長谷川良平
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長谷川 良平(はせがわ りょうへい、1930年3月25日 - 2006年7月29日)は、愛知県半田市出身のプロ野球選手・プロ野球監督。
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[編集] 来歴・人物
愛知県立半田商工高校を卒業後、安田商店など4つのノンプロチームを経て、1950年、広島カープ設立とともにテスト生として入団。1年目にいきなり15勝を挙げると、以降8年連続で2桁勝利を記録し、1955年には30勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得。毎年最下位争いを繰り広げ、資金難から何度となく存続の危機に瀕していた厳しいチーム事情の中、1957年までの8年間でチーム全体の勝ち星の4割以上を一人で挙げるという大活躍を見せた。黎明期の広島を代表するエースピッチャーであり、長谷川がいなければ現在のカープは存在していなかったと言っても過言ではない。身長167cmという野球選手にしては小柄な体格から、『小さな大投手』の異名を取った。
多彩な変化球を操ると言われたが、実際の球種はストレートとカーブ、縦横二種類のシュートボールのみで、これらを上手、横手、下手から緩急巧みに投げ分けていた。特にシュートの切れ味は群を抜いており、来るとわかっていても当てることができず、どうにか当ててもバットがへし折られることもあり、相手打者から「頼むからシュートを投げないでくれ。バット代がかかって仕方ない」と真顔で頼み込まれたこともあるという。また、国鉄スワローズの金田正一とは何度となく息詰る投手戦を演じ、数々の名勝負はファンの間で現在でも語り草になっている。
1957年7月に広島市民球場が完成し、広島総合球場(現・広島県総合グランド野球場)から本拠地が移る。市民球場の風向きが自身の投げ方と合わなかったらしく、若手時代ほどの成績を残せなかったものの、以降も投手陣の主軸として活躍する。1963年限りで現役を引退。通算197勝は、後輩の北別府学(213勝)に抜かれるまでは球団記録であった(また、名球会入りの条件とされる200勝に最も近い勝ち星で引退した投手でもある)。
引退翌年の1964年から、広島投手コーチに就任。1965年途中から白石勝巳の後を受けて監督を務めた。3年間の在任期間中、安仁屋宗八や外木場義郎ら後の広島を支える若手を育成し、1967年退任。翌1968年、中日投手コーチに就任。杉下茂・水原茂監督のもと、近藤貞雄コーチらと共に小川健太郎や星野仙一や松本幸行らを指導した。
その後再び広島の投手コーチ・ヘッドコーチを務めた後は、広島市中区を拠点にRCC野球解説者、日刊スポーツ野球評論家として長きに渡って活躍した。解説業を退いた後は球界から遠ざかり、たまに広島ローカルのテレビ番組に顔を見せる程度であった。そのため、若い野球ファンを中心にした全国的知名度は非常に低かったが、赤ヘル時代以前からのカープファンにとっては伝説の存在で、広島の年配者には長谷川を慕う者も多かった。2001年、野球殿堂入り。
2006年7月29日、肺炎のため広島市内の病院で死去。享年76。この日広島市民球場で行われた広島-横浜戦(12回戦)では試合前に黙祷が捧げられた(試合は広島が6-3で勝利している)。
[編集] 略歴
[編集] 所属球団
- 広島カープ(1950年 - 1963年)
- 広島カープ・投手コーチ(1964年 - 1965年途中)
- 広島カープ・監督(1965年途中 - 1967年)
- 中日ドラゴンズ・投手コーチ(1968年 - 1970年)
- 広島東洋カープ・投手コーチ(1973年 - 1974年)
[編集] 背番号
- 32(1950年)
- 18(1951年 - 1963年)
- 62(1964年 - 1965年)
- 30(1966年 - 1967年)
- 66(1968年 - 1970年)
- 60(1973年)
- 81(1974年)
[編集] 経歴・タイトル
[編集] 記録達成歴
[編集] 年度別成績(現役)
年度 | 試合数 | 勝数 | 敗数 | 奪三振 | 防御率 | チーム |
---|---|---|---|---|---|---|
1950年 | 56 | 15 | 27 | 146 | 3.87 | 広 島 |
1951年 | 41 | 17 | 14 | 115 | 3.48 | |
1952年 | 55 | 11 | 24 | 138 | 3.32 | |
1953年 | 45 | 20 | 10 | 99 | 2.66 | |
1954年 | 46 | 18 | 17 | 112 | 1.82 | |
1955年 | 54 | 30 | 17 | 207 | 1.69 | |
1956年 | 58 | 22 | 22 | 194 | 2.15 | |
1957年 | 59 | 21 | 23 | 167 | 2.51 | |
1958年 | 33 | 9 | 11 | 103 | 2.12 | |
1959年 | 38 | 12 | 11 | 73 | 2.15 | |
1960年 | 46 | 13 | 15 | 90 | 2.18 | |
1961年 | 35 | 1 | 7 | 42 | 3.63 | |
1962年 | 32 | 6 | 7 | 54 | 3.45 | |
1963年 | 23 | 2 | 3 | 24 | 3.78 | |
通算 | 621 | 197 | 208 | 1564 | 2.65 |
(表中太字は、シーズンのリーグ最高記録)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | チーム |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1965年 | 5位 | 76 | 31 | 43 | 2 | .412 | 広島 |
1966年 | 4位 | 136 | 57 | 73 | 6 | .438 | |
1967年 | 6位 | 138 | 47 | 83 | 8 | .362 | |
通算 | 350 | 135 | 199 | 16 | .404 |
- ※1 1965年は140試合制
- ※2 1966年から1996年までは130試合制
[編集] 関連項目
- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1965年は後半戦からシーズン終了まで指揮。