11]を上回る230馬力級で、同級の芝浦SE-151[12]と並んで、第二次世界大戦前の日本で製作された電車用主電動機の最大出力を記録する、記念碑的存在であった。
[編集] 制御器
制御器については、トンネル内での踏面ブレーキ使用による鉄粉飛散や火花の発生を極力抑止すべく、発電ブレーキの常用を前提として計画されたため、新京阪P-6で実績があった東洋電機製造ES-504Aを改良した、ES-512A電動カム軸式自動加速制御器が採用された。
この制御器は直列5段、並列4段、弱め界磁1段、発電制動8段という構成で、発電制動に界磁制御を用いる設計となっており、力行時には弱め界磁を使用できなかったが、回路的には使用可能とする準備が行われていた。さらには、将来郊外区間でパンタグラフによる1500V架線集電[13]の下で、あるいは急行線実現の暁には地下線でも、弱め界磁制御を用いた高速運転を行う計画が存在したことから、主電動機を第2・第3軸に追加裝架し、1・4軸と2・3軸の2群で直並列制御を行えるよう各機器の配置が決定されており、制御器の結線や各部の艤装などもこの電動機追加と1500V対応に備えて当初より様々な準備工事が実施されていた。
なお、当初の計画案では本形式を4個モーター化の上で2両編成の中間に付随車 (T) を挿入してMTMの3両編成を1セットとする、後の30系と同様の編成プランが計画されており、付随車についての計画図も現存している。
[編集] ブレーキ
ブレーキとしては、当時最新鋭の12両編成対応ブレーキシステムであるウェスティングハウス・エアブレーキ社[14]設計のU-5自在弁を使用する、三菱造船所製AMU自動空気ブレーキが搭載されていた。
このブレーキも当時既に新京阪・参宮急行・大阪電気軌道・阪和の各社に導入されていたものであるが、大阪市の場合は12両編成での使用を当初より想定していたため、将来電磁同期弁(電磁給排弁)を付加してAMUE電磁自動空気ブレーキ化することを前提とした機器配置とされていた点で、先行各社より一歩先を見据えた仕様であった。
このAMUブレーキは発電ブレーキを常用する大阪市の場合、使用頻度は低かったが、トレインストッパーと連動する打子式ATSや、電気連結器付き密着式連結器の関節部があらぬ方向を向いた際[15]に動作する、振止制限弁と呼ばれる一種の非常ブレーキ弁が付加されるなど、地下鉄の安全を支える保安システムの中枢をなしており、その重要性は極めて高いものであった。
なお、本形式のブレーキシューは鋳鋼製と鋳鉄製を組み合わせる、三元摩耗方式という新しい方式が採用され、空気制動時の摩耗を最小限に抑える工夫が凝らされていた。
[編集] 台車
台車は住友製鋼所(現・住友金属工業)製の一体鋳鋼イコライザー台車であるKS-63Lを使用する。これは従来ボルトとナットで組み立てられていた台車枠を強固な一体鋳鋼に置き換えたもので、剛性が高く、ゆるみなどの問題が発生しないというメリットがあった。
この台車の釣り合い梁の中央には、当時のニューヨーク市地下鉄で用いられていたゼネラル・エレクトリック (GE) 社製品を模して製作された第三軌条集電靴が、絶縁用の桜材を挟んで固定されていた。
[編集] 搬入
地下鉄電車の搬入は、漫才の有名なネタになったほどの重大な問題であるが、通常は地上に設置された車庫や工場からの入線となるため、技術的な困難はそれほど大きくない[16]。
これに対し、工場および車庫が開業区間に含まれていなかった[17]上に建設されつつある全区間が地下線であった本形式の場合は、その搬入には多大な困難が存在した。
このため、種々の搬入方法が検討されたが、最終的には市民への車両のお披露目という意味合いも含め、車両メーカー各社から鉄道省大阪駅まで一旦回送後、早朝4時にここで台車をトレーラー用に交換して出発、阪神前-(南北線)-新町橋-南御堂前というルート[18]を用いてトラクター2台と牛1頭で牽引して搬送、ここに仮設された開口部から地下線に搬入する、というプランが採用された。
この際、街路を何度も曲がる関係から平均1km/hという低速度であったため、開業後の地下鉄電車であれば5分とかからない梅田から南御堂までを実に4時間かけて移動しており、大きな牛が先頭に立つユーモラスなその光景は、長く大阪市民の語りぐさとなった。
[編集] 運用
1号線の部分開業後、当初は単行で、難波開業後は2両編成で運行された。
その後、順次路線が延長され、増備車が竣工していったが、戦後完成の600形までは基本的に同一仕様で統一されており、全車共通に取り扱われていた。
もっとも、密閉式の片隅運転台を備える本形式では、戦中戦後の混乱期には運転台側から車掌台側へ車掌が移動するのも困難で、客用扉の開閉に不都合が生じたことから、極力編成中間に組み込まれるようになり、106以降は車掌台側にも乗務員扉を設置の上で全室式運転台化された。
1960年代には高性能車の増加と長大編成化、それにU自在弁の保守が困難となったことなどから、HSC電磁直通ブレーキ化工事[19]が施工された。
[編集] 終焉
1970年(昭和45年)の日本万国博覧会を前に、1号線在籍の旧型車は原則的に新造の30系で置き換えられることとなり、本形式は原形をとどめている部分が多かったために保存車に指定された105を除き、廃車解体された。保存車として残された105についても、車籍維持の必要が認められなかったことから1972年(昭和47年)に除籍され、ここに本形式は形式消滅となった。
[編集] 保存車
1970年の廃車に際して、ほぼ原型に近い状態だった105は保存車に指定され、1972年の除籍後に我孫子車両工場にて旧塗装への塗り替え、ブレーキ弁の交換などを実施して竣工当時の姿に復元の上で、朝潮橋の交通局研修所に保存されていたが、現在は緑木検車場に設けられた専用保存庫にて静態保存され、イベント等で公開されている。また大阪市の指定文化財に認定されている。
[編集] 脚注
- ^ このため、保安上座席撤去ができず、戦中戦後の混乱期にも座席撤去車は発生していない。
- ^ 近年大阪市交通局が地下鉄で使用する各車両に装着している転落防止柵の製作に当たっては、この安全畳垣の基本設計がほぼそのまま流用されている。
- ^ これはニューヨーク市地下鉄の路線構成を範とする計画である。
- ^ 製造メーカーがすぐに倒産したため、補修部品の供給が困難になったという事情もあったという。
- ^ 阪神電気鉄道が同時期に導入していたイギリス・マリンテレフォン社製高声電話機をデッドコピーして国産化したものが採用された。
- ^ 端子電圧750V/時、定格出力170kW/770rpm(全界磁)225A。
- ^ P-6形。製造初年1927年(昭和2年)。
- ^ モタ300・モヨ100形。製造初年1929年。
- ^ 電第9号形(略して電9形とも。後、モハ301形を経てモハ2001形)。製造初年1929年。
- ^ デ2200形・デトニ2300形。製造初年1930年(昭和5年)。
- ^ ただし、参急の2200系のみは端子電圧の設定の相違から、実質165kW級となる。
- ^ 阪神急行電鉄920形用。製造初年1934年(昭和9年)。ただし、端子電圧600Vで使用されたため、1968年(昭和43年)の神戸高速鉄道開業に伴う神戸線の昇圧で本来の750V定格となるまで、長く定格出力127.5kW相当の扱いであった。
- ^ この区間は直流1500V電化が予定されていた。大阪市営地下鉄の第三軌条集電方式を採る各線が、他に例を見ない直流750V電化となっていたのは、この郊外線区での1500V動作との複電圧対応が容易になるように、そして第3軌条集電による地下線での12両編成運用時に電圧降下問題が発生しないようにするためであった。また、畳んだ状態のパンタグラフを搭載することが前提で建築限界が定められていたことは、後に10系で冷房装置を導入する際に大きな恩恵をもたらした。
- ^ Westinghouse Air Brake Co.:WH社、あるいはWABCOとも。現Wabtec社。
- ^ それはその列車が脱線したことを意味する。
- ^ 例えば、先行した東京地下鉄道の場合は上野検車区を地上に設けてここから車両を搬入し、続く東京高速鉄道も渋谷に地上車庫を設け、ここから車両を搬入した。
- ^ 車両工場は1947年(昭和22年)に文の里(現在の阿倍野区役所付近。1962年3月の我孫子車両工場開設に伴い閉鎖)に高速車両工場が仮設されるまで存在せず、定期検査等は地下線内で実施していた。大阪市電が戦時中に空襲による被災車を大量に出したのに対し、本形式を含む高速電気軌道在籍各車が一切被災していないのは、市電と違って狙われやすい地上工場や車庫が無く、全車常時地下線に置かれていて空襲の被害を受けずに済んだことによるところが大きい。
- ^ 当時御堂筋は用地買収が進まず梅田周辺が未完成で、回送に使えなかった。
- ^ 運転台のブレーキ制御弁を交換し、床下にB1電空接触器とNo.21電磁給排弁などを付加した。この改造に際しては、AMUE電磁自動空気ブレーキへの改造を予定して用意してあった空きスペースが活用されたという。
[編集] 外部リンク
大阪市営地下鉄・ニュートラムの車両 |
---|
現役形式 |
10系・20系・新20系・30系・66系・70系・80系・100A系 |
旧在籍車両 |
100形(初代)・200形(初代)・300形・400形・500形・600形・1000形・1100形・1200形・800形・900形・50系・60系・100系 |
カテゴリ: 鉄道関連のスタブ項目 | 鉄道車両 | 大阪市交通局