南海電7系電車
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南海電7系電車(なんかいでん7けいでんしゃ)は、南海電気鉄道の前身の一つである南海鉄道が大正時代に製造した木造電車である。
後にモハ1001形などと改称された。
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[編集] 概要
1924年(大正13年)、難波駅-和歌山市駅間急行列車に使用するため、4両編成10本、計40両が川崎造船所兵庫工場で製造された。
10編成中6編成には順に「浪速」・「和歌」・「住吉」・「濱寺」・「大濱」・「淡輪」と、客船のように編成ごとに沿線の地名にちなんだ固有の愛称が付けられており、残る4編成は検査予備として無銘のまま運用された。
難波側から、電付6形(電附第6号形)(211~220)-電7形(電第7号形)(182・184・186・188・190・192・194・196・198・200)-電付5形(電附第5号形)(227~236)-電7形(電第7号形)(181・183・185・187・189・191・193・195・197・199)の4両編成(「付」あるいは「附」は付随車の意)で組成されており、中間に連結される電動車・制御車ともに運転台が設置されていたが、全車に幌付きの貫通路が設置され(このことから本系列は旧型化したのちに旧貫通とあだ名された)、4連貫通編成として固定運用されるなど、後の長距離電車列車構想を先取りする内容を備えていた。
特に先頭に立つ電付6形には手荷物室・喫茶室(食堂車)・特等室、トイレが備えられ(本形式は日本の電車で初めて食堂・トイレを設置した車両である)、その設備の豪華さで一世を風靡したが、南海鉄道が東の東武鉄道と共に私設鉄道法時代からの長い歴史を持ち、蒸気機関車が牽引する客車列車時代にも一部の優等列車に食堂車を連結した実績があったことを考えれば、そのコンセプトは豪華客車列車を素直に電車化したものであると理解できよう。
なお、電付6形は後年の格下げ直前に一時期用いられた形式称号から、「クイシニ」(ク・制御車、イ・一等車、シ・食堂車、ニ・荷物車)とも俗に呼ばれている。
[編集] 車体
レイルロード・ルーフあるいはダブルルーフと呼ばれる、上段屋根の車端部が下段屋根に丸く落とし込んで接合されるタイプの二重屋根を持つ、15m級3扉木造車体である。
窓配置は、難波方より電7形と電付5形が1D(1)132D(1)131(1)D1、電付6形が1d(1)23(1)D152D(D:客用扉、d:手荷物扉、(1):戸袋窓)であった。
本系列の象徴と言うべき電付6形は難波寄りのd(1)1が荷物室、続く窓5枚と客用扉が特等室、その後の窓6枚(山側は5枚)が喫茶室、残りが厨房・手洗い所というレイアウトで、特等室と喫茶室の天井には、当時としては珍しい扇風機が設置されていた。
前照灯は新造時には前面貫通扉に取り付けられていたが、格下げに伴う固定編成解体後は、順次屋根上へ移設されていった。
[編集] 車内ラジオ放送の実施
1925年4月20日付で、本系列の「和歌号」(552-204-802-203[1])について、社長名で大阪逓信局長へ無線電話施設願として、アメリカ製「ニュートロダイン」型ラジオ受信機の車載認可申請が実施された。
これは鉄道車両では恐らく日本初の車内ラジオ放送サービスであり、同年5月1日付で認可、直ちに使用が開始されたと見られるが、動作が思わしくなかったのか、以後他の編成へは波及せず、この「和歌号」についても翌年8月24日付で廃止届けが提出されている。
これは受信調整にデリケートなニュートロダイン型受信機が車載に適さず、かつその増幅回路の増幅率が低く実用性に乏しかったことが原因と見られるが、喫茶室の設置や扇風機の搭載などと並び、このようなサービス向上策を積極的に実施した当時の南海の姿勢は、来るべき阪和電鉄開業による乗客の逸走に備えた予防策という意味合いが強かったにせよ、後の冷房電車と並び、評価に値するものであった。
[編集] 主要機器
制御器はゼネラル・エレクトリック(GE)社製PC-14、主電動機はウェスティングハウス・エレクトリック社製WH-558-J6(端子電圧600V時定格出力75kW)、ブレーキはJ弁を使用する制御管式自動空気ブレーキであるGE社製AVRブレーキをそれぞれ搭載し、台車はJ.G.ブリル社製Brill 27MCB-2とボールドウィン社製BW-86-35Aである。
[編集] 変遷
本形式は難波駅-和歌山市駅間を1時間半で結ぶ急行運用で鮮烈なデビューを飾り、更に1926年(大正15年)からは新設の特急にも使用され、名実共にこの時期の南海鉄道を代表する看板列車であった。
もっとも、その絶頂期は長くは続かなかった。1929年(昭和4年)、直線主体のルートに重軌条と重架線を敷設した高規格路線と大出力大型電車で大阪-和歌山間をショートカットする阪和電鉄が阪和天王寺-東和歌山間61.2kmを全線開業し、これを迎え撃つべく、新たに鋼製の20m級車両電9系(後のモハ2001形・クハ2801形)が1929年に20両、1930年に12両と順次新製投入されたことにより、15m級木造車体を備える本形式は一気に陳腐化した。このため、本形式は電9系の増備に従って順次優等列車運用から退き、豪華な設備を誇った電付6形は段階的に特殊設備を撤去・改装の上で一般車に格下げられ、固定されていた編成も解体された。僅か5年の優等運用であった。
その後は、より旧型の木造車と混用で普通列車主体に使用され、一部は高野線でも使用された。戦時中にはダブルルーフだった屋根がシングルルーフに改造された。また1943年に堺東車庫で発生した火災で電動車・制御車各々3両が全焼し、モハ1201形と類似の18m級半鋼製車体の車両として復旧した。
空襲による焼失や戦時中の荒廃期の事故によって数を大きく減らし、戦後まで健在であったのは24両であった(18m級半鋼製車除く)。戦後は電動車(モハ1001形・モハ1081形・モハ1241形)は南海本線系各線および合併後の加太線で主に普通列車として広範囲に運用された。うち3両は1956年に荷物電車モニ1045形となり、2両は1955年から電装を解除しクハ1881形となった。一方、制御車(クハ1801形)は1947年に入線したモハ1501形(国鉄モハ63形割り当て車)と組むため1949年にブレーキを制御管式のJ弁(AVRブレーキ)から元空気溜管式のA動作弁(ATAブレーキ)に交換し、20m級大型電動車と17m級木造制御車という不釣り合いな編成を組んで使用された。1960年にはモハ1501形とのペアは解消され、ブレーキ弁を元に戻して再びモハ1001形と組むようになった(木造車追放の一環としてA動作弁のまま廃車となった車両もある)。
本系列は他の木造車と異なり比較的大きく収容力のある車体であること、正面貫通路つきで使い勝手がよかったこと、また木造車としては最末期の製作であったため傷みの進行が遅かったことから、車体の鋼体化は堺東車庫火災焼失車を除いて行われなかった。南海最後の木造車(軌道線を除く)となったが、運輸省より木造車を淘汰するよう指導があったことや老朽化の進行に伴い、モニ1045形を除き1963年(昭和38年)までに全車廃車となった。モニ1045形は鮮魚輸送で腐食した木造車体をモハ1001形の廃車体と交換したりしながら継続使用され、1968年にクハ2851形及びクハ1901形改造のモニ1045形(2代目)に代替されて廃車となった。
堺東車庫火災から復旧した18m級半鋼製車は、直後に戦災で電動車・制御車1両ずつを失った。戦後はクハ1801形と同様にブレーキ配管を改造してモハ1501形と組んで使用された。この過程で電動車は電装解除されて制御車化され、18m級半鋼製車総計4両でクハ1811形とされた。クハ1801形同様1960年にモハ1501形とのペアを解消、ブレーキ配管を元に戻し、モハ1201形と編成を組むようになった。廃車は1970年である。
[編集] 脚注
- ^ 本系列は新造後短期間の内に、電付6形は551~560へ、電7形は201~220へ、そして電付5形は801~810へ、とそれぞれ改番が実施されている。
現用車両 |
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南海線:50000系・10000系・7000系・7100系・9000系・1000系 高野線(大運転):31000系・30000系・2000系・2300系 高野線(区間運転):11000系・6000系・6100系・6200系・6300系・8200系・1000系 支線・鋼索線:2200系・2230系・コ11・21形 |
過去の車両(昇圧後在籍) |
南海線:旧1000系・1521系・キハ5501・5551形 高野線:20000系・21000系・22000系・8000系 貴志川線:2270系・モハ1201形・クハ21201形 |
過去の車両(昇圧前在籍) |
南海線:電7系・モハ2001形(電9系)・簡易半鋼車・モハ1501形・モハ1551形・11001系・12001系・2051系・サハ4801形 高野線:モハ561形・モハ1251形・クハ1900形・サハ3801形 貴志川線:モハ1051形 |
機関車 |
電気機関車:ED5105形・ED5121形・ED5151形・ED5161形・ED5201形 蒸気機関車:C10001形 |