東急デハ80形電車
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デハ80形電車(では80がたでんしゃ)は、かつて東京急行電鉄の軌道線に在籍した車両。2001年(平成13年)に営業運転を終了した。
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[編集] 概要
- 1950年から1953年にかけて、日立製作所、東急横浜製作所(現・東急車輛製造)、川崎車輛(現・川崎重工業)で28両を製造した。ただし、新規製造は最初の6両(81号から86号)のみで、後の22両(87号から108号)は旧型車の鋼体化改造で登場している。種車は88~102号がデハ1形、87,103~108号がデハ20形である。85号は東急横浜製作所が初めて製造した新規製造車である。
- 車体は当初から殆ど変化が無いが、当初前照灯は上部に設置し、左右には三軒茶屋での二子玉川園・下高井戸両方面のポイント切替指示に使用していた紫の方向指示灯も装備していた。制御器は電空単位スイッチ式間接非自動抵抗制御(総括制御)で、駆動方式は吊り掛け駆動であったが、後年カルダン駆動に変更した。
[編集] 歴史
- 玉川線(玉電)末期の合理化の一環として実施した“連結2人のり”化に伴い、81~84号は1967年に連結面側の運転室を撤去し、中扉のステップ延長、扉幅縮小、ドアエンジン設置を施工した。ただし、車体形状の関係で貫通路は設置しなかった。85,86号は1970年に同様の改造を施工したが、他編成が検査等で片方を欠いた時(当時世田谷線車両は1両毎に検査を受けていた)に代車として使えるよう、両運転台構造のまま残した。したがって、80形の両運転台+片運転台編成、また70形+80形や、150形+80形といった他形式との混結編成もしばしば見受けられた。
- 塗装は玉電時代は淡緑とクリームの2色だったが、廃止と共に順次東急グリーンに変更した。ただし、87~90号は変更せずに転出している。また、玉電時代に一時的に赤一色に塗装した車両が3両存在した(詳細不明)。
- 玉川線で主力として使用したが、1969年の同線の廃止により87~103と108号を廃車した。残りは世田谷線で継続使用し、その際、番号整理の為に104~107号は2代目87~90号へと改番している。
- 87~90号は連結2人のり改造を施工しなかったため、あまり使用しないまま1970年に江ノ島鎌倉観光(現・江ノ島電鉄)に譲渡し、同社の600形として使用した。残りの6両は1978年から段階的に車体更新を受け、外板の全面張替え、窓・扉の交換、中扉の拡張、標識灯の撤去等を実施した。その後も運転台への椅子設置、電源装置のSIV(静止形インバータ)化、室内への扇風機取り付けなどを行なっている。1989年に鉄道線初代3000系列の廃車発生品を流用して前照灯を前面下部に移動してシールドビーム2灯化、ジャンパ連結器の42芯化を実施した。1994年に台車を東急車輛製TS332に交換、駆動装置をカルダン駆動方式に変更した。木造ニス塗り壁、板張り床の車内は最後まで維持し、とりわけ80形は座席袖仕切りも木造のままであった。冷房装置は最後まで搭載する事は無かった。
- 非冷房、高床車であり、旅客サービス改善のため1999年より、台車等を300系に転用して順次廃車となった。2001年の81Fの運用離脱で形式消滅した。81Fは営業運転終了時に写真のように塗装を玉電色(往年の色調とは異なる)に戻し、臨時運行等のイベントを実施した。
[編集] 保存
- 91号は玉川線廃止後、世田谷区立総合運動場内の野球場脇に保存され、物置として使われていたが、後に解体された。
- 85号は営業運転終了後に下北沢や宮の坂、アメリカの鉄道博物館で保存の計画があり、保存会も設立されていたが、何らかの事情により実現せずに解体された。ただし、前照灯やプレート類が切り取られて残されている。
- 東急に最後まで在籍したデハ80形ではないが、1990年に営業運転を終了した江ノ島電鉄601Fは601号(元2代目87号)は世田谷区宮坂区民センター(世田谷線宮の坂駅前)に、651号(元2代目88号)は車体前頭部とパンタグラフのみ和菓子店「扇屋」(江ノ電江ノ島駅-腰越駅間)に保存されている。
[編集] 主要諸元
- 製造初年:1950年
- 全長:13960mm
- 全幅:2310mm
- 全高:3970mm
- 自重:20.7t
- 車体構造:半鋼製
- 定員(座席定員):100(32)人
- 電動機出力・駆動方式:74.6kw×2(吊り掛け駆動式時代)、52kW×2(カルダン駆動式時代)
- 編成:2両
- 軌間:1372mm