丹下健三
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丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年9月4日 - 2005年3月22日)は日本の建築家。 「世界の丹下」と言われ、日本人建築家として、最も早く海外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。また磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。 従三位勲一等瑞宝章。文化勲章受章。カトリック教徒(洗礼名:ヨセフ)。
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[編集] 経歴
- 1913年 大阪府堺市に生まれる。住友銀行員であった父の転勤によって生後まもなく中国漢口へ、数年後さらに上海のイギリス租界に移り住む。
- 1918年 上海日本人・尋常小学校入学。
- 1920年 父の出身地である愛媛県今治市に家族で帰郷し、今治の第二尋常小学校に編入。
- 1926年 旧制今治中学(現今治西高校)入学。
- 1930年 今治中学四年修了(飛び級)で旧制広島高校(現広島大学)理科甲類に進学。同校図書室で見たル・コルビュジエの著書に感銘を受け建築家を志す。
- 1935年 東京帝国大学(現東京大学)工学部建築科に入学。内田祥三、岸田日出刀、武藤清に師事。
- 1938年 東京帝国大学工学部建築科卒業後、前川國男建築事務所に入所。当時の担当作品に岸記念体育館があるが現存しない。
- 1941年 東京帝国大学大学院に入学。
- 1942年 大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選。
- 1946年 東京帝国大学大学院修了後、同大学建築科助教授に就任。いわゆる「丹下研究室」を作る。
- 1951年 CIMA(国際近代建築会議)に招かれ、ロンドンで広島計画を発表。初めての海外旅行となる。
- 1963年 新設された東京大学工学部都市工学科教授に就任。
- 1966年 AIAゴールドメダル受賞。
- 1974年 東京大学を定年退官、名誉教授となる。
- 1980年 文化勲章授章。
- 1987年 プリツカー賞受賞。
- 1993年 高松宮殿下記念世界文化賞建築部門受賞
- 1994年 勲一等瑞宝章受章
- 2005年 3月22日死去。享年91。従三位。
[編集] 業績
1939年、雑誌『現代建築』に論文「ミケランジェロ頌 ― ル・コルビュジェ論への序説として ― 」を発表し、つづく1941年に、前川国男建築設計事務所で設計を担当した岸記念体育会館[1]で建築界にデビューするも、その名が一躍世に知られるようになったのは、1942年の大東亜建設記念営造計画[2]コンペと、立て続けに一等入選を果たした、1943年の在盤谷日本文化会館計画コンペによってである。
特に、大東亜建設記念営造物コンペの丹下案、すなわち「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画 ― 主として大東亜建設忠霊神域計画 ― 」は、横山大観風の日本画とも言えるパースペクティブともあいまって、本来、建築学会の若手を対象にした地味な、したがって実施案となり得ない懸賞行事であったこのコンぺをして、後世、人々の記憶にとどめさせることとなった。
1945年、父の訃報により帰郷の途にあった8月6日、今治の空襲で母も失った丁度その日、外国雑誌でル・コルビュジェのソビエト・パレス[1]計画案に出逢い建築家を志した想い出の地・広島が原爆の被災で壊滅的被害を受け、今またその復興計画が戦災復興院で俎上にのぼっていることを知るに及んで、放射能の危険性を心配される向きがあってもなお、志願して担当を申し出た。 そして願い通り、広島市主催の広島平和記念公園のコンペに一位で入選する。
他の計画案が公園内のみを視野に入れた設計案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く平和大通りと直交する軸線上に、慰霊碑と原爆ドームを配したことで他を圧した。 広島の復興計画においてこの市街地を貫く都市軸を通した事で、戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下であるとも言える。 当時単なる一廃墟に過ぎなかった原爆ドームをシンボル遺跡として発見したのは事実上、丹下だと言ってよい。 実際、今にしてみると信じ難いことではあるが、1966(昭和41)年7月に広島市議会にて満場一致で永久保存が決まるまで、「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取壊す」との意見の対立があったのである。
同時期、世界平和記念聖堂のコンペでも衆目を集めたが、丹下案と類似するオスカー・ニーマイヤーのパンプーリャの教会のシェル構造の音響の悪さを嫌った施主であるカトリック教会の意見で不採用になり、後にその実施はそのコンペの審査委員の一人であった村野藤吾が担当することになり、建築界の一大スキャンダルとなる。 そのような経緯もあって、若年期を資材の払底した戦中戦後に過ごさざるを得なかった丹下健三の事実上のデビュー作となった広島平和記念資料館は、桂離宮に範をとったとされる端正なプロポーションをピロティで軽々と大地から持ち上げ、広島の焦土からの復興を力強く印象づけるとともに、戦後の日本建築はここから始まったと言われるほどの記念碑的な作品となった。 またこの事業にイサム・ノグチを強く推して参加させたが、当時、建設省の広島平和記念都市建設専門委員会委員長であり、また自身の恩師でもあった岸田日出刀の「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」との強い反対意見によって、慰霊碑はノグチのデザインが却下され彼自身が担当することになった。 しかし丹下は岸田らの介入に対する不快感とノグチへの申し訳なさから、あえてノグチのデザインをほぼそのまま流用しつつ、埴輪の家の屋根形の慰霊碑から原爆ドームが覗く様にデザインした。
その後、スチール製グリッドのシャープなエッジを見せた旧東京都庁舎や、全国の地方自治体庁舎のモデルとなり、木割りをコンクリートで稠密に再現した香川県庁舎などを設計し、1964年の東京カテドラル聖マリア大聖堂と 国立代々木競技場(代々木体育館)で、自身の建築歴の頂点を極めることになる。 東京カテドラル聖マリア大聖堂は、HPシェル構造、国立屋内総合競技場は吊り構造と、ともに当時の最先端の構造技術を用いながら、構造と形態を高度な次元で融合させ、なおかつ至高性をも表現したモダンデザインの傑作である。 前者は、現代キリスト教会建築の中でも屈指のものであり、後者は、実施はされなかったがコルビュジェのソビエトパレス案から、ノビツキーのノースカロライナ・アリーナ(ローリー競技場)を経てエーロ・サーリネンのイエール大学アイスホッケーリンクに至る流れのなかでの、吊り構造の決定打にして完成作と評され世界に衝撃を与えた。 これらによって丹下健三の名は世界に広く知られるところとなり、以後海外の多くのビッグプロジェクトに携わることとなる。
1961年に丹下健三・都市・建築設計研究所を設立。同年発表された海上都市計画「東京計画1960」は、日本発の都市計画の嚆矢として世界的にも評価が高い。 1970年の大阪万博では京都大学教授の西山夘三と共に総合プロデューサーをつとめ、その中心施設であるお祭り広場では、ジャッキによる先駆的なリフトアップ工法の大屋根を突き破ってそそり立つ太陽の塔での岡本太郎とのコラボレーションを見せ、今を持って語り草となっている。
建築のスタイルは本来モダニズム系統であり、当初はポストモダン建築を単なる意匠だと批判していたが、晩年にはポストモダンの傾向も取り入れた東京都庁などの作品もある。 最後の大作、東京都新庁舎はゴシック建築であるノートルダム寺院(パリ)の双塔の形態を引用するとともに、外壁面を複雑に凹凸させて陰影を深くし、さらに外壁PC板に濃淡二種類の花崗岩を打ち込むことによって一見、窓のようにも見せながらも実はフェイクであり、実際の窓高よりもさらに細かく割ることによって、重厚さを演出した。 丹下自身の言によれば、格子戸を思わせるデザインで和風を感じさせると同時に、情報化時代をIC(集積回路)のグリッドパターンで象徴させた所にポストモダン性があるとしている。
[編集] 評価
日本の近代建築は、丹下の東京オリンピック国立室内総合競技場(代々木体育館)によって初めて世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい。 以後日本建築界が非西洋諸国の枠を超え、世界の中でも傑出した地位を築く道を後進へと開いたと言える。 戦後の日本建築界の重鎮であり、昭和という時代の国家的プロジェクトを背負い続けた建築家であるが、高度成長が終わり開発が一段落した大阪万博以後、その活躍の場は必然的に中東やアフリカ、また東南アジアの発展途上国に移った。 唯一の例外はイタリアである。 自らがアイデアを出し、それを単にスタッフに図面化させるのではなく、設計のオーケストレーションとも言えるプロダクション制を導入し、分業によって設計する手法を導入した。 それにより、後年大谷幸夫、浅田孝、沖種郎、槇文彦、神谷宏治、磯崎新、黒川紀章、谷口吉生ら多くの優れた人材が、巣立っていくことになる。 が反面、特に1980年以降の作品において独創性が犠牲にされたとの批判もある。
ル・コルビュジエ以上に、ミケランジェロに心酔していたが、丹下が建築を志したきっかけのひとつにコルビュジエの計画案であるソビエト・パレスがあった。丹下の卒業設計はコルビュジエの影響が鮮明に出ている。 その圧倒的な影響下に、鼓状の一対のマッスと直交する軸線上の先にアイストップを配置するプランは構想され、大東亜建設記念営造計画から、広島平和記念公園、ナイジェリアの新首都アブジャ都心計画に至るまでたびたび引用された。
東京都庁舎(新都庁舎、1991年竣工)では、指名コンペが行われたが、鈴木俊一都知事との強いつながりを持つ丹下案が大方の予想通り当選し、「出来レース」とも評された。 鈴木俊一とのつながりは、鈴木が東京オリンピックの準備のため地方自治庁(のち自治省、現総務省)から東京都副知事に出向したことにさかのぼり、その後大阪万博の事務局長に就任したこともあって、のちに丹下は鈴木の都知事選初出馬の際、その後援団体「マイタウンと呼べる東京をつくる会」の会長をつとめている。 建築関係者からは「自身のスタイル・信条であったはずのモダニズムを捨て、かつて出口なしとまで批判したポストモダニズムにすり寄り、大衆に媚を売ってまでコンペに勝ちたかったのか」とか「すでにある新宿の超高層ビル群に最も高いビルを加えただけであり、目新しいアイデアがない」などの厳しい批判を受けた。 一方、重鎮となってなおコンペを勝ち抜く図太さ・老獪さ、成功した過去の自分のスタイルに拘泥しない柔軟さ、デザインを含めた象徴性等の狙いの的確さといった点を評価する者も多い。 建築の専門家ほど酷評する傾向があるが、一般には受けが良いようであり、完成以来観光名所となって新宿副都心のランドマークに認知されたようである。
建築史家の藤森照信によれば、丹下健三ほど純粋な建築家はなく、建築以外の分野にも、また自身の過去にも興味がなかったという。 事実、これだけの巨匠でありながら、生前周囲に請われながらも過去一度も回顧展の類いが催されることがなかった。
2005年3月22日、心不全のため91歳で死去した際には、自ら設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂で葬儀が行われた。 生前カトリックの受洗に与っており、洗礼名は聖母マリアの夫であり大工でもあったヨセフであったことが、その時人々に知られた。
2006年4月、広島平和記念資料館(1955年作品 広島市中区中島町)が、村野藤吾・1953年度作品世界平和記念聖堂(広島市中区幟町)とともに、戦後建築としては初めての重要文化財(建造物)指定となっている。
[編集] 注記
[編集] 主要作品
丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む
- 1955年 広島平和記念資料館、広島平和記念公園 国の重要文化財
- 1957年 旧東京都庁舎
- 1958年 香川県庁舎(現・東館)
- 1960年 東京計画1960
- 1960年 日南文化センター
- 1964年 東京カテドラル聖マリア大聖堂
- 1964年 東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)
- 1966年 戦没学徒記念館
- 1967年 山梨文化会館(山日YBSグループ14社)
- 1966年 ユーゴスラビア(現在のマケドニア共和国)・スコピエの都市計画(1966年~72年)
- 1967年 静岡新聞・静岡放送東京支社(山日YBSグループ東京支社も使用)
- 1967年 電通旧本社ビル
- 1970年 静岡新聞・静岡放送本社ビル(新聞放送会館)
- 1970年 日本万国博覧会会場・基幹施設計画、お祭り広場
- 1970年 クウェート大使館
- 1977年 草月会館
- 1979年 ハナエ・モリビル
- 1982年 赤坂プリンスホテル新館
- 1983年 兵庫県立歴史博物館
- 1981年 ナイジェリア・新首都アブジャの都市計画(1981年~85年)
- 1986年 シンガポール OUBセンタービル
- 1986年 シンガポール・南洋理工大学の施設計画
- 1989年 大津プリンスホテル
- 1989年 広島国際会議場
- 1989年 横浜美術館
- 1990年 君津市民文化ホール
- 1991年 新東京都庁舎
- 1992年 兵庫県立人と自然の博物館
- 1994年 新宿パークタワー
- 1995年 シンガポール UOBプラザ
- 1995年 ナポリ市新都心計画
- 1996年 FCGビル(フジテレビ本社ビル)
- 1998年 WHO神戸センター
- 2000年 新香川県庁舎
- 2000年 ベアズパウ・ジャパン・カントリークラブクラブハウス
- 2000年 東京ドームホテル
[編集] 主要文献
- 『一本の鉛筆から』(丹下健三、日本経済新聞社、1985年)
- 『丹下健三』(丹下健三・藤森照信、新建築社、2002年)
[編集] 丹下事務所・丹下研究室出身の建築家
[編集] 関連項目
- 建築
- 建築学
- 日本近代建築史
- 1960年代の建築 - 1970年代の建築 - 1980年代の建築 - 1990年代の建築 - 2000年代の建築
- モダニズム建築
- 新都庁舎コンペ
- フライ・オットー
- 日本のクリスチャン有名人一覧