春日王克昌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
春日王克昌 | |
---|---|
{{{caption}}} | |
各種表記 | |
ハングル: | 김성택 |
漢字: | 金成澤 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
きん・せいたく |
片仮名: (現地語読み仮名): |
キム・ソンテク |
ラテン文字転写: | Kim Song-taek |
{{{alphabet-type}}}: | {{{alphabet}}} |
春日王 克昌(かすがおう かつまさ、本名 김성택(金 成澤 キム ソンテク)、1977年7月1日-)は、大相撲史上初の韓国出身(純韓国籍)の関取・幕内力士、現役である。 ソウル市出身。春日山部屋所属。得意手は右四つ、投げ、寄り。最高位は西前頭3枚目。身長183cm、体重151kg、血液型O型。趣味はギター演奏、映画・ドラマ鑑賞。愛称は、角界ではソンないしキム、一般ではガオー 。
目次 |
[編集] 来歴
1977年7月1日、ソウル市で生まれる。3歳の時に父を亡くしてからは仁川(インチョン)市に移り、母子で裕福ではない生活を送るという気の毒な生い立ちをもつ。富平初等学校(부평 초등 학교 プピョン チョドゥン ハッキョ)に入学して1年生から태권도(跆拳道 テコンドー)を始めるが、同校4年生の時に씨름(シルム=韓国相撲)に転向した。その後、富平中学校(부평 중학교 プピョン チュンハッキョ)、富平高等学校(부평 고등학교 プピョン コドゥンハッキョ)、仁荷大学校(인하대학교 インファデハッキョ)経済学部に進んでシルム一筋に精進し、大学3年生の時に出場した「대통령기 통일 장사 대회 (大統領旗統一壮士大会 テトンリョンギ トンイル チャンサ デフェ)」無差別級で優勝して、その名を広く知らしめた。
その後春日山親方(元幕内 春日富士)に誘われ1998年(平成10年)6月に仁荷大学を休学して来日、当時続いていた外国人新弟子採用自粛の慣例の壁を打ち破って新興間もない春日山部屋(川崎市川崎区大師河原)に入門し、同年11月に初土俵、その後の出世にともない復学は断念して大学を中退している。言葉や習慣の違いに苦労しながらも、稽古熱心で素直に指導を受ける努力家であったため、相撲文化の吸収も早く、時を経ずしてネイティブ並みの日本語を話すほどになった。
順調に出世して2000年(平成12年)初場所に幕下昇進、幕下優勝を経験して、初土俵以来23場所後の2002年(平成14年)名古屋場所には十両に昇進し、初の韓国出身関取となった。十両3場所目の2002年(平成14年)九州場所では十両優勝し、翌2003年(平成15年)初場所の新入幕早々に10勝5敗の好成績を挙げて、敢闘賞を受賞した。
この活躍を受けて、一旦は「日韓共同未来プロジェクト」の名のもと2003年6月にソウル市松坡区の蚕室(チャムシル)体育館(ソウルオリンピックの会場の一つ)で戦後初の「大相撲韓国公演」を開催することが決定されたが、中国などでのSARS流行にともなう渡航自粛という名目で延期となった(一部ではそれ以外の興行上の理由があったとも噂されている)。このころから、充分な地力はあるものの、右大腿肉離れ・左母趾関節脱臼などの外傷や痛風発作などに苦しみ、幕内・十両間を3往復することとなった。2005年(平成17年)9月場所に3度目の再入幕を果たしてからは、幕内の地位を維持しているものの、番付はおしなべて幕内中位以下で、なかなか上位の壁を破れない状況にある。
大相撲で言う押し出し・寄り切りなどの相手を場外に押し出す決まり手が無く、立合いぶつからずに常に組合った状態から競技を開始して投げ合ったり足技を掛けるシルムの経験者であるためか、投げ技や足技を得意とする反面、立合いの踏込みが不得意な傾向にある。右上手を取ると破壊的な力を発揮するが、最近では充分な右上手が取れないとみるとすぐに強引な右小手投げを連発して墓穴を掘る相撲が散見される。ただ、この小手投げがきれいに決まることも多く、「小手投げは控えたい」との本人のコメントとは裏腹に一向に減ることがないため、2007年(平成19年)初場所のNHK大相撲中継では、解説の北の富士に「もうこの人、小手投げに徹したら?」とまで言われている。
延期されていた韓国公演は2004年2月14-15日にソウル市中区の奨忠(チャンチュン)体育館で、同年2月18日に釜山(プサン)市内の社稷(サジク)体育館で開催された。この際の春日王の番付は十両であったため、本来なら海外公演には参加できないところであったが、相撲協会の特別の配慮で参加できることとなり、横綱朝青龍以下の幕内力士40名に春日王を加えた41名の力士により行われた。春日王は土佐ノ海らとともに、ソウル市内や釜山市内にある地元初等学校や日本人学校小学部を親善訪問して生徒たちに稽古をつけたり、公演のプログラムにおいては、観衆に対し大相撲について解説するスピーチを行ったり、本人以外全て幕内力士で構成されたトーナメント戦で横綱朝青龍を破るなど善戦し、地元の観客を大いに沸かせた。
[編集] 人物
性格が非常に温和で、土俵や稽古場を離れると良く人に気遣いが行き届き、ニコニコと笑顔を絶やさずに人当たりがよく、来日わずか数年とは思えないほど流暢な日本語を話すことなどから、後援会や春日山部屋周辺住民をはじめとしてファンの人気は絶大で、好調時はもちろんのこと本場所で連敗が続いた場合には、部屋にファンからの激励の手紙やファックスが多数舞い込む。
早くに父親を亡くし、幼少時から母・崔玉順(チェ・オクスン)さんが掃除婦などをしながら身を粉にして育ててくれたのを見てきたため、母想いは人一倍である。初来日して春日山部屋での稽古を見るなどして相撲の迫力に触れ「ここで成功すれば、親孝行できるのではないか」と考えたのが角界入りを決心した動機であり、またその後の精進の原動力になっている。入門後は一切無駄遣いをせずに貯めたお金で母親のために住宅を購入してプレゼントしたほか、母親が入院・手術した際にはすぐに飛行機で里帰りして見舞い、万一手術後の予後が芳しくない場合には日本に呼び寄せて近くで看護したいと願い出ている。
また、力士養成員(幕下以下のいわゆる「取的(とりてき)」)時代から、部屋が主催する地元川崎市内の教育機関や地域奉仕への催事に嫌な顔ひとつせず皆勤し、2002年(平成14年)6月11日に川崎市役所を表敬訪問した際には、阿部孝夫川崎市長をして「春日王関は地元の誇り」とまで言わしめている。
反面、ひとたび土俵に上がると真剣そのものでプロ気質に富んでおり、今まで何回も怪我をしてきたものの決して泣きごとは言わず、観客の見つめる本場所の土俵上では多少の怪我程度では絶対にサポーターや包帯を付けないという信念の持ち主でもある。
高尿酸血症で痛風発作に苦しんだ時期があるほか、若年性高血圧症の範疇でもあるが、かえってこれが幸いして兵役を免除されている。
1998年(平成10年)夏場所千秋楽で花田勝(元3代目若乃花)が横綱昇進を決定付ける優勝を成し遂げるのを目の当たりに観戦して以来、若乃花に憧れているほか、時に破壊的な小手投げを披露する大関魁皇の全盛期のような力相撲を目標としている。また、引退後は日韓両国にまたがる実業家になる夢を持っており、この面においても花田勝に憧れている。
[編集] 成績
[編集] おもな履歴
[編集] おもな成績 ( 2007年1月場所 終了現在まで )
- 通算成績:301勝261敗5休 (50場所)
- 幕内成績:114勝138敗3休
- 幕内在位:17場所
- 十両優勝:1回
- 幕下優勝:1回
- 敢闘賞:1回
[編集] 場所別成績
場 所 | 番 付 | 勝 | 敗 | 休 | 備 考 |
---|---|---|---|---|---|
1999年(平成11年) 1月 | 東序ノ口 41枚目 | 6 | 1 | - | 優勝決定戦 |
1999年(平成11年) 3月 | 西序二段 89枚目 | 7 | 0 | - | 優勝決定戦 |
1999年(平成11年) 5月 | 東三段目 80枚目 | 6 | 1 | - | - |
1999年(平成11年) 7月 | 西三段目 27枚目 | 4 | 3 | - | - |
1999年(平成11年) 9月 | 西三段目 13枚目 | 3 | 4 | - | - |
1999年(平成11年) 11月 | 東三段目 28枚目 | 6 | 1 | - | - |
2000年(平成12年) 1月 | 東幕下 51枚目 | 3 | 4 | - | - |
2000年(平成12年) 3月 | 東三段目 5枚目 | 5 | 2 | - | - |
2000年(平成12年) 5月 | 東幕下 47枚目 | 3 | 4 | - | - |
2000年(平成12年) 7月 | 東三段目 3枚目 | 5 | 2 | - | - |
2000年(平成12年) 9月 | 東幕下 43枚目 | 5 | 2 | - | - |
2000年(平成12年) 11月 | 西幕下 23枚目 | 4 | 3 | - | - |
2001年(平成13年) 1月 | 東幕下 19枚目 | 4 | 3 | - | - |
2001年(平成13年) 3月 | 東幕下 13枚目 | 1 | 6 | - | - |
2001年(平成13年) 5月 | 西幕下 31枚目 | 5 | 2 | - | - |
2001年(平成13年) 7月 | 東幕下 18枚目 | 5 | 2 | - | - |
2001年(平成13年) 9月 | 東幕下 11枚目 | 4 | 3 | - | - |
2001年(平成13年) 11月 | 西幕下 8枚目 | 2 | 5 | - | - |
2002年(平成14年) 1月 | 東幕下 19枚目 | 7 | 0 | - | 幕下優勝 ① |
2002年(平成14年) 3月 | 西幕下 筆頭 | 3 | 4 | - | - |
2002年(平成14年) 5月 | 西幕下 4枚目 | 6 | 1 | - | - |
2002年(平成14年) 7月 | 東十両 12枚目 | 8 | 7 | - | 新十両 |
2002年(平成14年) 9月 | 東十両 9枚目 | 10 | 5 | - | - |
2002年(平成14年) 11月 | 東十両 6枚目 | 11 | 4 | - | 十両優勝 ① |
2003年(平成15年) 1月 | 西前頭 13枚目 | 10 | 5 | - | 新入幕 ・ 敢闘賞 ① |
2003年(平成15年) 3月 | 東前頭 7枚目 | 8 | 7 | - | - |
2003年(平成15年) 5月 | 東前頭 6枚目 | 4 | 11 | - | 負 傷 |
2003年(平成15年) 7月 | 西前頭 12枚目 | 4 | 11 | - | 負 傷 |
2003年(平成15年) 9月 | 西十両 3枚目 | 4 | 9 | 2 | 痛 風 |
2003年(平成15年) 11月 | 西十両 7枚目 | 9 | 6 | - | - |
2004年(平成16年) 1月 | 西十両 2枚目 | 5 | 10 | - | - |
2004年(平成16年) 3月 | 西十両 6枚目 | 10 | 5 | - | - |
2004年(平成16年) 5月 | 東十両 2枚目 | 10 | 5 | - | - |
2004年(平成16年) 7月 | 東前頭 13枚目 | 4 | 8 | 3 | 負 傷 |
2004年(平成16年) 9月 | 西十両 筆頭 | 9 | 6 | - | - |
2004年(平成16年) 11月 | 東前頭 15枚目 | 8 | 7 | - | - |
2005年(平成17年) 1月 | 東前頭 14枚目 | 9 | 6 | - | - |
2005年(平成17年) 3月 | 東前頭 11枚目 | 1 | 14 | - | 負 傷 |
2005年(平成17年) 5月 | 東十両 5枚目 | 7 | 8 | - | - |
2005年(平成17年) 7月 | 西十両 5枚目 | 10 | 5 | - | - |
2005年(平成17年) 9月 | 東前頭 16枚目 | 7 | 8 | - | - |
2005年(平成17年) 11月 | 西前頭 16枚目 | 8 | 7 | - | - |
2006年(平成18年) 1月 | 東前頭 12枚目 | 9 | 6 | - | - |
2006年(平成18年) 3月 | 西前頭 7枚目 | 7 | 8 | - | - |
2006年(平成18年) 5月 | 東前頭 8枚目 | 6 | 9 | - | - |
2006年(平成18年) 7月 | 西前頭 11枚目 | 5 | 10 | - | - |
2006年(平成18年) 9月 | 西前頭 15枚目 | 8 | 7 | - | - |
2006年(平成18年) 11月 | 西前頭 7枚目 | 8 | 7 | - | - |
2007年(平成19年) 1月 | 東前頭 7枚目 | 8 | 7 | - | - |
2007年(平成19年) 3月 | 西前頭 3枚目 | - | - | ||
通 算 | 301 | 261 | 5 | - |
[編集] その他
- その無謀ともいえる小手投げはよく周知されており、NHK大相撲中継においても、刈屋アナに 「ガンガン無理な小手投げを打つ春日王です」などと淡々と冷たく実況されている。近年では、同中継のメイン解説者である北の富士はもちろんのこと舞の海やデーモン小暮閣下にまで「小手投げの春日王」として解説されている。
- サッカーのFIFAワールドカップ(W杯)2002年大会において韓国代表の司令塔としてMFをつとめ、オランダリーグのエクセルシオール・ロッテルダムでも活躍した김남일(金南一 キム・ナミル)選手とは富平高校時代の仲のいい同級生で、現在でもお互いの健闘を誓い合う関係にある。
- ソウル市出身なので当然ながらきれいな韓国語の標準語、春日山部屋で培ったきれいな日本語の標準語、通常会話に充分な英語、の3ヶ国語を話すトリリンガルである。
- 唄もかなり達者で、宴席ではもちろん、部屋の催事で各機関・施設を訪問した際などにも、積極的にカラオケのマイクを握る。十八番は、不安の念にかられた自身の入門時の想い出を噛みしめてか、離れ離れになって日本に渡った家族への離別の愁を歌詞にもつ、조용필(趙容弼 チョー・ヨンピル)の「돌아와요 부산항에( トラワヨ プサンハンエ ~「釜山港へ帰れ」)」。ほかにも、坂本九の「上を向いて歩こう」、2代目増位山(現三保ヶ関親方)の「そんなゆうこにほれました」、 Ryuの「처음부터 지금까지( チョウムブト チグムカヂ ~「はじめから今まで」)」(ドラマ『 겨울연가(キョウルヨンガ~「冬のソナタ」)』メインテーマ)など、ナツメロ、트로트(トロット=韓国演歌)、日本の演歌、J-POP、가요(カヨ[歌謡]=K-POP)からバラードに至るまで、そのレパートリーは幅広い。
- 2001年(平成13年)には、韓国の公共放送局KBSのシルム経験記者の3日間にわたる体験入門による密着取材を受けている。
- 石塚英彦・パパイヤ鈴木が展開する人気バラエティー番組 『元祖!でぶや』(テレビ東京系)の2006年(平成18年)8月4日放送回において、「富士山麓穴場スポットツアー」に旭天鵬・把瑠都とともにゲスト出演し、共演ゲストふかわりょうと絶妙なカラミを見せ「まいう~」を連発して、その気さくな人柄を見せつけた。
- 日本の携帯電話着メロサイト『大相撲』で、力士としては唯一韓国語バージョンの着ボイスを配信している。
- 2005年(平成17年)10月22-23日、シルムの日本公演が両国国技館で開催され、かつて春日王が在籍した仁荷大学校シルム部の後輩で互いに稽古し合った旧知の李成源(イ・ソンウォン)が優勝した。
- 一時、在日韓国人3世力士玉力道(本名:趙栄来)を春日王の永遠のライバルにしようという機運が大阪の在日コリアンコミュニティーで盛り上がったが、現在では番付差がつきすぎてすっかり下火になっている。
- 春日王はあるとき春日山部屋のすぐ近隣にあるマンションの部屋の購入を検討していたが、価格が相場と比べてあまりにも安いので、不審に思った春日王はそのマンションの部屋を購入することを取りやめた。後にそのマンションは、構造計算書偽造事件において耐震強度が問題となったいわゆる姉歯マンションであることが判明し、強度の地震で倒壊した場合には隣接する春日山部屋にも被害が及ぶ可能性を持つものであった。これは、春日王の賢明さがうかがえるエピソードとして知られている。
- 一部の相撲に無知な涼宮ハルヒファンから、しばしば誤って四股名を「ハルヒ王」と読まれることがある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 大相撲力士 | 在日外国人のスポーツ選手 | 韓国のスポーツ選手 | 1977年生