村田兆治
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村田 兆治(むらた ちょうじ、1949年11月27日 - )は、広島県豊田郡本郷町(現・三原市)生まれ。昭和後期から平成期(1960年代後半~1990年代前半)のプロ野球選手。旧名:長次。現役時代はロッテオリオンズ(入団時は東京オリオンズ)で23年間活躍。そのダイナミックな投球フォームから、マサカリ兆治の異名を取った。引退後は福岡ダイエーホークスの投手コーチを務めた。
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[編集] 来歴・人物
福山電波工高(現・近大福山高)時代から、その球速は既に150キロを超えていたと言われ、県内でも屈指のピッチャーとして有名だった。が、当時の広島県には三村敏之・山本和行らを擁する広島商業や、1967年に夏の甲子園準優勝を果たした広陵高校など強豪がひしめいており、甲子園出場の悲願は叶わなかった。
1967年、ドラフト1位でロッテの前身・東京オリオンズに入団。背番号はエースナンバー18を希望したが叶わず29。1年目の1968年は奮わなかったが、2年目の1969年に頭角を現し6勝。1970年には12勝を挙げパ・リーグ優勝を経験。翌年の1971年投球フォームを大幅に改造し、いわゆるマサカリ投法を完成。同年12勝をあげて先発ローテーションの一角に食い込み、1974年のロッテ日本一の際にも大車輪の活躍を見せた。1976年にはフォークボールをマスター。人並み外れた長い指が生み出す切れ味鋭い変化は、打者のバットに尽く空を切らせ、このシーズン、村田は21勝をあげると同時に最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを獲得。1981年には開幕11連勝を飾り19勝で最多勝のタイトルも獲得し、名実共に1970年代から1980年代のパ・リーグを代表する投手となった。
しかし1982年に肘を故障。様々な治療法に取り組むも、なかなか症状は改善されなかった。日本球界では長年、投手の肘にメスを入れることはタブーとされていたが、渡米しスポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブ博士の執刀のもと、左腕の腱を右肘に移植する手術を受けた。2年間をリハビリに費やし、1984年シーズン終盤に復帰。翌1985年、再び開幕から11連勝をあげるという鮮烈な復活劇を見せ、最終的に17勝5敗の成績でカムバック賞を獲得、それまで低迷続きだったロッテのリーグ2位獲得に貢献した。この年から、中6日で日曜日のみに登板するローテーションを取るようになったため、サンデー兆治と呼ばれるようになった。1989年5月13日には200勝を達成。翌1990年、若林忠志以来史上2人目となる40歳代での2桁勝利(10勝)を記録し、同年引退。引退試合となった川崎球場での西武ライオンズ戦では雨の中を力投し、5回コールド完封勝利で有終の美を飾った。先発完投にこだわった武骨な野球人生は「昭和生まれの明治男」と呼ばれた。
引退後はNHK・日刊スポーツで野球解説者となり、その後1995年から1997年まで福岡ダイエーホークスの投手コーチを務めた。現在は、評論家としての活動の他に、全国各地(特に島しょ部)を回って少年野球の指導にあたる一方、プロ野球マスターズリーグの東京ドリームスにも参加している。
現役を引退して十数年、齢50歳を超えた現在でもなお、「超人トレーニング」と呼ばれるほどの厳しい鍛錬を行っている(後述)。マスターズリーグ等においても、いまだに球速140キロに届くストレートと落差20cmのフォークボールを披露し、ファンの度肝を抜いている。これについて村田は、子供たちに本物のプロのボールを見せて「プロって凄いんだ」と思って欲しいためだと語っている。「ナンだ!?」では、小学生と真剣勝負をしたり、古田敦也(現・東京ヤクルトスワローズ選手兼任監督)を打席に立たせて勝負したりと、その豪腕は衰えることを知らない。2005年野球殿堂入り。
2005年、プロ野球OB13人と共に長崎県対馬市に「対馬まさかりドリームス」を設立、投手兼監督に就任した。チーム名の「まさかり」はもちろん、現役時代に付いた異名に由来している。
[編集] 略歴
- 身長・体重:181cm 78kg
- 投打:右投右打
- 出身地:広島県三原市
- 血液型:AB型
- 球歴・入団経緯:福山電波工高 - 東京・ロッテ(1968年 - 1990年)- NHK野球解説 - 福岡ダイエーコーチ(1995年 - 1997年)- NHK野球解説
- プロ入り年度・ドラフト順位:1967年(1位)
- 英語表記:MURATA
- 守備位置:投手
[編集] 年度別成績
- 表中太字はシーズンのリーグ最高記録
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗北 | セーブ | 投球回 | 安打 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1968年 | 東京 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | - | 7 | 8 | 0 | 1 | 5 | 3 | 3.86 |
1969年 | ロッテ | 37 | 5 | 5 | 0 | 6 | 8 | - | 146.1 | 110 | 11 | 82 | 90 | 58 | 3.58(20) |
1970年 | ロッテ | 21 | 2 | 0 | 0 | 5 | 6 | - | 79 | 76 | 7 | 45 | 48 | 42 | 4.78 |
1971年 | ロッテ | 43 | 8 | 1 | 0 | 12 | 8 | - | 194.1 | 183 | 25 | 68 | 122 | 72 | 3.34(10) |
1972年 | ロッテ | 16 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | - | 46 | 56 | 10 | 25 | 30 | 33 | 6.46 |
1973年 | ロッテ | 40 | 6 | 1 | 1 | 8 | 11 | - | 157 | 134 | 6 | 83 | 104 | 56 | 3.21(12) |
1974年 | ロッテ | 32 | 8 | 1 | 0 | 12 | 10 | 1 | 180.2 | 151 | 10 | 98 | 108 | 54 | 2.69(4) |
1975年 | ロッテ | 39 | 11 | 2 | 0 | 9 | 11 | 13 | 191.2 | 128 | 15 | 71 | 120 | 47 | 2.20(1) |
1976年 | ロッテ | 46 | 18 | 5 | 0 | 21 | 11 | 4 | 257.2 | 209 | 13 | 81 | 202 | 52 | 1.82(1) |
1977年 | ロッテ | 47 | 15 | 2 | 1 | 17 | 14 | 6 | 235 | 216 | 15 | 70 | 180 | 70 | 2.68(6) |
1978年 | ロッテ | 37 | 17 | 3 | 2 | 14 | 13 | 3 | 223.1 | 188 | 18 | 73 | 174 | 72 | 2.91(6) |
1979年 | ロッテ | 37 | 21 | 3 | 4 | 17 | 12 | 2 | 255 | 224 | 26 | 60 | 230 | 84 | 2.96(4) |
1980年 | ロッテ | 27 | 11 | 1 | 2 | 9 | 9 | 2 | 178 | 169 | 14 | 91 | 135 | 77 | 3.89(11) |
1981年 | ロッテ | 32 | 16 | 2 | 2 | 19 | 8 | 0 | 230.2 | 237 | 18 | 61 | 154 | 76 | 2.96(5) |
1982年 | ロッテ | 6 | 3 | 2 | 0 | 4 | 1 | 0 | 40.1 | 35 | 4 | 13 | 27 | 13 | 2.93 |
1984年 | ロッテ | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 9 | 13 | 1 | 0 | 3 | 6 | 6.00 |
1985年 | ロッテ | 24 | 10 | 0 | 0 | 17 | 5 | 0 | 173.2 | 181 | 20 | 72 | 93 | 83 | 4.30(11) |
1986年 | ロッテ | 23 | 5 | 0 | 0 | 8 | 11 | 0 | 155.1 | 164 | 23 | 40 | 106 | 68 | 3.94(11) |
1987年 | ロッテ | 21 | 3 | 2 | 1 | 7 | 9 | 0 | 130.2 | 151 | 15 | 46 | 74 | 63 | 4.34(16) |
1988年 | ロッテ | 20 | 5 | 1 | 0 | 10 | 7 | 0 | 145.2 | 123 | 22 | 51 | 120 | 63 | 3.89(17) |
1989年 | ロッテ | 22 | 16 | 3 | 1 | 7 | 9 | 0 | 179.2 | 143 | 17 | 74 | 135 | 50 | 2.50(1) |
1990年 | ロッテ | 26 | 4 | 2 | 0 | 10 | 8 | 2 | 115.2 | 120 | 14 | 62 | 103 | 58 | 4.51 |
通算成績 | --- | 604 | 184 | 36 | 14 | 215 | 177 | 33 | 3331.1 | 3019 | 304 | 1268 | 2363 | 1200 | 3.24 |
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最多勝1回(1981年)
- 最優秀防御率3回(1975年,1976年,1989年)
- 最多セーブ1回(1975年)
- 最多奪三振4回(1976年,1977年,1979年,1981年)
- ベストナイン1回(1981年)
- 前後期MVP2回(1977年後期,1981年前期)
- 月間MVP1回(1981年4月)
- プレーオフMVP1回(1974年)
- プレーオフ敢闘選手賞1回(1981年)
- 野球殿堂入り(2005年)
- 通算暴投数 148回(歴代1位)
- 1シーズン暴投数 17回(1990年)
- 1ゲーム暴投数 3回(1987年5月28日,6月14日,1990年5月15日)
- 1イニング暴投数 3回(1987年6月14日)
- 開幕投手 13回(1975年~1982年,1986年~1990年)
- 1試合16奪三振(1979年6月8日 対近鉄戦)
- オールスター13回出場(1971年、1974年~1981年、1985年、1986年、1988年、1989年)
- オールスターゲーム最優秀選手(1989年第1戦)
- 日本シリーズ1回出場
[編集] エピソード
- プロ野球選手を志したのは小学5年のとき、父に連れられて広島市民球場へナイターを観戦しに行ったことがきっかけだった。初めて生で見るプロの試合に鳥肌が立つ程興奮し、それ以来プロ野球選手以外の将来は考えられなくなったと言う。
- フォークボールの習得に躍起になっていた時期、指にボールを挟んだまま縄でくくりつけて眠ることで、フォークの握りを体に覚えさせようとしたことがある。が、あまりの激痛に就寝どころではなくなり、結局一度試しただけでもう二度とやらなかったという。また、フォークの握りを深くしようとするあまり、人差し指と中指の間にナイフで切り込みを入れたこともある。習得後も、右手の中指と人差し指の間に牛乳瓶や特注の鉄の球を挟んだり、ドアを開けるときもノブを中指と人差し指で挟んで開けるなど、日々のトレーニングを欠かさなかった。夫人によれば村田が中指と人差し指でビール瓶をはさむと、彼女が引っ張っても抜けないという。杉下茂は「私は日本人の投げるフォークボールは厳密にはSFFが大半だと思うが、村田君は間違いなく『本物のフォークボール』を投げていた」とコメントしている。
- 村田の代名詞・フォークボールについて、元阪急ブレーブスの山田久志は、「昔、うちの打者に『次、フォーク』と予告して、実際にフォークを投げ空振りさせた」というエピソードを語っている。
- 後述のように、2位以下を二倍近く圧倒的に引き離すほどの通算暴投数(ちなみに通算暴投数2位は、川口和久の79個)を記録している。「キャッチャーが捕球できないほど切れ味の鋭いフォークボールを投げていた」という意味では村田にとって大きな勲章であるが、「村田のフォークに対応し切れなかった」という意味ではロッテ捕手陣にとって苦い数字であるとも言える。ちなみに村田自身は、(これほどの暴投数にも関わらず)暴投による失点が非常に少ないためか、この記録に大変誇りを持っているようである。
- 入団時、18歳の子供には途方もないほどの給料をもらい、パチンコ、マージャンに明け暮れていたという。徹夜マージャンから朝帰りしたとき、阪神から移籍して独身寮にいた小山正明と鉢合わせになる。小山は毎朝のロードワークを欠かさなかったという。村田はとっさに何も言わず自分の部屋に逃げ込んだという。300勝投手の小山が、自分以上の厳しい練習を課していることに衝撃を受けたことが、後の「昭和生まれの明治男」誕生のきっかけだったという。
- 肘を故障しボールが投げられなくなっていた時期は、様々な治療法に取り組む傍ら、宮本武蔵の「五輪書」を愛読し、和歌山県白浜町のお水場・十九渕で座禅を組み、深夜白衣を纏い滝に打たれるといった荒行も行っていた。
- 夫人は英語に堪能な才媛である。村田が手術後もアメリカに長期滞在しリハビリに専念できたのも、夫人の生活面での支えによるところが大きいという。
- 上述しているように、50歳を越えてなお球速140km/hをマークし続けている村田だが、本人は「マスターズリーグで140キロが出せなくなったら、もうボールを握るのは止める」と公言している。
- 座右の銘は「人生先発完投」。しかし速球とフォークボールを生かすため金田正一監督の意向で二度ほどリリーフ陣に回ったこともある。選手生活末期にも一度リリーフに回って再度先発に戻ったが、本人曰く「あれは僕の主義主張よりも、太ももなど下半身が登板間隔の短いリリーフにはついてこなかったから戻してもらった」とコメントしている。
- 来歴の項に記したように、毎日スポーツジムに通っては「超人トレーニング」(最初に取材したのがテレビ朝日の「プロ野球ってナンだ!?」であり、当時テレビ朝日がプロ野球中継のキャッチコピーとしていた『プロ野球超人バトル』から名づけられたもの)と呼ばれる激しいトレーニングを行っている。内容は、腕立て伏せを500回、腹筋・背筋運動を1000回ずつ、マシンによるトレーニングの他、更にダンベルを右手人差し指と中指に挟むフォークボールの形に握って上下させるというもので、それをゆっくり時間をかけながらではなく、猛烈なスピードで一気に行う。マスターズリーグで一緒になった後輩の宮本和知らは、初めて村田のトレーニングを見て驚愕したと語っている。
- 1992年、小学5年生向けの道徳の教科書に教材として登場、右肘手術からの復活を題材として、逆境を克服した生き方を説いた。