ジョン・レノン
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ジョン・レノン MBE(本名:出生時ジョン・ウィンストン・レノン/John Winston Lennon、MBE勲章受勲時ジョン・ウィンストン・レノンMBE/John Winston Lennon,MBEオノ・ヨーコと結婚後ジョン・ウィンストン・オノ・レノン/John Winston Ono Lennon, 1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、ミュージシャン(歌手、作詞・作曲家、ギタリスト)。イギリス・リヴァプール生まれ。ロックバンド、ザ・ビートルズの中心メンバーであった。オノ・ヨーコとの結婚を機に、ミドルネームのWinston(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルにちなんで名付けられた)からOnoへの変更を申し立てたが、変更は認められずパスポート、グリーンカードなどはJohn Winston Ono Lennonと表記されている。
ビートルズ時代には、ポール・マッカートニーと作曲タッグを組み数多くの名曲を残した。ビートルズ解散後は「イマジン」などの名曲を発表する一方、妻で芸術家のオノ・ヨーコとともに平和運動家としても活動した。ギネスワールドレコードでは最も成功したソングライターとしてチャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲(共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲(共作が25曲)と紹介されている。
1980年12月8日、ニューヨーク市の自宅アパート「ダコタハウス」前において、狂信的なファンとされるマーク・チャップマンに殺害された。
目次 |
[編集] 生い立ち
1940年、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバプールで産声を上げる。出生当時、父アルフレッドは商船隊員として航海中で不在。母ジュリアも他の男性と同棲していたため、ジュリアの姉であるミミ夫婦のもとで育てられることとなる。
1946年、アルフレッドが帰国し、アレフレッドに引き取られ数週間一緒に暮らしだすも、ジュリアがジョンを連れ戻そうと口論となり「父さんと母さんとどちらを選ぶ?」と結論をゆだねられる。一度は父親を選ぶが、去っていく母を見て結局母親を選ぶ。しかし母親と暮らす事はできず、ふたたびミミ夫婦のもとにあずけられ、父親もまた行方がわからなくなってしまう。
1952年9月にグラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学したジョンは、ケンカばかりの不良と評判になっていた。1955年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受ける。この頃ジュリアが近くに住んでいる事を知ったジョンは、ジュリアの家を行き来するようになる。ジュリアはジョンにバンジョーの演奏法を手ほどきし音楽への関心を向けさせることとなった。
クオリー・バンク時代の1957年3月、ビートルズの前身になるスキッフルバンド「クオリーメン」を結成、7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行ったクオリーメンのコンサートで、共通の友人だったアイバン・ボーンの紹介によりポール・マッカートニーと出会う。数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。
最初の妻となるシンシア・パウエルと出会ったのはクオリー・バンク在学中のことであった。しかしエルヴィス・プレスリーやチャック・ベリー、バディ・ホリーと言ったアメリカのロックンロールに夢中になり、勉学はどんどんおろそかになっていく。通信簿に載せられた成績はのきなみ最低レベルだった。ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アートに入学する。
1958年2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンに加入。ジョン、ポール、ジョージ以外のバンドメンバーは流動的で3人だけの時もあった。
1958年7月15日、母ジュリアは飲酒運転の車にはねられ死去。このジュリアの死は、ジョンの後の歌に大きな影響を与え、また14歳の時に母親を乳癌で失っていたポール・マッカートニーとの友情を固める要因にもなった。ジョンの辛辣な性格は、このような孤独な幼年期、少年期を過ごしたからだといわれている。
1960年1月にリヴァプール・アート・カレッジでの友人のスチュアート・サトクリフがメンバーに加わり、バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」などいくつかの名前を経て「ザ・シルバー・ビートルズ」と名乗るようになり、同年8月「ザ・シルバー・ビートルズ」から「ザ・ビートルズ」となり、ピート・ベストが加入した。しかしサトクリフは画家になるため脱退、1962年6月にパーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月にピート・ベストが解雇されリンゴ・スターが加入する。
[編集] ビートルズとして
8月23日、ジョンはシンシア・パウエルが妊娠したのをきっかけに彼女と結婚した。「ザ・ビートルズ」は1962年10月5日にデビューを果たす。ジョンとシンシアの結婚はシンシアが一方的にジョンを愛するものであったといわれ、二人は1968年に離婚している。
シンシアとの間の息子、ジュリアン・レノンは1963年4月8日に誕生した。ジョンは息子ジュリアンに対して冷淡であり、ジュリアンはむしろポールと親しかった。彼は後にこう語っている。「父さんが僕についてどんなふうに思っていたか、本当のところを知りたいと思ったことは無い。非常に嫌なことを言われたんだ。土曜日の夜にウィスキーのボトルを開けたせいでお前が生まれてきたんだ、とかね。これのいったいどこに愛なんてあるんだ。ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ。父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、僕と父さんの写真よりもはるかに多い。」(ちなみに、ジョンとシンシアが離婚した際、ポールがジュリアンを励ますために作った曲が、「ヘイ・ジュード」である。)
[編集] キリスト発言
1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴとのインタビューで彼は次の様な発言を行った。
- 「キリスト教は消えて無くなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やキリストよりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト。そのどちらが先に無くなるかは分からない。キリストは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ。」
その発言はイギリスにおいてはほとんど無視され、大きな反響を呼ばなかったものの、その年の7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、バイブル・ベルト(キリスト教根本主義が信奉される南部や中西部)の保守的宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、彼らのレコードやグッズが燃やされた。スペイン及びバチカンはレノンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にレノンはシカゴで以下のように釈明会見を行い、バチカンも彼の謝罪を受け入れた。
- 「僕がもし、“テレビがキリストより人気がある”と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕は神に反対しないし、反キリストでなければ反教会でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。僕はビートルズがキリストより良くて偉大だとは話してないし、キリストを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ。」
[編集] ジョンとヨーコ
1966年にビートルズがライブ・ツアーを休止しその活動に一つの区切りをつけた後、ジョンは映画『How I Won The War』(当時の日本では上映されず、1993年にビデオで初めて発表された。邦題:『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。また、その年にロンドンのインディカ・ギャラリーで彼は後に二人目の妻となるオノ・ヨーコに出会った。二人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間中より、ヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは1968年2~4月のインドでの修行中も、シンシアを同行させていながら、ヨーコと密に文通で連絡を取り合っていた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請を行い、11月8日に離婚が成立した。ジョンにとってヨーコの存在は公的にも私的にも不可分となり、ビートルズのセッションにも影響を与えた。二人の密接な関係はグループの他メンバーとの摩擦を生じることも多く、後にヨーコはビートルズ解散の原因として不当に責められることともなった。同年、ジョンはヨーコとの共作として『未完成作品第1番 トゥー・ヴァージンズ』を発表した。この作品は、二人の裸像がジャケットに用いられたため物議をかもした。
ビートルズとしての最後の二年間に彼は、多くの時間をヨーコと共にベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に費やした。1969年3月に彼らはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。彼らは多くのメディアから奇妙なカップルとして取り上げられたもの、反戦活動での重要人物として見なされるようになった。結婚後間もなくジョンはミドルネームのウィンストンを、妻との「単一性」を示すためにオノと変更を申し立てたが変更は認められなかった。
二人は実験的・前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』、『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』、『ウェディング・アルバム』の3枚のアルバムを発表。さらにヨーコはプラスチック・オノ・バンドの一員として『平和の祈りをこめて』に参加し、B面で、パフォーマンスを披露した。
[編集] ソロ・キャリア
ポピュラー音楽としてのジョンの最初のソロアルバムは、ビートルズ解散に先立つ1969年にトロントで行われたプラスチック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)としてのステージを収録した『平和の祈りをこめて~ライヴ・ピース・イン・トロント1969~』(米10位)であった。
さらに彼は3枚のシングル「平和を我等に」(英2位・西ドイツ4位・米11位)、「コールド・ターキー」(英13位)、「インスタント・カーマ」(英4位・米3位・カナダ1位・西ドイツ7位)をプラスチック・オノ・バンド名義で発表した。プラスチック・オノ・バンドはヨーコとのユニットでありメンバーは流動的であったが、初期においてはベースにはビートルズ結成当時からの知り合いであるクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイト、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当する事が多かった。ソロ後期においてはさらにメンバーは流動的になる。
[編集] 1970年代
ビートルズ解散後の1970年には『ジョンの魂』(米6位・英8位・日5位)を発表する。同作は、彼が以前に受けたアーサー・ヤノフ博士のプライマル療法の影響を大きく受け、彼の心情をもっとも率直に表した作品となった。シングル「マザー」では、レノンはピアノ単音によるハーモニクスを意識しておりエコーを効かせた録音を心がけている。またリンゴ・スターがドラマーとして参加し、シンプルで優れた演奏が印象的である。その他ビリー・プレストンも参加している。シングルでは「パワー・トゥ・ザ・ピープル」(米8位・英7位・西ドイツ7位・スイス5位)を発表した。
1971年にこれに続いて発表された作品が『イマジン』(アルバムは米1位・英1位・西ドイツ10位・日1位、シングルは米3位・英1位・西ドイツ7位・カナダ3位・オーストラリア1位・ニュージーランド1位・日本14位・オーストリア4位・スイス2位)で、同作は彼の最も成功したアルバムとなった。
「イマジン」は歌詞の無宗教的かつ社会主義的な内容からか、英国ではシングルの発表は1975年のベスト曲集『シェイブド・フィッシュ』の発表時まで延期され、米国でもアルバム発表後1ヶ月も経過してからシングルが発表されている。遅れた事情はレノンもあまり周知していなかったことが後のインタビュー記事などで伺われる。シングル「イマジン」は英国では1975年に5位を記録したあと、1981年に1位、1999年に3位を記録している。3回もトップ10についた曲は他には同じくレノンの「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」」(1972年4位、1981年2位、1999年3位)しかない。ジョンはアルバム『イマジン』を、『ジョンの魂』と同じメッセージをオブラートに包んで表現した作品だと形容している。『イマジン』ではビートルズのジョージ・ハリスン、アラン・ホワイト、サックスにキング・カーチスを起用している。ジョージはレノンから連絡を受け非常に喜んで参加したことが伝えられる。
『ジョンの魂』に比べ比較的ポップな曲が多かった『イマジン』を発表したその反動からか、1972年発表の次作『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(英11位・米48位)は、より政治的な内容の作品となった。このアルバムの中では、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランドの宗派同士による内争におけるイギリスの役割、およびアメリカ合衆国のグリーンカードにまつわる彼自身の問題などについて歌われている。ジョンは1960年代後半以来、左翼政治に興味を持っており、トロツキストの社会主義労働者党に寄付を与えていた。このアルバムのレコーディング期間は、彼とこのグループの関係が最も強かった時期であるといわれている。1972年8月30日、ジョンはバックバンドのエレファント・メモリーと共に2回の慈善コンサートをニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンで行う。それは彼にとって最後の大規模なコンサート出演となり、ビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」、スティービー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演した。
ヨーコとの別居中の1973年には『マインド・ゲームス』(米9位・英6位・日6位)を発表した。この作品は彼のキャリアで初めてのセルフ・プロデュースによるものとなった。この中ではゴードン・エドワーズ、マイケル・ブレッカーなど後年グラミー賞を受賞するジャズ・ミュージシャンを採用した。ポップスでは最初期といえるレゲエのリズムをシングル「マインド・ゲームス」に導入し、ベースの下降進行・分散和音的なアプローチのアレンジ、またジョージ・ハリスン風のスライドギターを多用する多重録音を駆使した優れたオーケストレーションを造り出している。ここからもジョンの優れた先見性、音楽性、アレンジャーとしての卓抜した才能が伺われる。
1974年にはハリー・ニルソンの「プシー・キャッツ」をプロデュースした。この中でのストリングスを用いたアレンジを組み合わせて「夢の夢」が作曲された。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』(米1位・英6位・日14位)を発表し、この中から「真夜中を突っ走れ」(米1位・カナダ4位)、「夢の夢」(米9位)がシングルカットされた。「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演したほか、ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作している。一曲目の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」以来の通作形式による複雑な楽曲構成に挑む一方、アルバム全体ではストリングス、ホーンも多用した厚い編曲を行い、「果てしなき愛」などブラック・コンテンポラリーの曲調が多いことは、「マインド・ゲームス」と同様にアダルト・コンテンポラリー・ミュージックの先駆となった。
また、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演し、これによりエルトンは3枚目の全米1位を獲得、彼のキャリアの確立にレノンは大きく貢献した。この後も二人の交際は晩年まで続き、エルトンはレノンの息子ショーンの名付け親になっている。この時期にはさらにミック・ジャガーとも共演したが、それは未発表に終わっている(楽曲は「Don't ever change」とされる)。
1975年にはカバー・アルバム『ロックン・ロール』(米6位・英6位・日15位)を発表した。この中ではレオン・ラッセルらと共演。ここからは「スタンド・バイ・ミー」(米20位)のヒットが生まれた。
この時期、デビッド・ボウイとの親交も深まり、彼の『ヤング・アメリカン』でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」を共演、さらにボウイと「フェイム」を共作し、コーラスに参加した。この作品でボウイは初の全米1位(英7位)を獲得し、ボウイのキャリアの確立にも大きく貢献した。ボウイの言葉によるとスタジオでの作曲作業でレノンの発した「フェイム!」というかけ声が着想を得たという。ボウイはインタビューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。(「フェイム」は後に宮沢りえのカバーで「ゲイム」という曲名で日本のオリコン・チャートで1位を獲得している)。ボウイとの交際も続き、1980年にジョンがボウイの出演した『エレファント・マン』を観劇したことも伝えられている。このように1973年から75年にかけて、ジョンは様々なアーティストと交流し、大ヒットを連発しながら音楽性を発展させた。1975年にはベスト曲集『シェイブド・フィッシュ』(英5位・オーストリア5位・米12位・日22位)を表した。しかしながら、1976年にリンゴのソロ・アルバム『ロート・グラビア』に「クッキン」を提供した後、息子ショーン・レノンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。
[編集] 1980年代
1980年になって音楽活動を再開し、ヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・西ドイツ2位・日1位・オーストリア1位)を発表した。この中ではトニー・レビンを起用している。このアルバムからは「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位・カナダ1位・オーストラリア1位・ニュージーランド1位・西ドイツ4位・スイス1位・オーストリア1位)、「ウーマン」(米2位・英1位・カナダ1位・西ドイツ4位・オーストラリア3位・スイス2位・オーストリア12位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米10位)などの大ヒット曲が生まれ、アルバムも全世界で500万枚以上を売り上げた。また同アルバムは1981年のグラミー賞年間最優秀アルバム賞を獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。「ウーマン」はすでにスタンダード曲に名を連ねている。ゴルバチョフ大統領夫人からお気に入りの曲だということを直接聞いたとヨーコは語っている。
[編集] 殺害
1980年12月8日の午前中、自宅ダコタ・アパートでレノンはニューアルバム用のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット写真(篠山紀信撮影)では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットのヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、まるでビートルズ全盛期の頃のように若返った姿が話題を呼んだが、この日のレノンはさらに短く髪をカットし、グリースでリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルグ時代のレノンを彷彿とさせるもので、レノンなりに初心に返って新たな人生を始めようとしているようでもあった。
フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだ後、午後5時にはオノの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「The Hit Factory」へ出掛けた。この時、ダコタ・アパートの前には顔見知りの雑誌カメラマンと、ハワイ・ホノルル出身の精神疾患を患ったファン、マーク・チャップマンが待ち構えていた。彼は以前ボブ・ディランに対するストーキング行為に及んだこともあり、レノンにとって最後の生演奏となった1975年のスタジオ・ライヴでは観客席にその姿を見せている。
チャップマンはこの時、レノンのニューアルバム『ダブル・ファンタジー』を差し出し、レノンにサインを貰った。この様子をカメラマンが撮影し、レノンの生前最後の写真は皮肉にも、数時間後に自らの生命を奪うことになる殺人犯とのツーショットになってしまった。
チャップマンは数日前にニューヨーク入りしており、宿泊したホテルの宿泊名簿の署名欄には、自らを「John Lennon」とサインしている。殺害当日の大半をダコタ・アパートの近くで留まり、夕方にレノンにサインをもらったあと、両親を見送りにベビーシッターに抱かれて出ていたショーンとも握手をしている。
一方、レノン夫妻は「The Hit Factory」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューの中で、レノンは新や近況についてはおろか、学生時代に結成したビートルズの原型となるスキッフルバンド「クオリーメン」のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについても、懐かしそうに語っている。そして皮肉なことに、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと、まるで数時間後に自らに降りかかる悲劇を予言するかのような発言を残している。なお、このンタビューの一部は2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に収録されている。
その後、チャップマンはレノンの帰宅を待つためにその場にとどまった。そして午後九時頃、セントラル・パークで行われた花火大会でドアマン(ホセ氏。ホセはチャップマンのことを知っている)や通りにいた人々がいなくなったのを見計らい、アパートの前庭に忍び込んだ。午後10時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。レノンとオノが車から降りたとき、チャップマンは前庭に隠れ、レノンが彼の前を通り過ぎたとき暗闇から「ミスター・レノン?」と呼び止めると、銃を手に取り前に進み、両手で構え5発を発射した。4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、レノンは「撃たれた、撃たれた (I'm Shot! I'm Shot!) 」と叫びアパートの入り口に(チャップマンが撃った銃弾は、特殊な弾で、命中時に備え体内で弾が破裂する仕組みになっている。(それが破裂したかは分からないが)それでもジョンは)数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。
警官の到着時にレノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う危険な状態であった。そのため、二人の警官が彼をパトロールカーの後部に乗せ近くのルーズベルト病院に搬送した。一人の警官が瀕死のレノンの意識を保たせるため、あなたは誰かと尋ねると彼は「僕はビートルズのジョン・レノンだ」と答えたという。病院到着後医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックで午後11時過ぎに死亡した。伝えられるところによれば、レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。
事件後チャップマンは現場から逃亡せずに、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、自らの単独犯行であることを警官に伝えた。ニューヨークWABCのリポーターはチャップマンを取り調べた警官の談話を聞いた。警官は「すごくこともなげにしていた。」と語った。もう一人の警官はチャップマンを「田舎のイカれた奴」と語った。
病院でレノンの死を伝えられたオノ・ヨーコは泣き叫んだという。後に病院で記者会見が行われ、ステファン・リン博士はジョン・レノンが死亡したことを確認した。博士は「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。
ジョンの射殺に関しては、当初、ケネディ大統領の暗殺と同様のケースという主張や、「FBI関与説」なども持ち上がったが、現在は、冒頭の記述のように、「マーク・チャップマンの単独殺害」として結論づけられている(しかしオノや息子ショーン、先妻との息子ジュリアンはそれを信用していないといわれている)。また、当時「チャップマンはレノンの熱烈なファン」という報道と共に様々な憶測も飛び交ったが、同犯人はある種の精神疾患的な症状もあり、「熱烈なファン」という説明自体も疑問視されている。
この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。マッカートニーの第一声は「くだらない」~It's a drag であり、この発言に対しては批判もあった。後に彼は音楽誌のインタビューでこの発言の真意について、以下のように述べている。
- 「うまい政治家ってたしかに頭の中に警報ボックスが埋め込んであって、何か言う前にそれを通してみて、発言が新聞の見出しになったさまが思い浮かべられるんだろうな。どうもパッとしないなと思えばうまく編集して喋れたりして。僕もたまにはそういうことができることもあるけどね、ああいう瞬間には僕の警報ボックスは窓の外に飛んでっちまうんだ。家にいてTVのニュースをただ見てるなんて、僕は嫌だった。ジョージ・マーティンが電話してきてセッションをキャンセルしたいかって言うんで、僕は『まさか。今日は一日中、働いてなきゃ』って言った。僕らはとにかく仕事を続けたわけだけど、みんな全く悪意なく冗談言うんだよね。『来週はビデオだ、よーし一発いくぞ』とか。一発いく、なんて聞いた途端に『ああーっ』だよ。ロを開くごとに、『一発』だとか『やられた』だとか、そういったとんでもない言葉を言ってしまうみたいでさ。遂に『だめだ、家に帰ろう。今日はもう仕事はなしだ』って思った。で、スタジオを出た途端に誰かが車の窓からマイクを突っ込んできて、それを僕は不覚にもつかんで…だって僕はそんなに内気な人間でもないし、ファンにむかって『どうもありがとう、僕は大丈夫だよ』って言うつもりだったんだ。でもともあれ、口から出た言葉は『ああ、くだらない』だった」
事件を境に、マッカートニーとジョージ・ハリスンはレコーディング作業を中断し、マッカートニーに至ってはこれをきっかけに自らのバンド、ウイングスを解散してしまうことになる。カナダに滞在中だったリンゴ・スターは後に妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。その後、マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスンは「過ぎ去りし日々」(ポール、妻のリンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバックコーラスで、リンゴがドラムで参加)をレノンの追悼曲として発表した。
また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズに至っては「ジョンを殺した犯人に対しては、憎しみがうすれる事は無く増すばかりだ」「ジョンを殺した奴を、オレが必ず撃ち殺してやる」とまで発言している。
日本ではザ・ビートルズ・クラブにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催による追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われ、『心の壁、愛の橋』のフォトセッションでの巨大写真が掲げられ、ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行なわれている。
[編集] レノンの音楽性の発展
[編集] ビートルズ初期
1960年代、ジョンはロックンロールに大きな影響をもたらし、このジャンルをそれまでの限界を越えて発展させた。ポールと共に、20世紀において屈指の影響力のあったシンガー・ソングライターであり、ミュージシャンであると広く認知されている。ジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることが多い。ジョンのこうした作風とポールの全体として楽天的でポジティヴな作風とは、ビートルズの楽曲においてしばしば好対照をなしている。
ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの緊密な共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるサビのメロディーがジョンによるものであることが知られている。ジョン本人が触れているように、「ア・ハード・デイズ・ナイト」「デイ・トリッパー」「ヘルプ!」「イン・マイ・ライフ」などで聴かれるややブルージーでマイナー調のメロディーは、共作者ポールの楽天的に聴こえるメロディーに陰をつけ曲に哀愁感をもたらすのに成功している。
中期においては両者の共作のあり方は変化し、ポール主体の楽曲「ミッシェル」「恋を抱きしめよう」「シーズ・リーヴィング・ホーム」「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」などにおいては、ミドル・エイトと言われるブリッジの部分の作詞作曲をレノンが担当しており、その中でも「ミッシェル」の繰り返されるリフレインは代表的なものである。
後期においては単独作が増え、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニバース」「ビコーズ」のような透明感のある美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」のようなブルース・ロックの名曲を発表した。
[編集] ソロ時代
こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな和声の進行と歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」の路線を継ぐ「マザー」「コールド・ターキー」「ウェル・ウェル・ウェル」「真実が欲しい」「アイム・ルージング・ユー」のようなヘビーなロックを発表している。そして、何より「インスタント・カーマ」や「ノーバディー・トールド・ミー」のような早口のラップ調のボーカルが特徴の軽快なロックが「愛こそはすべて」の路線を引き継ぐレノンの真骨頂を示している。
また「ラヴ」「ウーマン」「グロー・オールド・ウィズ・ミー」のような美しいメロディーからなる曲がある一方でビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ不安定な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967~68年)にその原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。
また、レゲエやカリプソのリズムはビートルズ時代の「オブラディ・オブラダ」での有名なレノンのオルガン・プレイが先鞭をつけたが、さらに「マインド・ゲームズ」における本格的なレゲエの導入へと至った。さらに、積極的に導入されたのはブラック・コンテンポラリー調の曲調で『心の壁、愛の橋』で発表された各曲に伺える。
こうした中でレノンの作曲の到達点の一つといえるのは、信じられない事だが、わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」であろう。この中ではビートルズの「ミッシェル」「グッド・ナイト」に見られたような半小節ごとに変化する和声進行に従って、ギターの美しいアルペジオのフレーズが奏でられ、最終部で半音階上昇などカデンツにさまざまなテクニックが駆使された楽曲となっている。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたといわれている。何よりも惜しまれるのは最後の名曲といわれる「グロー・オールド・ウィズ・ミー」がシンフォニー調に作編曲される予定であったものが未完に終わった事である。
[編集] 編曲・プロデュース
編曲・プロデュースについては前期『ジョンの魂』『イマジン』ではプロデューサーにフィル・スペクターを起用した。スペクターはストリングスを用いた厚い音による編曲が特徴で、「音の壁(Wall Of Sound)」の代名詞で知られる。しかしながら、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指すシンプルな音作りに徹していた。
後期の『マインド・ゲームス』『心の壁、愛の橋』『ロックンロール』『ダブル・ファンタジー』では、セルフ・プロデュースにより共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていくというやり方をとった。こうしたやり方が、かえって共演者の敬意を得ていたという多くの発言(デビッド・スピノザ、トニー・レビンなど)があることはレノンの人柄を忍ばせる。
またセルフ・プロデュースによる『マインド・ゲームス』『心の壁、愛の橋』は近年発表されたリミックスバージョンを聴くと、厚いアレンジが緻密に計算され音が重ねられていたことが分かる。編曲は参加ミュージシャンのある程度の自主性に委ねられながら、演奏後にレノン自身の入念なアレンジが重ねられと考えられる。『マインド・ゲームス』に参加したスピノザによれば、レノンはほぼ初期の段階でスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身の編曲作業で自身のギター演奏などによる音を緻密に重ねていったという。『心の壁、愛の橋』でも参加ミュージシャンのセッションをもとにした同様のアレンジメントがなされ、ジェシ・エド・デイビスがギタリストとして採用されジョージ・ハリスンを彷彿とさせるラインも聴かれる。一部では『イマジン』のフィル・スペクターのストリングスのアレンジが応用されているかにも聴こえる。レノンはこうした編曲手法を独自に吸収していったのであろう。
『ダブル・ファンタジー』ではジャック・ダグラスを共同プロデューサーに採用し、透明感のある音作りがなされているが、70年代の音作りを基本的に踏襲している。ビートルズ時代にもレノンはフランジャーの開発、使用を手がけたことが伝えられるが、録音機器などにはマッカートニーに比べ興味を示さなかったとされる一方、レノンはこのように解散後、多くの優れたスタジオミュージシャンを発掘、登用しソロ時代には一転して高い技術力をもって音楽性を発展させて完成度の高いプロダクションを発表していった。
一方、スタジオワークとしてソロ前期、後期を通じて共通しているのはレノンのボーカルの録音である。「ジョンとヨーコのバラード」以来受け継がれたエコーを効かせた「インスタント・カーマ」「マザー」「愛の不毛」「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現を意識していたことが伺える。このように、レノンは編曲のアイデアに富む一方、緻密なアレンジを得意としており、いずれも完成度の高いセルフ・プロダクションを成功させた事は、作曲家としてだけでなく編曲家、プロデューサー的な才能にも非常に優れていたことがわかる。
ビートルズ時代の作曲法、編曲法はソロ時代にも新たな展開を示したといえるが、次節にあるようにレノンは何よりもポール・マッカートニーの楽曲をよく研究しておりマッカートニーもレノンがどのように自分の作品を評価しているかを考慮しているという発言があり、ビートルズ解散後も「レノン=マッカートニー」はなお健在していたといってもよいかもしれない。
[編集] ポール・マッカートニーとの関係
ビートルズ後期及び解散後におけるマッカートニーとの確執が、二人の関係を語る上で頻繁に取り沙汰されるが、これは当人たちよりむしろマスコミやファンがそれを面白がり、煽っていた節もある。確かにビートルズ解散直後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあう(「ラム」でのマッカートニーのレノンへの皮肉は「イマジン」における「ラム」のパロディー、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ」におけるマッカートニー作品が軽音楽のようだという歌詞、「ウィングス・ワイルド・ライフ」における「ディア・フレンド」がレノンを指すなど)深い確執が存在したが、70年代中頃になると、互いを賞賛しあう発言やビートルズ再結成の可能性を肯定するような発言がみられるようになり、マッカートニーが自らのバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行った際には時折レノンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。1974年にはスティービー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。
またレノンは常に「マッカートニーは『兄弟』であり、彼との確執は『兄弟ゲンカ』みたいなもので他人が干渉してくる筋合いはない」というスタンスを保ち続けていた。マッカートニーを卑下する発言をするものに対しては「ポールの悪口を言ってもいいのは俺だけだ、他の奴が言うのは許さない」と発言している。レノンとは飲み友達でオノとの別居中は共同生活を送っていたハリー・ニルソンや秘書のメイ・パンにでさえ、マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったという。またレノンは「俺が認めたパートナーはマッカートニーとヨーコだけだ」とも発言している。
ビートルズ解散後レノンとマッカートニーが揃って公の場に姿を見せることは一度もなかったが、息子ショーン誕生後5年間に渡って音楽活動を停止していた間も時折マッカートニーはレノンを訪ねたり、1980年のマッカートニーのヒット曲「カミング・アップ」が、レノンに音楽活動を再開させるきっかけになったりなど、常にいい意味で刺激しあう仲であったといえよう。またマッカートニーは90年代に入ってレノンの「平和を我らに」、ビートルズ時代はレノンがボーカルを担当した「ヘルプ!」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「カム・トゥゲザー」などをカバーすることもあり、全世界のファンの胸をうった。
[編集] エピソード
- 1960年代の白人が公の席で黒人をほめるという事をしなかった時代、いち早く黒人アーティストへのリスペクトを表明したのがビートルズ。BBキングは「私の事を初めてほめてくれた有名人はジョンレノンだよ」と語っている。
- 1966年後半から着用し、その後のレノンのトレードマークとなった「丸眼鏡」は、実はレノンが購入したものではなくイギリスの国民健康保険制度により無料で支給されたものであった。1967年に入りレノンがこの丸眼鏡をかけて公の場に姿を現し出すと、イギリスの若者の間でこの眼鏡が爆発的に流行。視力に支障がない若者までがこの眼鏡をこぞって手に入れようとしたため在庫がなくなり、政府は眼鏡の形を変更した。
- レノンがヨーコと知り合ってから親密になるまでに数ヶ月、交際までには1年ほどの期間があったが、その親密になるまでの数ヶ月間にヨーコはポール・マッカートニーと何度か個人的に会っている(恋愛感情とは無関係。ポールの2001年のインタビューより)。
- 現在でも若者たちに人気の、車のウインドウに貼り付ける「スモークフィルム」は、レノンが移動中のプライバシーを守るために1965年に自ら考案・発注し、自身のロールスロイスに貼り付けたのが最初である。このアイディアはその後有名人や著名人に次々に取り入れられ、現在はプライバシー保護のみならず、アクセサリーの一部として一般にも広く普及するに至った。レノンはこのスモークフィルムを自身のMiniにも貼っており、その映像や写真も残されている。また、日本・イギリス双方の道路交通法において、このスモークフィルムをフロントガラスに貼り付けることは違法になる場合があるが、これを警察に指導されたのもレノンが世界で最初である[要出典]。
- 1969年にMBE(大英帝国五等勲爵士)を返上した際、理由に挙げたのは、ベトナム戦争に反対するためと、シングル「コールド・ターキー」の売り上げが不振に終わったためということであった。
- 死後数年経ってから明らかにされたことであるが、1981年初頭にはレノン初のソロ・ツアーとなる日本公演が内密に予定されていた。そのコンサートのオープニング曲には、ニューシングル「スターティング・オーヴァーではなく、ビートルズ時代の大ヒット曲「ヘルプ!」が予定されていた。
- レノンの墓は、掘り返されることを恐れて所在を公表されておらず、またイギリス在住のレノンの親戚筋すら誰ひとりとしてその所在を探し当てられないままでいるが、実は日本にあるという説がある。
- レノンは息子のショーン誕生後の70年代中期から後期にかけて毎年のように一家で夏の軽井沢を訪れ、有名な「万平ホテル」や小野家が所有する別荘を常宿に数ヶ月も滞在していた。ボディーガードもつけず、短パンにトレーニングシャツといったラフな格好でサイクリングや散歩を楽しみ、気軽に地元のパン屋を訪れて買い物をするなど、世紀の大スターらしからぬ庶民的で質素な振る舞いは、地元住民に大変な好意をもって迎え入れられた。また、上野動物園や豊島園などへ子供連れで訪れたり、日本橋のデパートで買い物をする場面などを非常に多くの日本人に目撃されている。神楽坂にも訪れ、たつみやでうな重を食べた。なお、日本人はまずヨーコに気付き、よってその横にいる「外国人の男性」がレノンだと分かることが多く、レノン単独では殆ど分からなかったと言われている。そんなレノンを偲んで、さいたま市・さいたまスーパーアリーナにある「ジョン・レノン・ミュージアム」には、2006年3月末まで万平ホテルが喫茶店を出店していた。
- 生前、内田裕也・樹木希林夫妻や永六輔、映画監督の大島渚、写真家の篠山紀信とも親交があり、来日時にはよく一緒に食事をしていた(篠山紀信はレノンのラスト・アルバム「ダブル・ファンタジー」のジャケット写真を撮影。そして大島渚は、レノン主演による映画撮影の構想を持っていた)。
- 息子ショーンとレノンは、同じ誕生日(10月9日)である。
- 1971年の作品「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」をはじめ、辛辣にポール・マッカートニーを非難することもしばしばであったが、ビートルズのレコードや他のメンバーのソロ・アルバムはほとんど持っていなかったレノンが、ポールとウイングスのレコードだけはほとんどを揃え、よく聴いていたと言われている。
- 親戚には、妻オノ・ヨーコの従兄弟にあたる外交評論家の加瀬英明、その父で初代国連大使の加瀬俊一がいる。
- 2002年にBBC が行った、「歴史上最も偉大な英国人100人」を選ぶ世論調査において、8位に選ばれた。
- ショーンとは対照的に、シンシアとの子供ジュリアンにはほとんど愛情を示さなかった。ジュリアンはポールとの思い出が多いと言っているそうだ。
- (ビートルズを含む)自身の海賊盤収集を趣味にしており、定期的にニューヨークのレコード店に通っていたという。とりわけビートルズのストックホルムでのスタジオ・ライヴが一番のお気に入りであったと発言している(そのライヴ音源は『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』にも収録されている)。
[編集] ディスコグラフィ
[編集] オリジナル・アルバム
- 未完成作品第1番 トゥー・ヴァージンズ - Unfinished Music No. 1: Two Virgins (1968)
- 未完成作品第2番 ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ - Unfinished Music No. 2: Life With The Lions (1969)
- ウェディング・アルバム - Wedding Album (1969)
- ジョンの魂 - John Lennon/Plastic Ono Band (1970)
- イマジン - Imagine (1971)
- サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ - Sometime In New York City (with Yoko Ono) (1972)
- マインド・ゲームス - Mind Games (1973)
- 心の壁、愛の橋 - Walls And Bridges (1974)
- ロックン・ロール - Rock 'n' Roll (1975)
- ダブル・ファンタジー - Double Fantasy (with Yoko Ono) (1980)
- ミルク・アンド・ハニー - Milk And Honey (with Yoko Ono) (1984)
[編集] ベスト盤
- ジョン・レノンの軌跡 シェイヴド・フィッシュ - Shaved Fish (1975) 鰹節も参照。
- ジョン・レノン・コレクション - John Lennon Collection (1982)
- イマジン (オリジナル・サウンドトラック) - Imagine: John Lennon (1988)
- レノン・レジェンド~ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ジョン・レノン Lennon Legend (1997)
- 決定盤ジョン・レノン~ワーキング・クラス・ヒーロー - Working Class Hero (2005)
[編集] ライブ盤および未発表音源集
- 平和の祈りをこめて~ライヴ・ピース・イン・トロント - Live Peace In Toronto (1969)
- ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ - Live In New York City (1986)
- メンローヴ・アヴェニュー - Menlove Avenue (1986)
- ジョン・レノン・アンソロジー - Anthology (1998)
- ウォンサポナタイム - Wonsaponatime (1998)
[編集] 映像作品
- イマジン - 1988年 : VHS & LD
- ギミ・サム・トゥルース - 1998年 : VHS & DVD
- ライヴ・ピース・イン・トロント1969 -1999年 : DVD
- レノン・レジェンド - 2003年 : DVD
[編集] 主な使用楽器
[編集] アコースティック・ギター
- ギブソン・J-160E(Gibson J-160E)(1本目)
- 1962年9月にジョージと一緒に購入したエレクトリック・アコースティック・ギター。ボディカラーはサンバースト。ボディシェイプはJ-45と同じだが、ボディ内部の構造からして異なる。ボディトップはハウリング防止のため、合板を使用している。そのため生音で鳴らした場合、通常のアコースティック・ギターより鳴りが押さえられている。P-90ピックアップがフィンガーボードの付け根の所に付けられており、そこから音を拾ってアンプなどへ出力する。そのためアンプに繋いだ場合、エレクトリックギターの様なサウンドになり生音とはだいぶ異なる。1963年末に消失。盗難説と破損説があり、ジョンは盗まれたと思っているが、後に語ったジョージの証言によると運搬中のトラックの荷台からケースごと落下しバラバラになったとのこと。ちなみに最近の調査で、現在ジョージの遺族が保管するジョージのJ-160Eは、元々購入時にはジョンのものであったことがシリアルナンバーから判明。まったく同じ仕様であるため、途中から互いのギターを取り違えて使っていたようである。
- ギブソン・J-160E(Gibson J-160E)(2本目)
- 2本目のJ-160Eは1本目とは若干仕様が異なる。ジョンが生涯愛したギターである。1966年にはピック・アップがサウンド・ホール後方に移設される。1967年には波形のサイケデリック・ペイントが施されるが、1968年にはエピフォン・カジノらと共に塗装を剥がされ、ピック・アップの位置も復元される。ピック・ガードも形状の異なる新たなものが取り付けられた。1969年のベッドインのときには、ボディにジョンとヨーコの似顔絵イラストが描かれていた。「ジョン・レノン・ミュージアム」にそのときの状態のレプリカが展示されている。実物はアメリカ・オハイオ州クリーブランドにあるロックの殿堂に展示されている。
- ギブソン・J-200
- アルバム『ザ・ビートルズ』のレコーディング・セッションからメインに使われた。ジョージも使用しており、2本ある写真が確認されていないため、ジョージが所有していたものを借りたという説がある。
- フラマス・12弦ギター
- 映画『HELP! 四人はアイドル』の「悲しみはぶっとばせ」演奏シーンにも登場したギター。
- マーティン・D-28(Martin D-28)
[編集] エレクトリック・ギター
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(1本目)
- ジョンが初めて入手したリッケンバッカー。1958年製。ショートスケール。元々、購入当時はナチュラルカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「メイプル・グロー」)で、コフマン・バイブローターが付けられていた(後にビグスビーB5・トレモロユニットに交換)。1962年後半にはブラックの塗装を施し、1964年までメインギターとして使用。その後2本目のリッケンバッカー・325に移行してから、一度も表舞台へ出ることがなかったため、エド・サリバン・ショーの収録現場で盗難にあったとの説が長い間語られていた。しかし近年になり、ジョンが保管し続けていたことが判明。70年代初頭にブラックから、元のナチュラル塗装へ戻すリペアが施されていた。
- また、近年リッケンバッカー社からジョンが購入当時の仕様を再現した「リッケンバッカー325C58」(Cシリーズ)が発売された。当時の仕様を再現するため、日本でビートルズ使用楽器を主に扱っているギターショップ「with」でリペアを担当する大金氏に依頼し、ジョン・レノン・ミュージアムに何度か通い、その調査のメモを参考に再現された。
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(2本目)
- ジョンがリッケンバッカー社にオーダーして作らせた2本目のリッケンバッカー。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」)。1本目の325よりもボディの厚みは薄くなっており、台形のブリッジにトレモロアームが付いているなど、細かい点で仕様が異なる。ネックは3ピース・メープル・ネック。1964年のクリスマスショーの最中にジョンが落としてしまいネックが破損する。1965年いっぱいまでメインギターとして使用された。1967年の「サージェント・ペパーズ~」レコーディングセッション中スタジオ内に置かれている写真が残されているものの、実際に使用されたかどうかは不明。
- 現在は1本目のリッケンバッカー・325とともにさいたまスーパーアリーナ内にある「ジョンレノン・ミュージアム」に展示されている。裏から見るとネック裏のキズがはっきり見て取れる。またビートルズの1965年のイギリス公演のセットリスト(曲名は略記してある)が書かれた小さな紙が、向かって左のカッタウェイ側面にテープで貼られたままになっている。
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(3本目)
- 1965年、ポール・マッカートニーに贈られた4001ベースと同時に、リッケンバッカー社よりイギリス代理店のローズ・モーリス社を通じてプレゼントされたもの。当時のヨーロッパ市場での市販品で、欧州でのモデル名は1996となっている。仕様は基本的に2本目に準じるが、カラーが4001ベースやジョージ・ハリスンの360-12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)で、ボディの左側にfホールが開けられている。1965年のイギリス公演で2本目と併用された。使われなくなった1966年以降、リンゴ・スターに譲渡された。
- リッケンバッカー・325-12(Rickenbacker 325-12)
- ジョンがリッケンバッカー社にオーダーして作らせた325の12弦タイプ。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」)。
- 本来、325など末尾に5がつくモデルはトレモロ・アーム付きであるが、このギターが製作された時期はまだそれが徹底されておらず、このギターもアームが付いていないにもかかわらず325-12となっているが、'64年半ば頃より末尾に5が付くモデルはアーム付きであることが徹底されたため320-12と改番された。
- 現在オノ・ヨーコが所有。
- フェンダー・ストラトキャスター
- ボディカラーはソニックブルー。主に「ラバー・ソウル」レコーディング・セッションで、ヴォックスAC-30に繋いで使用。映画『イマジン』など、アルバム『イマジン』制作風景を納めたフィルムにおいて、ジョージ・ハリスンが使用している、ネックを50年代製のメイプル・フィンガーボードのものに交換されたモデルのボディとアッセンブリが、それと同一品とする説がある。1980年のフォト・セッションで、当時の新品であった赤いザ・ストラトを弾いているものがある。
- エピフォン・カジノ(Epiphone Casino)
- 1965年に、以前から同器を使用していたポール・マッカートニーの勧めでジョージ・ハリスンとともに購入。ジョージのカジノとは色合いや仕様(トレモロアームの有無など)で若干の違いがある。同年の「ラバー・ソウル」セッションから使い始め、1966年からはジョージと共にコンサートでのメインギターとしても使用。日本公演でも使用した。ES-335と同じシェイプのためセミアコと思われがちだがセンターブロックの無いフルアコである。
- 元々のボディカラーは黄色味がかったサンバーストであったが、1967年の「サージェント・ペパーズ~」レコーディングセッション中に、ボディ裏面を白くスプレーしている。ハレーションをおこし光の具合で白く見えている、という説を唱える者もいるが、ジョン自ら裏面を見せている写真をはじめ、当時の複数の写真で白くなっているのがはっきり確認できる。おそらくそれはサイケデリック・ペイントを施すための下塗りで、裏面の段階で思いとどまったものと思われる。同年の「愛こそはすべて」の衛星中継にて、ジョージがこのギターを借りて使用している。翌1968年の「ヘイ・ブルドッグ」レコーディング直後にボディのサンバースト塗装を剥がして木の地肌を露出させたナチュラル仕上げにする。この頃ビートルズのメンバーは、ギターの塗装をはがすことによる音質の変化に期待していたようで、ジョージ・ハリスンのカジノとポール・マッカートニーのリッケンバッカー4001Sも塗装をはがしナチュラル仕上げを施している。同時に、リアピックアップのヴォリューム・ノブを、標準のゴールドからブラックに差し替えた。その後1971年の「イマジン」レコーディング・セッションまで使用した。その後、コレクションとして大切に保管していた。
- 現在はさいたまスーパーアリーナ内にある「ジョン・レノン・ミュージアム」に、ブラックノブと共に展示されている。
- ギブソン・レス・ポール・ジュニア
- 1971年、ニューヨークに移住してから入手。当時ジョンはボブ・マーリーをはじめとしたレゲエに心酔しており、マーリーが同モデルを使用していたため、それに倣って入手したという。ギブソンJ-160Eやエピフォン・カジノと同じくP-90ピック・アップを搭載しており、ジョンのギター・サウンドにおける趣向が窺える。フロントにギブソンES-150用のオールドタイプのピック・アップ(通称チャーリー・クリスチャンPU)を追加、PUセレクターの増設、ブリッジとテイルピースの交換を施し、より実用性を高めている。カラーは当初サンバーストだったが、チェリー・レッドにリフィニッシュされた。アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』レコーディングや、1972年のTV番組『マイク・ダグラス・ショー』出演時に使用されたが、何と言っても1972年8月30日にNYのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたチャリティ・コンサート『ワン・トゥ・ワン』での使用が最も印象的。
- 現在はさいたまスーパーアリーナ内にある「ジョン・レノン・ミュージアム」に展示されている。
[編集] アンプ
- ヴォックス・AC-30(VOX AC-30)
- ビートルズデビュー前から初期まで(中期ではフェンダーなどのアンプと併用)のレコーディングにおいて最もよく使用されたアンプ。真空管を使用しているため独特な粘りのあるサウンドで、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。これこそ初期ビートルズサウンドの大きな要素である。ライブでも使用される事はあったが出力が低いため、ライブには向かなかった。
- ヴォックス・AC-50(VOX AC-50)
- ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE, VOX AC-100, VOX AC-200)
- ライブにおいて観客から殆ど音が聞こえない状況を打開するため、出力の低いAC-30などのアンプに代わって、ヴォックス社よりビートルズのライブのために開発・提供された大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのあるサウンド。ボリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つサウンドより箱鳴りのサウンドの方が大きく聞こえる。1966年の日本公演の1日目と2回目公演でAC-100を使用。現在は生産停止。
- フェンダー・ツイン・リバーヴ(Fender Twin Reverb)
- 主にビートルズ中期以降に使用。中期ではヴォックス社との契約上の理由から、ライブや映像では出てこないが、レコーディングではフェンダー社製アンプも使用されていた。低域もでるのでベース用として代用できるほど性能が高い。パンクバンドもよく使っている。
[編集] その他
- ホーナー・ブルース・ハープ(M.HOHNER BLUES HARP)(10穴ハーモニカ)
- ホーナー・マリンバンドと言われる事があるがレノンが所有していたのはブルース・ハープ。
- (レノン50回目の誕生記念に愛用品の展示会が行われた時、なぜかマリンバンドと紹介されていたが、そこにあったのは3本の「M.HOHNER BLUES HARP」と刻印されたハープで「MARINE BAND」と刻印されたハープではなかった。同カタログ本にもブルース・ハープの写真にマリンバンドと間違いで紹介されている)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Official John Lennon website, courtesy of Yoko Ono and EMI/Capitol Records
- Official "Definitive Lennon" Website
- BBC Lennon Site
- ジョン・レノン・ミュージアム
- John Lennon fan site
- The Liverpool Lennons website
- Bruderhof Peacemakers Guide profile on John Lennon
- John Lennon Dreamsite Celebrates Lennon's ideals of peace, love and freedom. Offers pictures from the Imagine Your Are exhibit at Galleria Nazionale d’Arte Moderna in Rome by Fiorella Dorotea Gentile
- John Lennon lyrics
- Ref. to deed poll name change.
- "Man of the Decade" interview transcript
- "Power to the People: The Lost John Lennon Interview" by Tariq Ali and Robin Blackburn
- "Two of Us" The VH1 film about the Lennon-McCartney reunion
- Radio Dial Scan of the night Lennon died
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メンバー | ジョン・レノン - ポール・マッカートニー - ジョージ・ハリスン - リンゴ・スター |
前メンバー | ピート・ベスト - スチュアート・サトクリフ |
プロデューサー | ジョージ・マーティン - フィル・スペクター - ジェフ・リン |
関連人物 | ブライアン・エプスタイン - クラウス・フォアマン - ビリー・プレストン - オノ・ヨーコ - リンダ・マッカートニー - オリヴィア・トリニアード・アリアス - パティ・ボイド - モーリン・スターキー - バーバラ・バック |
スタジオ & レーベル | アビー・ロード・スタジオ - EMI - キャピトル・レコード - アップル・レコード |
関連項目 | ザ・ビートルズ日本公演 - ザ・ビートルズ・クラブ - ビートルズの作品 - ビートルズの曲名一覧 - ビートルマニア - ビートルズの解散問題 - リバプールサウンド - ルーフトップ・コンサート - アップル・コア - デッカ |
カテゴリ: 修正依頼 | 出典を必要とする記事 | ジョン・レノン | イギリスのミュージシャン | アメリカ合衆国のミュージシャン | イギリスのギタリスト | ロックの殿堂 | 1940年生 | 1980年没 | 大英帝国勲章