アレックス・オチョア
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アレックス・オチョア(Alex Ochoa , 1972年3月29日 - )は、アメリカ合衆国出身のプロ野球選手(外野手)である。1995年にメジャーリーグの試合に初出場し、2003年から2006年まで中日ドラゴンズでプレーしていた。背番号は22番(2003年)⇒4番(2004年 - 2006年)。日本での登録名はアレックス。代理人はスコット・ボラス。現在は、ボストン・レッドソックスとの間でマイナー契約を結び、メジャー昇格を目指している。
「レーザービーム」(『中日スポーツ』の読者公募では「サンダービーム」)と称される強肩で福留孝介・英智らと共に、中日外野陣の名を世間に知らしめた助っ人外国人。 横浜ベイスターズ戦・阪神タイガース戦に強く、よくホームランを放った。
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[編集] 来歴
[編集] 入団
2002年オフ、当初中日に入団予定だったケビン・ミラーがボストン・レッドソックス入団のため、来日を取りやめた事により、急遽白羽の矢を立てられ来日する。MLB時代は専ら守備の人として様々な球団を転々としており、4億円の年俸を稼いだこともある、守備面での「超メジャー級大物外国人」。登録名を決める際、当時監督だった山田久志が「オチョアにするとおっちょこちょいみたい」との理由で「アレックス」にしたらしい。
[編集] 2003年
読売ジャイアンツとの開幕3連戦から「4番・中堅手」で先発出場。打撃では開幕戦第2打席で来日第1号ホームランを東京ドームのバックスクリーン上段へ放つ。守備では再三外野からこの全力送球する場面が見られ、その凄まじい送球にファンも巨人の選手も度肝を抜かれた。打率は.294と3割に届かなかったものの、ナゴヤドーム5階席へのホームランを2本も放つなど21HRを放ち、パワーも見せた。しかし春先は好調だったが、4月の終わりになると急に打てなくなり、またチャンスでは非常に弱くなり、この後一時期得点圏打率が2割を切ってしまうほどだった。これにより、シーズン途中から4番を立浪和義に替えられ、ほんの一時期だが1番を打ったり、時には6番を務めた。ファンの間では実力に賛否両論が見られたが、打力はまずまずで外国人選手としては守備・走塁技術にも秀でていたため、得点圏打率の改善に期待をかけられ残留を果たす。
[編集] 2004年
この年から背番号を4に替え、前半戦から福留孝介の離脱までは5番打者を務める。4月7日の巨人戦には抑えの岩瀬仁紀がロベルト・ペタジーニに逆転3ランを浴び3対1と逆転された後の9回裏、1点を返し、2死1,2塁から日本で初となる逆転サヨナラ3ランを放つ(中日ファンにとっては、1999年9月26日の山崎武司の逆転サヨナラ3ランを彷彿とさせた)。また、サイクルヒットも達成。本塁打、三塁打、二塁打、単打の順で達成したのは日本では初だった。左翼手の英智、右翼手の福留と共に、オリックス・ブルーウェーブ優勝当時の左翼手田口壮、中堅手本西厚博、右翼手イチローに勝るとも劣らない鉄壁の外野布陣を築き上げた。アテネオリンピック、その後の怪我により抜けた福留の代わりの4番として活躍した。打率.294、21本塁打は前年とほぼ同じ(打率は打数・安打の関係でわずかに違う)だが、89打点は前年の65打点を大きく上回り、優勝に貢献。日本シリーズには4番センターで出場したものの、チームは3勝4敗で敗れた。
[編集] 2005年
この年は、タイロン・ウッズの加入、福留が5番に入ったことなどから、この年は主に6番、7番と下位打線を打つ。横浜との開幕戦で、無死満塁からセントラル・リーグでは初となる開幕戦サヨナラ満塁本塁打を三浦大輔から放った。このホームランを含め、シーズンで三浦から3本のホームランを打ったことから三浦キラーの一面も見せた。しかし守備ではたびたび打球を見失うという場面も見受けられ、9月にはメジャー・日本通じて初となる二軍落ちを経験する。この年は打率が.269と成績が振るわなかった(打点は78、本塁打は18本)。
[編集] 2006年
藤井淳志などの台頭や福留の広い守備範囲を生かすために左翼手へコンバートされるも、チーム事情から再び中堅手に戻る。当初は6番打者であったが、藤井がスタメン落ちし、井端弘和の2番復帰、福留が3番に入ったことにより5番および6番(たまに相手投手との兼ね合いで森野と打順を入れ替える)を打つ。あまり知られていないが、2003年入団以来、中日ドラゴンズのシーズン1号本塁打を4年連続で放った。打撃で波があったものの、得点圏打率が初めて3割を越え、勝負強さを身に着けた。阪神戦での活躍もあり、中日の優勝に貢献。10月は肺炎によって、10日の試合までは出場していなかったが、胴上げには参加している。日本シリーズでは第5戦スタメン落ちし、9回裏二死代打で登場したがレフトフライに倒れ最後の打者となった。また結局この打席が日本最後の打席となった。11月6日、中日はアレックスとは2007年度の契約を結ばないことを決定。この年本塁打・打点は過去最小だったが、数字以上の存在感を示した。 また、この年は日本でのプロ野球生活で唯一、オールスターゲームに監督推薦で出場し、第2戦では本塁打を放ち優秀選手に選ばれた。
[編集] 米球界復帰へ
2007年1月13日、MLBのボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ。メジャー昇格を目指す。キャンプ中にバッティング練習で打撃投手として登板した松坂大輔と対戦したときには日本のメディアのインタビューも受けている。
[編集] 人物
- バイリンガルであり、母語はスペイン語だが英語も話せる。このため、英語担当の通訳が病気で休んだ時にはスペイン語の通訳を通じてヒーローインタビューに応じたこともある。平素は寡黙で真面目な人物として知られる。中日スポーツのコラムによると、シーズン中は「こうして怪我もなくプレーできることを神に感謝している」との理由で禁酒しているらしい。が、逆にハンバーガーには目がなくいつも大量に買い込んでいるという。
- 毎年開幕から5月くらいまでは好調だが、そのあと決まって調子を落としては上げての繰り返しをするため春男などとも言われていた。
- 打席に入る時にバットを脇に挟み、球審に「待った」のポーズを手で送りながら足元を耕し、掌に唾を付け、バットの根っこあたりをグリグリと擦るという決まった仕草がある。そのためバットの根っこあたりは塗装が剥げて黒ずんでいる。
- チームでは、アメリカ時代から仲が良かったウッズとキャンプ・練習・移動時などはいつも一緒だった。一時期在籍していたオマール・リナレスやマーク・バルデスとも仲が良く、ベンチで談笑する姿がよく映っていた。
- もつ鍋が大好物で、他の日本食も嫌いではなく、ウッズや阪神のアンディ・シーツとは外食仲間で、試合後にはたびたび食事に出かけていたらしい。
- 2006年オフにチームメイトで同じ外野手である英智が語ったところによると、アレックスは優勝争い最中のゲーム開始直前、彼に突然握手を求め、「ヒデ、まだチームの誰にも言ってないが、オレはドラゴンズを去るんだ。」と言ってきたという。対して英智が「ほかのチームでもやるチャンスがあるのではないか?」と尋ねると、「いや、オレはドラゴンズが好きだから、日本の他球団ではプレーしたくない。ヒデ、レギュラーとして頑張れよ。」と答えたそうである。アレックスの人柄の良さを物語るエピソードといえよう。
- 阪神戦に強かったことから、一部のファンに「アレックスのレッドソックス入団はニューヨーク・ヤンキースの井川慶対策」とも言われてる。
[編集] エピソード
- 2006年、名古屋の「アーレックス(AREX)」という建築会社のラジオCMに中日の同僚山本昌投手とともに出演した。山本昌がアレックスの名前とアーレックスを混同するというコミカルなもので、東海ラジオでの野球中継の時間を中心に放送され、アレックスの「ボクはアレックス(ALEX)。これはアーレックスだよ。」というフレーズは中日ファンの間でもちょっとした話題となった。また、2007年は同CMに山本と福留が登場。福留がアレックスのモノマネを披露している。
- 2006年の日本シリーズで中日は北海道日本ハムファイターズと対戦し、外野守備陣の対決がクローズアップされたが、実は日本ハムのセンターを守る新庄剛志とは2002年のMLBのワールドシリーズにも顔を合わせたことがある。当時はアレックスがアナハイム・エンゼルス、新庄がサンフランシスコ・ジャイアンツ所属だった。
[編集] 略歴
- 身長・体重 1m83cm、90kg
- 投打 右/右
- 出身地 アメリカフロリダ州マイアミ
- 球歴・入団経緯 ハイアレア・マイアミレイクス高-オリオールズ-メッツ-ツインズ-ブリュワーズ-レッズ-ロッキーズ-ブリュワーズ-エンゼルス-カージナルス-中日ドラゴンズ-レッドソックス(マイナー契約)
- 日本プロ野球入り年度 2003年
[編集] 通算成績(2006年シーズン終了時)
[編集] 日本プロ野球
- 実働4年、550試合、打率.283(2074打数586安打)、75本塁打、309打点、12盗塁
[編集] メジャーリーグ
- 807試合 打率.279(2143打数597安打)56本塁打 261打点 56盗塁
[編集] タイトル
- ゴールデングラブ賞 2004年