沖浦ダム
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沖浦ダム(おきうらだむ)は青森県黒石市袋字平山地先、岩木川水系平川の右支川・浅瀬石川(あせいしかわ)にかつて建設されていたダムである。
青森県が管理していた多目的ダムで、日本で初めて施工が開始された多目的ダムとして有名である。高さ40.0mの重力式コンクリートダムで、浅瀬石川の治水と水力発電を目的に1945年(昭和20年)に完成、以来43年間に亘って流域の発展に寄与していた。だが建設省東北地方建設局(現在の国土交通省東北地方整備局)がさらなる治水と利水の強化を目的に1988年(昭和63年)に浅瀬石川ダム(あせいしかわダム)を建設したことにより、完全に水没し現存しないダムとなった。ダム湖は虹の湖(にじのみずうみ)と呼ばれたが、名称は浅瀬石川ダム湖に継承されている。
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[編集] 沿革
日本の土木技術理論において大正末期から昭和初期に掛けての第一人者であった物部長穂(内務省土木試験所長・東京帝国大学教授)は河川を一貫して開発し、従来別個に行っていた治水事業と利水事業を統合して開発する構想を打ち立てた。この「河水統制計画案」は内務省技官・青山士によって採用され、1935年(昭和10年)より「河水統制事業」として全国七河川一湖沼(諏訪湖)で推進する事とした。後の河川総合開発事業のはしりである。
その七河川(奥入瀬川・浅瀬石川・鬼怒川・江戸川・相模川・錦川・小丸川)の一つに浅瀬石川が挙げられ、青森県は岩木川水系の治水事業を1919年(大正8年)より進めていたが、万全な対応を図るべく「岩木川河川水統制事業」として洪水調節・かんがい・水力発電を目的とした総合開発を進めた。そして根幹施設として浅瀬石川本川に多目的ダムを建設し治水・利水を図ろうとした。こうして1933年(昭和8年)より建設が始まり、1945年(昭和20年)に完成したのが沖浦ダムである。
日本ではこれ以前はかんがい・発電・水道の何れか単独目的でしかダムは建設されていなかったため、沖浦ダムは日本で最初に建設に着手された多目的ダムとなった。但し、日本で最初に完成した多目的ダムは、同じく1935年より河水統制事業が実施された錦川で、山口県によって建設された向道ダム(重力式コンクリートダム・堤高43.3m)が最初であり、1940年(昭和15年)に完成している。
[編集] 目的
目的は基準地点である温湯地点において計画高水流量(計画された最大限の洪水流量。過去最悪の洪水を基準とする)を毎秒620トンから毎秒520トン(毎秒100トンのカット)に軽減させる洪水調節、黒石市など浅瀬石川流域の農地6,687haへ慣行水利権分の農業用水補給を図る不特定利水、並びに日本発送電による2,000kWのピーク時発電を行う発電である。なお、発電事業は戦後日本発送電が過度経済力集中排除法に抵触、1951年(昭和26年)の「電力事業再編令」による分割後東北電力に承継された。
完成当初は非常用洪水吐4門・常用洪水吐5門を備えていたが洪水による損傷や堆砂の進行で常用洪水吐が故障。管理運営に支障を来たす為1964年(昭和39年)と1965年(昭和40年)の2度に亘り改修工事を行い、完成当初の水門は全て閉鎖・撤去し、新たに天端部に2門の常用洪水吐を備えて洪水調節能力を改善した。
[編集] 浅瀬石川ダム
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1965年の改修以後も流域の水害軽減に貢献していたが、ダムの洪水調節流量を上回る水害の発生や流域市町村の人口増加に伴う水需要の増大など当初の予測を超える事象が発生、更に施設老朽化で次第に沖浦ダムだけでは対応しきれなくなった。この状況に対応するため、建設省東北地方建設局は岩木川水系を1966年(昭和41年)に一級水系に指定し総合的な治水対策を行うこととした。建設省は1960年(昭和35年)に岩木川本川上流部に目屋ダムを完成させたが、さらなる治水対策を図るため沖浦ダムが建設されていた浅瀬石川に新たなる多目的ダムの建設を計画した。これが浅瀬石川ダムである。
浅瀬石川ダムは堤高91.0m(計画当初は96.5m)の重力式コンクリートダムであり、特定多目的ダムとして建設大臣(現在は国土交通大臣)が直轄管理を行う国土交通省直轄ダムである。沖浦ダムの直下流数キロ地点・黒石市袋字富岡地点に計画され、1971年(昭和46年)4月より実施計画調査に入った。さらに1973年(昭和48年)に岩木川水系の治水基本計画である「岩木川水系工事実施基本計画」において浅瀬石川ダムの位置づけが明確にされた。
目的は五所川原市地点において計画高水流量毎秒5,500トンを毎秒3,800トン(毎秒1,700トンのカット)に軽減する洪水調節、平川市・北津軽郡板柳町・南津軽郡(藤崎町・田舎館村)の農地7,700haへ慣行水利権分の農業用水補給(毎秒11.747トン)を図る不特定利水、東北電力・浅瀬石川発電所(認可出力:17,100kW)による水力発電に加え、青森市・弘前市・黒石市・五所川原市・平川市・北津軽郡(鶴田町・板柳町)・南津軽郡(藤崎町・田舎館村)といった青森県主要部約42万人分の上水道供給(日量132,800トン)を図ることである。沖浦ダムと比較すると洪水調節能力は約17倍、用水補給面積は約1,000haの拡張、発電能力は約6.5倍に増強された。
ダムによって黒石市袋・板留集落など201戸・214世帯が水没する事から反対運動も激しく、1974年(昭和49年)7月20日には水源地域対策特別措置法の「法9条指定ダム」第一回指定ダムに認定された。国庫補助増額や就業斡旋などの条件呈示や漁業権補償を行い補償交渉は妥結、計画発表より17年後の1988年(昭和63年)に完成した。これにより沖浦ダムは完全に水没し43年の歴史に幕を閉じた。現在は水位が極端に低下しない限りダムの姿を見ることは出来ない。
[編集] 虹の湖
ダム湖である虹の湖は、黒石市出身の詩人・秋田雨雀が命名したとの説が有力である。沖浦ダム水没後は浅瀬石川ダムのダム湖名に引き継がれて二代目「虹の湖」として現在に至る。二代目・虹の湖は初代・虹の湖と比較すると総貯水容量は約12倍(3,580,000トン→53,100,000トン)、湛水面積(ダム湖の面積)は約6倍(39.0ha→220ha)に拡大されている。なお「虹の湖」という名称は京都府南丹市にある大野ダム(由良川)の人造湖にも命名されている。
虹の湖はダム建設時に水源地域対策特別措置法により周辺整備が行われ、現在虹の湖周辺には道の駅「虹の湖」や虹の湖ふれあい広場、キャンプ場や釣り場などが整備されている。東北自動車道・黒石インターチェンジより国道102号を南下し約15分で到着するため弘前市や黒石市から近く、かつダム直下流には黒石温泉郷があり、十和田湖への中継地点でもあることから多くの観光客が訪れる。虹の湖ではコイ・フナ・ウグイの他アメマス・ニジマス・ワカサギも釣れることから釣り客も多い。一方湖やその周辺は鳥類も多く生息しオオハクチョウやカモ類が越冬する他、オオタカ・クマタカ・オジロワシ・ハヤブサ・ミサゴといった猛禽類、コノハズク・カワセミなども生息していることが確認されており、北方系の鳥類も生息・飛来することからバードウォッチングにも最適である。
なお、虹の湖に注ぐ二庄内川に建設されている二つのダム、二庄内ダム(ロックフィルダム、86.0m。農林水産省東北農政局)の人造湖は「華の湖」、直下流の大穴ダム(アースダム、21.8m。浅瀬石川土地改良区)の人造湖は「藤の湖」と呼ばれ、浅瀬石川上流の三湖沼は統一性のあるネーミングがされている。ただし二庄内ダムへは直進道路が災害通行止めとなっているため迂回する必要がある。藤の湖へは現在行くことが出来ない。
[編集] 関連項目
[編集] 出典
- 国土交通省東北地方整備局 浅瀬石川ダム管理所
- 建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編 『日本の多目的ダム』1963年版:山海堂 1963年
- 建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編 『日本の多目的ダム 直轄編』1980年版:山海堂 1980年
- 建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編 『日本の多目的ダム 補助編』1980年版:山海堂 1980年
- 財団法人日本ダム協会 『ダム便覧』 沖浦ダム
- 財団法人日本ダム協会 『ダム便覧』 浅瀬石川ダム