菅直人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菅直人(かん なおと、1946年10月10日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(9期)。民主党代表代行。
厚生大臣(第74代)、新党さきがけ副代表、民主党代表(初代・第3代)等を歴任した。
生年月日 | 昭和21年(1946年)10月10日 |
---|---|
出生地 | 出生地:山口県宇部市 本籍地;岡山県御津郡建部町(現・岡山市) |
出身校 | 東京工業大学理学部応用物理学科 |
学位・資格 | 学士(理学) |
前職・院外役職(現在) | 弁理士 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・懲罰委員会委員 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
東京18区 |
当選回数 | 9回 |
所属党派(現在) | 民主党(菅グループ) |
党役職(現在) | 代表代行 ネクスト副総理大臣 東京都総支部連合会常任顧問 |
会館部屋番号 | 衆・第1議員会館323号室 |
ウェブサイト | 菅直人の公式ウェブサイト |
目次 |
[編集] 概要
[編集] 生い立ち
- 昭和21年(1946年)10月10日、山口県宇部市に父・菅寿雄(元セントラル硝子会長)、母・純子の長男として生まれる(本籍地は岡山県御津郡建部町(現・岡山市))。菅直人の「直」の字は本当は2画目がやや斜めなのが正しい。宇部興産工場長だった父の転勤に伴い、三鷹市下連雀に転居した関係で、山口県立宇部高等学校から東京都立小山台高等学校に編入し、卒業。一浪して1970年、東京工業大学理学部物理学科卒業。1971年に弁理士試験に合格。
- 東京工業大学在学中は、左派の学園紛争に対抗する民族派学生グループの「学内正常化運動」(“学園正常化運動”とも)に積極的に参加。
[編集] 政界入り
- 市川房枝の選挙事務所代表として選挙参謀として市川の当選に尽力したことが政界入りのきっかけ。その後、1976年の第34回衆院選に東京7区(当時)から無所属で立候補し落選したが、こうした活動が江田三郎の目に止まり、誘われる形で社会市民連合に参加し1977年の第11回参院選では社会市民連合から出馬したがまたも落選し、1979年の第35回衆院選では社会市民連合から名称を変更した社会民主連合から出馬したが台風による低投票率による影響でまたも落選したが、1980年の第36回衆院選で初当選。土地問題などを中心に政策通として頭角を現す。
- 1981年には丸山ワクチンの不可思議な不認可問題を追及し、後の薬害エイズ事件につながる官僚との対立姿勢を見せている。
- 社会民主連合では主な役職として1978年副代表、1985年に副書記長兼政策委員長を務めている。
[編集] 与党時代
- 細川非自民連立政権では、衆議院外務委員長をつとめる。村山自社さ連立政権では、新党さきがけ政策調査会長として、政策調整に当たった。因みに悪評高き「住専処理スキーム」決定時の与党政策責任者が菅である。また当時の自民党政務調査会長の加藤紘一とは「KKライン」と呼ばれた。
- 村山内閣総辞職後、成立した第1次橋本内閣で、厚生大臣(第74代)として入閣。薬害エイズ事件の処理に当たり、歴代厚生大臣たちが見つけられなかった厚生省の行政の過ちを徹底的に捜索する体制を敷き、行政の過ちを証拠立てた。(この時の捜索体制は、官僚内部からも官僚の操縦法として優れているという評判がたったほどに徹底したものだった。)行政の明白な過ちによってエイズに感染せざるを得なかった多くの悲劇的な被害者たちに対して、はじめて行政の責任を認めて謝罪した。その際大臣として厚生行政の責任者として土下座をして謝罪。被害者の感動を呼び、主要メディアはこぞって絶賛した。その為、一躍時の人となる。この際に副次的に官僚の説明責任という言葉を広めたことでも知られ、その点は功績としてカレル・ヴァン・ウォルフレンらから評価されている。菅直人に是非、総理大臣をやらせたいと言う、声が高かった。
- 1996年8月、シュレッダーダストの大量不法投棄で問題になった香川県豊島へ、厚生大臣としては初めて現地視察に入り、問題解決の端緒となる。
- 1996年8月のO-157騒動の時には、「大阪府内の業者が出荷したカイワレ大根が原因となった可能性は否定できない」と発表。その直後からカイワレ大根を買う消費者はほとんどいなくなり、結果倒産・破産するカイワレ農家が続出、自殺者まで出る事態となった。(そのほとんどが自営業者や零細企業である)そのため風評を考慮した結果、記者会見を開き、その場でカイワレのサラダを食べて、安全性のアピールをした。「O-157以外の通常自然界に存在するはずの細菌も一切検出されなかったのだから、事件後消毒されたことは明白で証拠隠滅が図られた」などと主張した。
- 2004年2月19日、大阪高等裁判所が堺市のO-157感染とカイワレを食べたこととの因果関係が争われた裁判において、カイワレが原因とする判断は問題があり、厚生労働省に対してカイワレの生産業者に対して損害賠償を命じた。発表したことに関して判決では「公表することによって被控訴人が被る打撃や不利益に思いを至せば、その時点では、公表すべき緊急性、必要性があったものということはできない。」と断罪した。
- 参考:大阪高等裁判所 平成14年(ネ)第1531号 損害賠償請求控訴事件
- 上記の判決に対して、菅は、ホームページの今日の一言で、「大阪地裁でO-157の件でカイワレが原因という当時の厚生大臣(私)の公表の仕方に問題ありという判決がでた。東京の同じような裁判では発表の仕方は妥当(相当性あり)という判決であったが大阪は反対の結論。疫学調査の結果を十分な科学的根拠がないとしているが、集団食中毒などでは極めて有効な調査方法。裁判官の判断は疑問。」などと反論している。
- なお原因については、カイワレ業者のすぐ近くにと畜場があり、そこから出た血液が関係しているという話もあったがうやむやにされ、原因は特定できなかったと発表された。
- 著書『大臣』(岩波新書)は、前書きで自身が「現役の政治家が岩波新書から本を出すとは異例だが」と書く通り、前代未聞の出来事でベストセラーとなった。
[編集] 民主党結党
- 1996年9月28日、鳩山由紀夫と民主党を結成。鳩山と共同代表となった。結党当初は衆議院議員50人、参議院議員5人の計55人が参加した。1998年4月27日に新進党解党後に誕生した統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」と合流して、新民主党を結成し、代表となる。合流当初は衆議院議員98人、参議院議員38人の136人が参加した。
- 1998年7月12日の第18回参院選で27議席を獲得する。橋本龍太郎首相は敗北の責任から内閣総辞職に追込まれた。首班指名選挙では、自由党と共産党は参議院では第一回投票から菅に投票し参議院では首相に指名されたが、衆議院の優越により衆議院の議決で指名された小渕恵三が首相となった。自民党を揺さぶるかに見えたが、その後、金融国会では「政局にせず」との姿勢で、当初、協力的であった自由党の離反を招き、自自連立政権に道を開いてしまう。1999年(平成11年)の党代表選挙で鳩山由紀夫に敗北。党政策調査会長に就任する。
- 2000年(平成12年)には党幹事長に就任。2002年(平成14年)に党代表の鳩山由紀夫の辞任を受けて、党幹事長代理の岡田克也と党代表選挙を争い、党代表に再び就任した。その後、岡田には党幹事長就任を要請するなど党内融和を積極的に進めた。
[編集] 民由合併
- 2003年9月26日に小沢一郎が党首を務める自由党との合同を実現した。同年11月9日の第43回衆院選では「高速道路の原則無料化」、「小学校低学年の30人以下の学級実現」などをマニフェストに掲げ、公示前勢力を大幅に上回る177議席を獲得し、比例区では自民党を上回った。
- JR東海が研究しているリニアモーターカーに関心を持っており、2003年総選挙の少し前に同社の研究所を視察した。民主党政権ができたら中央リニア新幹線の実現に向けて前向きな政策をとることを示唆するものという観測がなされた。
[編集] 年金未納問題
- 2004年4月21日に行った会見で菅は「約束したことを何もやらない『やるやる詐欺』だ。総合点で言えば、30点くらいだ」と発言し、小泉首相の政策を批判した。因みに『やるやる詐欺』とは当時、流行していたオレオレ詐欺を捩って使った造語。
- 同年に江角マキコ出演のCM放送を機に、国民年金未納の国会議員が相次いで発覚した際、菅は「(与党の未納者に対して)ふざけてますよね。未納三兄弟っていうんですよ。」と選挙運動等で自民党議員に対する批判を展開した。
- 民主党次の内閣全員の国民年金納付書を公開するアピールを行うが、自身のみ厚生大臣時代の未払いが発覚し、同年5月10日に党代表を辞任。
- 後に夫人の問い合わせにより、社会保険庁側の過失(通知を発送していなかった)と判明したものの、このことはあまり大きく報道されなかった。本人は役所のミスを主張したが、社会保険庁を管轄していた厚生省の当時の責任者は厚生大臣である本人だったためである。
[編集] 民主党代表辞任後
- 2005年9月11日の第44回衆院選では、東京都の民主党候補では僅差ながらも唯一小選挙区での勝利を果たす。なお、この選挙では、長年の宿敵と言われた土屋正忠武蔵野市長(当時)が自民党公認(比例単独2位)でついに立候補し、事実上の一騎打ちとなった。郵政民営化を前面に出す自民党に対して大逆風のなか全開票区で勝利し、面目を保った(土屋正忠候補は比例復活当選)。
- 土屋とは宿敵として対抗関係にあったが、2005年総選挙の少し前に行われた東京都議会議員選挙武蔵野選挙区、土屋の市長辞職を受けて行われた武蔵野市長選挙ではいずれも菅の推す候補が土屋側に勝利し、長年の対立に決着がついたとの観測がなされた。
- 同年9月17日民主党敗北を受けて党代表を辞任した岡田克也の後任を決める党代表選挙に立候補するが、2票差で前原誠司に敗れた。その後、党国会対策委員長就任を要請されるがこれを固辞した。
- 党代表戦に敗れた後は団塊の世代を取り込むための「団塊党」なる運動とバイオマスの活用を盛んに提唱している。
- 2006年4月7日、「堀江メール問題」による前原執行部総退陣を受けて行われた代表選挙に再度立候補し、小沢一郎と激しく争うが、47票差で敗れた。その後、党代表代行に就任を要請され承諾し、現在党代表代行として国会論戦について主に担当している。若手議員とのパイプ役を務めているともいわれている。
- 自公さ連立政権時代加藤紘一と「KKライン」と呼ばれる友好関係を築いたこともあり、自民党の外交戦略などに不満を持つ加藤や山崎拓との連携を示唆している。党幹事長の鳩山由紀夫もこれに同調するが、党代表の小沢一郎は「『自公政権では駄目』と言うなら歓迎」「政権党にいる限りはない」とあくまで自民党からの訣別を求めているので実現には至ってない。
- 2007年の通常国会開幕前の民主党会合で「TVタックル出演のたびに自民党代議士や浜田幸一に言い負かされている」と出演代議士に苦言を呈した際、「自分なら『(党内反対派を抑えるため議員時代の)浜田さんから10万円分の商品券を渡されたが返した』ことを言い返す」と述べた。これを逆手に取った浜田はタックル収録中「商品券は返したが現金は返さなかった」「あの金は小沢から回ってきたものを菅に回したんだ」とスタジオの期待を裏切らない切り返しで爆笑を誘い、同席した原口一博は「人に文句を言う前に党幹部としてやるべきことをやったらどうか」と反論した。
- 2007年1月、柳澤伯夫厚生労働大臣の「産む機械」発言が政治問題化した際、代表代行としてこれを批判したところ、2月6日、自民党中川秀直幹事長が「東京は日本で一番生産性の低い大都市。何の生産性か、それは子どもの出生率において…」という民主党大会(2007年1月)における菅の演説を自身のホームページで取り上げ「出生率と生産性を結びつけるということは、出産と機械が結びつくことではないのか」と反撃されたのを皮切りに、翌日公明党議員からも名古屋市内での演説(2007年1月18日)や山陰中央新報のインタビュー(2006年8月5日)における同様の発言を非難され波紋を呼んだ。これら「産む生産性」発言の真意について「12月の衆院本会議で同様の趣旨の発言をしているので議事録を読んでください」「生産性のいい景気のいい地域では、出生率の点では低いところが多い」と弁明した後、自身のホームページで「広辞苑によれば、生産という言葉には出産という意味がある」ことをメールや電話で教わったと反論した(確かに広辞苑以外の辞書でも「出産」「生まれること」などの一般的意味が記述されている)。ただし当時はあくまでその意味の存在を知らず、経済用語にあたる「生産性」として用いた点で発言の動機に関する疑念を払拭するまでには至らないという指摘もある。
- 2007年4月の東京都知事選挙への出馬待望論が民主党内でたびたび沸き起こった。背景には独自候補の人選がなかなか決まらぬお家事情があり、党中央の要職にある菅本人が出馬の可能性を否定し続ける中、石原都知事に対抗できる目玉候補として一部の新聞社説にまで立候補を促され続けたが、これまでどおり「国政に携わり政権交代を実現する」ため「太陽が西から出ても、出ることはない」と固辞を貫いた。その一方で浅野史郎前宮城県知事など党内外の知名度の高い人物に出馬を打診したとされるがことごとく失敗した。この問題では、菅直人と親交関係にある五十嵐敬喜法政大学教授らが立ち上げた市民団体「浅野史郎さんのハートに火をつける会」(現都民のハートに火をつける会)などの説得に応える形で浅野が立候補を決意したことで、民主党は独自候補の擁立を見送って社民党などとともに支援に回ることとなった。独自候補の擁立に失敗したことへ不満を持つ一部都議がこれまで都政与党として活動した経緯から石原を支援する可能性もあり、都連の大御所として不協和を収束できなかった責任を問う向きが一部にある。
[編集] 人物評、政策
- 防衛に関しては、自衛隊に治安維持活動、国際協力を行う部隊の創設を政策として持っている。
- 1980年の解散総選挙で議員に当選するまで、選挙で3回落選している(そのうち1回は参議院選挙)。また弁理士試験も3回落ちている。
- 1978年度版の平凡社百科年鑑に名前が載るなど、議員になる前からそれなりの知名度を持っていた。
- 当時菅の選挙を手伝っていたジャーナリストの下村健一(元TBSアナウンサー)によると、「初当選から十年で自民党に対抗しうる勢力をつくり、その後十年で天下をとる」話を聞かされていたという(因みに下村以外に当時学生だった久和ひとみも菅の事務所に出入りしており、選挙の際はウグイス隊長を務めた。また、歌人の俵万智も久和ひとみの下でウグイス嬢を務めた)。
- 1999年に「週刊文春」で報じられた戸野本優子との不倫疑惑に関して菅自身は男女関係を否定。その際の「一夜は共にしたが男女関係はない」という表現が、世間の流行語となった。ここ数年民主党の女性支持が伸び悩む原因は、それまで世論調査でも総理にしたい候補の1,2位を争っていた菅がこの事件でイメージダウンを免れなかったことからくる、と残念がる支持者もいるほどである。戸野本はその後、菅と親交の深い五十嵐敬喜法政大学教授の研究室に入室した。
- 自民党議員に多い世襲を批判していた中で、菅源太郎が2003年の衆議院議員総選挙に岡山選挙区から民主党公認で立候補。一部からの異論に対しては地盤が異なっており、世襲とは言えないと反論。菅源太郎は2回連続して落選し、比例復活当選もしなかったため、民主党の公認基準では、次回の総選挙では公認されない。
- パフォーマンスは食べ物に関するものが多い。O-157でカイワレ大根が打撃を受けた時には、かいわれ大根、狂牛病が騒がれると牛丼、トリインフルエンザが騒がれると焼き鳥をそれぞれ食べた。(また自著『大臣』によるとかいわれ大根を食べるプレゼンテーションは知り合いの雑誌編集者からのアドバイスだったことを明らかにしている。)
- 国会質疑における彼はかなりの攻撃型であり、小泉純一郎からも国債30兆枠についての公約違反を厳しく追及することによって「この程度の公約を守れなかったことは大したことではない」との失言を得ている。
- 2003年10月に北朝鮮の日本人拉致問題・核問題への対応を批判。その際に、当時民主党公認候補だった西村眞悟の応援演説の中で「フセインやスターリンの銅像が倒れた歴史の中で、北朝鮮のあの大きな銅像も倒れる日が来ると確信している」と述べると、北朝鮮は「もともと菅直人は何の政治哲学や政治能力もない愚かな政治家だ」と北朝鮮得意の謀略としての人格攻撃を菅に対して行い、話題を呼んだ。このことについて菅は不快感を隠さなかった。拉致問題に関しての菅は、拉致被害者全員の原状回復・核問題の解決・国交正常化・経済支援の三本柱を別々に行うのではなく、パッケージとして行う政策を提唱。
[編集] 語録
- 「自衛隊派遣は憲法違反だ。だが私の発言は気にしないで欲しい」
- 「懐の寂しい会社員に受けている感じだ」 (牛丼を食べて)
- 「多少危なくても飛び込みたい人は飛び込めばいいと思う」「道頓堀に飛び込むな、などと官僚に規制される必要はない」(阪神優勝道頓堀ダイブのとき)
- 「小泉総理は『説明責任転嫁症候群』だ」
- 「ミサイルが何発か飛んできたら考える」(テポドンについて)
- 「不審船に対する海保の射撃は法的に問題あるかもしれない」
- 「公選法違反はケアレスミスのようなもの」
- 「小泉首相は発明をされたことがありますか。私はあります」(大学在学中に麻雀の符点計算機を発明)
- 「さすがに真紀子さんを乗りこなす自信がない。なかなか大変だ」
- 「靖国参拝は憲法違反だ。総辞職しろ」→小泉首相1月1日に靖国参拝→「8月15日に参拝しないのは公約違反だ。総辞職しろ」(これは、憲法の政教分離に抵触する上公約まで守らない姿勢を皮肉ったものである)
- 「政権をとったら、すぐに出て行ってもらう」 (沖縄の海兵隊について)
- 「(小泉)首相は自己催眠の天才だ」(総理をオウムの松本被告になぞらえ)
- 「アイアム ネクスト プライムミニスター」
- 「ブッシュ政権を非難したが、日米同盟は軽視してない。有事には守ってもらう」
- 「一夜を共にしたが、男女の関係は無い、こんなことに説明責任は無い」 (菅直人自身の不倫疑惑に関して)
- 「私が菅直人でなければ、菅直人を追及するだろう」 (自身の不倫疑惑に関して)
- 「深く考えずに署名した」(北朝鮮工作員シン・ガンスの無罪釈放を求める嘆願書)
- 「状況によっては、監視衛星を打ち上げることも考えたほうがいい」(打上げ日程も決まった時期に)
- 「民主党が政権をとれば株価3倍」
- 「若い方がいいなら0歳児を連れてくればいい」(若手への牽制)
- 「総理、今度おごりますよ。カイワレと鶏肉を」(党首討論前の雑談で)
- 言い間違い
- 「ムンク(正しくは「つんく」)にコントロールされているモー娘」
- 「√を知っていますか。私は暗記してますよ。3.1419…(3.14で始まるのは円周率)」(ヤフーチャットでの書き込み)
- 「エズミマキコさんの参考人招致を求める。嫌なら審議拒否だ」
- 「乾杯だとカンパイ(完敗)になりますから、カンショウ(完勝)としましょう、カンパ~イ!」(03年総選挙の決起集会にて)
- 「安倍さんはおぼっちゃんで、格差社会の痛みなんてわからない。安倍総理のまわりにはセフレ(正しくは「セレブ」)が多い」(2006年10月の衆院統一地方選の応援演説で)
[編集] その他
- 趣味はスキューバダイビング、囲碁
- 東京都武蔵野市に居住している。
- 「イラ菅」というニックネームを持つ。短気激情型との評である。殴られたり蹴られた秘書も、過去には多数存在する。2006年の党代表選挙の際に、若手議員がかつて菅に怒鳴られた経験から支持を渋るエピソードが報じられたこともある。
- 愛妻家・恐妻家としても有名で、戸野本との騒動後には「『バカたれ』と叱られた」と釈明した。
- 猫好きであり、自宅には拾って来て育てている猫がいる。
- 東京工業大学在学中に麻雀点数計算機を発明し、特許を取得し、いくつかの企業に製品化を持ち掛けたが、実用化には至っていない。現在もなおその試作機が存在する。
[編集] 一族
[編集] 家族・親族
[編集] 系譜
- 菅氏 中世の岡山県に勝田郡を拠点に活動し菅原道真の末裔を自称(仮冒)する美作菅家党とよばれる武士集団があった。その一族の有元佐延の孫・佐常は下神目村に住み菅納左近と称して菅氏の祖となる。菅直人の父祖は代々下神目出身で、その末裔であるとされる。なお江戸時代後期の菅家は庄屋を務めた家柄であったといわれ、現在も下神目には菅という名字が多くその家紋は菅原氏の紋の梅鉢である。美作菅家党は有元家を宗家として近世作州の名門とされている。その一方、系譜は未詳としかいえない。父祖の出自に関して鎌倉時代中期に台頭した有力農民が土豪となり、武士化したものであり、菅原道真とは無関係とおもわれるが、古い家柄ではある。
佐常……勘八━利兵衛━善三郎勝重━實太郎重秀━元太郎家重━實忠重━寿雄━直人━源太郎
[編集] 略歴
[編集] 学歴
[編集] 政歴
- 昭和51年(1976年)
- 12月5日 第34回衆議院議員総選挙 落選。
- 昭和55年(1980年)
- 6月22日 第36回衆議院議員総選挙 初当選。
- 昭和58年(1983年)
- 12月18日 第37回衆議院議員総選挙 2期目当選。
- 昭和61年(1986年)
- 7月6日 第38回衆議院議員総選挙 3期目当選。
- 平成2年(1990年)
- 1月24日 第39回衆議院議員総選挙 4期目当選。
- 平成5年(1993年)
- 7月18日 第40回衆議院議員総選挙 5期目当選。
- 平成8年(1996年)
- 平成9年(1997年)
- 平成10年(1998年)
- 4月27日 新民主党結党、党代表に就任。
- 平成11年(1999年)
- 平成12年(2000年)
- 6月25日 第42回衆議院議員総選挙 7期目当選。
- 9月9日 党幹事長に就任。
- 平成14年(2002年)
- 平成15年(2003年)
- 11月9日 第43回衆議院議員総選挙 8期目当選。
- 平成17年(2005年)
- 9月11日 第44回衆議院議員総選挙 9期目当選。
- 9月17日 党代表選挙で落選。
- 平成18年(2006年)
- 4月7日 党代表選挙で落選し、党代表代行に就任。
[編集] 文献
[編集] 著書
- 『新・都市土地論』飛鳥新社、1988年12月、ISBN 4870310481
- 『国会論争「土地政策」』新評論、1992年11月、ISBN 4794801599
- 『変革の時代』開発社、1995年6月、ISBN 4759100938
- 『日本大転換 二十一世紀へ希望を手渡すために』光文社、1996年10月、ISBN 4334971261
- 『民益論 われら官僚主導を排す』(鳩山由起夫との共著)、PHP研究所、1997年7月、ISBN 4569556426
- 『大臣』(『岩波新書』)、岩波書店、1998年5月、ISBN 4004305586
- 『改革政権準備完了 私に賭けてください』光文社、2002年9月、ISBN 4334973582
- 『総理大臣の器 「菅」対「小泉」マニフェスト対決』幻冬舎、2003年10月、ISBN 4344004051
- 『政権交代のシナリオ 「新しい日本」をつくるために』(小沢一郎との共著)、PHP研究所、2003年11月、ISBN 4569631908
[編集] 関連文献
- 『がんばれ菅直人』板垣英憲著、同文書院、1996年、ISBN 4810373304
- 『日本変革 菅直人+小沢一郎は政治をどう変えるのか』板垣英憲著、ベストセラーズ、2003年、ISBN 4584159769
- 『菅直人の一歩 : 薬害エイズ問題でなぜ官僚に勝てたのか?』伊藤雄一郎、ハローケイエンターテインメント、1996年、ISBN 4584182469
- 『菅直人総理待望論 菅直人政権で日本はこう変わる』木下厚著、あっぷる出版社、ISBN 4871771482
- 『菅直人は天下を取れるか』山口朝雄著、エール出版社、1998年、ISBN 4753917576
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 菅直人の公式ウェブサイト(公式サイト)
- 菅直人氏動画メッセージ「団塊世代の第2ステージ」(超人大陸)
- 民主党 web-site
- 菅家系図
- 姫井家系図(夫人の系譜)
- 美作菅党系譜
- 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 菅原氏【1】
- O157とカイワレに関する損害賠償裁判控訴審判決
- 対談「HANDSHAKING」
- 早稲田大学人物研究会・菅直人講演録
|
|
|
|
|
|
|
|