西鉄北九州線
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北九州線(きたきゅうしゅうせん)は、かつて福岡県北九州市門司区から八幡西区の間を走っていた西日本鉄道の軌道である。2000年に全線が廃止された。
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[編集] 概要
当線は元来九州電気軌道の手によって、軍港を擁する要塞都市であった門司、城下町であった小倉、洋式製鉄所が立地する工業都市である八幡、交通の要衝である折尾、と概ね長崎街道をトレースする形で沿線の主要都市を連絡する、阪神電気鉄道に範を取った都市間高速電車(インターアーバン)として計画・建設された。地形的な事情から併用軌道区間が多く存在したが、最後まで残存した黒崎-折尾間を筆頭に新設の専用軌道区間も多く、運行速度は路面電車としては比較的高速であった。
街道沿いの主要都市や集落を極力フォローすることを優先してルートが選定された結果、阪神電鉄と同様に駅間距離が短く、勾配も多い上に運行区間が非常に長い(門司~折尾間直通で所要時間が約1時間半)、という厳しい線路条件となったが、運行本数を増やしてフリークエントサービスに努めた結果、その利便性の良さと電気鉄道故の快適性もあって沿線住民から歓迎され、鹿児島本線電化まで長距離列車主体の国鉄鹿児島本線との棲み分けが成立していた。
上記のような事情から、当線では開業当初より社長である松方幸次郎の縁で阪神電鉄1形に準じた構造の当時としては大型のボギー車である1形が使用され、以後も一般に完全な市内電車である福岡市内線よりも大出力・高速運転対応の車両が使用されていた。
また、専用軌道区間、特に富野~砂津間の曲線区間では架線柱を斜めに建植する、阪神をはじめとする明治期のインターアーバンによく見られた古い様式の架線設備が最後まで残されており、煉瓦造りの橋脚が多く残されていたことと併せ、どこかエキゾチックな印象を与えるものであった。
沿線に八幡製鉄所が存在したことから、支線区を含めて高度経済成長期には3交代制の同所の勤務形態に合わせた大量輸送能力が求められ、路面電車としては日本初となる3車体連接車を筆頭とする大型連接車群の大量導入が1950年代後半以降実施され、モータリゼーションによる自動車渋滞と、これによる路面電車撤去論が吹き荒れた1960年代後半の最悪の時期にあってさえ、所轄警察署をして円滑な市内交通のために小倉市街での自動車一方通行の断行によって電車運行を最優先するトラフィック・コントロールの実施を強行させるほどの輸送実績を上げていた。しかしながら、1970年代前半の鉄鋼不況で製鉄所の事業規模が縮小したことで大きな打撃を受け、さらにモータリゼーションの進行で輸送需要が縮小、1980年代以降国鉄(JR九州)が近郊電車の高頻度運転や駅の新設などを開始したことで致命的打撃を受け、まず1980年にモノレール建設に用地を提供する形で北方線が廃止、続いて1985年・1992年に実施された2次に渡る部分廃止で併用軌道区間が支線区を含めて全廃となり、並行道路が存在せず代替が困難として最後まで残された黒崎駅前駅~折尾間も鹿児島本線への新駅建設で代替が可能となったことで2000年に廃止となった。かくして、鉄道事業者としての西日本鉄道の創業にかかる当線は事実上全廃となった。
なお、厳密には筑豊電気鉄道線のうち黒崎駅前駅~熊西駅間は当線に由来し、このため現在も法律上は当線は存続していることになるが、この区間については西日本鉄道は鉄道施設を保有する第3種鉄道事業者であり、電車の運行には一切関与していないため、ここでは触れない。
西日本鉄道が同じく北九州市内で運行していた、戸畑線(とばたせん)・枝光線(えだみつせん)・北方線(きたがたせん)もここで扱う。なお、門司築港が運営していた路線を委託された形で成立し、1936年に廃止された田ノ浦線(たのうらせん)については、門司築港の項目を参照。
[編集] 路線データ
いずれも特記が無いものは廃止時のデータである
- 路線距離(営業キロ):北九州線=29.3km(最大時)、戸畑線=5.5km、枝光線=4.8km、北方線=4.6km
- 軌間:北方線のみ1067mm、それ以外は1435mm
- 駅数(起終点駅含む):北九州線=55駅(最大時)、戸畑線=10駅、枝光線=9駅、北方線=12駅
- 複線区間:全線複線
- 電化区間:全線電化(直流600V)
[編集] 歴史
- 1906年(明治39年)6月1日 小倉軌道合名会社設立
- 1906年(明治39年)6月11日 小倉軌道、北方線(香春口~城野間)を馬車鉄道として開通
- 1907年(明治40年)2月23日 北方線(城野~北方間)開通
- 1908年(明治41年)12月17日 九州電気軌道(西日本鉄道の前身)設立
- 1911年(明治44年)6月5日 北九州線(東本町~大蔵川間)開通
- 1912年(明治45年)7月1日 戸畑線が全線開通
- 1914年(大正3年)11月26日 北九州線が全線開通
- 1918年(大正7年)1月14日 小倉軌道、小倉電気軌道に経営譲渡
- 1920年(大正9年)9月21日 北方線(香春口~北方間)電化開通
- 1923年(大正12年)11月13日 枝光線(中央区~枝光駅前間)開通。
- 1923年(大正12年)12月20日 門司築港により、日ノ出町九丁目~田ノ浦間の路線開通
- 1928年(昭和3年)6月1日 枝光線(枝光駅前~牧山間)開通
- 1929年(昭和4年)11月26日 枝光線が全線開通
- 1932年(昭和7年)10月2日 北方線が全線開通(全路線開業)
- 1932年(昭和7年)10月18日 門司築港が運営していた路面電車の経営を九州電気軌道に委託、同社の田ノ浦線となる
- 1936年(昭和11年)1月10日 門司築港が委託していた田野浦線廃止
- 1942年(昭和17年)2月1日 九州電気軌道、小倉電気軌道を買収
- 1942年(昭和17年)9月19日 九州電気軌道、福博電車・九州鉄道・博多湾鉄道汽船・筑前参宮鉄道を陸上交通事業調整法により合併。
- 1942年(昭和17年)9月22日 西日本鉄道に社名変更。母体会社は九州電気軌道(本社・小倉市砂津)だが、小倉地区への戦災を恐れ、本社を福岡市西新に移転。
- 1953年(昭和28年)10月27日 北九州線に連接車を導入
- 1956年(昭和31年)3月21日 筑豊電気鉄道線開業、北九州線の電車が乗り入れ
- 1961年(昭和36年) この年、一日の乗客がピークになる
- 1962年(昭和37年)12月1日 北九州線に3連接車を導入
- 1970年(昭和45年)8月20日 北九州線でワンマン運転開始
- 1976年(昭和51年)~1977年(昭和52年) - 福岡からのワンマン車両大量導入により北九州線のツーメンボギー車は北方線を除き全車両廃車
- 1980年(昭和55年)11月1日 北方線廃止
- 1985年(昭和60年)10月20日 戸畑線・枝光線・北九州線の一部(門司~砂津間)廃止
- 1986年(昭和61年)6月16日 冷房車の導入開始
- 1992年(平成4年)10月25日 北九州線の一部(砂津~黒崎駅前間)廃止
- 2000年(平成12年)11月26日 北九州線廃止
[編集] 北九州線
- 1911年(明治44年)6月5日 鎮西橋~大蔵川(三条~大蔵間) 開業
- 1911年(明治44年)7月15日 大蔵川~黒崎駅前 開業
- 1911年(明治44年)9月1日 東本町~鎮西橋 開業
- 1914年(大正3年)4月2日 門司~東本町 開業
- 1914年(大正3年)6月25日 黒崎駅前~折尾 開業(全線開通)
- 1985年(昭和60年)10月20日 門司~砂津 廃止
- 1992年(平成4年)10月25日 砂津~黒崎駅前 廃止
- 2000年(平成12年)11月26日 黒崎駅前~折尾 廃止
[編集] 戸畑線
- 1912年(明治45年)7月1日 全線開業
- 1985年(昭和60年)10月20日 全線廃止
[編集] 枝光線
- 1923年(大正12年)11月13日 中央町~枝光駅前 開業
- 1928年(昭和3年)6月1日 枝光駅前~牧山 開業
- 1929年(昭和4年)5月31日 牧山~沖台通 開業
- 1929年(昭和4年)11月26日 沖台通~幸町 開業(全線開通)
- 1985年(昭和60年)10月20日 全線廃止
[編集] 北方線
- 1906年(明治39年)6月11日 香春口~城野 開業(馬車鉄道)
- 1907年(明治40年)2月23日 城野~北方 開業(馬車鉄道)
- 1920年(大正9年)9月21日 香春口~北方 改軌・電化
- 1927年(昭和2年)4月1日 旦過橋~香春口 開業
- 1932年(昭和7年)10月2日 魚町~旦過橋 開業(全線開通)
- 1980年(昭和55年)11月2日 全線廃止(後に同区間に北九州モノレールが開業する)
[編集] 車両
1号から85号までが通し番号で、その後は新形式ごとに100の位が新しくなっていた(4は死を連想させるため400形は作られなかった)。
- 1形・35形(→福岡市内線100形)
- 66形
- 100形
- 200形
- 300形 (初代) - 北方線用単車
- 300形 (2代目)- 福岡市内線から転籍
- 321形 - 北方線用ボギー車。
- 323形 - 北方線用ボギー車で軽量の丸型車体を採用、通称「馬面電車」。旧324号は土佐電気鉄道300形301号となり、現役。
- 331形 - 北方線用2連節車。車体構造は323形に似るが、やや角張った印象。
- 500形 - 13m級大型車、最後までワンマン化されず。旧502号は広島電鉄600形602号となり、現役。
- 561形 - 福岡市内線から転籍(561~593)
- 600形 - 廃止時の北九州線の主力。
- 1000形
[編集] 車両塗装
北九州線の車両の塗装は1911年(明治44年)の開業時には真っ黒だったが廃線となるまでの89年の歴史で何度か塗装変更された。600形の一部車両はその全ての塗装を経験している。
- 1950年頃から上半分クリーム色、下半分茶色のツートンカラーに変更。なお、北方線は廃止時までこの塗色であった。
- 1976年から上半分クリーム色、下半分オレンジ色のツートンカラーに変更(現在の西鉄タクシーの一部車両と同色)。
- 1980年からエンジ色地にクリーム色の帯に変更。
- 1986年から実施された冷房改造車は白色地に赤・青の2色帯に変更(当時の市内急行用バス車両と同色)
[編集] 電停一覧
太字は西鉄北九州線内他線との接続電停。名称は廃止時点のもの。
- 北九州線
- 門司(もじ) - 東本町(ひがしほんまち) - 鎮西橋(ちんぜいばし) - 桟橋通(さんばしどおり) - 広石(ひろいし) - 風師(かざし) - 葛葉(くずは) - 二タ松町(ふたまつちょう) - 片上(かたがみ) - 小森江(こもりえ) - 市立門司病院前(しりつもじびょういんまえ) - 大里東口(だいりひがしぐち) - 大里(だいり) - 門司駅前(もじえきまえ) - 原町(はらまち) - 社ノ木(しゃのき) - 新町(しんまち) - 赤坂(あかさか) - 上富野三丁目(かみとみのさんちょうめ) - 上富野一丁目(かみとみのいっちょうめ) - 砂津(すなつ) - 米町(こめまち) - 小倉駅前(こくらえきまえ) - 魚町(うおまち) - 室町(むろまち) - 大門(だいもん) - 竪町(たてまち) - 金田(かなだ) - 下到津(しもいとうづ) - 歯大前(しだいまえ) - 到津遊園(いとうづゆうえん) - 遊園前バス営業所(ゆうえんまえばすえいぎょうしょ) - 昭和(しょうわ) - 七条(しちじょう) - 荒生田(あろうだ) - 三条(さんじょう) - 大蔵(おおくら) - 上本町(かみほんまち) - 中央町1(ちゅうおうまち)※小倉側 - 中央町2(ちゅうおうまち)※黒崎側 - 春の町(はるのまち) - 尾倉(おぐら) - 八幡駅前(やはたえきまえ) - 製鉄西門前(せいてつにしもんまえ) - 前田(まえだ) - 桃園(ももぞの) - 陣山(じんやま) - 紅梅(こうばい) - 藤田(ふじた) - 黒崎駅前(くろさきえきまえ) - 黒崎車庫前(くろさきしゃこまえ) - 西黒崎(にしくろさき) - 熊西(くまにし) - 皇后崎(こうがさき) - 陣の原(じんのはる) - 折尾東口(おりおひがしぐち) - 折尾(おりお)
- 戸畑線
- 大門 - 日明(ひあがり) - 日明西口(ひあがりにしぐち) - 中井口(なかいぐち) - 中原(なかばる) - 工大前(こうだいまえ) - 三六(さんろく) - 幸町(さいわいまち) - 元宮町(もとみやちょう) - 戸畑(とばた)
- 枝光線
- 中央町 - 中央町3※中央3丁目側 - 山王(さんのう) - 枝光本町(えだみつほんまち) - 枝光駅前(えだみつえきまえ) - 荒手(あらて) - 牧山(まきやま) - 沖台通(おきだいどおり) - 浅生(あそう) - 幸町
- 北方線
- 魚町 - 旦過橋(たんがばし) - 市立小倉病院前(しりつこくらびょういんまえ) - 香春口(かわらぐち) - 三萩野(みはぎの) - 片野(かたの) - 城野駅前(じょうのえきまえ) - 富士見町(ふじみちょう) - 城野(じょうの) - 北方車庫前(きたがたしゃこまえ) - 北方一丁目(きたがたいっちょうめ) - 北方(きたがた)
[編集] 備考
- 門司電停・戸畑電停は、国鉄門司駅・戸畑駅とは大きく離れていた。
- 戸畑電停は、戸畑渡場と呼ばれる、若松行の渡船乗場の道路を挟んですぐ前に位置していた。
- 北九州線・北方線の魚町電停は別々の場所にあり、線路は接続していなかった。
- 北九州線・枝光線の分岐点は門司方向・折尾方向双方に分岐していたため、中央町電停は門司側と折尾側に一つずつ、さらに枝光線にも設置されていた(北九州線の二つの電停は枝光線廃止後も両方残された)。
- 北九州線・戸畑線の大門駅では、Y字分岐のため北九州線の折尾方向から戸畑線に進むことはできなかった(その逆も同じ)。
- 戸畑線は廃止後、専用軌道部分を道路舗装し、代替バスの専用道として利用した。三六~小倉高校下(大門電停と日明電停の中間に位置)間がバス専用道区間となった(2006年まで。現在は専用道を廃止し、沿線の一般道路と併合するための工事区間になっている)。
- 北方線廃止後に、西鉄から北九州高速鉄道(北九州モノレール)に移籍した社員もいた。
[編集] その他
- 「北九州」線と名乗るが、この名称は西鉄成立時(1942年)からのものであり、沿線の自治体「北九州」市(1963年成立)よりも歴史が古い。北九州線が旧門司市・小倉市・戸畑市・八幡市といった北九州市の母体となった各自治体を結んでいたことで、沿線が一つの一大都市として発展し、北九州市成立への基礎を築いた。
- 京都市電が今出川線・白川線・丸太町線を廃止した1976年4月1日から、1985年10月20日の部分廃止までは、日本最大の路面電車路線であった。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 西日本鉄道 | 廃線 | 九州の鉄道路線 | かつて存在した路面電車路線