リンゴ・スター
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リチャード・スターキー MBE, 芸名:リンゴ・スター(Ringo Starr)(Richard Starkey,MBE、1940年7月7日 - )は、イングランド・マージーサイド州・リヴァプール出身のミュージシャン(元ビートルズのドラマー)、歌手・俳優。本名のリチャード・スターキーは父親と同じリチャードという名前を付けられた為に父親と区別する為に、リチャード・スターキー・ジュニア(- Junior)やリチャード・スターキー2世(- Ⅱ)とも記されることもあるが、出生証明書など書類上にJr.やⅡの表記はなく、正式名につけられるものではない。主な代表曲に「思い出のフォトグラフ」、「明日への願い」などがある。息子のザック・スターキーもオアシスやザ・フーのサポートメンバーとして活躍しているドラマーである。妻は映画『007 私を愛したスパイ』でボンドガール役を演じたこと有名な女優のバーバラ・バック。 余談だがリンゴ・スターモデルのドラムスティックなどには「Ringo ☆」と書かれている。もちろん☆=スターStarrのように星のStarとステージネームのStarrをかけたものである。 (このページではビートルズのメンバー「リンゴ・スター」を紹介しています。リンゴ・スターの父親「リチャード・スターキー」については書かれていません)
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[編集] 経歴
[編集] 誕生からビートルズ解散に至るまで
リンゴ・スターことリチャード・スターキーは、1940年7月7日、リヴァプールに生まれた。3歳の時に両親は離婚し母子家庭という環境で育ち、父との思い出と呼ばれるものは何もないとリンゴは言う。13歳の時、母エルシーがハリー・グレイブスと再婚。他のメンバー同様に不良少年だったといわれているが、病弱であったために長い期間に渡って入院生活を送ることもあったという。入退院を繰り返し、ほとんど学校にも行く事が出来なかった。ビートルズの歴史上、"A Hard Day's Night"や"Eight Days A Week"、"Tomorrow Never Knows"など、リンゴの発言をタイトルにしたものは多々あるが、どれも文法的には間違い。それもすべて、まともに通学生活を送れなかったからだと思われる。彼が初めて在籍したバンドも、入院していた病院内の、患者達などからなるバンドだったらしい。元々はビートルズのドラマーではなく、ロリー・ストーム & ザ・ハリケーンズというバンドのドラマーを務めていて、ビートルズがレコードデビューする直前の1962年8月、当時ビートルズのドラマーだったピート・ベストと交代する形でグループに加入した。
家庭環境も相俟って、若い時分から職を転々としていたそうだが、プロのドラマーになってからは安定した収入を得られるようになったそうである。リンゴはビートルズ加入前にビートルズの面々とハンブルグ巡業時に顔見知りになったそうだが、ジョージ・ハリスンによると「出逢ったころのリンゴは僕らよりも収入が多くて、僕らよりも早く車を買って乗り回していた」そうである。
芸名の“リンゴ・スター”とは、ハリケーンズ時代にそれぞれが芸名を考えた時につけられたもので、指輪が好きで、全部の指に、たくさんはめたりしていたことから、“Rings(リングス)”と呼ばれていたことが元で付けられている。
リンゴ曰く「Ringo Starkeyでいくつもりだったけれど、しっくりこなかったのでStarkeyを半分にしてrをもうひとつ付けた」
他のメンバー(ジョン、ポール、ジョージは5フィート11インチ)より身長が低い(5フィート8インチ)ため、4人が並んだ写真では一番小さく写っている。
ビートルズが1970年以前に公式発表した楽曲(一般に213曲とされる)のうち、コンポーザーとしてのスター(=リチャード・スターキー)の氏名がクレジットされいるものは5曲(「ドント・パス・ミー・バイ」「オクトパス・ガーデン」「フライング」「ディグ・イット」「消えた恋」)あり、そのうち、彼が単独で作ったものは2曲(ドント・・・、オクトパス・・・)である。また、彼がリード・ボーカルを担当している曲は十数曲存在する。また、「僕は皆と友達」「僕の曲はアルバムに最低でも1曲入っていればOK」「人気投票では、全然3人に敵わないけど、2番目に好きなメンバーを選ぶ投票だったら、1番になれるよ」などといった発言から窺えるようにビートルズのメンバーの中で最も穏やか、かつ人格者であったことでも知られ、彼の存在なしではグループの解散がもっと早まっていただろうと言われている。
ただし、リンゴは一度非公式にビートルズを脱退している。当事者サイドの見解によると、1968年のアルバム「ザ・ビートルズ」(ホワイト・アルバム)をレコーディング中に、ポール・マッカートニーがリンゴのドラミングにいちいち注文をつけ、挙句の果てに彼のドラム・プレイを非難したため、さすがのリンゴもこの状況に嫌気がさし、ビートルズ脱退を決意しスタジオを後にしたというもの。メンバーが慰留してビートルズに復帰したが、この一件が、ビートルズのメンバー間の不和を、一段と推し進める一因となった、という意見がある。
[編集] ビートルズ解散後の活動
[編集] 1970年代前半
ポール・マッカートニーがグループ脱退を表明する直前の1970年3月に、スタンダード・ナンバーを集めた初の単独作品『センチメンタル・ジャーニー』を発売。これを機に、スターはソロ・ミュージシャンとしての活動を始動する。同年12月には2枚目のアルバム『カントリー・アルバム』もリリースしている。シングルでは、自作の「明日への願い」や「バック・オフ・ブーガルー」など、ビッグヒットを連発した。ジョージ・ハリスンとの共作曲「思い出のフォトグラフ」や「ユア・シックスティーン」が全米チャートで№1を記録するなど、スターは1970年代前半から後半にかけて元ビートルズのメンバーとしては最もコンスタントにヒット・シングルを連発した。
シングルだけではなく、アルバムでも彼は成功を収めた。1973年発表の『リンゴ』は全米1位にランクイン。ビートルズ解散以降初めて、4人のメンバーが1枚のレコードの中で名を連ねた(各メンバーが楽曲提供と演奏で参加)作品という話題性も手伝ってのことではあっただろうが、何れにしろ、ここに至って、彼はソロ・キャリアの頂点に達する。ジョン・レノンやエルトン・ジョン、ニルソンなど、豪華な作家陣が楽曲を提供し、レコーディングにも参加した次作の『グッドナイト・ウィーン』も前作同様に大ヒット。ハリスンが企画して行われた1971年の『バングラデシュ難民救済コンサート』も含め、1970年代前半のスターはあらゆる活動において大成功を収めた。
[編集] 1970年代後半~1980年代
しかし、1976年に古巣EMI/アップルを離れ、アトランティック・レコードに移籍した頃から、好調だったソロ活動に翳りが見え始める。当時スターは、自らのレーベル、リング・オー・レコードを設立。作品のプロデューサーにアリフ・マーディン、作曲家にヴィンセント・ポンシア・ジュニアなどを迎え、極めてファンキーなサウンド作りに徹していた。しかし、そういった路線を、より具体的に打ち出した1977年のアルバム『ウイングズ~リンゴⅣ』は、ビルボードのアルバムチャートで100位圏外という結果に終わってしまう。この作品の売上不振を原因に、彼はアトランティックから契約を打ち切られている。プライベートでも腸の病気を患って、一時危篤状態に陥ったり、ロサンゼルスにある自宅が火事で全焼したり、と、1970年代後半はスターにとって多難な時期となった。そんな中、彼は自らが主演を務める映画『おかしなおかしな石器人』の中で共演した女優のバーバラ・バックと恋に落ち、1981年に再婚(前の妻のモーリーン・スターキーとは1976年に離婚している)。だが、その前年の1980年暮れ、ニューヨークで、レノンが精神疾患者に殺害されるという衝撃的な事件も起こった。この事件が起こった直後、夫妻は急遽ニューヨークのオノ・ヨーコのもとに向かい、彼の死を悼んだという。
本業では、1980年代に2枚のオリジナルアルバムをリリースするが、シングル・カットされて全米トップ40ヒットとなった「ラック・マイ・ブレイン」以外は全て失敗に終わっている。ジョー・ウォルシュをプロデューサーに迎えて制作された1983年発表の『オールド・ウェイブ』に至っては、本国やアメリカではリリースさえされなかった。1980年代の彼は私生活でもとても退廃的な体たらくだったようで、マッカートニーやハリスンのアルバムや、チャリティ・コンサートなどでドラムを叩く活動が中だった。1980年代後半はアルコール依存症にも悩まされていた。
[編集] 近年
そんな彼も、1989年にアルコール依存症患者更生施設での治療を経てカムバック。ブルース・スプリングスティーンのバックバンドであるEストリート・バンドや、イーグルスの元メンバーなどを集めた、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドというスーパーバンドを結成し、ビートルズ解散後初の本格的なワールド・ツアーに出る。その年の秋には来日公演も実現した。ビートルズのメンバーがライブを目的として日本に来たのは実に23年ぶりのことであった(ちなみに翌年にはマッカートニー、その更に次の年にはハリスンも来日公演を行っている。元ビートルが3年連続で来日した事は、日本のロック・ファンを大いに沸き立たせた)。1992年に久々のアルバム『タイム・テイクス・タイム』を発表してからは、その活動はますます精力的なものとなり、1995年にはオールスター・バンドを従えて再び来日した。この際の武道館公演は、『ヴォリューム・ワン』というタイトルのCDとなって、アメリカのブロックバスターという会社から通販限定で発売されている。翌1996年には、日本の宝酒造「すりおろしりんご」のCMに出演し、大きな話題を呼んだ。彼はコマーシャルに出演した唯一のビートルズのメンバーであり、このアップル・ジュース以前にも、アメリカのウォッカや、ピザのCMに出演している。1998年には、キャロル・キングやエアロスミスなどを手がけたことで知られるマーク・ハドソンを、作曲パートナーと共同プロデューサーに迎えて制作されたオリジナル・アルバム『ヴァーティカル・マン~リンゴズ・リターン』をリリース。マッカートニー、ハリスン、ブライアン・ウィルソン、アラニス・モリセットなど、相変わらずゴージャスなゲスト陣とともにレコーディングされたこのアルバムは、彼にとって実に22年ぶりとなる全米アルバムチャートのトップ100入りを果たした。その後はハドソンをパートナーとして、精力的に創作活動に臨み、数枚のアルバムを発表している。数年間隔でオール・スター・バンドのツアーもこなし、マイペースながら着実な活動を続けている。
[編集] 映画俳優として
彼は、多くの映画に性格俳優として出演するなど、音楽以外の面でも才能を発揮している。ドキュメンタリー映画『レット・イット・ビー』を除くすべてのビートルズの映画作品『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』、『ヘルプ』、TV映画『マジカル・ミステリー・ツアー』、アニメ『イエロー・サブマリン』において、リンゴは主役またはストーリーの中心的な存在となっている。ビートルズのフロントマンであるレノンやマッカートニーもこれらの映画作品の中ではスターを引き立てる脇役に徹している。他のメンバーと違って、コンポーザーとしての才能に長けていなかったこともあって、ビートルズ後期になると、彼はより映画の仕事に重点を置くようになり、ピーター・セラーズとの共演作『マジック・クリスチャン』や、『キャンディ』などの作品を残した。
映画『おかしなおかしな石器人』での共演をキッカケに出会って結婚した、現在の妻バーバラ・バックも、かつては映画『007 私を愛したスパイ』などに出演していた女優である。1980年代には、ビートルズの他の二人の元メンバーとそれぞれスクリーン上で共演した。1982年には妻と共に、ゴドレイ&クレームが監督を務めた短編映画『ザ・クーラー』に出演し、映画を制作したマッカートニー夫妻と共演した。マッカートニーによる1984年公開の映画『ヤァ!ブロード・ストリート』でも、彼はサントラへの参加のみならず、俳優として演技していた。ハリスンとは1985年公開の映画『レゲエdeゲリラ』で競演。エリック・クラプトンをはじめとする豪華なミュージシャンたちと、そろって演奏するシーンに出演していた。本業の音楽に再び精を出すようになった1980年代後半以降、彼が映画に出演する機会は減りつつある。
[編集] リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドについて
スターは1989年以降現在に至るまで、不定期であるものの、数年間隔のハイペースで、大物ミュージシャンを多数集めた「オール・スター・バンド」を結成し、活発にツアーを行っている。そのメンバーはイーグルスのジョー・ウォルシュとティモシー・B・シュミット、Eストリート・バンドのクラレンス・クラモンズやニルス・ロフグレン、リチャード・マークス、トッド・ラングレン、ビリー・プレストン、シーラ・Eなどまさに豪華絢爛なもので、ツアーが行われるたびに顔ぶれは流動的に変化している。また、スターの息子でありオアシスやザ・フーのドラマーとしても知られるザックも度々参加している。1989年と1995年には来日公演が実現し、後者のライブの模様は通販限定で商品化もされた。歴代のオール・スター・バンドのメンバー編成は次の通り。
- 第1期(1989年)
ビリー・プレストン、レヴォン・ヘルム、リック・ダンコ、ドクター・ジョン、ジョー・ウォルシュ、ジム・ケルトナー、ニルス・ロフグレン、クラレンス・クレモンズ
- 第2期(1992年)
ティム・キャペロ、デイヴ・エドモンズ、バートン・カミングス、ジョー・ウォルシュ、ティモシー・B・シュミット、ザック・スターキー、ニルス・ロフグレン、トッド・ラングレン
- 第3期(1995年)
ビリー・プレストン、フェリックス・キャバリエ、ジョン・エントウィッスル、マーク・ファーナー、マーク・リベラ、ランディー・バックマン、ザック・スターキー
ゲイリー・ブルッカー、ジャック・ブルース、ピーター・フランプトン、サイモン・カーク、マーク・リベラ、デイヴ・メイスン
- 第5期(1999年)
ゲイリー・ブルッカー、トッド・ラングレン、ティム・キャペロ、ジャック・ブルース、サイモン・カーク、ジョー・ウォルシュ(リハーサルのみ参加)
- 第6期(2000年)
ジャック・ブルース、エリック・カルメン、デイヴ・エドモンズ、マーク・リベラ、サイモン・カーク
- 第7期(2001年)
イアン・ハンター、グレッグ・レイク、シーラ・E、ハワード・ジョーンズ、ロジャー・ハドソン、マーク・リベラ
- 第8期(2003年)
コリン・ヘイ(元メン・アット・ワーク)、ジョン・ウェイト、ポール・キャラック、シーラ・E、マーク・リベラ
- 第9期(2006年)
マーク・ハドソン、ロッド・アージェント、リチャード・マークス、ヘイミッシュ・スチュアート、ビリー・スクワイア、マーク・リベラ、シーラ・E、エドガー・ウィンター
[編集] ディスグラフィ
[編集] オリジナル・アルバム
- 『センチメンタル・ジャーニー』 - Sentimental Journey (1970年)
- 『カントリー・アルバム』 - Beaucoups of Blues (1970年)
- 『リンゴ』 - Ringo (1973年)
- 『グドナイト・ウィーン』 - Goodnight Vienna (1974年)
- 『リンゴズ・ロートグラヴィア』 - Ringo's Rotogravure (1976年)
- 『ウィングズ~リンゴ IV』 - Ringo the 4th (1977年)
- 『バッド・ボーイ』 - Bad Boy (1978年)
- 『バラの香りを』 - Stop And Smell The Roses (1981年)
- 『オールド・ウェイヴ』 - Old Wave (1983年)
- 『タイム・テイクス・タイム』 - Time Takes Time (1992年)
- 『ヴァーティカル・マン~リンゴズ・リターン』 - Vertical Man (1998年)
- 『リンゴ・ラマ』 - Ringo Rama (2003年)
- 『チューズ・ラヴ』 - Choose Love (2005年)
[編集] ベスト盤/企画盤
- 『想い出を映して』 - Blast From Your Past (1976年)
- Starr Struck; Best of Ringo Starr Vol.2 (日本未発売、1989年)
- 『アイ・ウォナ・ビー・サンタ・クロース~リンゴのクリスマス・アルバム』 - I Wanna Be Santa Claus (1999年)
- 現行盤では『クリスマス・コレクション』に改題されている。
[編集] ライヴ盤/ライヴ・ベスト盤
- 『リンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンド』 - "Ringo Starr & His All-Starr Band (1990年)
- Ringo Starr & His All-Starr Band Vol.2 -LIVE FROM MONTREUX-(日本未発売、1993年)
- Ringo Starr And His All-Stars Band Volume One(日本未発売の通販限定作品、1997年)
- 『ストーリーテラー・ライヴ』 - VH1 Storytellers (1998年)
- 『アンソロジー・ソー・ファー』 - The Anthology...So Far (2001年)
- King Biscuit Flower Hour Presents Ringo Starr (日本未発売、2003年)
- Extended Versions (日本未発売、2003年)
- 『ツアー2003』 - Tour 2003 (2004年)
[編集] 主要な出演映像作品
- 『ビートルズ/ハード・デイズ・ナイト』 (1964年)
- 『ビートルズ/ヘルプ!』 (1965年)
- 『キャンディ』 (1968年)
- 『マジック・クリスチャン』 (1969年)
- 『ビートズ/レット・イット・ビー』 (1970年)
- 『盲目ガンマン』 (1971年)
- 『バングラデシュのコンサート』 (1971年)
- 『ドラキュラ二世(日本未公開) (1974年)
- 『マイ・ウェイ・マイ・ラヴ』 (1974年)
- 『ラスト・ワルツ』 (1978年)
- 『おかしなおかしな石器人』 (1981年)
- 『ヤァ!ブロード・ストリート』 (1984年)
- 『レゲエdeゲリラ』 (1985年)
- 『コンサート・フォー・ジョージ』 (2002年)
[編集] 主な使用楽器
- プレミア・ドラム・キット(Premier Drum Kit)
- ビートルズデビュー前に購入し使用していた茶色のドラム。カラーもヘッドの質も音も悪かったとの声もある。1963年、ラディック製ドラムの購入のためドラム・シティ楽器店下取りに出した。
- シンバル:プレミア・スーパー・ジン(Premire Super Zyn)?
- ラディック・オイスター・ブラック・パール・セット(Ludwig Oyster Black Pearl Set)
- ビートルズ初期から中期にかけて使用した2台目~3台目のドラムセット。
- 1963年4月にドラム・シティ楽器店にて購入。特に製品としてセットされた組み合わせでは無く、店の在庫を組み合わせたか、ラディック・スーパー・クラシック(Ludwig Super Classic)とラディック・ダウンビート(Ludwig Downbeat)を組み合わせたオリジナルセットの模様。
- あの有名な「THE BEATLES」と書かれたドロップTロゴは、ドラム・シティ楽器店のオーナーのアイヴォー・アービターが考えたアイディアを元に、同店のドラムヘッドに文字入れを行っている看板職人エディ・ストークスの手で書かれたもので、勿体ない事に同店はライセンスは取っていなかった。
- ラディック2台目ではREMOの20インチのウェザー・キング(Weather King)ヘッドにロゴが書かれていた。
- ラディック・オイスター・ブラック・パール・セット(Ludwig Oyster Black Pearl Set)(3台目)
- ドラム・シティ楽器店に注文した3台目のラディック・ドラムでロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターで引き渡された。ロゴはREMOの22インチのウェザー・キング(Weather King)ヘッドに書かれていた。
- ラディック・ハリウッド(Ludwig Hollywood)
- ビートルズ後期に使用したナチュラルカラーのドラム。「ゲット・バック・セッション」ではバスドラムのフロントヘッドは付けずに毛布を入れている。フロアタムにも布が被せられている。
- ビートルズ時代はドラム・シティ楽器店より供給されていた。恐らく材質はホワイト・ヒッコリーと思われる。サインが刻印されたシグネイチャーモデルのスティックも発売されている。
- 「ラヴ・ミー・ドゥ」レコーディングの際には、セッションドラマーにドラムを取られてしまったため、仕方なくタンバリンを叩いている。
- 映画「HELP! 四人はアイドル」で「悲しみはぶっとばせ」の曲でもタンバリンを叩いている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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メンバー | ジョン・レノン - ポール・マッカートニー - ジョージ・ハリスン - リンゴ・スター |
前メンバー | ピート・ベスト - スチュアート・サトクリフ |
プロデューサー | ジョージ・マーティン - フィル・スペクター - ジェフ・リン |
関連人物 | ブライアン・エプスタイン - クラウス・フォアマン - ビリー・プレストン - オノ・ヨーコ - リンダ・マッカートニー - オリヴィア・トリニアード・アリアス - パティ・ボイド - モーリン・スターキー - バーバラ・バック |
スタジオ & レーベル | アビー・ロード・スタジオ - EMI - キャピトル・レコード - アップル・レコード |
関連項目 | ザ・ビートルズ日本公演 - ザ・ビートルズ・クラブ - ビートルズの作品 - ビートルズの曲名一覧 - ビートルマニア - ビートルズの解散問題 - リバプールサウンド - ルーフトップ・コンサート - アップル・コア - デッカ |