トロット
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トロット(트로트)は、韓国における大衆楽曲のジャンルのひとつである。日本の演歌と酷似した性格を持つため、しばしば「韓国演歌」と呼ばれることがある。
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[編集] 特徴
韓国の旧来型大衆楽曲のうち、「ズンチャッチャ、ズンチャッチャ…」の3拍子ないし「ズンチャチャチャッチャ・ズンチャチャチャッチャ…」の5拍子(3+2)を基本とするものを『トロット(트로트)』、「ンチャ・ンチャ…」の早い2拍子を基本とするものを『ポンチャック(뽕짝 ポンチャック)』と呼ぶ。 「トロット」は曲調のテンポを表す用語である英語「Foxtrot(フォックストロット)」のハングル表示「 폭스트로트 」の一部をとったものであり、「ポンチャック」は曲の伴奏のリズムを表す韓国語の擬音語を語源とするやや下世話な音楽とする蔑称である。
トロットの歌詞テーマにおいては、別離や薄幸などに対する「恨(ハン 한)」・「男女間や家族間の情愛」・「大自然や日常風景の人生観への投影」などが好んで取り上げられる。恨(ハン 한)とは、自分の理想・なりたい境遇・やり遂げたい事・成就させたい恋愛などに関して、自分なりの努力にもかかわらずなかなか叶えられないことに対する不満や恨みと、それでもあきらめ切れない夢と羨望の念が入り混じった、韓国人特有の情念のことを指し、仏教用語でいう煩悩や日本語で言う怨恨・恨みとは異なる。
トロットの曲構成においては、韓国民謡を由来とする3拍子5音階を用いることが多く、その音階法は、西洋音楽が7音階を基本とするのに対して5音階を取っているために第4音と第7音は存在せず、「4」と「7」を抜いているとする所謂ヨナ抜き音階(ペンタトニック・スケール)と呼ばれる。
その唱法においても、小節(こぶし)廻しを用いた独特の歌唱法が多用される。男性トロット歌手は洋装での出演が多いものの、女性トロット歌手は韓国のイメージを出すためにチマチョゴリ(한복 韓服 ハンボク)で出演することが多く、日本の演歌シーンにおいて女性演歌歌手が日本のイメージを大切にする目的で歌唱時に和装を多用することに似ている。
また、歌詞の言いまわしひとつにしても、男女間の情念をテーマとする曲において相手を二人称で呼称する場面で、K-POP(가요 カヨ / 歌謡)(日本で言ういわゆる「K-POP」)ではクデ(그대 ~日本語でいう「君」「あなた」に相当する)を多用するのに対し、トロットではタンシン(당신 當身 ~日本語において、婚暦の長い夫婦や付き合いの長い恋人同士で、あるいは親友同士で、また喧嘩相手に対して用いられる「おまえ」「あんた」に相当する、韓国語でも全く同様の用法をとる)を好んで用いるところなど、日本のJ-POPと演歌の歌詞の言い回しの違いにそっくりである。
その他、前述の音階法を始めとするコード進行やメロディー構成やアレンジ、歌詞に好んで取り上げられるテーマ素材や歌詞表現の言い回し、プロ歌手の歌唱法やふるまい、ファン層が中高年層中心であること、近年はポップス楽曲に押されて相対的に売り上げが低迷しているが「細く長く」ヒットする曲が多いこと、根強くテレビ放送に独自枠を持つことなど、完全に日本の演歌と酷似した性格をもち、次節で述べる歴史的経緯をも勘案すると、トロットと演歌は日韓同時進行で発展した双子の音楽ジャンルであると言わざるを得ない。
[編集] 歴史
[編集] 起源
トロットの起源は、その性格が日本の演歌と酷似していることから、古代より朝鮮半島で謡い継がれてきた民謡を現代風にアレンジして発生し日本にも伝播したとする説や、日本による韓国併合時代に日本の大衆歌謡が韓国に持ち込まれて発生したとする説など、諸説が入り乱れている。
ただ、日本の演歌の旋律に見られる3拍子とペンタトニック・スケールの多用は、作曲家古賀政男の「酒は涙か溜息か」のヒットに端を発しており、古賀が青年時代まで当時の日本が併合していた韓国で育ったことから、韓国民謡に見られる3分の3拍子あるいは3分の4拍子の独特な旋律に魅入られて自身の音楽世界に昇華させ、この旋律が日韓両国の聴衆に共に受け入れられていったとし、幼少時から韓国民謡に感化された日本人作曲家がその礎となったものとして、古賀の作風を起源とした日韓合作同時発生同時進行的な大衆文化とする説が有力である。
この説において、古賀の音楽観が韓国民謡の影響を強く受けているとする点については、古賀作曲の「人生劇場」などに見られるようにその多くの曲が、それまでの日本の大衆楽曲にはほとんど見られなかった3拍子をベースにして作曲されている事から類推することができる。このため当時、古賀の出自は日本人ではなく純韓国人に相違ないと信じる韓国人が多く(日本人とはいっても実際には物心がつく幼少時から青年期を韓国で生活していたため、韓国文化に感化されないほうがおかしいのだが)、「古河メロディ」が韓国人社会に好意的に受け入れられたため、いわゆる「古賀メロディ」にはじまる韓国風の旋律を源流にもつ持つ流行歌が発売され、その韓国民謡のメロディラインを翻案した日本語の流行歌を逆輸入、さらには日本の演歌との間で再輸出~再逆輸入を繰り返し影響し合う形で、韓国大衆歌謡界におけるトロットの地位が花開いていったものと考えられている。
[編集] 草創期
韓国で初めて発表されたトロットのレコードは1908年のイ・ドンベク(이동백 李東伯 イ・ドンベク)の「赤壁歌」(ビクター)である。1926年にはユン・シムドク(윤심덕尹心悳 ユン・シムドク)の「死の賛美」がヒットした。ユン・シムドクは大阪での同レコードの吹き込み後に、劇作家のキム・ウジン(금우진 金祐鎮 キムジン)と共に関釜航路に就航していた徳寿丸から投身自殺をし、韓国全土に一大センセーションを巻き起こしたことでも知られており、皮肉なことにその話題先行によりレコード発売前から大ヒットは約束されていたようなものであった。
日本のレコード会社は韓国市場に向けて、1928年に「ビクター」、1929年に「コロムビア」、1931年に「ポリドール」・「太平レコード」の順で進出した。また1931年には同年には現地において「シエロンレコード」が設立された。また1933年にも現地レーベルとして、「オーケーレコード」が設立された。当時の日本のメジャーレーベルの中では唯一、「キング」のみが韓国語版レコードの生産を行わなかった。
[編集] 第二次世界大戦までの動向
1932年、10世紀から14世紀の朝鮮半島の王朝国家で、Korea(コリア)の語源にもなった고려(高麗 コリョ)時代の首都であった개성(開城 ケソン)を舞台に歌い上げた이애리수(李愛利秀 イ・エリス)の「荒城の跡」が、韓国レーベルによる初の全国的ヒットとなった。また、同年に채규엽(蔡奎燁 チェギュヨプ)が日本のヒット曲を韓国語に訳して歌った「酒は涙か溜息か」などで人気を博した。また、日本の人気歌手であったディック・ミネが「三又悦(サムウヨル)」の題名で韓国語を用いてジャズ・ヴォーカル・ナンバーを発表するなど、相互通行的な動きも見られた。さらに、本来は韓国の伝統芸術的な歌曲であった「鳳仙花」をソプラノ歌手김천애(金天愛 キム・チョネ)が歌い大ヒットとなった。
1934年には「ノドル河辺」に代表されるいわゆる『新民謡(創作民謡)』がヒットする傾向を見せ、선우일선(鮮于一扇 ソヌ・イルソン)などのいわゆる기생(妓生 キーセン)歌手が数多く誕生した。さらに、同年には高福壽(コ・ボクス)の「他郷ぐらし」、1935年には李蘭影(イ・ナンヨン)の「木浦の涙」、1937年には張世貞(チャン・スジャン)の「連絡船の歌」が、日本による統治への反発を抱く大衆の思いを代弁する形となった大ヒットした。
1938年には「歌謡皇帝」こと南仁樹(ナム・インス)の「哀愁の小夜曲」が大ヒットし、南仁樹は作曲家の朴是春(パク・シチュン)と組んで韓国歌謡界に不動の地位を築くこととなった。この頃、「民謡の女王」として李花子(イ・ファジャ)も人気を博している。金貞九(キム・ジング)の「涙の豆満江」が世に出たのも同時期だが、この歌はむしろこの時よりも、朝鮮動乱後にリバイバルヒットした事で知られている。1940年には白年雪(ペン・ニョンソル)の「ナグネソルム」が、また秦芳男(チン・バンナム)の「不孝者は泣きます」が大ヒットとなった。
その後の第二次大戦の戦局悪化にともない、韓国においても軍部が士気高揚のために利用した戦時歌謡が量産されるようになった。韓国人志願兵第一号として軍当局の言ういわゆる「名誉の戦死」をした李仁錫(イ・インソク)一等兵の最期を美談に作り上げて大々的に喧伝し、当局の言ういわゆる「内鮮一体」のスローガンの気運を何とか盛り上げようと謀る当局の介入に、韓国歌謡界の自由性も次第に萎縮していった。
[編集] 戦後の動向
日本が敗戦し米国による占領当地が解除されて、韓国では解放の時代を迎えるが、在韓米軍は数多く駐留したままであった。米国への留学経験を持つことから反日親米主義者である韓国初代大統領이승만(李承晩 イ・スンマン)が1948年から1960年まで韓国で軍事政権を掌握し、玄界灘から日本漁船を締め出そうとする「李承晩ライン」を張るなどした。トロット界においても、「酒は涙か溜息か」などの日本をルーツにした楽曲は事実上の発禁処分とされる事になった。1947年には玄仁(ヒョン・イン)の「新羅の月夜」が大ヒットしている。米軍キャンプをまわるジャズ歌手なども多く登場している。
1950-53年にかけて勃発した北朝鮮南侵による朝鮮戦争により、国土は壊滅的な打撃を受けた。 戦時中はは軍歌が流行したが、停戦後に北朝鮮へと渡った作曲家・作詞家などは「越北作家」のレッテルを貼られ、彼らの作による「断髪令」「有情千里」など多くの有名な歌が発禁処分となった。これは1988年まで続き、著名曲でありながら公の場では歌えない歌謡曲が多く存在することとなった。
1954年には、李海燕(イ・へヨン)による「断腸のミアリ峠」が大ヒットした。1957年には「エレジーの女王」李美子(イ・ミジャ)がデビューし、後に彼女は韓国歌謡界の女王として君臨することとなる。
1959年ごろから、韓国においてもSPレコードからLPレコードの時代となり、従来は比較的身分の低い低学歴の職業と目されてきた歌手界にも、大学卒の歌手が出現するようになり話題となった。 1961年には、韓明淑(ハン・ミョンスク)の「黄色いシャツ」が大ヒットを果たし、フランスのシャンソン歌手イベット・ジローが同曲をソウルで吹き込んだり、日本においても一部韓国語歌詞を残したまま日本語訳詩が付けられてヒットするなど、社会現象を引き起こした。またこの頃、反共ラジオドラマによって「涙の豆満江」がリバイバルヒットしている。
1962年、朴正熙が大統領に就任、1979年に暗殺されるまで軍事政権を担い、感情的な反日論を抑えて日本との国交回復など対外的な融和策を取るとともに、内政的には強権的な手法によって諸施策を行い、後の奇跡的な高度経済成長を実現した。朴大統領就任時の韓国はむしろ北朝鮮よりも経済的に貧しい国で、国民は食糧難に絶えず脅かされる悲惨な状態にあったところを、現在の経済大国と化した韓国経済の基盤を築いた功績は有名である。一方文化面においては、大衆歌謡にも規制を強め、1975年にはビートルズやローリング・ストーンズなどをはじめとする222曲を発禁処分とし、共産主義を匂わせる歌詞は全て発禁となった。また、朴政権下まではトロットについて演歌のジャンル名でも表現されていたが、その後の「倭色追放運動」によって「演歌」という呼称はは日本語由来の呼称であるとして使用禁止となり、もっぱら韓国語の固有語で「トロット」と呼ばれるようになった。
1967年、南珍(ナム・ジン)による「カスマプゲ」が大ヒットした。同年には、後に国民的歌手となる羅勲児(ナ・フナ)もデビューを果たしている。1971年には銀姫(ウニ)による「サランヘ」が、1973年にはパティ・キムによる「離別」が大ヒットし、両曲の作曲家を手がけた吉屋潤(キルオキユン)の名を高めた。 特に「離別」は、北朝鮮の金正日総書記の十八番としても知られている。(韓国製の映画・ドラマや大衆音楽を「堕落した不純文化」とし、下々の者が観たり歌ったりすると収容所送りになったり処刑される彼の国のトップが、韓国産トロットをオハコにしている点には釈然としない印象が残るが。)
1976年には趙容弼(チョ・ヨンピル)による「釜山港へ帰れ」が大ヒットする。また、1977年、[[李成愛||이성애(李成愛 イ・ソンエ)が日本語に訳したトロットを日本でヒットさせた。従来にも菅原都々子による「連絡船の歌」のヒットや、韓国人歌手である小畑実の人気などスポット的に韓国歌謡の日本でのヒットはあったものの、本格的なトロットの日本への紹介は李を初めてであった。李成愛の成功は、趙容弼や羅勲児らの歌うトロットの日本進出をもたらし、近年の韓流ブームほどは爆発的にではないにせよ、第一次韓流ブームともいえる現象を引き起こし、韓国歌手の名前が日本にも浸透するようになり、後にキム・ヨンジャやケー・ウンスクなどの韓国人歌手が日本に進出・定着する礎となった。 また、「黄色いシャツ」「離別」「カスマプゲ」「釜山港へ帰れ」などの数々のトロット名曲を日本人演歌歌手が競ってカバーするようになり、日本でも大ヒットすることとなった。
[編集] 近年の動向
その後、一旦トロットの人気は下火り、1980年代に入って一時復活の兆しが高まったものの、その人気は長期的に見て凋落傾向にある。
ことに1990年代以降は、서태지와 아이들(ソテヂワ・アイドゥル~ 「ソデヂと子供たち」の意)などに端を発する、従来のトロットの流れを全く汲まないグループやアーティストによる洗練されたダンス曲・ポップロック・バラードなど、いわゆる「가요[歌謡](カヨ=日本語で言ういわゆる「K-POP」)」が若年層を中心に絶大に支持され、トロットはすっかり中高年世代限定の歌というイメージになってしまっている。
また、日本において電気グルーヴによって이박사(李博士 イ・パクサ)が紹介されると一気にテクノファンに浸透し、「ポンチャッ)ク)・ブーム」を巻き起こした。
2004年に장윤정(張允貞 チャン・ユンジョン)が「オモナ」を大ヒットさせ、純トロット曲の久々のヒットとなった。
[編集] 歴代のトロット歌手
- 이애리수 (李愛利秀 イ・エリス)
1930年に20歳でデビューし、1932年に高麗時代の旧都である開城を舞台にした「荒城の跡」が韓国レーベル初の大ヒットとなった。同年、日本においても「李アリス」の芸名で西条八十の詞による「あだなさけ」などを発表した。私生活においては恋愛にからむ人間関係不調を苦にして2度の自殺未遂を起こすなど波乱の人生をおくった。
- 채규엽 (蔡奎燁 チェ・ギュヨプ)
1930年デビュー。1932年に「酒は涙か溜息か」「希望の丘(丘を越えて)」「影を慕いて」など日本の流行歌を韓国語訳して歌いヒットした。その後も「峯子の歌」などのヒットを連発するが、1934年には当時の東京市内のカフェー(当時存在した風俗営業を行う特殊喫茶)で女給(広く一般的に女子のサービス業従業員のことを指したが、赤線やカフェーにおいては狭義に風俗営業を行う女性のことを指した)との淫行スキャンダルを起こし、1937年には詐欺容疑で逮捕されるなど私生活でも話題にも事欠かなかった。また日本においても「長谷川一郎」の芸名でレコード発表をした。とても韓国人とは思えない極端な「친일파(親日派 チニルパ ~韓国人が日本の植民地支配に協力した者に対して売国奴の意味で用いる蔑称)」として知られ、第二次世界大戦時に大政翼賛会に加入したばかりか、帝国陸軍の軍装で軍用機募金運動を行うなどした。日本の敗戦後には「親日派」にもかかわらず上手く立ち回り訴追されることなくステージ活動などを続けたものの、イデオロギー転向して1949年に北朝鮮へ渡り、最後には反体制分子として炭坑に収容されて重労働を課され、野垂れ死に同然の悲惨な最期を遂げた。
- 이란영 (李蘭影 イ・ナニョン)
1916年전라남도(全羅南道 チョルラナムド)[[木浦市|목포시(木浦市 モクポシ)生まれ。1933年オーケーレコードからデビュー。元祖「エレジーの女王」と称されている。1935年に「木浦の涙」が大ヒット。1939年には作曲家の김해송(金海松 キメソン)と結婚。1940年には「泣けよ門風紙」「木浦は港」がヒットする。日本敗戦後は夫とK.P.K楽団を主宰するが、朝鮮戦争で夫が北朝鮮軍に拘束され、2人の最後の別れとなった。設けた7人の子供は渡米しラスベガスで歌手として活躍したが、本人は晩年慢性アルコール中毒となり1965年にさみしい最期をとげた。
- 고복수 (高福壽 コ・ボクス)
1911年生まれ。コロムビアに所属していたがなかなかデビューのチャンスがなく、1934年にオーケーレコードに転出して「他郷ぐらし」でデビュー。これが大ヒットし、1935年には「砂漠の恨」、1937年には「チャクサラン(片思い)」などのヒットを飛ばした。1939年に同じく歌手の황금심(黄琴心 ファングムシム)と結婚した。1958年に歌手を引退し、種々の事業を展開するもことごとく失敗し、1972年に寂しい老後を終える最期となった。2004年に発生したスマトラ島沖地震の大津波による震災では、不幸にもタイのカオラックに旅行中であった彼女の末の息子とその婚約者が被害に会い命を落としている。
- 이화자 (李花子 イ・ファヂャ)
1935年酒場の従業員をしていたところをスカウトされ、いわゆる기생(妓生 キーセン)歌手の中では最も多くヒット曲を連発した。1938年に「コルマンテ牧童」が、1939年には「オモニム前上白(母への手紙)」がヒット。1940年の「花柳春夢」は、日本人歌手である菅原都々子が「片割れ月」としてカバーするほどのヒットとなった。私生活においては「スキャンダルの女王」として知られ、晩年にはアヘン乱用により1950年頃中毒死したとされているが、最期に至るまでの詳細や享年は定かではない。
- 남인수 (南仁樹 ナミンス)
「涙の海峡」でデビュー、1937年オーケーレコードからの再デビューで「水車サラン」がヒット。学歴・音楽経験ゼロからのスタートだったが、作曲家の박시춘(朴是春 パク・シチュン)との黄金コンビによって、1938年には「哀愁の小夜曲」「コジピンプッサラン(裏切られたかりそめの恋)」が大ヒット、1940年の「泣いて別れた釜山港」など、。「女インス」「金インス」と呼ばれるほどの遊び人として知られた。締まり屋としても知られ、日本の敗戦後は興行にも手を伸ばし、持病の肺結核を悪化させることとなった。1946年に「去れよ、三十八度線」、1953年に「別れの釜山停車場」、1956年には「青春告白」などのヒットを飛ばし、1962年に没するまで第一線のスター歌手であり続け、生涯で1000曲あまりを歌って『歌謡皇帝』とまで称された。
- 황금심 (黄琴心 ファン・グムシム)
1921年生まれ。1938年「いとしのあなた」でデビュー。1939年に同じく歌手の고복수 (高福壽 コ・ボクス)と結婚。1953年には「三多島消息」がヒットさせて、歌手を引退しあまたの事業に乗り出すもことごとく失敗して苦しむ妻を物心路湯面で支えた。2001年逝去。
- 장세정 (張世貞 チャン・セヂョン)
1921年生まれ。평양(平壌 ピョンヤン)の少女歌手として、1937年に「連絡船の歌」でデビューし、大ヒット。1939年には「港の名無草」がヒット。当時の芸能界に力のあった이철 (李哲 イ・チョル)の歓心を得ようと綱引きを繰りひろげたライバル이란영(李蘭影 イ・ナニョン)との不仲は有名である。1940年には「さらば断髪嶺」がヒット。日本の敗戦後は舞台などで活躍したが、晩年はロサンゼルス市内で過ごした。2003年逝去。
- 김정구 (金貞九 キム・ヂョング)
1916年원산시(元山市 ウォンサンシ)生まれ。1931年に元山光明普通学校卒業。兄に作曲家の金龍煥(キム・ヨンファン)、姉に歌手の金安羅(キム・アンラ)をもつ。キリスト教徒で、1938年の「王書房恋書」などのコミックソングで人気を博した。同時期に「涙の豆満江」「海の交響詩」を発表し、ヒットとなる。「涙の豆満江」は1960年のKBSラジオの反共ドラマによって再び人気に火がつき、1990年代初頭まで韓国国民の間では「釜山港へ帰れ」を上回る支持を集めていた。こうした功績によって1980年に歌手として受賞することは稀有な文化勲章を授かっている。ソウル市内の『草原の家』というビアホールで70歳を過ぎてからも現役歌手としてステージに立っていたが、1998年ロサンゼルス市内で逝去。
- 백년설 (白年雪 ペン・ニョンソル)
1915年生まれ。やや不安定な歌唱でレコード収録の再にNGを連発する事で知られる。1939年に「流浪劇団」がヒット。1940年には「ナグネソルム」が大ヒットし、「番地のない酒場」もヒットした。1941年には満州移民奨励歌「福地万里」「大地の港」がヒットした。日本の敗戦後は歌手活動を停止して事業展開に専念するが、朝鮮戦争を経て歌手復帰した。1970年に引退、熱心なエホバの証人の信者でもあった事から、1978年にロサンゼルス市に渡り、1980年に没した。
- 진방남 (秦芳男 チン・バンナム)
1917年生まれ。1940年に「不孝者は泣きます」が大ヒット。日本での収録中に母の訃報が入り、曲のタイトルそのままのレコーディングとなった。その後、1950年からは作詞家に転向し반야월(半夜月 パニャウォル)のペンネームで「断腸のミアリ峠」などの作詞を手がけたことで知られる。
- 현인 (玄仁 ヒョニン)
1919年に温泉街である釜山市동협(東莢トンヒョプ とんね)区に生まれる。本名は현동주(玄東柱 ヒョン・ドンジュ)。1942年に東京市上野區の東京音楽学校声楽科を卒業したバリトン歌手で、上海で活動中に終戦を迎えた。声を震わせるような歌唱で知られ、1947年に「新羅の月夜」がヒット。その後も1951年の「頑張れクムスナ」、1953年の「ラッキー・ソウル」などのヒットを飛ばし、晩年まで懐メロ番組の常連であった。2002年に逝去。
- 이미자 (李美子 イ・ミヂャ)
1941年ソウル市生まれ。1958年デビュー。「エレジーの女王」と呼ばれている。伝統的に歌手という職業が低く見られがちであった韓国においては、破格の扱いを受けるまさに歌謡界の女王といえる。韓国では美空ひばりのことを「日本のイ・ミジャ」と称するほどであり、その存在の大きさが窺える。主要なヒット曲だけで100曲を超え、歴代大統領もコンサート観覧に訪れたほどである。1965年のヒット曲「椿娘」は日本的な曲であるとの理由で当局により発禁処分を受けた。韓国の3大放送局のひとつMBC(韓国文化放送)による韓国歌手人気ランキングでは조용필(趙容弼 チョ・ヨンピル)に次ぐナンバー2の得票で、ナンバー3の人気ポップスグループ서태지와 아이들(ソテジワ・アイドゥル)を抑えたこともある。
- 남진 (南珍 ナムヂン)
1945年전라남도(全羅南道 チョルラナムド)[[木浦市|목포시(木浦市 モクポシ)生まれ。本名は김남진(金南珍 キム・ナムヂン)。한양대학교(漢陽大学校 ハニャンデハッキョ)演劇映画学科卒。1965年デビュー。1971年に「カスマプゲ」が大ヒット。나훈아(羅勲児 ナフナ)とのライバル関係が有名である。2001年には夫人が子息の大学不正入試工作容疑で警察当局に拘留された。最近では往年のカリスマがやや凋落気味の感が否めない。
- 나훈아 (羅勲児 ナフナ)
1947年釜山市生まれ。本名は최홍기崔弘基(チュ・ホンギ)。1967年デビュー。自ら作詞・作曲を手がけるシンガー・ソングライターである。1985年の「ムシロ」をはじめとして、デビュー以来大ヒットを連発、日本にもファン層を抱える。남진 (南珍 ナムヂン)とは好敵手の関係にあると言われた。書道に造詣が深いなど多趣味。
1969年デビュー。1976年に発表した「釜山港へ帰れ」など100曲を超えるヒット曲を持つ、韓国を代表する国民的歌手。日本ではもっぱら「釜山港へ帰れ」のイメージから、トロット・オンリーの歌手と思われがちだが、実際には伝統音楽、ポップス、ロック、バラードからトロットまで何でもこなすオールラウンドプレーヤーで、そのレパートリーの広さと歌唱力から、韓国のあらゆる世代から名実共にトップ歌手であると認識されている。
- Patty Kim (パティ・キム)
高校を卒業した翌年の1959年、在韓米軍第8軍の舞台で本名「キムヘジャ」でデビュー、まもなく現芸名に改名。1960年代に米国のテレビ番組「ジャニー・カーソンショー」に出演。1973年の「이별(離別 イビョル)」が大ヒット。1978年に従来一段低く見られていた大衆歌手としては初めて格式の高い세종문화회관(世宗文化會館 セヂョンムヌファフェグァン)での公演を行った。1989年には韓国人歌手として初めて米国カーネギーホールでの公演を果たしている。飲酒・喫煙・徹夜などの不摂生は一切しないことで有名。作曲家の길옥윤(吉屋潤 キロギュン)と結婚するが、後に離婚。代表曲「イビョル」は、韓国国内にとどまらず、日本を含め海外でも多くのファンによって支持されており、敵対しているはずの北朝鮮の金正日総書記の愛唱歌にまでなっている。
- 태진아 (太珍児 テ・ヂナ)
1953年生まれ。[[忠清北道|충청북도(忠清北道 チュンチョンプクド)出身。1974年デビュー。1990年代から「ミアンミアネ(ごめんね)」「サランウンアムナハナ(恋は誰もがするけれど)」などのヒットを連発し、新世紀を迎えた韓国トロットのトップスターの座を射止めることとなった。
- 박일남 (朴一男 パギルナム)
- 백승태 (白承泰 ペク・スンテ)
- 오기택 (呉基沢 オ・ギテク)
- 박대홍 (朴戴弘(パク・デホン)
- 하춘화 (河春花 ハ・チュナ)
- 조미미 (曹美美 チョ・ミミ)
- 심수봉 (沈守峰 シム・スボン)
1959年生まれ。광주(光州 クァンヂュ)市出身。1974年韓国TBCテレビの「全国歌謡新人スターショー」で優勝し、韓国で歌手デビュー。1977年に「女の一生」で日本でもデビューする。1981年に「歌の花束」で当時の韓国レコード史上最高の360万枚のセールスを記録する。1988年ソウルオリンピックのテーマソング「朝の国から」で日本での活動を再度活発化させた。1989年にはNHK紅白歌合戦のメンバー入りし初出場、2002年に「北の雪虫」がオリコンの演歌チャートで初の1位となるなど、日韓両国で大成功を収めて、その後の조용필(趙容弼 チョ・ヨンピル)や나훈아 (羅勲児 ナフナ)の日本進出、日本の演歌歌手によるトロット曲のカバー合戦を導き出し、日本における第1次韓流ブームの火付け役となった。
- 김수희 (金秀姫 キム・スヒ)
- 위금자 (魏金子 ウィ・クムジャ)
- 주현미 (周炫美 チュ・ヒョンミ)
- 설운도 (雪雲道 ソルンド)
1980年生まれ。1999年にMBC(韓国文化放送)강변(江辺 カンビョン)歌謡祭で大賞を受賞し歌手デビュー。2004年発表のアルバム第1集『オモナ』が大ヒットし、ソウル歌謡大賞成人歌謡部門大賞を受賞するなど年末の歌謡大賞諸賞を総なめにして、12年ぶりのトロットの大ヒットと評された。トロット界の超新星として今後を期待されている。また、シスケーリ化粧品と1億ウォンのギャランティーで1年間の専属モデル契約を結び、トロット歌手初の化粧品モデルとなった。
新進女性トロットグループ。その名の通り、ミスコリア・スーパーエリートモデル・世界ベストモデルなどの諸々のビューティーコンテストで受賞した実績をもつ 한영(ハニョン)・연오(ヨノ)・수아(スア)・윤아(ユナ)からなる、平均身長176.5cmの長身美女ばかり4人を集めている。