国鉄DD54形ディーゼル機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
DD54形ディーゼル機関車(DD54がたでぃーぜるきかんしゃ)は、1966年に登場した日本国有鉄道(国鉄)の亜幹線用ディーゼル機関車である。
目次 |
[編集] 開発の背景
国鉄の幹線・亜幹線用ディーゼル機関車としては既にDD51形が実用化されていたが、DD51形のように1000馬力程度のエンジンを2基装備して大出力を得るより、2000馬力程度の大出力エンジン1基を装備する方が車両重量を軽くできるし、保守も容易になり、製造コストも抑えられるのではないかという設計思想が1960年代の欧米で広まっており、日本でも注目されていた。しかし当時の日本では機関車用の2000馬力級大出力エンジンとそれを制御する液体変速機を自力で設計・製造することは技術的に困難だったため、西ドイツ(当時)の技術を導入して大出力エンジン方式の新形式機関車を設計することになった。
[編集] 構造
DD54形は亜幹線での使用を前提に設計されており、軸重を14tに抑える必要があった。そのため、軸重低減を目的として機関車としては異色の一軸中間台車(TR104)を装備してB-1-Bの軸配置とすることにより、重量は70tだが軸重を14tとすることに成功している。なお、動力台車はDE10形と同系列のDT131B。(1~3号機は輪芯にリブあり)
DD51形よりやや出力を抑えた設計もプロトタイプであるDD91形からそのまま継承され、マイバッハ社(現MTU)設計のMD870形をライセンス生産したV型16気筒1820馬力の大出力エンジン(DMP86Z)とメキドロ社設計K184U形をライセンス生産された液体変速機(DW5)を装備している。
外観デザインは日本では珍しい箱形車体(これは背の高いDMP86Zエンジンを収めるためでもあった)で、先だって設計された交流電気機関車ED72形・ED73形と同様、窓下を突出させた「くの字」状のヨーロピアンスタイルの前面形態を持っている。凸形が大半であるディーゼル機関車としては異彩を放っており、そのスタイリングは近年の最新鋭機たちと比較しても見劣りしない秀逸なものである。なお、重連運用を想定してないために貫通扉は装備していない。また製造時期により前灯の位置と前面窓の形状が異なっており、外観的には1~3号機(量産試作機、ステンレス窓枠、前灯窓上、サイドエアフィルター形状、動輪輪芯形状)、4~24号機(ステンレス窓枠、前灯窓下、連結器開放テコ先端形状、砂箱形状で2分類)、25~40号機(Hゴム窓枠、前灯窓下、車体溶接構造、年次にて3分類)の3タイプに大分類される。(細分すると分類上1~6次車となる)変形機としては12号機が公式側スカートにSGホース掛けを装備している。このうち、4~24号機に採用されたステンレスの運転席窓枠とケーシングに収められた前灯と標識灯という組み合わせは、同時期に製作されたEF90形(当時、後のEF66-901)、EF66形のデザインテイストと相通じるものがある。
[編集] 製造
1962年にプロトタイプとなったDD91形が製造され、1965年まで福知山線で試用した結果DD54の製造が決定。1966年に量産を開始し、1971年までに計40両が製造された。ライセンス生産品を使用しているためメーカーは三菱重工業のみである。
[編集] 活躍
1966年に先行試作の3両が福知山区に投入され、運用結果が良好であったため本格量産が決定。1968年から1971年までに量産車37両が順次落成し、全40両が福知山機関区と米子機関区に配属された。早速山陰本線や播但線、福知山線などの亜幹線に投入され、C57形、C58形等の蒸気機関車を置き換え無煙化を促進した。しかし、量産機の本格投入後間もない1968年6月28日、山陰本線湖山駅で急行「おき」を牽引中の2号機の推進軸ユニバーサルジョイントが突如破損、落ちた推進軸が線路に突き刺さり機関車は脱線転覆、続く客車6両が脱線するという、いわゆる「棒高跳び事故」を起こした。翌1969年11月にも11号機、14号機が同様の事故を起こしたように、この頃エンジンの高出力に耐え切れなくなったエンジン推進軸やユニバーサルジョイントに起因する故障が多発し、このため欠陥機関車として国会でも問題になったほどだが、これは三菱側の強度計算の誤りによる設計ミスで、この点については推進軸の強化等の対策が実施され解決している。
その後、1968年10月6日に3号機と1号機の重連でお召し列車を牽引するという栄誉に浴している。また、1972年、32~37号機の6両が元空気溜管引き通し増設等の20系牽引対応改造を受け、同年3月15日から京都-浜田間で寝台特急「出雲」の先頭に立った。この頃がDD54形にとって最も輝いていた時期であった。
しかし、この頃から今度はエンジン本体や液体変速機の故障が多発した。メキドロ社の液体変速機は西ドイツの工業製品らしい精緻な技術の塊ともいうべきもので、中でも4速変速機構はシフトアップ・ダウン時にエンジンの回転数とトルクコンバータの回転数を同調させて接続する凝った構造で、爪クラッチをギヤ回転のまま接続させた時のショック緩和用に国産機にはみられない衝撃緩和装置まで装備していた。これらは性能的に極めて優れたものではあるが、同時に構造が複雑で保守には高度な技術と相応の時間を必要とするという弱点も抱えていた。
また、エンジンと液体変速機はライセンス生産品であるため、保守ノウハウも不足しており、整備にも非常に手間がかかり、故障ともなると、配置区である福知山機関区の保守掛の手に負えず、三菱側保守担当者が常駐する鷹取工場へ回送して修繕を行ったり、不明点を本国のメーカーに問い合わせるなどの手間が発生した際も、三菱商事の対応の遅れで修繕が進展しない等の悪循環をも生んでいたため、新鋭機ではあるものの、DD54形に対する信頼は完全に失墜する結果となった。
この当時、同時に量産されていたDD51形が初期故障をほぼ克服し、安定した運用を続けていたこともあり、保守に手間のかかる1エンジン機(DD54)にこれ以上費用をかけるよりも、安定して使用できる2エンジン機(DD51)に統一したほうが、部品共通化等も含めたトータルコストで考えると有利と言う表向きの判断がある一方で、三菱側からの提案で新造DD51の受注納入による弁済でノークレーム化したとの未確認情報もある。(欠陥表面化以降のDD51製造は多くが三菱製)その結果、DD54形は全機淘汰する方針が決定した。
ただ、国鉄も予想だにしていなかった、高価な新鋭機関車のあまりに早い引退(最短命の車両は在籍6年弱で廃車となった38号機)は、後日国会等でも再び問題となり、会計検査院の検査対象にもなった。
1976年6月に12両、1977年1月に10両、同11月に10両、1978年5月には4両が廃車。残る4両は播但線で細々と運用に就いていたが、1978年12月までに全機が廃車された。最後の運用は、1978年6月18日の播但線645客車列車であった。
[編集] ゴーヨン機関車のジンクス
国鉄に在籍した「54形」を名乗る車両は、このDD54形ディーゼル機関車の他にもC54形蒸気機関車をはじめ、EF54形電気機関車、スイス製のED54形電気機関車など、少両数による使い辛さや、高度で緻密な機構を保守できないことによる不具合の多発で、短命に終わる事が多く、鬼門とまでいわれた。そのため、国鉄がキハ54形気動車を開発したとき、他の形式にする事を真剣に議論した程である。
DD54形は、際立ったスタイルで注目を浴びた最新鋭機関車でありながら事故と故障に悩まされつづけ、当初の期待とは裏腹に早々とリタイアしてしまった。その経緯から「悲運の機関車」、「ガラスのエース」などと評され、車両としては失敗作と位置付けられてきた。
しかし、マイバッハエンジンやメキドロ変速機は西ドイツを初めとするヨーロッパ各国で使用されている定評のあるもので、これ自体に問題がないのは確かである。
「欠陥機関車」と言わしめる原因ともされている、プロペラシャフトとユニバーサルジョイントは、明らかに設計強度不足であり、この点では間違いなく「欠陥」であった。
さらに解決を長引かせた原因は、この時期、日本の大出力ディーゼルエンジンや変速機に関する開発・保守の技術レベルは、試行錯誤を繰り返しながら新技術を自分たちのものにしていくという成長過程にあり、これらの技術的に完成された高性能かつ複雑な機械を保守するだけの能力が、当時の国鉄やメーカーに決定的に不足していたことと、エンジンや液体変速機はライセンス生産品であるため、改良を行おうにもライセンスに抵触する部分は本国(西ドイツ)のメーカーにいちいち了承を取らなければならない、という煩雑な手間がかかったため、問題点への迅速かつ最適な対応ができなかったことにあるといえよう。
事実、日本技術陣が独自開発を行ったDD51形も初期故障に散々悩まされたが、自らが開発したものであるため、開発陣と保守陣が一体となってこれをなんとか克服することができ、後の安定した地位を築くことができた。
つまり、DD54形は高性能な精密機械であるがゆえに、技術的に未熟な当時の日本には手に余るシロモノであり、自身の能力を生かせる環境に巡り会えなかったという点では、まさしく「悲運」の機関車であったと言える。
[編集] 保存機
脱線機である2号機も、修理のうえ現役復帰していたが、昭和40年代後半にはDD51へ置き換えが決まり、DD51の転入、新製により多数が休車や廃車され、これらは福知山や東舞鶴、鷹取工場、生野駅構内に留置された。最後まで運用についたのは4両で、うち33号機の1両が保存された。労働組合による“欠陥機関車”の証拠として残すための抗議行動として、解体阻止にあったという説もある。しかし実際には、有力な鉄道愛好者で、医学博士でもある某氏が国鉄に33号機の保存を働きかけていた。(『鉄道ファン』1981年10月号に読者の投票による人気車両ベスト20が発表されたが、当時既に全車廃車になっていたにもかかわらず、同機は7位にランクインされた。)
33号機は1984年1月に福知山機関区から搬出され、同年3月には大阪市港区の交通科学館(現・交通科学博物館)に運び込まれて、静態保存されることになった。現在では再塗装も施され、保存状態は良好。専用の屋根の下、大切に展示されている。
[編集] 主要諸元
- 全長:15300mm
- 全幅:2922mm
- 全高:4058mm
- 重量:70.0t
- 軸配置:B-1-B
- 1時間定格出力:1820PS/1500rpm
[編集] 参考文献
- 池口英司・梅原淳『国鉄型車両 事故の謎とゆくえ』(東京堂出版、2005年) ISBN 4490205635
- 第6節(p57~p69)で本形式を取り上げている
- 塚本雅啓「寝台特急〈出雲〉も牽引したDD54形式ディーゼル機関車」
- 鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』2006年4月号 No.474 p78~p83
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
日本国有鉄道のディーゼル機関車 |
---|
DB10/DC10・DC11/DD10・DD11・DD12・DD13・DD14・DD15・DD16・DD17・DD18・DD19・DD20・DD21 DD40(DD92)・DD41(DD90)・DD42・DD91・DD93 DD50・DD51・DD53・DD54/DE10・DE11・DE15・DE50/DF41(DF92)・DF90・DF91I・DF40(DF91II)・DF93/DF50 ケDB10・ケDB11 |
カテゴリ: 日本のディーゼル機関車 | 日本国有鉄道 | 鉄道関連のスタブ項目