大野豊
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大野 豊(おおの ゆたか、1955年8月30日 - )は、島根県出雲市出身の広島東洋カープに所属したプロ野球選手(投手)。身長177cm。現在はNHKの野球解説者、スポーツニッポン(大阪本社)の野球評論家。2003年から2004年までアテネオリンピック野球日本代表チーム、2007年より北京オリンピック日本代表投手コーチに就任。
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[編集] 来歴・人物
島根県立出雲商業高等学校を卒業後、母子家庭で苦労をかけた母の為、地元企業・出雲市信用組合へ就職し、三年間窓口業務や営業活動をこなす傍ら、会社の軟式野球部で趣味として野球を続けていた。1976年秋、出雲で広島の野球教室が開かれ、当時の山本一義打撃コーチと主戦投手池谷公二郎が講師として参加。講演を聞いた大野は、啓示を受けたようにしばらく席から動けなかったという。これを機にプロ入りを決意し、人を介して山本打撃コーチにその旨を伝え、翌年二軍キャンプで一人だけの入団テストを受けて合格。軟式野球出身、しかも軟式での実績も皆無という異色の経歴で、1977年ドラフト外で広島に入団した(契約金無し、年俸は月額12万5千円)。引退後、週刊ベースボールのインタビューで本人は「草野球しかやってこなかった自分が、まさかプロで成功するとは思わなかった」と話している。
1年目の1977年は阪神タイガース戦に1試合登板したのみだったが、この時掛布雅之、田淵幸一、藤田平ら阪神打線にメッタ打ちにされ、アウトを一つしか取れないまま降板。自責点5、防御率135という天文学的なシーズン成績を残した。この試合後、大野はあまりの悔しさに泣きながら太田川沿いを歩いて寮まで帰り、帰寮直後には観戦していた友人から「自殺するなよ」という電話があったと後に明かしている。
翌1978年、南海ホークスからトレードされてきた江夏豊が移籍。江夏は大野の才能を見出し、当時の古葉竹識監督に「大野を預かってもいいか?」と懇願して二人三脚でフォーム改造に取り組み始める。江夏は当時の大野について「月に向かって投げるようなフォームだった。しかし、10球に1球ほど光るものを感じたから、とりあえずキャッチボールから変えてみようかということになった」と語っている。時には鉄拳も飛ぶ厳しい指導の末、やがて大野は中継ぎの柱へと成長を遂げた。1981年には、トレードで日本ハムファイターズへと移籍した江夏の後を受けてリリーフに抜擢され、「気の弱い大野に抑えは無理」と非難を浴びながらも同年8勝11セーブ、翌1982年には10勝11セーブを記録した。
1984年からは先発に転向し、同年の日本シリーズ制覇、1986年のセ・リーグ優勝に貢献。1990年までに4度の2桁勝利をマークし、1988年には13勝7敗、防御率1.70という好成績で最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞も受賞した。翌1989年にも防御率1.92をマーク。巨人の槙原とは、何度も1対0のスリリングな投手戦を展開した。2006年現在、史上最少勝利数での沢村賞受賞である。その積極的な投球内容と、13年ぶりの防御率1点台の記録が評価されたものと思われる。時速140キロ後半から150キロの速球に加え、パームボール、真っスラ、スラーブ、シュート、ドロップ、といった様々な変化球を駆使する様は『七色の変化球』と形容され、『精密機械』北別府学、『巨人キラー』川口和久らと共に、1980年代広島投手王国を支えた。
1991年には津田恒実とのダブルストッパー構想のもと抑えに再転向したが、病気による津田の早期戦線離脱に伴い、クローザーの責務をたった一人で負うことになる。が、結果としてそれが成功を収めることになった。大野はシーズンを通してクローザーとして大活躍を見せ、6勝26セーブで最優秀救援投手に輝き、また14試合連続セーブという日本記録(当時)も樹立、チーム6回目のセ・リーグ優勝に大きく貢献した。翌1992年は26セーブでリーグ最多セーブを記録。1995年からは再び先発に転向し、1997年には42歳にして防御率2.85で2回目の最優秀防御率のタイトルを獲得。しかし翌1998年、持病となっていた血行障害が悪化し、当時ルーキーだった読売ジャイアンツの高橋由伸に逆転3ランを打たれたことをきっかけに引退を決意した。引退当時の年齢は43歳、チーム在籍年数は22年。通算148勝138セーブ、生涯防御率2.90は、まさに「江夏の後継者」と呼ぶに相応しい成績であった。
その後、1年間広島の投手コーチを務めた(1999年)後は、NHKの野球解説者を務める傍ら、プロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズに参加している。村田兆治同様に引退後も現役時代と変わらぬ体格を維持し続け、マスターズリーグにおいても140キロを超える直球を投げるなど、50歳を迎えた現在でも現役時代をほうふつとさせる姿を見せ続けている。近年、古巣である広島の弱体化が著しいこともあり、ファンの間では(半分冗談とはいえ)現役復帰を望む声が挙がっている。
2004年のアテネオリンピックにおいては、野球日本代表の投手コーチとしてチームの銅メダル獲得に貢献。2007年1月29日にはその実績を買われ、星野仙一監督の下北京オリンピック野球日本代表投手コーチに就任することが決定した。
[編集] 略歴
- 身長・体重:177cm 75kg
- 投打:左投左打
- 出身地:島根県出雲市
- 血液型:B型
- 球歴・入団経緯:出雲商高 - 出雲市信用組合(軟式) - 広島(1977年 - 1998年) - 広島コーチ(1999年) - NHK野球解説(2000年 - ) - アテネ五輪日本代表コーチ(2003年 - 2004年) - 北京五輪日本代表コーチ(2006年 - )
- プロ入り年度・ドラフト順位:1976年(ドラフト外)
- FA取得・行使:1994年(1回目・行使せず)
- 英語表記:OHNO
- 守備位置:投手
[編集] 背番号
[編集] 経歴・タイトル
- 初登板 1977年9月4日対阪神タイガース(広島市民球場)
- 初勝利 1978年8月12日対ヤクルトスワローズ(広島市民球場)
- 最優秀防御率 2回(1988年、1997年)
- 最優秀救援投手 1回(1991年)
- 沢村賞 1回(1988年)
[編集] 記録達成歴
- 1989年:9月27日、通算100勝達成。
- 1991年:6月8日、11連続セーブを挙げ、日本新記録(当時)を樹立。同年記録を14まで伸ばした。
- 1993年:4月29日、通算100セーブ達成。
- 1998年:5月16日、700試合登板達成。
- 1998年:8月4日、高橋由伸(巨人)に逆転本塁打を浴び、引退を表明。
- 1998年:9月28日、 引退試合。消化試合だったにも関わらず3万人の観衆を集める。中根仁(横浜)を、空振三振に打ち取り、現役に終止符を打つ。その時のMAXは146km/hであった。この日は広島ファンだけでなく、横浜ファンからも大野コールが沸き起こった。
[編集] 年度別成績
年度 | チーム | 試合数 | 勝数 | 敗数 | セーブ | 奪三振 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1977年 | 広 島 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 135.00 |
1978年 | 広 島 | 41 | 3 | 1 | 0 | 54 | 3.77 |
1979年 | 広 島 | 58 | 5 | 5 | 2 | 64 | 3.86 |
1980年 | 広 島 | 49 | 7 | 2 | 1 | 76 | 2.70 |
1981年 | 広 島 | 57 | 8 | 4 | 11 | 78 | 2.68 |
1982年 | 広 島 | 57 | 10 | 7 | 11 | 82 | 2.63 |
1983年 | 広 島 | 49 | 7 | 10 | 9 | 89 | 3.51 |
1984年 | 広 島 | 24 | 10 | 5 | 2 | 95 | 2.94 |
1985年 | 広 島 | 32 | 10 | 7 | 2 | 86 | 4.06 |
1986年 | 広 島 | 15 | 6 | 5 | 0 | 63 | 2.74 |
1987年 | 広 島 | 25 | 13 | 5 | 0 | 145 | 2.93 |
1988年 | 広 島 | 24 | 13 | 7 | 0 | 183 | 1.70 |
1989年 | 広 島 | 19 | 8 | 6 | 0 | 139 | 1.92 |
1990年 | 広 島 | 27 | 6 | 11 | 3 | 118 | 3.17 |
1991年 | 広 島 | 37 | 6 | 2 | 26 | 58 | 1.17 |
1992年 | 広 島 | 42 | 5 | 3 | 26 | 77 | 1.98 |
1993年 | 広 島 | 31 | 3 | 1 | 23 | 46 | 2.37 |
1994年 | 広 島 | 42 | 4 | 2 | 18 | 38 | 2.40 |
1995年 | 広 島 | 22 | 7 | 5 | 4 | 66 | 3.07 |
1996年 | 広 島 | 19 | 5 | 4 | 0 | 72 | 3.93 |
1997年 | 広 島 | 23 | 9 | 6 | 0 | 80 | 2.85 |
1998年 | 広 島 | 13 | 3 | 2 | 0 | 24 | 2.91 |
通 算 | 707 | 148 | 100 | 138 | 1733 | 2.90 |
(表中太字は、シーズンのリーグ最高記録)
- 特筆すべきは、先発も含めて700試合以上に登板しながら、生涯防御率が3点台を切っている(2.90)点であろう。この数字は、投球回数2000イニング以上の投手の中では歴代30位の成績である。しかし、ランキング入りしている選手はほぼ全員1960年代以前の投高打低だった時代の投手であり、1970年以降に入団した選手に限定すれば、この成績は斎藤雅樹の2.77(歴代23位)に次ぐ。両翼が狭くフェンスが低い広島市民球場を本拠地としていたことを考慮すると、驚異的な防御率であると言える。また1980年以降、規定投球回数に到達しながら2年連続で防御率1点台を達成した投手は、大野ただ一人である。
[編集] エピソード
- 入団2年目の1978年、その年リーグ優勝を果たしたヤクルトスワローズ相手にプロ入り初完封勝利を上げる。この試合はヤクルトのシーズン最終戦で、日本球界初の「チーム1シーズン全試合得点」という大記録がかかった試合であったが、プロでの完投経験もなかった大野がそれを阻止した。なおそれ以降も2006年まで1シーズン全試合得点を達成した球団はない。
- 自身の結婚式には、当時の球団オーナーである松田耕平を招待したが、松田は用意された来賓席ではなく、身内が座る末席に座った。関係者が「オーナー、席はあちらです」と言うと、松田は「いや、広島の選手はみんな息子みたいなもんだ」と話した。母子家庭で父親のいない大野は深く感動し、涙を流したという。
- 大野の球歴を語る上でしばしば話題になる入団1年目の防御率だが、本人は後年これについて「いくら成績が悪くとも、この時の防御率を下回ることは絶対にない。スランプの時にそう考えると、精神的に大分楽になった」と語っている。
- 1993年のシーズンオフ、アナハイムエンゼルスから広島に、大野をチームに獲得したいというオファーがあった。が、本人は38歳(当時)という高齢を理由にこれを固辞。当時はまだ野茂英雄がアメリカで旋風を巻き起こす前であり、メジャーリーグに挑戦する日本人選手はいても、メジャー球団の方から日本の現役選手に誘いが掛かることは異例中の異例であった。ちなみに、エンゼルスが大野に提示した年俸は100万ドルだったと言われている。
- 親友でありチームメイトでもあった達川光男や、掛布雅之、江川卓らと同学年である。大野が現役晩年に最優秀防御率のタイトルを獲得した時は、既に引退して解説者として名を成していた彼らと比較して「現役で一軍にいることすら驚異的な年齢であるにも関わらず」と語られることがしばしばあった。
- 当時、40代を迎えたにも関わらず第一線で投球を続けられる秘訣について、江川卓は「節制とトレーニングを余程欠かさないということもあるだろうが、10代の頃に甲子園や地区予選で無茶な投げ方をしてこなかったことが、この歳になって良い影響を与えているのではないか」と分析していた。余談だが、彼らの学年は多くのスター選手を輩出したことで知られ、高校3年時が昭和48年だったことから“花の48年組”とも呼ばれている。
- 1998年9月27日、広島市民球場での自身の引退試合は、既に消化試合であったにもかかわらず球場は満員であった。登板は中根仁に対するリリーフだけだったが、142km/hのストレートで三振を奪っている。この時、野村謙二郎や金本知憲、共に引退することが決定していた正田耕三らチームメイトの目には涙が溢れ、投げ終えた直後の大野の表情は晴れやかな笑顔であった。
- 試合終了後の引退式での挨拶では、18年間つけてきた背番号「24」への感謝の言葉を「我が選んだ道に悔いはなし」と涙を見せずに締めくくった。この引退挨拶には、広島の選手やファンはもちろんのこと、対戦相手だった横浜ベイスターズの選手・ファンも涙していた。22年という長期にわたり広島に貢献してきた功労者ということ以上に、温和で誠実な大野の人柄がいかに球団の壁を越えて多くの選手やファンに愛され、尊敬されていたかが窺える引退式であった。
- NHKでは、広島戦や巨人戦以外にも、衛星放送の阪神戦の中継の解説も多く担当している。2003年と2005年の阪神が優勝した試合は、いずれも大野が単独で解説を担当していた。大野が阪神のOBでないにも関わらず阪神戦の解説に多く起用されるのは、彼の人間性に対する評価が高いこともさることながら、野球解説者に多く見受けられる特定の球団や選手に対する肩入れがなく、感情論などを交えない冷静で中立的な解説ができることが大きな要因であると思われる。
- 現に阪神の公式ホームページにある掲示板でも、好きな解説者として大野の名前を挙げる阪神ファンが非常に多く、大野が現在でも多くのプロ野球ファンに愛されていることが、ここでも窺い知ることができる。
- 大野以降、軟式野球出身で大成した選手はいない。
- 現在、NHK広島のローカル番組『お好みワイドひろしま』内で「大野豊の週末大好き!」というコーナーを持っており、本業の野球解説の他にレポーター活動等も行っている。
[編集] 現在の出演番組
[編集] 著書
- 「全力投球」(2001年・宝島社)