柳川次郎
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柳川次郎(やながわ じろう、1923年5月-1991年12月12日)は、ヤクザ、右翼活動家。暴力団山口組系柳川組初代組長。柳川総業会長。亜細亜民族同盟名誉会長。日韓友愛親善会名誉会長。国際宗教同志会連盟理事長。在日韓国人で、本名は梁 元鍚(ヤン ウォンソク)。若い頃は「マテンの黒シャツ」と呼ばれた。
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[編集] 生い立ち
昭和2年(1927年)、柳川次郎の父が日本に移住した。
昭和5年(1930年)春、父の招きで、柳川次郎は母と弟ともに来日した。父の住まいは大阪府豊能郡岡町だった。
昭和7年(1932年)3月、大阪府豊能郡南豊島村第二尋常小学校に入学した。父親の方針で小学校時代を韓国名で通した。
昭和15年(1940年)、柳川次郎は、城東職工学校に進学した。同年、阪急電車豊中駅前で、6人の徴用工と睨み合っていた同胞の在日韓国人谷川康太郎(本名は康東華:カン ドンファ。後の柳川組二代目)を助けた。
昭和16年(1941年)、柳川一家は、なかば強制労働のような格好で大分県中津市の神戸製鋼所の工場に駆り出された。柳川一家は、中津市に移り住んだ。当時の神戸製鋼所は軍需工場の役割を担っており、施設を建設しながら操業すると云う突貫工事に入っていた。大林組が建設を請け負っていた。ここで柳川次郎は鳶職に就いた。このとき、柳川次郎は、大林組の鳶と乱闘となり、半殺しの目にあった。
昭和20年(1945年)、敗戦を迎えると、柳川一家は帰国を決意した。柳川一家は、下関・釜山間の乗船許可証を入手して、同年11月5日に下関に到着した。乗船日は同年11月7日だった。同年11月6日、柳川次郎は、下関の愚連隊3人と喧嘩になり、下関警察署の警官隊に逮捕された。翌11月7日午後、柳川次郎は釈放されたが、柳川が乗船するはずの船は既に出港していた。柳川次郎は身寄りがいなくなってしまい、豊中市に戻った。
[編集] 戦後の混乱期から柳川組結成まで
昭和21年(1946年)5月、柳川次郎は谷川康太郎と再会した。2人は神戸市に出て、闇市などでヤミ物資の強奪を繰り返した。同年6月30日、柳川次郎は強盗罪で豊中警察署に逮捕された。昭和22年(1947年)11月9日、谷川康太郎も強盗罪で生田警察署に逮捕された。柳川次郎は大阪拘置所に送致されたが、ここで暴動が起こり、それに乗じて集団脱走した。このため、柳川次郎は、強盗罪で懲役7年に加え、加重逃走で懲役2年の実刑判決を受け、鳥取刑務所に服役した。
昭和27年(1952年)8月1日、柳川次郎は鳥取刑務所から仮出所した。柳川次郎は、鳥取刑務所で知り合った金昌玉の勧めで、大阪府池田市西本町の「猪名川食堂」経営者・新井孝造(神戸市・五島組系の博徒だった)を訪ねた。柳川次郎は、ここに2ヶ月ほど滞在した。同年11月、柳川次郎は、以前鳶で働いていた大分県中津市に移った。ここで、中津時代の知り合いだった南仲次と再会した。柳川次郎は、南仲次にテキヤ吉富組・吉富政男組長を紹介してもらい、吉富政男の舎弟となった。
昭和28年(1953年)2月、福岡県豊前市の歳の市で、中津市のテキヤと地元のテキヤが地割りで揉めた。中津市のテキヤ代表は、金本組・金本次郎組長で、豊前市のテキヤ代表は、諏訪組・諏訪悦郎組長(後の松葉会常任幹事)だった。対立の中、金本次郎が日本刀で刺殺された。豊前側には、別府市の石井一郎(後の三代目山口組初代石井組組長)がついていた。石井一郎と金本次郎は兄弟分だった。柳川次郎は、吉富政男から、石井一郎を中津側に戻らせるように説得を依頼された。柳川次郎は、石井一郎と築城町で会談し、石井一郎の説得に成功した。石井一郎は中津市に戻り、金本次郎の位牌に焼香した。これを契機として柳川次郎と石井一郎は兄弟分となった。石井一郎に裏切られた格好になった諏訪悦郎は、結局豊前から撤退した。
柳川次郎の下には野沢義太郎(後の五代目山口組舎弟)や福田留吉らが集まった。
昭和28年(1953年)、柳川次郎は、石井一郎とともに、大長組・大長健一組長の舎弟となった。このころ、石井一郎は、大分県中津市の吉富組から、カスリを取られていた。同年、大長組の金庫番兼代貸格・豊島一広と大長組・土谷豊((後の土谷組初代組長)は、石井一郎と柳川次郎と連絡を取り、吉富政男が別府市の石井一郎のところに集金に来る日時を訊いて、別府駅前で吉冨政男を待った。吉冨政男が吉冨組の共の者とともに改札口を出たところで、豊島一広と土谷豊が、吉冨政男に対し、石井一郎の元には行かず中津市に返るように、要求した。そして、豊島一広は、土谷豊と石井一郎とともに吉冨組に赴き、そこで石井一郎に対するカスリについての話合いを持つことを提案した。吉冨政男は提案を了承し、中津市に帰った。豊島一広と土谷豊と石井一郎の3人は、柳川次郎の案内で、別府市から中津市に向かい、吉富政男の自宅兼事務所で、吉富政男と話合いを持った。豊島一広は、吉富政男に、石井一郎からのカスリの放棄を要求した。吉富政男は要求を拒否し、筋を通すように求めた。板ばさみになった柳川次郎は、断指して、吉富政男に詫びを入れた。吉冨政男は、豊島一広の要求を全て呑んだ。吉冨組は、大長組に和解金30万円を支払い、別府市への進出を止めることで、話がついた。
同年10月、この一件を切っ掛けとして、柳川次郎は再度大阪に戻った。野沢義太郎も柳川次郎について、大阪に行った。再度、池田市西本町の新井孝造の世話になった。福田留吉らも柳川次郎の元に集まった。
同年12月ごろ、石井一郎は、別府に石井組を起こした。
柳川次郎は一時期堅気の仕事に就いたが、結局大阪駅を縄張りとし、プー屋(ダフ屋)からショバ代を取り始めた。大阪駅の裏側を縄張りとしていたのが、「歌楽会」だった。歌楽会会長は生田晴美だった。柳川次郎は、歌楽会と、利権の分担を取り決めた。
昭和30年(1955年)4月、浪速区新川3丁目に本拠を置く高村組と、南区難波新地2番丁に本拠を置く笹田組とが、組員同士の喧嘩に端を発し、縄張り争いの抗争を起こした。高村組の組長は、高村春光。笹田組の組長は、笹田克善。高村組は、西宮市西波止町に本拠を置く諏訪組の友誼団体で、歌楽会とも友好関係にあった。歌楽会・生田晴美会長は、柳川次郎に、高村組の応援を求めた。野沢義太郎ら4人が、笹田組組員1人を生け捕りにし、高村組事務所に連れて行った。さらに、この笹田組組員を奪還に来た笹田組員たちを、柳川次郎一派が撃退した。この抗争は、1ヶ月足らずで、終息した。
この抗争の後、高村春光は、柳川次郎を諏訪組・諏訪健次組長に紹介した。
同年5月、神戸市生田区中町3丁目の料亭「三ツ輪」で、諏訪組・諏訪健次組長と柳川次郎との、親子の固めの盃が交わされた。取持人は平錦組・勝間芳次組長だった。
昭和32年(1957年)4月、大阪駅で、柳川次郎は、ショバ代を払わなかったプー屋を、日本刀を抜いて恐喝した。曽根崎警察署は、このプー屋を説得して被害届を出させ、裁判所から逮捕令状を取った。柳川次郎は大分県中津市に逃げた。同年5月、柳川次郎は、中津市内で逮捕された。同年6月16日、柳川次郎は、保釈金20万円を支払って、保釈された。
保釈直後、柳川次郎は諏訪組と絶縁した。同年10月、柳川次郎は東淀川区木川西之町3丁目の藤本組・藤本芳尾組長の舎弟となった。同年12月、柳川次郎は、酒梅組組長・梅野国生(後に七二の林久五郎の跡目を継承)の客分となり、西成に移り住んだ。
西成には、この地区最大の買春暴力団鬼頭組があった。組長は、鬼頭清。組員は200人。戦闘員は百数十名を誇った。鬼頭組は酒梅組系列だった。西成に移った柳川次郎は、鬼頭組に対して、略奪行為を繰り返した。
昭和33年(1958年)2月、柳川一派の秋良大豪が鬼頭組組員5人に暴行を受け、鬼頭組に拉致された。秋良大豪の顔見知りが、この一部始終を見ていて、柳川一派に急報した。柳川次郎は、鬼頭組とは同系列だった酒梅組・梅野国生組長に仲裁を依頼した。同年2月10日、梅野国生は、鬼頭組事務所に出向き、鬼頭清と折衝した。1時間経っても、梅野国生は、酒梅組事務所に戻らなかった。同日深夜、柳川一派8人は酒梅組事務所から、預けておいた日本刀などの道具を持ち出して、鬼頭組事務所に向かった。このときの8人とは、柳川次郎、福田留吉、高信吉、倉本広文(後の五代目山口組若頭補佐)、斉藤登、松田重、武本ケ慧、福成信昭だった。梅野国生と鬼頭清の交渉は不調に終わった。柳川次郎は、鬼頭組事務所から出てきた梅野国生と、鬼頭組事務所前で出会った。このとき、柳川一派は、梅野国生と一緒にいた鬼頭組若頭と斬り合いになり、重傷を負わせた。柳川一派は鬼頭組幹部・玉岡竹夫を斬り殺した。梅野国生は、酒梅組事務所に戻り、支援部隊を送り込んだ。柳川一派8人は、鬼頭組事務所前の細い裏通りで、正面から鬼頭組組員に対して斬り込み、斬り伏せていった。警察への通報があり、パトカーが駆けつけると、鬼頭組組員は姿を消した。これを追った福田留吉は、鬼頭組組員に右腕を刀で刺され、左の頬と背中を斬られ、左手の指3本を切断された。福成信昭はこの戦闘で左腕を切断された。
この事件を切っ掛けに、鬼頭組は瓦解した。
この事件で柳川次郎は収監されたが、9ヶ月の服役だった。同年11月16日、柳川次郎は保釈された。そして、出所直後、柳川次郎は大阪市北区堂山町で、柳川組を結成した。初代若頭には、下川将来が就いた。
[編集] 山口組直参まで
昭和34年(1959年)2月、柳川組の木下一郎と木下弘の兄弟が、鳥取県米子市に、柳川組米子支部を結成した。同年4月5日深夜、ミナミのダンスホール「ユニバース」で愚連隊交星会会員と柳川組組員が口論となり、その後十数人の交星会会員が柳川組の溜まり場だった浪速荘を襲撃した。
その頃、三代目山口組・田岡一雄組長は、昭和34年(1959年)4月から始まる大阪府堺市ㆍ兵寺の臨海工業地帶造成工事での荷役ㆍ労働供給権独占を目指して、勢力を拡大させていた。
同年5月、柳川次郎はテキヤ北三沢組・藤本与治組長とキタの露天で提携した。すぐに柳川組と北三沢組は、大野会・大野鶴吉会長の舎弟双葉会・丹羽峯夫組長と小競り合いとなった。最初は三代目山口組舎弟中川組・中川猪三郎組長がこの仲裁に、当たった。結局は、この仲裁は失敗し、別の者の仲裁で解決した。そのような折、柳川次郎が、山口組若頭の地道組・地道行雄組長の目に留まった。同年6月、中川猪三郎の仲介で、柳川次郎は地道行雄と盃を交わして、地道行雄の舎弟となった。柳川組の福田留吉・園幸義・黒沢明(後の三代目山口組若中)らは、地道組の若衆に直った。
同年7月4日、大阪中央公会堂で、霧島昇を中心とした歌謡ショーを開催した。このショーでは、地道行雄が柳川次郎を後援した。同年10月9日夜、皆生温泉のバー「ニュー皆生」で柳川組米子支部の組員が、鳥取県米子市の岩宮組・岩宮要一郎組長に暴行を加えた。この後、両組に鳥取県警の手入れが入り、抗争は中断した。同年11月12日、柳川次郎は債権取立てをめぐる恐喝で、西成警察署に逮捕され、同年12月末に保釈された。
昭和35年(1960年)1月31日、福島区野田阪神のバー「オリオン」が、愚連隊排除を柳川組に依頼したことから、柳川組と西谷会が抗争となった。柳川組は、西谷会会員1人を殺害し、1人に重傷を与えた。
同年5月26日、砂子川組系で枚方市の松尾組・松尾広組長が、柳川組幹部・田中半次の子分に罵倒されたことから、松尾広とその子分1人が、日本刀を持って、田中組事務所に殴り込み、田中組組員1人を負傷させた。柳川組は、田中半次を指揮官として、組員24人で、松尾組事務所に報復した。組員24人は8人づつ3班に分かれ、まず田中半次率いる第1班が急襲をかけてすぐに退却し、直ちに次の第2班が敵の本拠を攻撃してこれも退却し、第3班が突入して止めを刺すと云う戦術を取った。この殴り込みで、田中半次が松尾組組員1人を射殺した。
同年8月5日、三代目山口組・田岡一雄組長の舎弟で富士会・韓録春会長が、マンモスキャバレー「キング」の店開きをした。同年8月9日、田岡一雄は、キャバレー「キング」の開店祝いに訪れた。その後、田岡一雄は、このキャバレーにゲスト出演した田端義夫をねぎらうために、中川猪三郎(ボディガード役)、韓録春、織田組・織田譲二組長(秘書役)、山広組・山本広組長(若頭補佐)とサパークラブ「青い城」に入った。この場で、明友会幹部・宋福泰、同幹部・韓建造らとトラブルになり、中川猪三郎が殴打される事件が起きた。最初は第三者を交えた交渉で決着を図ったが決裂した。山口組は若頭・地道行雄を総指揮官にして、明友会に対する報復を開始した。明友会は石井一郎に仲裁を依頼した。同年8月23日、箕面市の「箕面観光ホテル」にて山口組と明友会の手打ち式が行われた。山口組側からは、中川猪三郎・韓録春・柳川次郎が出席した。明友会側からは、姜昌興会長と南一家許万根組長が出席した。明友会側は幹部15人の断指した指を持参した。仲裁人は、石井一郎だった[1]。この抗争で大阪府警は、山口組側56人を殺人と殺人未遂で検挙し、最終的には組員84人を検挙した。このうち24人が柳川組組員だった。この抗争での柳川組の戦功は、山口組内部で認められた。
同年12月13日、山口組「御事始」(または、「正月事始」。通称「事始め」)の席で、柳川次郎と石井一郎の直系昇格が決定し、「御事始」終了後に山口組本部事務所で結縁の盃事が執り行われた。取持ち人は、倭奈良組舎弟の水谷奈良太郎だった。こうして、柳川次郎は、三代目山口組の直参となった。
[編集] 山口組直参以降から第一次頂上作戦開始まで
元々大阪を地盤にしていた柳川組は、大阪に進出してきた他の山口組系列化の団体と紛争を起こした。山口組は各組の利害を調整するために南道会・藤村唯夫会長を、大阪地区の総責任者としたが、柳川組の膨張は止まらなかった。山口組若頭・地道行雄は、柳川組を他府県に進出させることを提案し、三代目山口組・田岡一雄組長が最終的に了承した。
柳川次郎は、他府県進出の指揮官に谷川康太郎を任命した。
昭和36年(1961年)4月8日、柳川組は、奈良県下のヤクザ組織に、「貴下を大義同志会支部長に命ず」と書いた封書を送った。同年4月16日、大阪市阿倍野区の料亭「りょう泉閣」で、柳川次郎は、右翼団体「大義同志会」の結成式を行った。大義同志会の本部を、奈良市紀寺町に置き、傘下の「大義同志会全国行動隊」の隊長には谷川康太郎が就任した。結成式に参加したヤクザ組織には、柳川組へ会費を納めることが取り決められた。大和郡山市に本拠を置く服部組・喜多久一組長は、この結成式に参加しなかった。同年5月、柳川組は、近鉄あやめ池遊園地で、力道山一行のプロレス興行を行った。この興行が成功したので、柳川次郎は「柳川芸能社」を起こした。同年6月7日夜、大和郡山市内の寿司屋で、柳川組若衆金長沢と服部組組員が喧嘩となり、金長沢は服部組組員から熱湯の入ったやかんを浴びせられ、火傷を負った。翌日から柳川組は、服部組と、このオトシマエの交渉に入った。同年6月27日、服部組に交渉に行った柳川組組員山田守ら3人が、服部組事務所前で、服部組組員堀正明に猟銃で撃たれ、山田ら2人が重傷を負った。同年7月14日、柳川組組員・福島末博(後の六代目山口組若中)ら3人が、日本刀で喜多久一を刺殺した。同年12月、柳川次郎は、北海道札幌市で力道山一行のプロレス興行を行った。このとき、柳川次郎と谷川康太郎は、会津一家小高組(組長は小高竜湖)の若頭格だった長岡宗一(通称:ジャッキー)と知り合った。
昭和37年(1962年)1月8日午前1時ごろ、近鉄布施駅前で、柳川組組員が、神戸市諏訪組系坂本組組員に、代紋のバッチを奪われ、踏みつけられた。柳川組組員5人が、布施市足代の坂本組組長宅に殴りこみをかけ、組長を刺殺した。大阪府警は、柳川次郎をはじめ、谷川康太郎、加藤武義(本名は蘇武源)、石田章六(後の六代目山口組顧問)、藤原定太郎(後の三代目山口組若中)ら29人の柳川組組員を検挙した。
同年1月、柳川組は京都に進出した。しかし、中島会・図越利一会長(後の三代目会津小鉄会会長)は、武力で柳川組に対抗すると同時に、本多会・本多仁介会長を通じて、山口組に働きかけてきた。これにより、柳川組は京都進出を中止した。
同年、柳川組若頭の谷川康太郎が石川県の中沢組分家・福島三郎(後の四代目山口組若中)を舎弟にして、石川県に進出した。柳川組は、柳川組北陸支部を作り、支部長に福島三郎を据えた。
この後、谷川康太郎の説得により、本多会系米山組副会長・紺谷久雄(後の四代目山口組若中)と曾山修が柳川組に寝返った。同年9月1日、片山津温泉で、米山組組員と柳川組組員が喧嘩となった。同年9月3日午後5時ごろ、米山組組員12人が、紺谷組事務所を襲撃し、紺谷久雄に拳銃で二発の銃弾を命中させて、重傷を負わせた。続いて、米山組組員は曾山組事務所を襲ったが、柳川組は米山組組員中田勲を殺害し、他1人に重傷を負わせた。
同年11月3日夜、枚方市のマージャン店で、柳川組枚方支部長の弟感秀之と松尾組・松尾広組長らが喧嘩となり、感秀之と松尾組組員が負傷した。柳川組組員は松尾組に殴り込みをかけようとしたところを、警察に一斉に検挙された。
同年12月、柳川組は、福井県の倉島組(組長は倉島官司)を傘下に収め、柳川組福井支部の看板を掲げた。
昭和38年(1963年)、柳川次郎は長岡宗一を舎弟とし[2]、長岡宗一や石間春夫(通称:北海のライオン。後の五代目山口組舎弟)、谷内二三男が率いる北海道同志会を傘下に収め、柳川組北海道支部の看板を掲げた。支部長には長岡宗一を据えた。同年11月16日夜、富山県射水郡大門町で、源清田一家の組員が米山組組員と喧嘩になり、米山組組員を負傷させた。これに対し、米山組組員12人が、源清田一家五代目総長を襲い、総長代紋と現金3万円を奪った。柳川組富山支部は源清田一家を応援し、柳川組組員15人が、日本刀で米山組組員6人を斬った。
柳川次郎は、昭和34年に起こした債権取立てに絡んだ恐喝容疑の裁判で、懲役1年が確定し、昭和38年(1963年)3月1日から、大阪刑務所に服役した。地道行雄が三代目山口組若中清水光重(後の三代目山口組若頭補佐)を柳川組の目付役とした。
柳川次郎は、昭和32年4月大阪駅で起こしたプー屋恐喝事件、昭和33年2月10日に起こした鬼頭組との乱闘事件、他2件の併合審理事件を上告していたが、昭和39年(1964年)1月16日に棄却されることが確実となり、懲役7年の刑が決定的となった。上告棄却2日前の1月14日、柳川次郎は獄中で引退声明を出し、それを引き換えに仮出所を許された。同年2月、柳川次郎は、柳川組組員たちから、豊中市の300坪の家[3]をプレゼントされたが、受け取らず、「レストラン・サンマテオ」とし、梅本昌男に経営させた。同年3月5日、柳川次郎は大阪市北区中之島の回生病院に入院した。柳川次郎は長期の服役を余儀なくされたので、組の跡目を決定する必要に迫られた。本来なら九州時代からの舎弟・野沢義太郎だが、柳川次郎は谷川康太郎を考えた。この案に、野沢義太郎、加藤武義、金田三俊らが難色を示した。地道行雄は柳川組二代目に清水光重を推薦した。このため、柳川組幹部一同は、谷川康太郎を柳川組二代目に推挙することでまとまった。初代柳川組組長・柳川次郎の舎弟、若中をそのまま二代目組長・谷川康太郎が引き継ぐこととなった[4]。同年3月8日、谷川康太郎の二代目襲名の盃事が、有馬温泉中の坊の「グランドホテル」で行われ、柳川次郎は後見人となった。この日に漏れた若中10人の盃事は、同年3月10日に、大阪市生野区新今里町の料亭「山市」で行われた。同年7月26日、谷川康太郎の二代目襲名披露式が、兵庫県有馬温泉のホテル池の坊「満月城」で執り行われた。
[編集] 第一次頂上作戦以降
昭和40年(1965年)3月11日、柳川次郎は再び収監され、名古屋刑務所に服役した。
その後も勢力拡大を続ける柳川組は、最盛期に1700人もの組員を抱え(準構成員含むと約2800名)二次団体でありながら単独で警視庁指定全國広域5大暴力団に指定されるまでになった。それに対応する形で、政府の暴力団頭目の逮捕と組織の解散を目的とした第一次頂上作戦が立案された。頂上作戦の結果、昭和40年(1965年)には錦政会、本多会、住吉会、北星会、松葉会が解散に追い込まれた。昭和41年(1966年)には、日本国粋会、東声会が解散に追い込まれた。昭和42年(1967年)には、極東愛桜連合が解散に追い込まれた。昭和44年(1969年)以降になると警察の頂上作戦は、山口組にターゲットを絞って実施された。
山口組にターゲットが絞られると、山口組内の最大組織だった柳川組は、警察の集中取締りの対象となった。昭和42年(1967年)10月12日から、柳川組に対する警察の集中取締りが始まった。半年間でも、柳川組だけで逮捕者164人を出した。
ついに柳川次郎は収監中の名古屋刑務所で柳川組解散を決意した。昭和44年(1969年)4月1日、大阪府警は「レストラン・サンマテオ」の経営内容を理由に、柳川次郎を名古屋刑務所から大阪の田辺警察署に移送した。ここで、田辺警察署は、柳川次郎の口から柳川組解散を引き出した。
同年4月8日、柳川次郎は、二代目柳川組・谷川康太郎組長を大阪刑務所で説得し(谷川康太郎は大阪刑務所に収監されていた)、解散の同意を取り付けた。谷川康太郎が署名した「解散声明書」及び、柳川次郎が署名した「解散同意書」の日付は、昭和44年4月9日となっている。田岡一雄は、本家に無断で柳川組を解散させたと云う理由で、直ぐに柳川次郎と谷川康太郎を絶縁とした。これをもって 柳川組と本家・山口組に対する 第一次頂上作戦は終結することとなった。
その後、柳川次郎は、柳川総業会長、国際宗教同志会連盟理事長に就いた。
昭和48年(1973年)、柳川次郎は右翼団体・亜細亜民族同盟[5]を創立した。その後、柳川次郎は佐野一郎(元公安調査庁調査官)に会長を譲り、自らは名誉会長となった。また、日韓友愛親善会を設立し、日韓の親善に尽力した。
昭和49年(1974年)、柳川次郎は、アントニオ猪木らとともに、45年ぶりに祖国韓国の地を訪れた。
平成3年(1991年)12月、柳川次郎は、大阪で死去。享年68。
[編集] 註
- ^ 名目的には手打ちだったものの、実質的には明友会側の全面降伏に等しかった
- ^ 昭和37年(1962年)5月、長岡宗一は親分の小高竜湖に逆破門状を送り、会津一家からも破門されていた
- ^ 総工費1億円。2年5ヶ月で完成した
- ^ 通常だと、組長が引退した場合、その舎弟もみんな引退する。若中は舎弟となり、新組長の直属だった若中は、そのまま組の若中となる
- ^ 亜細亜民族同盟は、佐野が平成11年(1999年)10月に死亡した後に消滅した
[編集] 書籍・映画
- 「やくざ外伝 柳川組二代目―小説・谷川康太郎」筑摩書房・猪野健治【著】
- 「柳川組の戦闘」角川書店 ・飯干晃一【著】
- 「実録 柳川組 大阪戦争百人斬り」タキコ-ポレ-ション【出演】竹内力・松方弘樹
- 「実録 柳川組2」タキコ-ポレ-ション【出演】竹内力・松方弘樹
- 「実録 柳川組 柳川次郎伝説-完結-」タキコ-ポレ-ション【出演】竹内力・松方弘樹
[編集] 参考文献
- 飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0
- 猪野健治『やくざ外伝 柳川組二代目―小説・谷川康太郎』筑摩書房<ちくま文庫>、2001年、ISBN 4-480-03687-3
- 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0
- 「国会会議録・第101回国会予算委員会第19号・昭和59年4月9日(月)」
- 本堂淳一郎『兇健と呼ばれた男』幻冬舎<文庫>、2001年、ISBN 4-344-40128-X
- 1991年12月11日付「毎日新聞」夕刊
- 『愚連隊伝説』洋泉社、1999年、ISBN 4-89691-408-2
- 溝口敦『撃滅 山口組VS一和会』講談社<講談社+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9