坂本九
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坂本九(さかもと きゅう、本名:大島九(おおしま ひさし)、1941年12月10日 - 1985年8月12日)は、日本の俳優・歌手。マナセプロダクション。
神奈川県川崎市川崎区出身。日本大学高等学校出身。愛称は九ちゃん(きゅうちゃん)。血液型はA。妻は柏木由紀子。娘に大島花子(長女)、舞坂ゆき子(次女、本名:大島舞子)。以下の表記は「九」で統一する。1985年8月12日 日航ジャンボ機墜落事故で逝去した。
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[編集] 人物
- 名前は、兄弟が多く、9番目に生まれて、そろそろ名前のネタが尽きてきた事から、「九」と命名されたという説がある。又、「九」の読みが「久」に通じるからとも言われている。
- 第二次世界大戦の時期に幼少期を送る。戦時中は、母の実家のある茨城県笠間市に疎開した。
- 高校生の時に両親が離婚。といっても家は近所で家族の交流は変わらなかった。九など下の兄弟は母親に引き取られ、姓は坂本から大島に。この前後からエルヴィス・プレスリーに憧れるようになり、誰も右に出る物がいなかったと言われるプレスリーの物まねで仲間内の人気者となった。
- 1958年5月、ザ・ドリフターズのメンバーとなる。ギターで活躍していた。
- 1958年11月、ザ・ドリフターズを脱退。グループを移籍しダニー飯田とパラダイスキングの一員としてビクターと契約。1959年6月に「題名のない歌だけど」でデビューしたが、ヒットせず。
- 1960年7月に東芝音楽出版(東芝レコード。現・東芝EMI)に移籍。同年8月に移籍後第1弾シングルとして発売した「悲しき60歳」が10万枚を売り上げ、初ヒットとなった。
- 海外でも大ヒットした「上を向いて歩こう」など数々の名曲を残し、昭和を代表するソロシンガーと呼ばれた。デビュー当時はダニー飯田率いるパラダイス・キングの一員であったが、後に独立。
- 無名時代、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などが出演した「日劇ウェスタンカーニバル」に事務所の意向を無視して無理やり出演。バックでギターを弾いていたが、全く知られることはなかった。
- 歌手としての活動のほかに、テレビの司会や、映画、舞台などでも活躍した。福祉関係のボランティア活動にも積極的に参加していたことも有名であった。
- 1985年8月12日、日本航空123便墜落事故に遭い、僅か43歳の若さで永眠。九の不慮の死は、日本音楽界・歌手界にとって大きな損失と言われた。九は本来、事故の多い日航を避け国内移動には必ず全日空を使っていたが、この日の搭乗目的は大阪府での選挙応援であったため、チケットやホテルの手配などはすべて招待する側の立候補者の側近が担当。全日空便が満席でチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日航123便であったため、家族も乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていたが、事故の数日後「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの謝りの電話があった(由紀子夫人談)。尚、この事故で運命を共にした小宮マネージャーは、早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、お盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。
墜落から95時間後の16日、家族らの目で遺体が確認された(死亡が判明されたのは14日頃)。当時、結婚式を挙げた笠間稲荷神社のペンダントを常に身につけていたため、遺体の胸にペンダントが突き刺さっていたことで身元が判明する。発見された遺体は損傷が激しかったが、絶命した瞬間は両手で両足首を掴み、腕と腕の間に頭をうずめる緊急事態発生時に乗客がとる姿勢であった痕跡をかろうじて残していたこともあり即死状態であったと、遺体を確認した由紀子夫人や所属事務所社長が後に語っている。ちなみに二人は、B747の2階席に搭乗していた。歯だけが発見されたという話は誤りで、それは機長の遺体のことである。 - 葬儀は親族やごく一部の関係者のみの密葬と言う形で行われたが、北海道のローカルテレビ局(札幌テレビ放送)で福祉番組ふれあい広場・サンデー九を担当していたこともあり、一緒に亡くなった小宮マネージャーとともに、北海道内で障害者とその家族だけを対象にした「偲ぶ会」という一般葬儀も行われた。
- 九を記念して、小惑星ナンバー6980の固有名はKyusakamotoと命名されている(「上を向いて歩こう」を作詞した永六輔、作曲した中村八大、歌手の坂本九の名前の「六・八・九」が含まれる番号を選んで命名された。この3人は「6+8=9トリオ」と呼ばれることもある)。
- 「明日があるさ」は2000年頃よりコーヒー飲料のコマーシャルに用いられ、再び注目された。
- 没後20年にあたる2005年8月(放送日は8月21日)に、テレビ東京系列で「上を向いて歩こう 坂本九物語」が放送された。坂本九役を山口達也、柏木由紀子役をともさかりえがそれぞれ演じた。なおこのドラマでは、次女の舞坂ゆき子が父の姉(舞坂にとっては父方の伯母)である遠藤八千代役で出演している。
[編集] 代表曲
- 題名のない歌だけど(デビュー曲)
- 悲しき60歳(東芝レコード移籍後の第1弾シングルで初のヒット曲。トルコのヒット曲「ムスターファ」のカバー)
- ビキニスタイルのお嬢さん(ブライアン・ハイランドのカバー)
- ステキなタイミング(「ビキニスタイルの~」のB面だがA面をはるかに凌ぐ大ヒット。ジミー・ジョーンズの「グッド・タイミング」のカバー)
- 上を向いて歩こう(世界中で発売された九の代名詞的ヒット曲)
- 九ちゃん音頭
- ボクの星
- ひとりぼっちの二人
- 見上げてごらん夜の星を
- 明日があるさ
- 幸せなら手をたたこう(原曲はスペイン民謡)
- サヨナラ東京
- ともだち
- 涙くんさよなら(ジャニーズ・和田弘とマヒナスターズ・ジョニー・ティロットソンとの競作)
- レット・キス(ジェンカ)(フィンランドのラウノ・レティネン(Rauno Lehtinen)作曲)
- 世界の国からこんにちは(競作。三波春夫と九のバージョンが共にヒット。九のバージョンは、作曲者の中村八大が編曲も手がけ、1968年の紅白歌合戦では九が歌った)
- 遠い昔の母の胸に(前作「蝶々」が放送禁止(それ以前に他の人が歌った卑猥な替え歌が広まっていたという理由であった)を受けたために急遽九がかねてから作っていた曲に歌詞をつけて発売された。九が歌いたいと願っていた「母の歌」でもある)。
- マイ・マイ・マイ
- 夕焼けの空(NHK人形劇『新八犬伝』のエンディング曲)
- そして想い出(九の「手話の素敵なフレーズを集めて歌を作りたい」という願いが叶った一曲で、手話通訳者の丸山浩路が監修した)
- 親父(亡き父に捧げた曲で、九自ら作詞、作曲を担当)
- ぶっちぎりNO文句/おとなの童話~今だからいうけれど~(覆面歌手XQS(エクスキューズ)名義で発売)
- 懐しきlove-song/心の瞳(ファンハウス移籍後第1弾シングルとして発売されたが、3ヶ月後の日本航空123便墜落事故で結果的に遺作となった)
- 「心の瞳」は現在は合唱曲として主に中学生に親しまれている。
[編集] 出演映画
- 1960年 山のかなたに 第1部リンゴの頬(東宝)
- 1960年 山のかなたに 第2部魚の接吻(東宝)
- 1961年 悲しき60才(大映東京)
- 1961年 アワモリ君売出す(東宝)
- 1961年 喜劇 駅前団地 (東京映画)
- 1961年 アワモリ君乾杯!(東宝)
- 1961年 喜劇 駅前弁当 (東京映画)
- 1961年 アワモリ君西へ行く (宝塚映画)
- 1962年 上を向いて歩こう(日活)
- 1962年 九ちゃん音頭(松竹大船)
- 1962年 若い季節(東宝)
- 1962年 ひとりぼっちの二人だが(日活)
- 1962年 バラキンと九ちゃん 申し訳ない野郎たち(松竹大船)
- 1963年 九ちゃんの大当りさかさま仁義(東映東京)
- 1963年 クレージー作戦 先手必勝(東宝)
- 1963年 九ちゃん刀を抜いて(東映京都)
- 1963年 ジェリーの森の石松(東映京都)
- 1963年 見上げてごらん夜の星を(松竹大船)
- 1964年 男嫌い(東宝)
- 1964年 喜劇 陽気な未亡人(東京映画)
- 1964年 万事お金(東宝)
- 1964年 幸せなら手をたたこう(大映東京)
- 1965年 ガリバーの宇宙旅行 (東映動画)
- 1965年 調子のいい奴 いたずらの天才(マナセ・プロ)
- 1965年 ハイウェイの王様(マナセ・プロ)
- 1966年 坊っちゃん(松竹大船)
- 1967年 九ちゃんのでっかい夢(松竹大船)
- 1967年 君は恋人(日活)
- 1975年 吶喊 (喜八プロ=ATG)
- 1975年 新八犬伝 第一部 芳流閣の決斗 (芸苑社)
- 1976年 泣きながら笑う日
[編集] 舞台
- 努力しないで出世する方法(別名:ハウ・トゥー・サクシード。主役フィンチ、1964年、新宿コマ劇場)
[編集] その他
- 夢であいましょう(NHK)
- 水戸黄門 (ブラザー劇場)(TBS、1964年~1965年)
- 九ちゃん!(後に『イチ・ニのキュー!』)(NTV、1966年~1969年まで司会)
- 天下御免(NHK、1971年~1972年まで出演)
- ふれあい広場・サンデー九(STV = 札幌テレビ、1976年~1985年まで司会。尚、この番組の関係で1984年まで日本テレビ系列夏恒例の24時間テレビの北海道地区メインパーソナリティーとして出演した)
- クイズクロス5(tss = テレビ新広島、司会)
- 連続人形劇・新八犬伝〔ナレーター〕(NHK)
- キッチンパトロール(TBS、1975年~1985年まで司会)
- スター千一夜(CX、1979年~1981年まで司会)
- 名もなく貧しく美しく(NTV、1980年)
- スター誕生!(NTV、1981年~1982年まで3代目司会)
- なるほど!ザ・ワールド(CX、1981年~1985年まで夫人の柏木由紀子と共にセミレギュラー解答者の一人として出演)
[編集] CM
- ニチイ(現・サティ・1982年頃)
[編集] 演じた俳優
[編集] 外部リンク
- 坂本九 Official Web Site
- マナセプロダクション
- 柏木由紀子ホームページ
- 大島花子ホームページ
- 舞坂ゆき子ホームページ
- 坂本九さんが亡くなった日航機墜落事故の記録
- 九ちゃんの会 by ONE STEP TO 9
- 現在このサイトは消滅しているが、インターネットアーカイブにキャッシュが残っている。
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