川口和久
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川口 和久(かわぐち かずひさ、1959年7月8日 - )は、昭和後期から平成期(1980年代-1990年代)の元プロ野球選手(投手)。現在は野球解説者。鳥取県鳥取市出身。
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[編集] 来歴・人物
吉岡温泉で食堂(旅館説もある)を経営していた家の、男ばかり三兄弟の末子として生を受ける。鳥取城北高等学校時は速球派投手として注目されるが、夏の甲子園・春のセンバツにはともに縁がなかった(ただし2年時(1976年)に明治神宮野球大会に出場した経験はある)。3年時の1977年にロッテオリオンズからドラフト6位指名を受けるが拒否。その後社会人野球チームのデュプロを経て、1980年のドラフト会議で広島東洋カープに1位指名され、プロ野球選手となった。
入団2年目の1982年にプロ入り初勝利をあげたのをきっかけに少しずつ頭角を現し、3年目の1983年にはシーズン15勝を挙げて、名実ともに左のエースの座に上り詰めた。球威のある速球と落差の大きいカーブを武器に先発として活躍し、北別府学、大野豊らと共に、1980年代『投手王国』広島の一翼を担った。1987年、1989年、1991年と、最多奪三振のタイトルを3度獲得。しかし制球に若干難があり、シーズン最多暴投を記録したこともある。また、広島時代は「巨人キラー」としても活躍していた。対巨人戦で30勝以上している投手のうち、勝ち越しを記録している選手は星野仙一、平松政次、そして川口だけである。
1995年、広島球団初となるFA権を行使し、読売ジャイアンツへ移籍。広沢克己、ジャック・ハウエルらとの33億円補強で話題となる。移籍当初は全盛期並みの活躍が出来ずファーム暮らしが続いていたが、宮田征典2軍投手コーチにリリーフ転向を打診され、リリーフ投手に転向。以降一軍に定着し、1996年のセ・リーグ優勝時には胴上げ投手となった。
1998年シーズン終了後に現役を引退。その後はTBSや中国放送で野球解説者を務める傍ら、タレントとしてもテレビやラジオに出演したり、競艇の解説を行ったりしている。2005年12月8日、故郷・鳥取県に社会人野球チームの「鳥取キタロウズ」が設立され総監督に就任したが、居住地の関係で解説者業との両立が困難となり、2007年2月に辞任が発表された。
[編集] 略歴
[編集] 所属球団
[編集] 背番号
[編集] 経歴・タイトル・表彰
[編集] 年度別成績
年度 | チーム | 試合数 | 勝数 | 敗数 | セーブ | 奪三振 | 防御率 |
1981年 | 広 島 | 7 | 0 | 0 | 0 | 12 | 5.73 |
1982年 | 広 島 | 15 | 4 | 5 | 0 | 50 | 1.93 |
1983年 | 広 島 | 33 | 15 | 10 | 0 | 166 | 2.92 |
1984年 | 広 島 | 24 | 8 | 6 | 0 | 104 | 4.23 |
1985年 | 広 島 | 31 | 9 | 9 | 0 | 116 | 4.39 |
1986年 | 広 島 | 24 | 12 | 9 | 0 | 145 | 3.01 |
1987年 | 広 島 | 27 | 12 | 11 | 0 | 184 | 2.95 |
1988年 | 広 島 | 27 | 13 | 10 | 0 | 179 | 2.55 |
1989年 | 広 島 | 26 | 12 | 7 | 0 | 192 | 2.51 |
1990年 | 広 島 | 29 | 11 | 13 | 0 | 180 | 3.97 |
1991年 | 広 島 | 29 | 12 | 8 | 0 | 230 | 2.90 |
1992年 | 広 島 | 26 | 8 | 12 | 0 | 156 | 3.34 |
1993年 | 広 島 | 25 | 8 | 11 | 0 | 128 | 3.54 |
1994年 | 広 島 | 27 | 7 | 10 | 0 | 96 | 4.72 |
1995年 | 巨 人 | 17 | 4 | 6 | 0 | 66 | 4.42 |
1996年 | 巨 人 | 29 | 1 | 4 | 3 | 62 | 2.95 |
1997年 | 巨 人 | 22 | 3 | 3 | 1 | 17 | 9.92 |
1998年 | 巨 人 | 17 | 0 | 0 | 0 | 9 | 4.61 |
通 算 | 435 | 139 | 135 | 4 | 2092 | 3.38 |
[編集] エピソード
- 自身の「和久」という名前は、父親が大ファンであった稲尾和久の名前をとって命名されたものだという(本人談)。
- ドラフト史の話題になると、必ず挙がるのが川口の名前である。当時川口の所属していたデュプロは、プロのスカウトが全く注目していない無名チームだった。が、人伝に川口の話を聞いたスカウトの神様こと木庭教は一目見てその才能に惚れ込み、他のどのチームのスカウトも目をつけていない事を知ると川口に指名を約束、交換条件としてドラフト会議まで怪我をしている事にして投げないで欲しいと要請した。このため川口は、社会人時代は試合に出ても全力投球をしなかったそうである。そしてドラフト当日、よもや自社の選手が一位指名されるなど予想だにしていなかったデュプロは、急遽記者会見場をセッティング。そこに現れた川口は、作業服にトンボ眼鏡、見るからに線の細い技術者のような姿でとても野球選手とは見えず、誰もこの後の成長を予感、期待していなかった(というよりも出来なかった)という。
- プロ入り後は、伸びのあるストレートと大きなカーブで、北別府学、大野豊らと赤ヘル黄金時代の投手王国を支えた。大野、そして中継ぎの清川栄治らで構成する強力左投手陣は、左投手の有効性を日本球界に強く知らしめ、今日の左腕投手全盛時代の因となっているため、川口のドラフト指名は、その後の日本野球を大きく変えた歴史的出来事だったとも言える。
- 広島時代のある試合で、捕手の達川光男の出すサインが気に入らず、マウンド中で何度となく首を振り続けていたところ、マウンドに達川が走り寄り「もう勝手にせえ!」と激怒、サインを出すのを拒否した。その後バッターに打ち込まれ、首脳陣はベンチに帰ってくるバッテリーを厳しく叱責した、達川は「自分がサインを出していたので」と川口をかばい、一人で責任を被った。その態度に心を動かされ、以降川口は達川に大きく信頼を寄せるようになった。
- リチャード・ギアに似た端正なマスクだけでなく、野球選手とは思えないダンディな雰囲気を持った人物だった。モデル事務所からスカウトを受けた事があり、また阪神タイガース戦後に道頓堀を歩いている時、ホストクラブからホストに勧誘されたこともあるという。低音で歌がうまい事でも有名で、オフ恒例のバラエティ番組で一曲披露した際、番組に出演していた長嶋茂雄から「広島グランドホテル(現在はリーガロイヤルホテル広島と統合)でディナーショーやれえ!」と最大級の賛辞(?)を受けたこともある。
- 来歴・人物の項で述べたように、川口は1995年、FA権を行使して広島から巨人に移籍した。FA資格を得た際「広島から出て行くつもりはない」と公言していたにも関わらず、唐突に巨人入りを決定したことから、広島ファンは「巨人に魂を売った裏切り者」と川口を激しく非難した。だがこれには、大の巨人ファンであった川口の義父(妻の父)が当時末期がんで病床にあり、「巨人キラー」の異名を取った自分が巨人に移籍することで義父を励まそうとした、という事情があった。
- 通算暴投数79個というセ・リーグ1位・球界2位記録を持っている。ちなみに日本記録は、村田兆治の148個。
- 投手としては珍しいスイッチヒッター、しかも非常に珍しい左投げ両打ちである。打者としての実力も高く、1988年にはシーズン3度の猛打賞を記録したこともある。
- 川口の投手としての実績はほとんど広島時代のものであり、川口自身も広島OBと名乗って活動することが多いにも関わらず、一部マスコミは「巨人軍の川口投手」「巨人優勝時の胴上げ投手」など、巨人だけで活躍していたかのような扱いをすることがある。このことは、広島ファンのみならず、多くのプロ野球ファンから反感を買っている。
- 二宮清純を筆頭とする広島ファンの著名人らと共にシンポジウム「東京カープ会」を開催している。シンポジウムにおいては、現在のカープの問題点・再建策について熱い議論を交わす他、古葉竹識監督時代の球団の様々な裏話を披露している。
[編集] 著書
- 『反逆の左腕』(ネコ・パブリッシング) ISBN 4873662419
- 『投球論』(講談社現代新書) ISBN 4061494600
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
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