九州王朝説
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九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)とは、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に王朝があり、大宰府(太宰府)がその首都であったとする説である。古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める所論である。古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國」(「邪馬臺國」)は九州王朝の前身であるとし、その後、九州王朝が成立したが、663年(天智元)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。
邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から、戦後では長沼賢海らがいるが、古田により7世紀まで、敷衍(ふえん)され、体系的なものに整備された。ただし現在、本説は東洋史、日本史などの学界では認められていない説であることに留意する必要がある。(後述)。[要出典]
以下に、その説を詳細に記す。 注:下記に記された内容は、投稿者を含む他の研究者の主張も取り入れており、古田説とは若干異なる点もある。 [1]
目次 |
[編集] 概要
- 3世紀前半が最盛期であった邪馬壹国は、九州王朝の前身に当たり、7世紀末まで日本を代表した政権は一貫して九州にあり、倭(ゐ)、大倭(たゐ)、俀(たゐ)と呼ばれていた。
- 日本神話の神武東征にある畿内のヤマト王権は、九州王朝内の豪族の一派が東征してこれが成立した(天孫降臨の地である筑紫の日向とは福岡市と前原市との間にある日向峠であり、高千穂とは前原市の高祖山のことである)。
- 卑彌呼(ひみか)は、筑紫君の祖、甕依姫(みかよりひめ)のことである。また、壹與(ゐよ)(臺與)は、中国風の名(倭與)を名乗った最初の倭王である。
- 倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州王朝の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。
- 筑紫君磐井(倭わい)(石倭)は倭の王であり、磐井の乱は継体による九州王朝に対する反乱であった[2]。
- 天皇の称号を初めて用い、独自の元号(九州年号)を初めて建てたのも九州王朝である。
- 中国の隋との対等外交を行った「俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 [3]」は、九州王朝の倭国王であった。
- 「白村江の戦い」では、総司令官である九州王朝の天皇「筑紫君薩夜麻(さちやま)」が唐軍の捕虜になり、九州王朝側の敗北が決定した、これにより、日本国内での九州王朝の権威は失墜し、衰退に向かった。
- 「壬申の乱」の吉野は佐賀県吉野ヶ里の吉野であり、倭京とは飛鳥宮ではなく大宰府のことである。勝敗を決したとされる美濃からの援軍こそは畿内大和軍のことである。「壬申の乱」の舞台は九州であり、前年に唐軍の捕虜から解放され帰国した九州王朝の天皇である「筑紫君薩夜麻」を巡る九州王朝内の内紛に畿内大和の豪族が介入し日本列島の覇権を得た事件である。
- 「大化の改新(入鹿殺害事件)」は九州年号の大和(大化)元年(695年)のことであり、畿内大和の豪族が九州王朝の天皇を殺害し皇権を簒奪した、下克上のクーデターである。
- 通説で飛鳥時代と呼ばれている時代までは、ヤマト王権はまだ日本を代表する政権ではなく畿内の地方政権にすぎなかった。
- 大宰府(倭京618年~695年)は九州王朝の首都であり、日本最古の風水の四神相応を考慮した計画都市である。
- 防人の目的は、九州王朝の首都である大宰府(倭京)占領にあり、「夷(異民族)を以て夷を征(制)す」というヤマト王権の政策であった。
[編集] 根拠
[編集] 山島(九州王朝の継続性)
古代において津軽海峡は蝦夷国(『新唐書』における、「都加留(つがる)」、「麁蝦夷(あらえみし)」、「熟蝦夷(にきえみし)」)にあり、倭人および中国人にとって本州が島であるか半島であるかは長い間不明であった。島と認識されていたのは九州や四国だけである。漢代から隋代までの正史によれば、倭・俀は「山島」と明記されているので、倭・俀とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない[1]。 [4]
- 『後漢書』「卷八十五 東夷列傳第七十五 倭人」
- 「倭在韓東南大 海中依山島為居 凡百餘國」
- 三国志『魏書』巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」
- 「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」
- 『晋書』四夷傳(東夷条)
- 「倭人在帶方東南大海中 依山島爲國」
- 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」[5]
- 「倭國在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居」
[編集] 金印
以下のことから博多湾の志賀島で発見された「漢委奴國王の金印」は、「漢」の「倭奴(ゐど)」の「国王」と読み、漢の家臣の倭王の印綬(いんじゅ)であり、金印が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である倭王の住居があった。つまり博多湾の近くに倭の首都があったと考えられる。
- 皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い(金印は陪臣に与えるものでない)こと及び、高位の印であることからことから、この金印は「委奴国王」=「倭王」に与えられたものである。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはない。
- 『旧唐書』倭国条の冒頭等、多くの記録に「倭国者古倭奴国也」等との記事がある。倭奴国とは倭の中の小国「奴国」ではなく、倭国そのものである。
- 「倭」の字が「わ」と読まれるようになったのは後代になってからである。皇帝が冊封国の王に与えた公式の印に略字が使用されたとは考えられないので「委」の字は「倭」ではない。「委」の字は「わ」とは読めないので、「かん ゐど こくおう」と読むべきである。
- 現在でも韓国・朝鮮では日本を現代語で「倭奴(ウェノ(왜노))」と呼ぶことがある[6]。
- 『魏志倭人伝』の時代には「奴国王」は存在しない可能性がある。二つの「奴国」の存在を示す資料は『魏志倭人伝』であるが、同書によれば、一方の「奴国」には官の正・副の存在が明記されているが、王はいない。もう一つの「奴国」については不明。王についての記述がある国は、「女王国」「伊都国」および敵国の「狗奴国」のみである。
[編集] 邪馬臺国
邪馬臺国は北部九州にあった。『魏志倭人伝』は正確を期するため同じ行程を距離と所要日数とで二重に表記しているのであり。この方法であれば、従来は解決困難とされていた距離も方角も矛盾無く説明できる。(郡~女王國の距離が1万2千里、所要時間が水行十日陸行一月)(1里≒76m)
つまり伊都國が魏使の目的地であり、女王國は伊都國(福岡県糸島郡)のすぐ近くにあったと考えられる。
『魏志倭人伝』の距離に関する記述を太字にすると下記のようになる。
- 「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗福曰卑奴母離所居絶方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北糴又渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耗田猶不足食亦南北市糴又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」
郡から伊都國までを計算すると下記のように11900里になる。
- 七千里+千里+(四百里×2)+千里+(三百里×2)+千里+五百里=11900里
- ※方可とあるので、対馬南島と壱岐をそれぞれ半周したと考え、(四百里×2)(三百里×2)とした。
後のほうに「自郡至女王國萬二千餘里」とあり、帯方郡から女王國まで12000里。
- 『隋書』に「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」[7]とあり、邪馬臺国は7世紀まで倭の首都として存続したと考えられる。ところが、下記「大宰府(倭京)」で説明するように7世紀の倭の首都は大宰府はであるので、大宰府(倭京)が『隋書』の伝える邪靡堆にある倭の首都のことと考えられる。
- 伊都国から奴国まで百里、つまり帯方郡から奴国までが帯方郡から女王國までの12000里と同じ距離となり、奴国は女王国の一部であったと考えられる。奴国は2万戸と記され倭の首都として十分な人口があったと考えられる[8]。また福岡市博多区の那珂遺跡群(奴国の遺跡)では3世紀頃の「都市計画」によって造られたとみられる国内最古の「道路(幅7メートル・南北へ1.5キロ以上の直線)」跡が見つかっており、倭の首都として十分な威容を備えていたと考えられる。更に7世紀の倭の首都であった大宰府にも極めて近い(1世紀の倭国王の印である漢委奴国王の金印の発見された志賀島にも近い)。この計画都市(奴国)こそ邪馬壹國にあった3世紀の倭の首都であると考えられる。
※ 邪靡堆(大宰府のあった地域)と邪馬臺(奴国のあった地域)を同一視していることから『随書』の認識では邪馬臺・邪靡堆は現在の博多~大宰府を含む地域であったことになり、『魏志倭人伝』が伝える邪馬臺国(7万戸)も博多~大宰府を含む地域であったことになる。
[編集] 倭の五王
以下のことから、「倭の五王」は畿内ではなく九州の大王であったと考えられる。
- 「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年とが全く合わない。また、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しない、中国側が勝手に東夷の王に中国風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではない。
- 畿内地方に多くの巨大古墳が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しつつ[9]同時にこのような大規模な土木事業を多数行うことは考えられないので、畿内地方に多くの巨大古墳を造ったのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったと見られる。また、古墳文化の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、文化の広がりと権力とは必ずしも一致するものではない。古墳文化の広がりは単なる文化交流の結果であり、これとヤマト王権とを単純に結びつけることは稚拙である。古墳は豪族の墓であり、これが各地で造られことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。また、この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、出雲や吉備等にも独立した勢力が存在したことを示している。
- 『宋書』478年の倭王武の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」=中部・関東、「西の衆夷」=畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」=???、となり、比定地を特定することができない。しかし倭を九州とすると、「東の毛人」=中国・四国・畿内、「西の衆夷」=九州、「渡りて海北」=朝鮮半島南部となり、比定地の特定が可能である。
[編集] 倭(九州王朝)の交流
以下のことから、漢代から代々中国に朝貢していたのは九州の大王であり、日本列島を代表して中国・朝鮮と交流・交戦していたのも九州王朝だったと考えられる。
- 広開土王碑、『三国史記』等の倭・倭人関連の朝鮮文献、『日本書紀』によれば、倭は百済と同盟した366年から「白村江の戦い(663年)」までの約300年間、ほぼ4年に1度の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵していることが[9]記録されている。ヤマト王権にはこれらの軍事活動に対応する記録は存在せず、ヤマト王権の大王が畿内を動いた形跡もない。通信手段が未発達な古代にあって朝鮮半島で戦うには、司令部は前線近くの北部九州に置かなければ戦闘に間に合う適切な判断や指示は下せない。政治、祭事、軍事が未分化の時代、必然的に王は司令部のある北部九州に常駐することとなる。つまりヤマト王権とは別の倭王が北部九州に常駐し、そこに倭の首都があったことになる。
- 中国の正史によると、漢代から倭は代々使者を中国に送ったり迎えたりしているのに、『日本書紀』、『古事記』には遣隋使以前に中国へ使節を送った記録も、迎えた記録も無い。また、倭は長い交流を通じて中国の社会制度・文化や外交儀礼に詳しいはずなのに、初期の遣隋使派遣では、ヤマト王権は外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使したとされる(第1回遣隋使派遣は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ、また『日本書紀』では遣隋使のことが「遣唐使」となっている)。更に遣隋使・遣唐使とこれに随伴した留学生達によって、畿内ヤマトに中国の社会制度・文化の多くが初めて直接伝えられたとされていることから、遣隋使・遣唐使以前は畿内ヤマトには中国の社会制度・文化は殆ど伝わっておらず、倭と畿内ヤマトとは明らかに別物である。遣隋使・遣唐使が畿内ヤマトと中国との初の直接交流である。
- 倭は朝鮮半島で数世紀に渡って継続的な戦闘を続け、「白村江の戦い」では約1千隻の軍船・数万の軍勢を派遣し唐の水軍と大海戦を行うなど、高い航海術・渡海能力を有していたと考えられるが、この倭国軍に比べ、ヤマト王権の派遣した遣唐使船の航海の成功率は50%程度しかなく、航海技術が極めて稚拙である。これも王朝が交代し航海技術が断絶した為である。
[編集] 磐井の乱
以下のことから磐井は九州王朝の天皇であったと考えられる。
- 日本書紀に百済本紀(百済三書の一つ、逸失書)から531年に『日本天皇及太子皇子、倶崩薨。』という記述が引用されている。「磐井の乱」について百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していた。
- 福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓には、衙頭(がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や解部(ときべ)と呼ばれる裁判官の石像がある。これは九州に律令があったことを示すもので、九州に王朝があった証拠である。
[編集] 聖徳太子
以下のことから厩戸王子と「日出處天子」(聖徳太子)は別人であり、「日出處天子」は九州王朝の人物[10]で、冠位十二階、憲法十七条制定、遣隋使派遣、仏教に深く帰依した。厩戸王子はヤマト王権の人物で、これといった実績はないと考えられる。
- 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」によれば、俀國王の多利思北孤(日出處天子)のいる島には阿蘇山があると明記されているので、俀國は九州のことである[7] 。
- 開皇二十年(600年)の「倭王姓阿毎字多利思比孤」は男王であり「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」がいるので、太子でも女帝(推古天皇)でもない。また、当時の俀國の王が女性であったならば、中国では大変珍しいことなので、隋の使者が見逃したり記録に留めなかったりしたはずがない。
- 古事記には 用明天皇記において「厩戸豊聡耳命」という名の記載が1箇所あるだけで業績に関する記載は無い。
[編集] 倭(九州王朝)から日本(ヤマト王権)へ
[編集] 記録が語る王朝交代
以下のことか九州から王権が移動しヤマト王権が確立したのは7世紀末であると考えられる。
- 『魏志倭人伝』の邪馬臺國が北部九州に在ったとする説をとると当然ながらその後、九州からヤマト王権への権力の移動がなければならないが、中国の歴代の正史では倭についての記述は一貫しており同一の国家についてのことと理解される。中国の正史『旧唐書』、『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に国号が変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定される[11]。
- 中国文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すための歴史書「正史」を編纂するものであるが、『日本書紀』、『古事記』は8世紀初頭頃に編纂されているので、ヤマト王権が確立したのは7世紀末であると推定される。
- 日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等にヤマト王権以前に九州王朝が定めたとも考えられる「九州年号」(517年~700年(695年)下記参照)が多数散見される。「九州年号」も7世紀末で終わっており、この時期に王朝の交代があったと推定される。
[編集] 記録の消滅
次のことから記紀の編纂時にヤマト王権以前の都合の悪い記録を意図的に消しさった(徹底した焚書があった)と考えられる。
- 漢委奴国王印や親魏倭王印等の金印は倭が文字を理解したから皇帝から賜ったのであり、また倭も手ぶらで中国に朝貢したのではない、上表文を携えて行っていることからも倭では既に1世紀には文字の使用が一部では始まっていたことが推定できる。したがって記紀の編纂時には古墳時代や飛鳥時代の多くの歴史書が存在しているはずであるが、そのような物は現在は一つも存在しない、[12]。「正倉院文書」の日付の最も古いものは、大宝2年(702年)のものである。
- 『日本書紀』冒頭の神代紀には「一書に曰く」という表現が数多くあり、参考にした書物の存在を示している。
- 『続日本紀』和銅元年正月(708年) の詔に「亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。」とありこの時期にはヤマト王権の「正規のイデオロギー(日本書紀)」と相反する書物が残っていたことを示している。
- 『隋書』に「邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」[7]とあり、邪馬臺国は7世紀まで存続していたと考えられるが、8世紀初めに編纂された「日本書紀」「古事記」に邪馬臺国についての記述も卑弥呼についての記述も無い。
[編集] 壬申の乱
以下のことから壬申の乱の舞台は、九州であると考えられる。
- この記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内大和には未だ「京」と呼べるような都市は無く(飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない)、これは当時日本に存在していた唯一の都市である大宰府のことと考えられる。
- この乱では、大分恵尺(えさか) ・大分稚臣(わかみ)等の九州の豪族が活躍している。
- ふなんこぐい等のような壬申の乱に因む風習が残るのは、佐賀県鹿島である。
[編集] 大化の改新
以下のことから「大化の改新」は、695年に畿内大和の豪族が九州王朝の天皇を殺害し皇権を簒奪した下克上のクーデターであり、一方では藤原氏の政権掌握の功績は記述したいが、他方では皇権簒奪の事実は隠匿したいという欲求から生まれた年代・背景を改竄した記事であると考えられる。
- 『日本書紀』の「大化の改新」に関する記事からは、新興勢力の豪族を誅した程度で、何故、政権を改新したり、改革したりすることができたのか全く不明である。もし既存の権力を倒して史書に記すような政治の大改革を行ったのであれば、倒された権力は、それ以前長期に亘り権力を掌握し、政治体制を維持してきた者でなければならないし、倒した側はそれまでの権力者とは全く違わなければならない。しかし『日本書紀』の記述では、倒された蘇我氏の歴史は100年にも満たないような新興勢力であり、倒した側は代々の天皇であり最高権力者である。『日本書紀』の記述には明らかにこのような矛盾がある。
- 下記のように「大化の改新」は7世紀末の出来事であると考えられる。
- 『日本書紀』は「大化の改新」の時に「郡(こおり)」が成立したと記すが、「郡」と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定以降であり、それ以前は「評(こおり)」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている[13]。
- 646年正月の改新の詔の第一条で公地公民、(私地私民の廃止)をうたっていながら646年から後も伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)が所有する部曲(かきべ)や田荘(たどころ)の領有権が認められていた。
- 改新の詔において「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあるが、戸籍・計帳・班田収授は大宝律令で初めて見られる用語であり、それ以前の文書には出てこない。
- 大宝律令が発布されたのは701年である。律令制度が定着したのは、大宝律令からである。
- 『日本書紀』大化元年七月の条に高句麗や百済の使者に「明神御宇日本天皇」と示したという記事があり、日本における「日本」という国号の最初の使用例となっている。しかし、中国の正史(『旧唐書』『新唐書』など)で日本の国号が「倭」から「日本」に変わっているのは7世紀末である。
- 以下のことから大化元年は、695年であると考えられる。
- ヤマト王権初の本格的都城である藤原京が建設されたのは694年であるので、ヤマト王権の成立はこの頃と考えられる。
- 藤原氏という一族がいるのに藤原京という家臣の名の付く都を朝廷が建設することはない。藤原京が先に有って後で藤原姓を賜ったのである。藤原不比等が「大化の改新」の主役だから中臣鎌足の息子のうち不比等だけが藤原姓なのである。「大化の改新」の功績で不比等が藤原姓を賜り、父の中臣鎌足には不比等が自分の功績と藤原姓を後で贈ったと考えられる。
- 645年即位とされる孝徳天皇も696年即位とされる文武天皇も、即位前は軽皇子と名乗っており、孝徳天皇は実は文武天皇のことであると考えられる[15] 。
- 以下のことから蘇我氏とは九州王朝(倭国)の天皇家のことであったと考えられる。
- 蘇我氏の名は、馬子と入鹿の二人の名を合わせると馬鹿や蝦夷などその存在自体が怪しい点がある。
- 蘇我蝦夷の邸宅が「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅が「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼ばれていた。
- 蘇我入鹿の子らが親王の扱いを受けていた。
- 『国記』(くにつふみ)・『天皇記』(すめらみことのふみ)と言った史書が蘇我氏の邸宅に保管されていた。
[編集] 大宰府(倭京)
以下のことから大宰府は、九州王朝の首都(倭京)であったと考えられる。
[編集] 名称
- 「大宰」の本来の意味は宰相(総理大臣)であり、「大宰府」とは「政治を行う所」つまり「首都」という意味に取れる。
- 古代において多賀城とともに「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれていたが、「遠の朝廷」とは「遠くにあるもう一つの首都・外国の首都」という意味である。
- 太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名字(あざ)が遺存し、太宰府に「天子の居処」のあったことをうかがわせる。
[編集] 記録の空白
- 『日本書紀』などのヤマト王権の史書に大宰府を何時設置したか記録がない。また都城本体の建設の記録もない。
- 古代防衛施設遺跡の配置は、北九州に集中しており、守るべき中心が畿内なかんずく大和ではなく、大宰府であった事は明らかである(水城や所在の明瞭な朝鮮式山城は、北九州に多い。またヤマト王権に建設の記録が無い古代山城「神籠石(こうごいし)式山城」が北九州から瀬戸内沿岸に存在するが、神籠石式山城の大半も北九州に集中している)。
[編集] 都城
日本最古の都市である
- 下記のことから大宰府は、ヤマト王権最古の条坊制都城である藤原京(694年)より古い、日本最古の本格的な都市である。
- 条坊の建設は単なる区画整理事業に過ぎず、城砦や城壁を建設するより遥かに簡単である。また何も無い所は攻撃の対象とならず防衛する必要もない。そこに重要な施設が存在していたからこそ、そこを防衛する設備が必要だったのである。『日本書紀』の記述が正しいとして、常識的に考えれば、多くの資材を投入して防衛のための付属施設である水城等が建設されたとされる664年には、既に本体である都城は存在し、資材を投入するに足りる発展を遂げていたと考えられる。
- 7世紀中頃に創建された観世音寺の遺構が太宰府の条坊と正確に一致している。寺社に合わせて条坊が建設されることはない、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、太宰府の条坊は観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していた。
- 九州年号に倭京元年(618年)とあることから、この年に建設されたと考えられる。
中国の首都(長安)をモデルとした都市である
- 都市の区画割が明らかに唐の長安を模した条坊制である。(政庁の位置が創建当時から移動していないことから「都市プランは政庁創建当初からあった」と考えられる。ヤマト王権でこのように北に政庁を配置した条坊制の都は、平城京(710年)以降であり、これより46年~92年早い。またヤマト王権の都にはない都城周辺の城壁があったとも考えられている。)
日本最古の風水都市である
- 竈門神社の縁起にあるように「四神相応の地」といわれ、首都としての立地条件を備えており、また、これは水城等の建設された664年や大宰府が建設された618年には確定していたわけであるから、ヤマト王権唯一の日本式風水(陰陽道)都市である平安京(794年)よりも130年~176年以上も早い。
[編集] 『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』の記録
- 711年~800年の蓄銭叙位令などが示すように畿内大和は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』769年(神護景雲3年)10月の記事で大宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。」と報告しているように大宰府は国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた都市であった。
- 『魏志倭人伝』によると3世紀の奴国(博多)でさえ2万戸(10万人以上)の人口があり藤原京や平城京より遥かに人口が多かった。また畿内大和は8世紀まで通貨経済は皆無であったが「國國有市、交易有無、使大倭監之。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。
- 『日本書紀』「壬申の乱(672年)」の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内大和には未だ京と呼べるような都市は無く(飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない)。これは当時日本に存在していた唯一の都市である大宰府のことと考えられる。
[編集] 測定調査・発掘
- 「発掘・調査」では、約300年にも亘って当初の計画に基づき建設され続けたことになるが、単なる区画整理事業に過ぎず、数ヶ月から数年で可能な条坊の建設に何故300年も要したのか?300年にも亘って計画を維持する事が可能か?実施した者の正体は何か? 目的は何か?などの疑問や矛盾が発生する。
- 現在の大宰府の年代測定は、年輪年代測定や放射性炭素年代測定等によるものではなく科学的根拠が無い。水城の建設等は、理科学的測定によれば『日本書紀』の記述等より90年以上も古くなり、大宰府本体も古くなる可能性がある。
- 学習院大学年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、大宰府遺跡の竹内焼土層は1600年ほど前の物である。
[編集] 防人
「日本書紀」では、664年以降に防人(さきもり)が置かれたとされているが、『萬葉集』には8世紀以前の防人の歌は無いので、防人が置かれたのは九州王朝が滅亡した7世紀末頃と考えられる。また当初、防人は東国から徴発されたが、(ヤマト王権の体制が固まった)757年以降は九州からのみの徴用となっており、これは防人の当初の目的が外敵に対する防衛ではなく九州制圧にあった為と考えられる。
[編集] 関連する主張
- 景行天皇の九州大遠征説話や神功皇后の筑後平定説話などは九州王朝の史書からの盗用である。
- 『日本書紀』の持統天皇の吉野行きの記事は、ひと干支(60年)前の「白村江の戦い」時の天皇の佐賀県吉野地方への出撃部隊視察の記事である(部隊は機密保持のため有明海に集結し、有明海→五島列島→韓のコースを辿ったと考えられる)。
- 「九州」の呼称は9国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)からなっていたことに由来すると俗に言われるが、「九州」という用語は本来古代中国では天子の直轄統治領域を意味するもので、九つの国の意味ではなく天下のことである。(中国で国を九分して治める習慣から九州=天下、(参考→九州 (中国)))
<中国史書の国号改称記事>
- 『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國
- 「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
- 『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
- 「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」
- 『旧唐書』には、倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは倭(九州王朝)と日本(ヤマト王権)とは別の国であり、倭がヤマト王権により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたからである[11]。
- 青龍山野中寺(やちゅうじ)の弥勒像台座の下框(かまち)部分には「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」という陰刻があり、これが丙寅年(666年)の四月に「中宮天皇」が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像であることが分かる。しかし、666年には、既に斉明天皇は亡くなっており、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が即位したこともなく、天智天皇が「中宮天皇」と呼ばれた文献資料も残されていない。つまり、この時期、ヤマト王権の正史にはない「中宮天皇」という天皇がいたことになるが、これも九州王朝の天皇である。
- 『続日本紀』等の記事やその銭文が示すとおり、ヤマト王権が発行した最初の貨幣は和同開珎(708年)である。しかし、古代日本には和同開珎より以前に無文銀銭や富本銭(683年)などの貨幣が存在している。また、蓄銭叙位令(711年~800年)などが示すように畿内大和では8世紀になっても通貨経済は未発達であったが、『続日本紀』769年の記事で大宰府の役人が都に「大宰府言。此府人物殷繁。天下之一都會也。」と報告しているように北部九州では既に通貨経済が活発であった。つまり7世紀以前に無文銀銭や富本銭などの貨幣が発行されこれらの貨幣が流通していたのは九州であり、8世紀以後、ヤマト王権は九州王朝の富本銭等を参考にして和同開珎等の貨幣を発行した(和同開珎等の銅銭でさえ周防国(山口県山口市鋳銭司・下関市長府安養寺町)等の西日本で多くが鋳造されていた。)のである。
- 「遣隋使」はもちろん、「遣唐使」も7回目(669年)までは九州王朝が派遣したものであり、小野妹子らのヤマト王権の者は九州王朝の遣隋使に同伴させてもらったのである[7]。
- 「正倉院文書」中の正税帳によると、当時の税は、稲・塩・酒・粟などを納めるのが普通だが、「筑後国」の貢納物は鷹狩のための養鷹人と猟犬。白玉・青玉・縹玉などの玉類などである。鷹狩・曲水の宴などの貴族趣味は畿内大和にはなく、筑後にはあった。
- 奈良正倉院の宝物の殆どは天平10年(738年)に九州筑後の正倉院から献上されたものであり、元は九州王朝の宝物である。
- 法隆寺西院伽藍は筑紫の寺院(大宰府都城の観世音寺又は福岡市難波池の難波天王寺又は筑後国放光寺)が移築されたものである。
- 道鏡事件で和気清麻呂が宇佐神宮の神託を訊きに行く等、古代において国家の大事や天皇の即位時には宇佐神宮へ勅使が必ず遣わされ、古代日本では伊勢神宮より九州の宇佐神宮が重要視されていた。つまり、古代日本では九州に権威があった。
- 「君が代」は九州王朝の春の祭礼の歌である。
- 『萬葉集』の代表的歌人でありながら正体不明な「柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)」や「額田王(ぬかたのおおきみ)」等は九州王朝縁の人物である。また山上憶良等も元は九州王朝の役人であったものがヤマト王権に仕えたものである。
- ヤマト王権は694年に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、701年に大宝律令を制定して官僚組織を整備しているが、これに必要とされた多くの人材は、滅亡した九州王朝の官僚を再雇用したものである。7世紀末に突如として畿内大和に出現した官僚集団は、九州の大宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州王朝の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたのである。また、知識階級でありエリートであるはずの下級官僚に対するヤマト王権の奴隷的な扱いはこの為である。
- 2004年秋に中華人民共和国陝西省西安市の西北大学が西安市内から日本人遣唐使「井真成」の墓誌を発見した。この「井真成」は死後に皇帝から「尚衣奉御」(尚衣局の責任者)の位を授けられており「尚衣奉御」が歴代皇帝の親族がその任に当たっていたことや、現在「井」及び「井」という氏から派生した「井野」という姓は九州熊本県の産山村・南小国町・一の宮町などに多く存在すること、また井は倭(ゐ)に通じることから、この「井真成」は、九州王朝の皇族であると考えられる。
- 大津宮は近江大津(大津市)ではなく、肥後大津(大津町)である。大津宮への遷都は、敵の上陸に備えた大宰府から内陸部への疎開である(近江では遷都の理由が不明である。瀬田の唐橋の瀬田は、大津町瀬田)。
- 『萬葉集』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、皇権簒奪の事実を隠すためである。
- 住吉神社、八幡神社など九州を始原とする神社が日本全国に多く分布するのは、九州王朝の信仰をヤマト王権が引き継ぎ広まったものである。
[編集] 九州年号表
日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等には私年号(逸年号。朝廷が定めた元号以外の年号。)が多数散見される。[17]九州年号は鶴峰戊申が、邪馬台国=熊襲説(倭の五王も熊襲の王とする)を述べた著書『襲国偽僣考』のなかで、それらを熊襲の年号として考証したものである。古田武彦の『失われた九州王朝』で再評価された。史料はこのほかに『二中歴』『海東諸国記』などがある。
九州王朝説ではこれらの年号(各地で現在500以上確認)を九州王朝が使用した「九州年号」であるとする。九州王朝説では、この時期既に新羅等の朝鮮半島の諸国は独自の元号を建てており、半島の盟主を自認していた倭だけが独自の元号を建てることがなかったとは有り得ず、また阿毎多利思北孤[3]などは「日出處天子」と名乗っており「天子」と宣言している以上、元号の制定は当然であるとしている。なお九州年号には仏教的な語句が見られることから、九州にはこの時期既に仏教が伝来していたとする。
次に挙げるのは『襲国偽僣考』の考証を修正したものである(「二中歴」によれば、「継体」という年号をもって「開始年号」としている。二中歴以外の文献では、「継体」を欠いて二つ目の「善記(善化)」から始まる。)。
※695年の大和(大化)以降は、ヤマト王権の建てた元号が混入していると考えられる。
開始年 (西暦) |
元号名 | 読み | 干支 | 天皇年代 |
---|---|---|---|---|
517 | 継体 | 丁酉 | 継体11年 | |
522 | 善化(善記) | 壬寅 | 継体16年 | |
526 | 正和 | 丙午 | 継体20年 | |
531 | 発倒(教到) | 辛亥 | 継体25年 | |
536 | 僧聴 | 丙辰 | 宣化 1年 | |
541 | 同要(明要) | 辛酉 | 欽明 2年 | |
552 | 貴楽 | 壬申 | 欽明13年 | |
554 | 結清(法清) | 甲戌 | 欽明15年 | |
558 | 兄弟 | 戊寅 | 欽明19年 | |
559 | 蔵和 | 己卯 | 欽明20年 | |
564 | 師安 | 甲申 | 欽明25年 | |
565 | 和僧 | 乙酉 | 欽明26年 | |
570 | 金光 | 庚寅 | 欽明31年 | |
576 | 賢接(賢稱) | 丙申 | 敏達 5年 | |
581 | 鏡當 | 辛丑 | 敏達10年 | |
585 | 勝照 | 乙巳 | 敏達14年 | |
589 | 端政 | 己酉 | 崇峻 2年 | |
594 | 従貴(告貴) | 甲寅 | 推古 2年 | |
601 | 煩転(願転) | 辛酉 | 推古 9年 | |
605 | 光元 | 乙丑 | 推古13年 | |
611 | 定居 | 辛未 | 推古19年 | |
618 | 倭京 | 戊寅 | 推古26年 | |
623 | 仁王 | 癸未 | 推古31年 | |
629 | 聖徳(なし) | しょうとく | 己丑 | 舒明 1年 |
635 | 僧要 | 乙未 | 舒明 7年 | |
640 | 命長 | 庚子 | 舒明12年 | |
647 | 常色 | 丁未 | 孝徳 3年 | |
652 | 白雉 | はくち | 壬子 | 孝徳 8年 |
661 | 白鳳 | はくほう | 辛酉 | 齊明 7年 |
684 | 朱雀 | すざく | 甲申 | 天武12年 |
686 | 朱鳥 | しゅちょう | 丙戌 | 天武14年 |
695 | 大和(大化) | 乙未 | 持統 9年 | |
698 | 大長(なし) | 戊戌 | 文武 2年 |
[編集] 説の歴史
古田は親鸞研究での堅実な実績で知られ、当初は『史学雑誌』78-9や『史林』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌での公表を行い、一定の評価を得ていた。一時期は高等学校日本史教科書の脚注で言及されたこともある。しかしその後、勤務校の紀要を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって主張する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。1990年代に『東日流外三郡誌』に古田が深く関与し、同書が偽書であることが強く疑われると、同書に関する議論と本説とは直接的な関係はないにもかかわらず、一部に『東日流外三郡誌』の議論をもって本説をも誤謬であると断ずる声もあがった。
歴史学および考古学の研究者は、本説の内容に関して、史料批判など歴史学の基礎手続きを踏んでいない[要出典]こと、考古学の資料分析の成果とそぐわない[要出典]ことをもって、検証に耐えうる内容ではないとみなしており、議論の対象とされていない。
その一方で、一般市民や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ皇国史観の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれ、現在も研究がなされている。
[編集] 問題点
九州王朝説は現在のところ、日本古代史の学界からは「批判・検証を受ける段階に無い」と見られ黙殺されている。それは以下のような理由による。
- 九州王朝の歴史を記録した一次資料は存在しない[18]。したがって記紀や中国や韓国の歴史書等に散見される間接的な記事、九州年号や大宰府など僅かに残された資料をつなぎ合わせて王朝の歴史を推測するしかない。この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠となっており、また多くの亜流を生む原因ともなっている。[19]
- 同じ九州王朝説の支持研究者でも、白村江の戦いまでを九州王朝の歴史と見る、壬申の乱までを九州王朝の歴史と見る、大化の改新まで九州王朝の歴史と見る[2] 等考え方は様々であり定まっていない。
九州王朝説を主張する人は「通説で洗脳された者が九州王朝説の概要を知らずに部分的な解説書を読むと理論展開を強引だと感じてしまう事がある、また九州王朝説の中にも仮定に仮定を積み重ねたトンデモ説としか思えないものもあり、初めて読んだ本がこれらの場合には九州王朝説全体をトンデモ説だと思ってしまう事もある。」と述べている[20]。
[編集] 関連書
[編集] 肯定側
- 古田武彦 『「邪馬台国」はなかった』(1971年、朝日新聞社、のち朝日文庫、角川文庫に収録) ISBN-13: 978-4022607416
- 古田武彦 『失われた九州王朝』 』(1973年、朝日新聞社、のち朝日文庫、角川文庫に収録)ISBN 4022607505
- 古田武彦 『盗まれた神話-記・紀の秘密-』(1975年、朝日新聞社、のち朝日文庫、角川文庫に収録) ISBN-13: 978-4022607836
- 古田武彦 『古代は輝いていた一-『風土記』にいた卑弥呼-』朝日新聞 ISBN-13: 978-4022604972
- 古田武彦 『古代は輝いていた二-日本列島の大王たち-』朝日新聞 ISBN-13: 978-4022604989
- 古田武彦 『古代は輝いていた三-法隆寺の中の九州王朝-』朝日新聞 ISBN-13: 978-4022604996
- 古田武彦、福永晋三、古賀達也 『九州王朝の論理』「日出ずる処の天子」の地 明石書店 ISBN 4-7503-1293-2
- 古田 武彦、谷本 茂、『古代史の「ゆがみ」を正す―「短里」でよみがえる古典』 新泉社 ASIN 4-7877-9403-5
- 内倉武久 『太宰府は日本の首都だった―理化学と「証言」が明かす古代史』ミネルヴァ書房 ISBN 4-6230-3238-8
- 草野善彦 『放射性炭素年代測定と日本古代史学のコペルニクス的転回』 本の泉社 ISBN 4-8802-3646-2
- 松永祐二(他)、『「磐井の乱」とは何か』 九州古代史の会、同時代社、2006年、ISBN 978-4-88683-593-2
[編集] 否定側
- 安本美典 『虚妄(まぼろし)の九州王朝』(古代史論争シリーズ)独断と歪曲の「古田武彦説」を撃つ 梓書院 ISBN 4-87035-066-1
- 安本美典 『古代九州王朝はなかった』古田武彦説の虚構 新人物往来社 ISBN 4-404-01352-3
- 安本美典 『邪馬一国はなかった』 徳間書店
- 高木彬光 『邪馬壱国の非論理』 私家版
- 高木彬光 『邪馬壹国の陰謀』日本文華社
- 原田実 『幻想の多元的古代―万世一系イデオロギーの超克』 批評社
- 久保田穣 『古代史のディベート』 大和書房
- 鷲﨑弘朋 『邪馬台国の位置と日本国家の起源』 新人物往来社
- 西野 凡夫 『古代天皇の系譜と紀年 さらば九州王朝論』 高城書房出版
- 岡田 英弘 『倭国―東アジア世界の中で』 中央公論新社、1977年 ISBN 4121004825
[編集] 参考
- 坂本太郎ほか 日本書紀〈1〉 岩波書店
- 石原道博 新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 岩波書店
- 石原道博 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝 新訂�中国正史日本伝 (2) 岩波書店
- 原正寿、安本美典、原田実 『日本史が危ない!―偽書『東日流外三郡誌』の正体』全貌社
- 斉藤光政 『偽書「東日流(つがる)外三郡誌」事件』新人物往来社
- 谷川健一、安本美典 他 『東日流外三郡誌「偽書」の証明』 廣済堂出版
- 久保田穣 『古代史における論理と空想』 大和書房
- 長沼賢海 『邪馬台と大宰府』 太宰府天満宮文化研究所
- 佐伯有清 『邪馬台国論争』 岩波書店、2006年 ISBN 4004309905
[編集] 外部リンク
[編集] 史料
[編集] 肯定側
- 古田史学会の会報
- 科学の目で見えてきた日本の古代
- 中小路駿逸氏による「古田武彦ノート」
- Historical
- 古田史学の素晴らしさ
- 九州元号
- 古代九州王朝
- 帝國電網省>「大化」は日本最初の年号ではない!!
- 古田史学の会のために
[編集] 否定側
- 百鬼夜行の世界 その1-古代史探求格闘編-九州王朝の巻
- 読者の賢い騙し方 実践編
- =邪馬台国の謎に迫る=倭人伝への旅
- 「邪馬台国の位置と日本国家の起源」概要 倭の五王と九州王朝説-古代統一国家の形成
- 歴史を捻じ曲げる日本の司法(※古田武彦氏の情報操作について)
- 九州王朝説批判
- 九州古代史・筑紫の磐井
- 倭史考
[編集] 参考
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 「九州王朝の二都制」「九州王朝による近江遷都」「唐軍の北九州進駐」などは、提示するほどの根拠がないので省略した。九州王朝の滅亡・ヤマト王権の成立を701年ではなく695年とした(国号の変更時を政権交代時とした)。
- ^ a b 古田は「磐井の乱」を畿内大和の九州王朝に対する反乱とみていたが、最近は無かったと見ているようである。また九州内の内乱と見る説がある。この時期巨大な古墳の造営が続いた畿内大和にはまだ九州王朝に対抗する力は無く、九州年号に継体とあることから、磐井も継体も九州の王であるとする。続日本紀によれば、漢風諡号「継体」は天平宝字6~8年(764)に天智天皇の玄孫、淡海三船が撰進したとあるが、大和が滅亡させた九州王朝が制定した『九州年号にある「継体」』を淡海三船が参考にした可能性があるとする人もいる。
- ^ a b 「姓は阿毎(アメ・アマ「天」)、字は多利思北(または比)孤(タリシホコ、「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王・アメキミ説あり」)と号す」 オホキミはヤマト王権で使用されていた首長の呼称と一致するが、九州王朝説では「大王」は九州・関東などでも使用された称号であるとみている。アメ又はアマ・タラシヒコは『古事記』、『日本書紀』に見られる呼称と一致し、大王・天君は首長以外にも用いられた尊称であるとして、『隋書』の「俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」は聖徳太子を指すとする説がある。(※「大王」の使用例 伊予風土記逸文(「釈日本紀」)「法興六年十月歳在丙辰我法王大王与慧慈法師及葛城臣」万葉集 雑歌 柿本朝臣人麻呂「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而」)
- ^ 岩手県の角塚古墳をはじめ、東北地方に多数の前方後円墳が築造された古墳時代には、津軽海峡の存在をはじめとする東北地方についての情報を大和が得ていた可能性もあることから、『隋書』の「其國境東西五月行,南北三月行,各至於海(国境は東西五月行、南北三月行で各海である)」は大和からもたらされた本州についての情報によるとする説がある。これらの反論が『後漢書』や三国志『魏書』など古墳時代以前の古い記述には当てはまるかどうかは不明。なお、8世紀には日本列島最古の地図(行基図)が作られ、日本国内では津軽海峡の存在が認識されていたと考えられる。
- ^ 通説では『隋書』の「山島」は、『隋書』以前の史書の記述を再録したものであり、単に九州が倭国(ヤマト王権)の領土であることを述べているに過ぎないと見るものもある。
- ^ 「倭奴」は日本の蔑称であり、しかも「倭」の字の代わりにニンベンの無い「委」を用いられていたので隠されていたと考えられる(新の王莽が匈奴に与えた「新匈奴單于章」の金印と同じ「中国の皇帝が属国の蛮王に与えた印」という侮辱的印と同じ)。
- ^ a b c d 『隋書』に「其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。」とあるが、東西五月行,南北三月行は九州の領域を超えてしまう。また『隋書』には「又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於倭。」ともあることから、通説では隋使裴世清(『日本書紀』によると推古十六年に大和に入る)は九州から海路を経て、近畿の海岸に到達したと考えている。九州王朝説では、倭(九州王朝)が日本列島の盟主であったことを示しており、裴世清らの目的地は筑紫であり畿内大和は未知の土地だったので、ついでに足を伸ばしたにすぎないと考えている。
- ^ 魏志倭人伝の奴国は2万戸(1戸5人平均としても10万人)とされている。ヤマト王権の拠点は藤原京が建設される694年まで京域も持たず転々と移動し、その人口は僅かであった。平城京でさえ役人程度しか居住せずその人口は数万人程度であったと考えられており3世紀の奴国(古代博多)より少ない。
- ^ a b 倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。 これは4年に1回の割合で、しかもほとんど300年の間、連続的に起こっており、ま た倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている。 (邪馬台国の位置と日本国家の起源>倭の五王と九州王朝説 より)
- ^ 九州年号に「聖徳」(629年)とあることを聖徳太子と結びつけ、伝説の聖徳太子は九州王朝の王の一人であった(聖徳太子の太子は本来は、仏教に深く帰依した大師である)とする説もある。
- ^ a b 古田は、九州王朝の滅亡・ヤマト王権の成立を701年としたため九州王朝が7世紀末に日本の国号を使い始め、ヤマト王権が政権簒奪後も日本の国号を使い続けたとしている。
- ^ 「畿内では九州より遅れて文字の使用が開始されたため、古い記録が残っておらず記紀の編纂に当たっては九州王朝の記録が多く参考にされた」とする意見がある。
- ^ 名古屋市博物館の常設展示の藤原宮出土木簡には「庚子年(700年)四月/若狭国小丹生評/木ツ里秦人申二斗」「尾治国知多郡/大宝二年(702年)」などの記載がある奈良文化財研究所 木簡データベース
- ^ 江戸時代天保九年(1838年)春に出土の『大化五子年土器』は「大化五子年二月十日」と記されているが、『二中歴』では大化六年(700年)が庚子で子の年となっており、この土器とは干支が1年ずれているが、干支が1年ずれた暦法が採用されたためと考えれば一致する(二つの試金石 九州年号金石文の再検討より)。一方、『日本書紀』の大化年間には全くこの年はない。従って、この土器の大化五子年は7世紀末の699年のことと考えざるを得ず、『二中歴』にある「大化」が使用されていたとする仮説を補強する。50年の違いは日本書紀が大化の改新後10年程して編纂され、編纂時から60年干支を遡ったためではないかと考えられる。
- ^ 「舒明天皇と皇極・斉明天皇との間の娘、孝徳天皇の大后、中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の妹であるとされる間人皇女と欽明天皇と小姉君の娘で、用明天皇の大后、厩戸皇子(聖徳太子)らの母であるとされる穴穂部間人皇女なども同一人物のことである可能性が高い」とする意見もある
- ^ 唐代には科挙に合格し唐の高官となった阿倍仲麻呂のように、遣唐使として多くの日本人が中国に渡っており、また白村江の戦でも多くの日本人が捕虜として中国に連行されている。これらのことからも、唐代には日本についての情報は豊富であり、旧唐書や新唐書の日本についての情報には事実を反映したものがあると考えられる。旧唐書や新唐書で日本國と倭國が別の國であるように記述されているのは、当時の日本が、中国に臣従していた過去を否定するために、日本國はかつて中国の册封をうけ臣従していた倭國とは別の國であるとしたものとする解釈がある。
- ^ 「白鳳」は、『続日本紀』神亀元年冬十月条(724年)「白鳳以来、朱雀以前、年代玄遠、尋問難明」という記事があり、「法興」は、法隆寺金堂(こんどう)釈迦三尊像の光背(こうはい)金石文や「伊予温湯碑」(愛媛県道後温泉、碑は現存せず、伊予風土記逸文(「釈日本紀」)による)などに記載がある。
- ^ 九州王朝説では『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州である見ている。更には「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州王朝」の史書からの盗用であり、「古代大和王朝」の文献資料など存在しないとするものもある。
- ^ 通説側からは「資料の扱いが恣意的であり九州王朝の存在を仮定して日本書紀等の既存の資料を解釈することなどが九州王朝説の弱点であるとされている。九州王朝説からすると通説が資料の取扱が恣意的であり「通説は大和一元論であり、資料の扱いが恣意的である」としている。
- ^ 中小路駿逸(元追手門学院大学教授)は、雑誌「市民の古代」への投稿について「控え目に言って玉石混淆」と評しており、一部の支持者の主張がトンデモの類であることを認めている。
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