ヒズボラ
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ヒズボラ(アラビア語・ペルシア語: حزب الله アラビア語:Ḥizb Allāh ペルシア語:Ḥezbollāh))はレバノンを中心に活動しているイスラム教シーア派の政治組織。
日本国内の報道などではヒズボラとなるが、強いて訳せばアラビア語発音でヒズブッラー、ペルシア語発音でヘズボッラーであり、アラビア語で「神の党」を意味する。
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[編集] 概要
1982年結成。急進的シーア派組織で、イラン型のイスラーム共和制をレバノンに建国し、非イスラーム的影響をその地域から除くことを運動の中心とする。反欧米・イスラエルの殲滅を掲げている。
イランとシリアが組織を支援しているといわれており、特にイランは組織設立時の関与(組織結成はイランのイスラム革命防衛隊によるものといわれている)や武器供給などヒズボラと密接に結びつき、一部の活動はイランの指示によるものとされている。
1980年代以降国内外の欧米やイスラエルの関連施設への攻撃を起こしており、1983年10月、ベイルートのアメリカ軍海兵隊兵舎への自爆攻撃、1984年9月のベイルートでのアメリカ大使館への自爆攻撃、1992年にはアルゼンチンのイスラエル大使館への攻撃を実行した。2000年にイスラエルがレバノンから撤退した後も、イスラエルへの攻撃を繰り返している。2006年7月、イスラエル兵士2人を拉致した事件でイスラエルのレバノン再侵攻を招き、全面衝突となったが、同年8月14日に停戦が成立し、現在に至っている。
[編集] 合法活動
ヒズボラは一般にテロリストと見なされているが、パレスチナの過激派であるハマースのように選挙に参加しており、独自の議会会派「レジスタンスへの忠誠」を結成しており、議会選挙では1992年8議席、1996年7議席、2000年12議席と議席を毎回獲得し、2005年7月には連立内閣に参加した。
また、貧困層への教育・福祉ネットワーク(2002年のデータで、学校9校、病院3ヶ所、診療所13ヶ所を運営)を作っており、それ故に貧困層からの支持は厚い。
インターネット上に複数のWebサイトを開設しており、テレビ局「アル=マナール」、ラジオ局「アン=ヌールー」、週刊誌「アル=アフド」も運営している。
[編集] 組織
1990年代から軍事部門と政治部門の分離が進められ、1992年に軍事部門は形式上ヒズボラとは無関係な独立機構に分離された。
- 精神的指導者:フジャット・イスラーム・フセイン・ファドルッラー。現在は組織から距離を置いている。
- 議長:ハサン・ナスラッラー
- 副議長:シャイフ・ナイーム・カースィム
- 政治局会議議長:イブラーヒーム・アミーン・アル=サイイド
- 政治局会議副議長:マフムード・コマーティ
- 議会会派「レジスタンスへの忠誠」の長:ムハンマド・ラアド
- 執行会議副議長:ムハンマド・ヤギー
- 政治顧問:シャイフ・フセイン・ハリール
- 軍事作戦顧問:イマード・ムグニエ
- 対外関係責任者:ナワーフ・アル=ムーサウィー
その他 ムハンマド・フナイシュ 前水資源・エネルギー相
[編集] 主な事件及びゲリラ闘争
- 1982年7月19日 - ベイルートの米大学総長デイヴィッド・ロッジを誘拐。ロッジは、シリア諜報部の仲介により1年後に解放。
- 1983年4月18日 - 駐レバノン米大使館付近で自動車爆弾テロ。63人が死亡し、120人が負傷した。
- 同年3月7日 - CNNレバノン支局長ジェレミ・レヴィンを誘拐。彼は後に逃亡に成功した。
- 同年3月8日 - 米国籍のレヴェレンド・ヴェイルを誘拐。16ヵ月後、シリアとイランの仲介により解放。
- 同年3月16日 - 米外交官ウィリアム・バクリー誘拐。囚人との交換を要求したが、拒絶される。バクリーは現在も行方不明。
- 同年8月12日 - 在スペイン米空軍基地で爆弾攻撃。18人が死亡し、83人が負傷。
- 同年9月20日 - 駐ベイルート米大使館に対して自爆攻撃。23人が死亡し、米英大使を含む21人が負傷。
- 同年12月4日 - ドバイからカラチに向かっていたクウェート・エアラインの旅客機をハイジャック。犯人は、クウェートに収監中の数人の囚人の釈放を要求。機体はテヘランに着陸したが、特殊部隊が突入した。2人が死亡。
- 1985年6月14日 - ローマからアテネに向かっていた旅客機をハイジャックし、ベイルートに向かった。犯人は、イスラエルと南レバノンに収監中の数百人の囚人の釈放を要求した。搭乗員8人と乗客145人は17日間に渡って拘束され、搭乗員1人が殺害された。機体は、アルジェリアに2度飛んだ後、ベイルートに着陸した。人質は解放され、犯人は逮捕された。
- 1986年9月9日 - 米大学総長を誘拐。44ヵ月後に解放。
- 1986年10月21日 - アメリカ国籍のエドワード・トレイシーを誘拐。1991年8月に解放。
- 1988年2月17日 - 国連監視団長ウィリアム・ヒギンズ大佐を誘拐。犯人は、イスラエル軍のレバノン撤退と、収監中のパレスチナ人及びレバノン人全員の釈放を要求。米政府は交渉を拒否。大佐は現在も行方不明。
- 1992年3月17日 - 駐アルゼンチン・イスラエル大使館付近で自動車爆弾攻撃。29人が死亡。
- 1994年7月18日 - ブエノスアイレスのユダヤ文化センターで自爆攻撃。86人が死亡。
- 1996年2月28日 - 軽航空機でイスラエル領空への侵入を試みたが、撃墜。
- 同年3月4日 - マナル村付近で爆破事件。イスラエル兵4人が死亡し、9人が負傷。
- 同年3月10日 - 南レバノンで爆破事件。イスラエル兵1人が死亡。
- 同年3月20日 - イスラエル軍のジープが随伴していた民間車が自爆。イスラエル兵1人が死亡し、民間人1人が負傷。
- 同年6月25日 - サウジアラビアの米軍兵舎を爆破。米兵19人が死亡。
- 2000年秋 - スイスでビジネスマンのエルハナン・タンネンバウムを誘拐。
- 2006年7月 - イスラエル兵が拉致され、イスラエルは報復としてレバノンを空爆。ヒズボラはイスラエルへのロケット砲攻撃を敢行、イスラエル北部の主要都市ハイファ等に打撃を与えた。また海上封鎖中の最新鋭艦にミサイルを命中・炎上させ、イスラエル側に衝撃を与えた。その後、空爆に続きイスラエル側がレバノンに越境侵攻し、ヒズボラ側と激しい戦闘になった(イスラエル・レバノン紛争)。ヒズボラは、イランやシリアから提供された最新のロシア製携行対戦車ミサイル、メティスM・コルネットなどで、イスラエルの戦車、メルカバや装甲車に大きな損害を与えた。結局イスラエル側は兵士だけでも100人以上の死者を出し、停戦成立時イスラエル国民のうち6割が今回の戦争は敗北であると考える結果に終わった。
- 2006年8月14日-国連安保理決議に基づき、停戦発効される。(レバノン時間8時)
- ヒズボラは停戦成立後、ナスルッラー師(議長)が歴史的な勝利宣言を行った。そして直ちにイスラエルの空爆によって家を失ったレバノン国民に対し、強力な復興支援を開始した。その額1人あたり1万ドルという大金を支援している。