国鉄72系電車
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国鉄72系電車 | |||
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軌間 | 1,067mm(狭軌) | ||
電気方式 | 直流1,500V | ||
制御装置 | 抵抗制御 | ||
駆動装置 | 吊り掛け駆動方式 | ||
保安装置 | 未装着 |
国鉄72系電車(こくてつ72けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が製造した通勤形電車のグループの一つである。
目次 |
[編集] 概要
72系とは、同一の設計思想により製造された電車を趣味的、便宜的に総称したもので、国鉄の正式の系列呼称ではない。書籍等によっては、これらのグループの電車についてクモハ73形を基幹形式とみなした73系と表記される場合もある。
72系と呼称する場合、狭義には63系電車の改良型として、1952年から1958年にかけて新製されたグループ(72系新製車)、及びこれらの改造車を指す。
広義には、1944年から1950年にかけ製作された63系電車に、1951年以降安全対策・体質改善工事を実施して改称したグループ、及び戦前製20m級2扉車(32系、42系)の4扉化改造車(制御車・付随車のみ)を含む。
ここでは、主に狭義の72系電車(新製車)について記述することとし、63系改造編入車についても後段において記述することとするが、戦前型改造車については、それぞれの項で記すものとする。63系時代については国鉄63系電車を参照。
[編集] 72系新製車
[編集] 登場の背景
1945年のアジア・太平洋戦争終戦後、社会復興にともなう急激な輸送量増大に伴い、国鉄は輸送力増強の対応を迫られた。そこで大都市の通勤輸送向けとしては、戦時設計で1944年に開発されていた63系電車(モハ63形、サハ78形)を標準型電車として緊急に大量生産、1945年度下期から東京・大阪の電車運転線区に投入し、輸送力増強に一定の成果を挙げていた。1946年からは一部の大手私鉄にも割り当てられ、やはり輸送力増強の成果を挙げている。
しかし、63系電車は、基本的に各部の設計を極度(あるいは過度)に簡略化した戦時設計車であり、1951年にはその構造的欠陥から火災事故(いわゆる桜木町事故、国鉄戦後五大事故の一)を引き起こし、多数の死傷者を出すに至った。欠陥電車として糾弾された63系電車は、1951年から1953年にかけて徹底的な体質改善工事が実施され、モハ63形電装車はモハ73形(制御電動車)、モハ72形(中間電動車)に、モハ63形未電装車(通称「クモハ63」・「サモハ63」)もクハ79形(100番台)、サハ78形(300番台)に改造・改番された。なお、詳細については後述する。
その後も大都市圏各線区の輸送量は増加するばかりで、車両のさらなる増備が望まれていた。これに対し、63系電車の基本設計を踏襲しながらも、1949年に登場した80系電車の設計思想も取入れて通勤形電車が再設計された。これが72系新製車である。
80系電車で採用され、成功を収めた電車列車(列車を車両単位ではなく編成単位でとらえ、電動車を運転台のない中間電動車とし、先頭車はモーターのない制御車とする)の思想に基づき、新製されたのは中間電動車のモハ72形(500~)、制御車のクハ79形(300~)のみとされ、制御電動車のモハ73形、付随車のサハ78形は新製されなかった。
このグループは、台車や車体構造、特に先頭部形状などに改良を加えながら、1957年までにモハ72形234両(低屋根車の850番台15両を含む)、クハ79形179両の計413両が製造された。これらは半鋼製車であった。
[編集] 構造
基本的にモハ63形の基本設計を踏襲し、20m級切妻車体に幅1000mmの片引扉を4箇所設けた構造である。窓も3段窓が踏襲されたが、63系体質改善工事車と同様、中段も上昇できる構造となった。車体外板も戦前型並みの板厚に戻り、63形では省略されていた扉上部の補強帯(ヘッダー)が復活し、台枠部分にも外板が張られた。
モハ72形は完全な中間車となり、モハ63形では扉はすべて運転台のない後位側に引かれていたが、車体中央から2枚ずつ車端側に引かれる構造となった。屋根高は63形の3720mmに対して3650mmとされ、若干屋根が浅くなり、車端部の断面から受ける印象が変わった。
電動台車は、新型の軸ばね式鋳鋼台車DT17形(のちの増備車での電動台車は、鋼板プレス溶接のウィングばね式DT20形になる)に、また付随台車も同時期に登場した80系や70系と同じ軸ばね式鋳鋼台車のTR48形となり、電動機は従来の63形と同等のMT40形(端子電圧750Vで出力142kW)である。
制御方式は自動加速のカム軸式制御器ではあったが、63系の電空カム軸式(空気圧作動式)CS-5形から、80系で採用された電動カム軸式のCS-10形に変更され、作動性や加速性能が向上した。
ブレーキは従前からの自動空気ブレーキを踏襲している。
[編集] 製造年次による設計変更
本グループは1952年度からの5年間にわたって製造され、その間に数々の改良が実施されていったが、特にクハ79形の前面形状の変遷は、国鉄通勤型電車の前面形状の基本形態が形成される過程を探る意味で興味深いものがある。
- 1952年度(72500~512、79300~314偶数)21両
- 最初の新製車で、戸袋窓やクハ79形の前面窓はすべて木枠支持となっている。なお、クハが偶数(下り)向のみであるのは、新製車が投入された東京地区では、奇数(上り)向はモハ63形改造の制御電動車モハ73形を充てることとされたためである。モハ72形は連結面に梯子を取付けたため窓がふさがれた。
- 1953年度(72513~552、79316~352偶数)59両
- 戸袋窓がHゴム(断面がH型の帯状のゴム)支持となり、クハ79形の前面窓や運行表示窓も同様にHゴム支持となった。前面窓のうち向かって左側のものは通風のため2段とされ、下部の窓は上昇可能であったが、これもHゴム支持とされた。クハ79形のうち350と352については、試作的に前部窓を5度傾斜させ、窓上部の凹んだ段差に通風口を設けた。
- 1954年度(72553~609、79354~390偶数、79301~335奇数)94両
- モハ72形については、電動発電機が従来の2kWから3kWのものに変更されたが、外観上大きな差はない。クハ79形については、前年に試作された傾斜窓上部からの通風が好成績を収めたため、本格的に採用されたが、傾斜角度を10度に増大し、窓上下の補強帯を廃して一段くぼませ、デザイン的により洗練されたものになった。国鉄通勤形電車の基本形態として、101系や103系に引継がれ、以降30年以上にわたって使用されることになるデザインモチーフの発祥である。また、このロットから奇数向のクハ79形も新製され、301から付番された。
- 1955年度(72610~648、79392~420偶数、79337~387奇数)80両
- 車内に扇風機が取付けられた。モハ72形は後位側(パンタグラフのない側)に車両基地構内運転用の簡易運転台を設置し、妻部の窓がHゴム支持となり、後部標識灯が設けられた。電動機は、MT40B形に変更となった。
- 1956年度1次車(72649~685、79422~436偶数、79389~419奇数)61両
- 基本的に1955年度車と同様であるが、クハ79形の前照灯が幕板上部に埋込まれた。
- 1956年度2次車(72686~718,850~864、79438~488(偶数)、79421~467(奇数))98両
- 屋根が鋼板屋根に変わり、曲率が若干小さくなった。モハ72形では、台車が鋼板プレス部材溶接のウィングばね式DT20A形(80系湘南形電車の電動車用台車と同じ)に変っている。また、中央東線浅川(現在の高尾)以遠乗入用に、狭小限界トンネル対策として屋根高さを低く(屋根高3514mm)したモハ72形850番台車が15両製造されている。
[編集] 72系全金属車(920番台)
1956年から1957年度にかけて増備された72系の最終グループである。1954年に実施されたジュラルミン電車を用いた試作全金属化改造(後述)の結果を受け、1956年度に量産先行試作として9両(72920~924、79920~923)が新製され、続いて1957年度に量産車68両(72925~963、79924~949、951~955奇数)が新製された。
車体は、10系客車の設計思想を取り入れた軽量構造の全金属車体とされ、車体側面は従来車にあった窓上下の補強帯を完全に廃したうえ、雨樋を埋め込んで、幕板の高い平滑な車体となった。窓も従来の3段窓を廃してアルミサッシの2段窓とし、量産車では室内灯に蛍光灯が採用されている。クハ79形の前面には、全金属試作改造車に続いて、行先表示器が本格的に採用され、これにより、国鉄通勤形電車の前面形態の基本形は確立したといえよう。
このように、本グループは従来車の設計を完全に一新した、国鉄旧性能電車の集大成ともいうべき車両である。「戦争に勝つまで」の数年間もてばよしとされ、「粗悪品」「ロクでもない代物」の代名詞ともなった63系電車の血統を継ぐ72系は、この最終形に至って完全に戦争の影を払拭し、当時の経済白書の名フレーズ「もはや戦後ではない」を外観に体現した車両となった。
とはいえ、戦前以来のMC-1形コントローラー、電気ブレーキなしの自動空気ブレーキ方式、そして吊掛駆動方式など、1950年代後半にはすでに前時代的だったシステムを引きずっていたことも、72系と国鉄の現実であった。在来技術の改良ではこれ以上の発展は見込めず、制御システムや駆動方式、ブレーキ機構の根本的革新を待たねばならなかった。
全金属車のうち1958年初めに製作されたグループをもって、国鉄旧性能電車の新製は終了し、以後の増備は101系などの新性能電車に引継がれていくことになる。
[編集] 63系改造編入車
[編集] 背景
アジア・太平洋戦争後の復興輸送のため、大量増備が行われた63系電車であったが、その構造的欠陥から1951年に火災事故(桜木町事故)を引起こし、多数の死傷者を出すことになった。事態を重く見た国鉄は、63形電車の徹底的な体質改善を急遽実施することとした。この事故により、粗悪品、欠陥電車のイメージが定着してしまったモハ63形は、そのイメージを払拭するため、モハ72形、モハ73形に改称された。同系のクハ79形、サハ78形についても同様の工事が実施されたが、この2形式については(「63形」とは離れた番号ということもあってか)、あえて改称は行われていない。
[編集] 改造内容
63形には、事故の教訓から1951年11月までに次のような応急的な改善工事が実施された。
- 集電装置(パンタグラフ)の二重絶縁と集電板の取替え
- 補助回路の改良
- 電流遮断器の増設
- 車内への耐火塗料の塗布
- 貫通路と貫通幌の整備
- 戸閉機械(ドアエンジン)の取扱方法の表示
次いで、80系で採用された中間電動車方式が63系にも導入されることとなり、次の内容で本格的な改造工事が実施された。
- 車内天井を鋼板に交換し、絶縁を強化
- 貫通路を拡張し、貫通扉を引戸に改造
- 主回路、補助回路の改良、保安向上
- 三段窓の中段を可動化
モハ63形の一部は運転台を撤去のうえ客室化して貫通路を設置し、中間電動車のモハ72形に改造され、運転台を存置したものはモハ73形に改称した。未電装で落成し、サモハ63形・クモハ63形として使用されていたものは、中間車化されて付随車のサハ78形(300~)に編入される例もあったが、多くは運転台機器を整備し、制御車のクハ79形(100~)に編入された。1951年から1953年までにモハ72形288両、モハ73形274両、クハ79形74両、サハ78形20両が改造で竣工した。ただし、63形改造車の新番号は落成順に付与されたため、63形時代の原番号との関連は全くない。
なお63系のうち、1950年製造の4両(モハ63855~858)と、事故復旧の際に前述4両と同一仕様に改造されていた4両(モハ63630・848、クモハ63108・120)は、材質や安全対策の面で十分な装備をされていたため、改造工事を実施することなく番号のみを72系に書き換えた。また1947年製のジュラルミン製車体のグループ(いわゆる「ジュラ電」)は、全金属車体化改造の試作用として存置され、他車の改造がすべて終了した後の1954年に改造された。
63形としては、63019のみが三鷹事件の証拠物として事件発生当時のままの状態で保存され、裁判終了後の1963年まで在籍した。
[編集] 新製車との差
63系改造車は、性能面では一般に72系新製車に劣っていた。
- 新製72系同様にMT40形モーター(端子電圧750Vで出力142kW)を搭載しているものが大部分ではあったが、ごく一部だが旧式なMT30形(端子電圧675Vで出力128kW)搭載のものがあった。端子電圧差を考慮するとほとんど差はないものの、過負荷への耐性では独立した冷却ダクト付で冷却効率の良いMT40形の方が有利である。
- 制御器は戦前以来の電空カム軸式CS-5形が大部分で、電動カム軸式CS-10形搭載の72系新製車に比べると、制御段数の少なさや作動性の面で劣った。両者は混結もできたが、CS-5形の作動がどうしても遅れがちであったようである。
- 台車も旧式なペンシルバニア形のDT-13形がほとんどで、これも乗心地はあまり良くないタイプであった。
接客設備についても、元来が戦時設計車を安全対策面重点に改装したのみの車両であり、新製車に比して居住性が劣るのはやむを得なかった。
[編集] 車体の全金属化改造
1947年に63系の試作車として登場したジュラルミン電車6両(63900~902、78200~202)は、車体の腐食が進行したため、全金属車体の試作車として1954年に車体更新工事を実施した。この6両は、量産車の仕様の比較検討用に掴み棒の形状や位置、蛍光灯の配置や色彩など車内設備の仕様が1両ごとに変えられた。同時に車種の変更も行われ、それぞれ72900、73901、72901、79900、79902、78900となった。車体は窓上下の補強帯が残るなどいささか旧来の仕様を踏襲する面も見られたが、三段窓は開放的なアルミサッシとなり、運転台前面形状も各種のものが試作された。
1957年には、事故休車を活用して全金属車体の追加試作が実施され、73174、73400、78144が車体を載替えられ、73900、73902、79904となった。こちらは、前述の920番台新製全金属車に近い仕様の、平滑な車体である。
1960年以降、クモハ73形(1959年の形式称号改正により、モハ73形はクモハ73形に形式変更)・モハ72形の一部は全金属化改造が施された。1962年以降に施行されたものは、台枠・車体骨組のみを残して全解体、台枠上面には鋼板を張って補強し、内外装とも全金属製に改造。側窓は2段式のアルミサッシとなり、窓上下の補強帯もなくなった。さらに運転台は高運転台となり、運転台正面中央窓が下に長くなっているなど、ほとんど新製に近い更新であった。第一次改造では行先表示器が装備されていなかったが、第二次改造では運転席窓上に装備された。これによって接客設備だけは当時最新鋭の101系電車並になった。これら元63系の改造車は、全金属車体化による延命で最終的に30年~40年も使用されたものもあった。
また、1960年代に短編成用のクモハ73形が不足したことから、モハ72形の一部が運転台取付改造を受け、クモハ73形に編入(クモハ73形500・600番台)されている。
[編集] 戦前形車両からの改造編入車
[編集] 背景
アジア・太平洋戦争末期には輸送力増強のため、戦前に製造された一部の2扉セミクロスシート付随車・制御車に扉の増設・ロングシート化(座席撤去)改造、トイレの撤去を行い、4扉車とする改造が計画された。制御車は新形式のクハ85形、付随車は63系のサハ78形の続番に編入されたが、戦局の悪化により、改造は全車におよばなかった。終戦後の1948年にクハ85形は、新造される80系電車に形式を譲って、クハ79形に編入された。
種車としては42系のクハ58形、32系のクハ47形、サロ45形、サロハ66形で、種車の相違や改造工場によって窓配置や扉幅には細い差異がある。72系の形式に編入されてはいるが、同様の改造を施された制御電動車モハ64形(→二代目モハ31形→クモハ31形・片運転台)、モハ42形(→二代目モハ32形→クモハ32形・両運転台)の仲間である。
※詳細は、国鉄42系電車#戦時改造参照。
[編集] グループごとの種車と差異
- クハ79031,034,035,036,049
- 2扉セミクロスシートの制御車クハ58形(42系)を吹田工場で改造。1000mm幅の扉を2カ所増設。窓配置は大きく変更が加えられ、種車の面影は残していない。なお、034と049以外は、増設扉の上にヘッダーが回りこんでいる。
- クハ79039~048、050~055
- 同じくクハ58形(42系)を鷹取工場で改造。1100mm幅の扉を2カ所増設。窓配置は種車の面影を残しており、増設扉の上にヘッダーは回り込んでいない。なお、055は半流線型の最終形クハ58形が種車であるため、クハ79形で唯一の半流線型車体となっている。
- クハ79056
- 2等3等合造車クロハ59形(42系サロハ46形改造)を改造。1000mm幅の扉を2カ所増設したが窓配置は変更、増設扉がやや中央に寄った特異な形態をしており、増設扉の上にヘッダーが回り込んでいる。
- クハ79060,066
- クハ47形(32系)に1100mm幅の扉を2カ所増設。非貫通のままで、正面上部雨樋は直線、通風機はガーランド式という種車の面影をよく残している(更新時期の関係で)。増設扉の上にヘッダーは回り込んでいない。060は前面窓がHゴム化されている。
- サハ78009~021
- サロハ66形(32系サロハ46形改造)に1100mm幅の扉を2カ所増設。窓配置は種車の面影を残しており、増設扉の上にヘッダーは回り込んでいない。なお、018はトイレ再設置の上で400となった。
- サハ78023,024,030
- サロハ66形(サロ45形改造)およびサロ45形(32系)に1100mm幅の扉を2カ所増設。窓配置は種車の面影を残しており、増設扉の上にヘッダーが回り込んでいる。なお、024はトイレ設置の上で401となった。
[編集] 72系の運用
72系は4扉車体による圧倒的な輸送力・客扱能力を活かし、山手線・京浜東北線や中央線、城東線・西成線(後の大阪環状線)、片町線(後の学研都市線)、京阪神緩行線(後のJR京都線・神戸線の普通電車)など、首都圏・関西圏の通勤路線で、1950年代から1970年代初頭まで広く用いられた。またクモハ73形を使用することで最短2両編成でも走行でき、運用上小回りが効いたので、首都圏近郊の電化ローカル線では2~3両編成でも運用された。
だが1957年以降の高度経済成長期に入ると、72系はまず列車密度の高い中央線や、駅間距離の短い山手線等から撤退して行く。
輸送力の逼迫した過密路線では、高い加速力と強力迅速なブレーキ力を兼備えた高加減速車両を使うことで、列車の運転密度を上げる必要があった。中央線や山手線、大阪環状線のような路線に、72系の走行性能は早期に不適となっていたのである。
72系が新型車両に比してもっとも劣る点は、ブレーキであった。新性能電車に搭載された電磁直通ブレーキに比し、72系の旧式な自動空気ブレーキは作動の反応が遅く、コントロールも難しい。また、モーターを発電機として作動させることでブレーキ力を得る発電ブレーキも装備されておらず、総合的なブレーキ力は新型車両に比して相当に劣っていた。
さらに吊掛駆動方式も不利に働いた。また101系以降の新性能電車(カルダン駆動車)は、高回転モーターと超多段制御器を使うことで低速域から高い加速力を得ていたが、72系の制御器は旧型車としては段数が多いものの、定格回転が1,000rpmに満たない低回転大出力モーターとの組合せでは、加速力を高く取ることは困難であった。しかし、高速巡航では142kWの大出力のゆとりを活かし、駅間距離の比較的長い京阪神緩行線などでは、限界一杯の100km/h巡航を行うこともあった。
主要幹線で最も遅くまで運用された例は、首都圏では1972年の常磐線、京阪神地域では1977年の阪和線や片町線とされる。首都圏の通勤路線で最後まで72系が運用されたのは、1980年の鶴見線であった。72系に限らず、旧型国電の1970年代中期以降における急激な退潮は、車両の老朽化による故障多発と、旧型電車のメンテナンスサイクルが新性能電車に比して3分の1と短く高コストであることが原因であった。
1970年代の阪和線ではデュアルシートに改造された72系も1編成あった(20年以上たって近畿日本鉄道で実用化され、「L/Cカー」として走っている)。
大都市での用途を失った72系は、1960年代後半以降、新たに電化された御殿場線や房総地区、呉線等に、また17m旧型国電置換え用として仙石線や可部線に転用された例もあった。この際一部のクハ79形・サハ78形はトイレを取付けた。これらの線区では、4ドアロングシートの通勤車による長距離運転が不評を買った。
1980年以降の最末期は、可部線と富山港線での運用が残存したが、可部線は1984年、富山港線は1985年に撤退し、一般営業から退いた。
[編集] 72系電車の改造車
[編集] 荷物車・郵便荷物合造車
[編集] クモユニ74形・クモユニ82形・クモニ83形
1960年代より、一部の72系(主にモハ72形とクモハ73形の3段窓車が種車となった)は、郵便荷物電車や荷物電車に改造された。
クモユニ74形は、東海道本線の湘南形80系が153系に置換えられたため、モハ72形を改造して登場した新性能電車併結対応の形式である。
- 0番台(74000~74014 1962年~1965年改造)は、新性能電車に併結可能な車両で、前面は74011までは大型前照灯を両脇に装備する。74012~74014はシールドビーム化されているが取付高さ(クハ153形0番台と同じ)は変更がない。
- 100番台(74100~74107 1964年~1965年改造)は、新性能電車に加え、80系とも併結可能となっている。このため、ブレーキの新旧読替機構を搭載している。中京地区に投入されたが、1968年にこのうちの3両(74100~74102)が200番台へ再改造されている。
- 200番台(74200~74207 1964年~1965年改造)は、高崎線・東北本線使用の80系・115系と併結可能となっている。100番台同様新旧読替機構のほか抑速ブレーキを搭載する。1968年には100番台の74100~74102が200番台に改造・編入された(74211~74213)。
クモユニ82形は、中央東線客車列車の電車化用にモハ72形・クモハ73形を改造して登場した車両である。
- 800番台(82800~82802 1966年~1967年)は、屋根全体を低くした低屋根車。クモユニ74形に比して郵便室のスペースが広くなっている。
- 0番台(82000~82005 1974年改造)は、篠ノ井線電化による増備車で、この時点でPS23形パンタグラフの開発により低屋根車とする必要がなくなり、普通屋根車となっている。また搭載基数も1基となっている。800番台車と異なり荷物室主体としたため側面窓配置は大きく異なる。
- 50番台(82050・82051 1974年改造)は、両毛線における郵便荷物車の特殊な運用に対応するため、引通しを両わたりとした。当初パンタグラフは1基搭載で荷物室側は準備工事であったが、1976年に2基搭載にされた。0番台同様PS23形を搭載する。
クモニ83形は、新性能電車との併結を目的とした荷物専用車で、クモハ73形・モハ72形を改造して登場した車両である。なお、クモニ83形にはこれ以外にもクモユニ81形改造の100番台車が存在するが、本稿では省略する。
- 800番台(83800~83820 1966年~1973年改造)は、まず中央本線115系併結用として登場。その後幹線電化が進み荷物車の必要が生じたため、どの線区へも使用可能ということで800番台が追加改造され、一部は山陽本線にも配属された。大井工場改造の83800~83805は雨樋の位置が他車より高い位置に設置されたほか、窓隅がカーブしている。83806以降は雨樋は普通形になっており、83813からはパンタグラフは1基搭載(2基搭載車ものちに一部1基撤去)、窓も角型に変わった。
- 0番台(83000~83029 1967年~1975年改造)は、1967年に、まず上越線の電車置換え用として登場。クモユ141形とコンビを組んで使用されたほか他の路線でも使用された。パンタグラフは83000~83004までが2基搭載、83005以降は貴重品室側には搭載せず、1基搭載(83000~83004についても一部はのちに1基撤去)となった。1974年以降改造の83026~83029はパンタグラフがPS23形に変更されている。
これらは一部の例外を除き、走行機器と台枠を流用して車体を新製したもので、新性能電車と併結できるよう、ブレーキや制御回路が特殊仕様となっていた。後年まで残存したものの多くが、1986年の国鉄郵便・荷物輸送廃止に伴って廃車されている。
その一方、国鉄分割・民営化前後には、余剰のクモニ83形を活用して、以下の形式が新たに製作された。
- クモハ84形は、クモニ83形のうち、保留車として西日本旅客鉄道(JR西日本)が引継いだ3両(実際は4両だが、1両=クモニ83815は改造されず1989年に廃車され部品取り車となる)が1988年に旅客車仕様に改造された車両である。これは国鉄旧型電車の系譜における最後の新形式であり、吊掛駆動車としてはJR移行後唯一の新規形式でもある。荷物車時代の鋼体を最大限生かすため、ドア配置は荷物車時代そのままに両開2ドアとし、車内はオールロングシートだった。主として、瀬戸大橋線開業で盲腸線化した宇野線茶屋町~宇野間折返しの運用で用いられたが、同線での高速運転による過負荷(最大95km/hを出していた)とも相まって機器類の老朽化による故障が多発し、1996年に廃車となった。
- 番号の新旧対比は以下のとおり
- モハ63434→モハ72098→クモニ83005→クモハ84001
- モハ63770→クモハ73164→クモニ83026→クモハ84002
- モハ63235→クモハ73227→クモニ83027→クモハ84003
- 番号の新旧対比は以下のとおり
- クヤ497形は、クモニ83805を1987年に改造した粘着試験車両である。同車は鉄道総合技術研究所の所有だが、本線走行を可能にするためJR東日本豊田電車区に車籍編入した。パンタグラフはPS16形に交換され、台車は、片方がすべり粘着試験用のTR910形、もう片方が101系の廃車発生品のDT21T形を履く。屋根にはAU13E形冷房装置を2基搭載し、床下には直流区間用MGとそれ以外の区間用にディーゼル発電機を搭載する。1996年に車籍を抹消されている。
[編集] クモハユ74形
房総西線木更津~千倉間電化に際し、1969年にモハ72形の改造で3両製作されている。これは車体の載替えを行わず、側面は旧車体そのままの3段窓4ドアで、郵便室部分の窓はすべて閉塞している。正面は貫通式高運転台で、ヘッドライトは窓下2灯だった。客室と郵便室の合造だが、実際には客扱いは行われずに荷物車代用として用いられた。クモハユ74001のみは当初クモハで竣工(ただし営業運転は行わず)し、再入場のうえ改めてクモハユとして竣工している。1980年までに廃車となった。
[編集] アコモデーション改良車
旅客用車両としての72系アコモデーション改良の試みは、1950年代~1960年代の全金属化改造が先駆的なものであるが、1970年代初頭になると新しい試みが行われるようになる。
[編集] 鶴見線
1972年に郡山工場で、モハ72形新製車・モハ72587の改造によりモハ72970が試験的に製作されている。走行機器と台枠を流用し、車体を当時の103系中間車(ユニットサッシ)と同じ両開4ドアとしたものであった。制御電源等は直流電源のままで、在来型の72系と混結されて鶴見線で運用されていたが、1980年に廃車となり、解体された。なお、この車両は登場時、オレンジ色だったが、後に茶色に塗り替えられた。
[編集] 仙石線
続いて1974年に、仙石線用のアコモデーション改良車として4両編成のモハ72形970番台・クハ79形600番台が、72系新製車グループの改造で製作された。モハ72970同様に103系ほぼそのままの車体を与えられ、高運転台の前頭形状も当時の山手線用103系増備車そっくりであった。寒冷地向けのため、扉が半自動対応(停車中は手動で開閉し、発車前に自動でドアを閉める)なのが特徴である。そのためドアエンジンは115系同様、半自動扱時に扱方を容易にしたTK8形を使用している。クハ・モハ各10両の4両編成5本、合計20両が改造されている。本グループの改造は、郡山工場名義になっているが、実際には外部車両メーカーに委託された。また、台枠を流用する工法では工期が長くなり、工賃が高くなることから車体は72系仕様の台枠を含めて完全に新製されている。他にも、電源の交流化など在来車との混結を前提としないものになっており、前述のモハ72形970とは異なる点が多く、混結することもできない。
[編集] 身延線
同年、身延線向けに、3ドアセミクロスシート車の62系(2代)が改造で製作されている。制御車クハ66形と中間車モハ62形による4両編成3本12両で、車体のしつらえは当時の115系300番台と酷似していた(車体塗分は横須賀線色113系そっくりであった)が、通勤車用の垂直な台枠に近郊形タイプの裾絞り幅広車体を架装したことで、台枠裾部に垂直な段が付いた奇妙な外見となった。また、身延線の低断面トンネルに対応するため、モハ62形はパンタグラフ部分の屋根を低くしている。この62形には、DT13を装備する元63系も混じっていた。
[編集] その後
だが72系改造のアコモデーション改良車は、種車が古いこともあって走行機器の老朽化が進んでおり、新性能電車に比して故障が多かった。また、検査周期も旧形のままで変わらないことから、検修面でのメリットが少ないこともあって、早々に長期使用は諦められた。62系は1981年の身延線新性能化(115系2000番台投入)による戦前形電車廃止後もしばらく用いられたが、1984年に現役を退き1986年までに廃車されている。現在は佐久間レールパークの運転シミュレータとしてクハ66002の先頭部が保存されている。
完全な新製車体を有していた仙石線用72系970番台だけは、1980年に仙石線の在来型72系が103系に置換えられた後も残存し、103系と共に運用されていた。その後、川越線電化に先立ち、1985年に工場予備品の見直しで発生した103系の電装部品・台車と組み合わされ、103系に編入された。また、台車には一部101系のものが再利用されていた。
その後の沿革については、103系3000番台車を参照のこと。
[編集] その他事業用等
72系は車両数自体が多かったことやモーター出力に余裕があったことなどから、事業用車両改造の種車としてもしばしば用いられた。
[編集] 事業用車
この節では、事業用車両に改造された車両について解説する。
[編集] クモヤ90形
1960年代以降、余剰となっていたモハ72形をベースとして製作された。電車区での車両入換作業や、電車回送時の牽引車・控車などに充当されるもので、国鉄工場での改造により製作された。
- 0番台(90000~90022 1966年~1969年改造)は、旧63系改造車をベースとしたもので、2段窓化された90001を除き、両運転台化を施された以外は比較的原型を保っていた。
- 50番台(90051~90055 1970年~1971年改造)は、0番台と同様な仕様だが、ブレーキ系統の新旧読替機構(自動ブレーキ・電磁直通ブレーキ)を追加して保安性を向上したタイプである。
- 100番台のうち90101(1970年改造)は50番台と同仕様だが、新潟地区での運用に備え耐寒耐雪仕様となっている。
- 100番台の90102以降および200番台(90102~90105、90201・90202 1979年~1980年改造)は、走行機器・台枠をモハ72形新製車の末期形から流用、新性能牽引車クモヤ143形同等の車体(塗装は他の旧型電車と同じぶどう色2号で、正面に黄5号の警戒色を追加)を載せた車両である。パンタグラフはPS16形(90102はPS23A形)を搭載する。100番台と200番台の差はジャンパ栓仕様の違い程度である。
- 800番台は中央本線系統の小断面トンネルに対応した低屋根仕様車。90801(1970年改造)は90101同様の旧63形改造・耐寒耐雪仕様で、ヘッドライトを窓下配置のシールドビーム2灯形とされたのが特徴。屋根全体が一般型より240mm低い。90802~90805(1975年~1978年改造)はクモヤ90形0番台の改造車で、パンタグラフ部分のみを低屋根とし、低屋根部はヘッドライトを屋根上配置とした。また90803は大糸線での冬季の架線霜取用として前後両方にパンタグラフを搭載した。
[編集] クモヤ91形
クモヤ90形をベースに直流電化区間では制御電動車、交流電化区間では制御車として使用できるようにしたもので、そのために屋根に静電アンテナを設置しているのが特徴である。1968年に4両(91000~91003)が製作された。
これらの車両は牽引用などの用途で国鉄民営化後も0番台3両・50番台1両・100番台4両・200番台2両が残っていたが、2002年までに現役を退き形式消滅している。
[編集] クモヤ92形
1958年に教習制御電動車として大井工場でモハ73055から改造された。改造当初はモヤ4600形と名乗っていた。
教習用として改造され室内床上に遮断器、主制御器、界磁接触器、電動発電機、空気圧縮機が設置されており、走行中の動作を観察出来るようになっていた。また床にはガラス窓部分が有り、床上に移設出来ない制動装置等の動作を観察できるようになっていた。 車体は、前面非貫通で妻面上部に前照灯が埋め込まれている。側扉は4箇所から2箇所に減らされている。
改造後は1983年の廃車まで中央鉄道学園で使用されていた。
[編集] クモヤ440形
1970年に50/60Hz両用交直流牽引用としてモハ72形を改造して製作された。先に登場したクモヤ740形と異なり、車体は新製され、種車からの流用は直流機器や下回りのみとなっている。室内は中央部に機器室が設置され、この部分の屋根は開閉可能となっている。クモヤ740形同様、低速域では制御電動車、高速域では制御車として機能する。
2両が製作され、当初は勝田電車区に配属されていたが、後に九州に転属となった。JR化で2両とも承継されたが、1990年と2002年に廃車となり、形式消滅した。
[編集] クモヤ441形
1976年から1978年にかけてモハ72形850番台(1~5)、920番台(6・7)を改造して7両製作された交直流牽引車である。クモヤ440形同様車体は新製され、種車からの流用は直流機器や下回りのみとなっている。外観は103系1200番台を模した貫通形高運転台で前面強化構造となっている。屋根は全体が低屋根となっているが中央・身延線への入線は不可能である。室内には保守の省力化と対雪構造という面から特高圧機器と床下機器の一部が機器室内に収納されている。クモヤ440形と異なり、すべての交直流電車と協調運転が可能で、無動力車を2両以上牽引する場合には重連運転も可能となっている。
全7両がJRへ承継されたが、現在は秋田車両センター所属の1と青森車両センター所属の4のみが残る。
[編集] クモヤ740形
交流電化の区間が増えてきたため、1969年に製作された車両で、暖地向け0番台2両、寒地向け50番台3両の計5両がモハ72形からの改造で誕生。当初はクモヤ792形を名乗っていたが1970年に現形式に改称された。
外観はクモヤ90801と似ているが、塗装は赤2号で前部にはクリーム4号の帯が入れられたので、印象が異なる。また、交直対応の機器を設置したために、一部の窓を潰してのルーバー取付、中2つの扉の固定化、機器室部分の屋根を開閉可能とするなどと独自の装備も付けられている。なお、交流区間や高速走行時は制御車として使用される。
現在でも2の1両が九州旅客鉄道(JR九州)で現役で、東日本旅客鉄道(JR東日本)でも2001年まで52を保有していた。
[編集] 備考
クモヤ740・440・441形は形式番号は新性能車同様3桁で表されているが、性能自体は72系時代のままの吊掛式である。
これらを含め、72系電車は廃車後もほとんど保存の対象とならず、クモヤ90形の一部が若干保存されているにすぎない状況である。
[編集] 参考文献
- 沢柳健一『旧型国電50年Ⅱ』(JTBパブリッシング 2003年) ISBN 4533047173