土井たか子
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土井 たか子(どい たかこ、1928年11月30日 - )は、日本の政治家、前衆議院議員。本名は土井 多賀子。日本平和学会会員。
生年月日 | 1928年11月30日 | |
出身地 | 兵庫県神戸市 | |
最終学歴 | 同志社大学大学院修了 | |
前職 | 同志社大学・ 関西学院大学・ 聖和女子大学 (現・聖和大学)講師 |
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役職 | 第68代衆議院議長 (1993年8月 - 1996年9月) |
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当選回数 | 12回 | |
世襲の有無 | なし | |
選挙区 | 近畿比例区(落選) |
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所属党派 | (日本社会党→) 社会民主党 |
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党の役職 | - | |
会館号室 | - | |
ウェブサイト | なし |
目次 |
経歴
兵庫県神戸市に生まれる。兵庫県第三神戸高等学校(現・兵庫県立御影高等学校)を経て京都女子専門学校(現在の京都女子大学)卒業。憲法学者の田畑忍の指導を受ける。
1969年当時の衆議院兵庫2区で日本社会党から立候補し、初当選。
1980年には国会で性差別法に的を絞り政府を追及、「男女雇用差別」、「女性のみ必修の家庭科」、「父系しか認めない国籍法」などの集中質問をした。まもなく同年のうちに、日本政府は前年の国連総会で採択されていた女性差別撤廃条約(CEDAW)に署名(署名は1980年7月17日、批准は1985年6月25日)。
1984年に田中寿美子の後任として日本社会党副委員長に就任、1986年に憲政史上初の女性党首(日本社会党中央執行委員長)になる。ちなみに委員長就任の挨拶で、土井を傀儡にして党勢復活を目論む長老議員に対して「やるっきゃない(やるしかない)」との一言で牽制をした。この言葉は流行語大賞特別賞を受賞している。
1988年9月6日に拉致被害者の石岡亨が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)から家族にあてた手紙が届く。家族から相談を受けた土井たか子事務所の秘書は、石岡さんらの北朝鮮滞在の有無を朝鮮総連兵庫支部に問い合わせた。この判断が間接的に石岡さんと有本恵子さんらを窮地に追いやったとする指摘がある。
1988年土井党首の昭和天皇お見舞いの記帳に対して、世論の一部に反対意見が出る。社会党は公式に反対していない。
1989年の第15回参議院議員通常選挙において社会党が改選議席の倍以上を獲得し、マドンナ旋風とも呼ばれるブームもまきおこした。この時「山が動いた」が名文句として有名になった。
与野党逆転した参議院で首班指名され、衆議院で指名された海部俊樹と異なったため、首班指名に関しては41年ぶりに両院協議会が開かれた。しかし両院の意見がまとまらなかったため、日本国憲法第67条の衆議院の優越規定により、海部が内閣総理大臣となった。また、消費税廃止法案を公明党、連合参議院、民社党との野党共同で提出し、12月11日、参議院を通過させた(衆議院で廃案)。
1990年の第39回総選挙でも「もう1つの山を動かさなければなりません。」と訴えて、土井ブームは続き、社会党は136議席と51議席増やした。しかし、社会党の一人勝ちに公明党、民社党は距離を置き、両党は連合政権協議を打ち切った。
1990年自衛隊の海外展開も認める形となる国連平和協力法案を廃案に追い込む。1991年1月湾岸戦争の開戦が迫っていたイラクを訪問し、サダム・フセインと会談、説得を試みたが果たせなかった。この年に行われた統一地方選挙で惨敗し、委員長を辞任。
1993年8月より女性初の衆議院議長を務め、議員指名に「さん」付けを実行(~1996年10月 現在でも他の委員会などでごくまれに「さん」付けを実行している議員もいる)。
1999年11月社会主義インター副議長に就任。
2002年3月辻元清美政策秘書給料略取事件で指南役をかばったことから政策秘書五島昌子の関与が取りざたされる。また、この件や同年9月に判明した北朝鮮による日本人拉致問題に関する対応などに反発して田嶋陽子議員が離党するなど、社民党は一気に国民の支持を失うこととなる。 ※当時の土井たか子事務所の構成……政策秘書:五島昌子、第一秘書:今井真理、第二秘書:友松信也
2003年の第43回総選挙では、小選挙区で拉致問題を前面に打ち出した大前繁雄相手に落選したが、重複立候補した比例区で復活当選した。
一旦は党首に留任すると言われたが、11月13日、党勢衰退の責を取り辞任した。
2005年の第44回総選挙では、小選挙区での立候補を断念、比例代表に専念したが落選した。
2006年、社民党より名誉党首の称号を授与。
学歴について
- 新制大学法施行前の京都女子専門学校(1949年より現在の京都女子大学)を卒業。1956年同志社大学院法卒。京都女子専門学校は、男尊女卑の気風の強い明治・大正期の京都にあって女子大学として開学することは認められず、止むを得ず「専門学校」の名に甘んじた女性のための高等教育機関であった。そのため、いかに優秀であろうと「大学卒業」の肩書きは得られなかった。また、女子専門学校は戦前戦中期の学制に組み込まれた教育機関であり、現在の学制とも異なる点にも注意が必要である。土井本人の資質に着目した開明的な憲法学者の田畑忍は資格や肩書きには頓着せず、土井を引き立てたとする見方もある。
人物
- 与謝野晶子の「山の動く日来る」(『そぞろごと』)を愛誦。
- 神楽坂女声合唱団(団長・小林カツ代)団員、またカラオケではシャンソンを好む。
- 阪神タイガースの熱狂的ファンを自認する。
- 趣味はパチンコ。「パチンコ文化人」の異名をとり、党首時代は「庶民の味方」をアピール。日本のパチンコ業界は在日朝鮮人も多く、パチンコ店経営者の中には朝鮮民主主義人民共和国に送金する者も多いとして、日本社会党と北朝鮮との癒着を疑う見方もある。近年では実姉が在日朝鮮人と結婚して北朝鮮に渡ったという話や、1958年10月26日に帰化した元在日朝鮮人という噂もまことしやかに囁かれている。月刊WiLL2006年5月号の元産経新聞花岡信昭氏の記事によれば、帰化する前の名は「李高順」ということであるが真偽のほどは不明。官報に記載が無いとする説もある(国籍法第十条 法務大臣は、帰化を許可したときは、官報にその旨を告示しなければならない)。
- 座右の銘は「動かざる初心」。
- TBS系テレビ「クイズダービー」に数回ゲスト回答者として出演。8問全問正解の記録保持者。
著書
- 1984年2月 『「国籍」を考える』時事通信社、ISBN 4788784033
- 1985年6月 『We love憲法』すくらむ社
- 1987年 『土井たか子マイウェイ』出帆新社
- 1988年5月 『土井たか子 憲法講義 人間が人間らしく生きていくために』リヨン社、ISBN 457688042X
- 1989年10月 『山の動く日 土井たか子政論集』すずさわ書店、ISBN 4795405336
- 1993年12月 『せいいっぱい 土井たか子半自伝』朝日新聞社、ISBN 4022567066
- 1996年4月 『憲法に男女平等起草秘話』(『岩波ブックレット』400)、岩波書店、ISBN 4000033409
参考文献
- 1987年1月 土井たか子を支える会『いま始まります女の政治・土井たか子』梨の木舎、ISBN 4921262130
- 1988年5月 亀田得治著『拝啓土井たか子殿 革新の心を洗う』未来社、ISBN 4624300599
- 1989年12月 田中章著『土井たか子 人間・思想・政策』東京出版、ISBN 4924644390
- 1990年1月 大下英治著『小説・土井たか子 山が動いた』徳間書店、ISBN 4191241257(1995年に現代教養文庫で増補、ISBN 4390115146)
- 1990年4月 保坂展人著『あたたかい人間のことばで伝えたい 3メートルの距離から見た土井たか子』リヨン社、ISBN 4576900277
- 1993年11月 板垣英憲著『土井たか子の挑戦 希望の革命』ディーエイチシー、ISBN 488724004X
- 1998年6月 岡崎ひろみ著『国会に窓はない 土井たか子さんへの訣別宣言』教育史料出版会、ISBN 487652341X
関連項目
- 憲法行脚の会
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