福島県立会津高等学校
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福島県立会津高等学校 | |
過去の名称 | 福島県立会津中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 福島県 |
設立年月日 | 1948年4月1日 |
創立記念日 | 1890年4月3日 |
校是 | 好学愛校 文武不岐 |
共学・別学 | 男女共学 |
中高一貫教育 | 併設型連携型共になし |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 単位制による教育 (進学重視型) |
学科 | 普通科 |
所在地 | 〒965-0831 |
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電話番号 | 0242-28-0211 |
FAX番号 | 0242-28-6680 |
外部リンク | 公式サイト |
福島県立会津高等学校(ふくしまけんりつあいづこうとうがっこう) は福島県会津若松市表町にある県立高等学校。
目次 |
[編集] 概要
旧制会津中学校を前身とする県内有数の進学校。通称は「会高(かいこう)」。同市には読み方が同じ会津工業高校が有るが、「会工」と区別している。旧制中学時代は「会中(かいちゅう)」と呼ばれていた。
[編集] 設立の経緯
設立当時、会津藩の戊辰戦争での敗北により会津地域は壊滅状態にあり、再興が急務であった。1882年、旧会津藩士らは資金を出し合い、会津藩校日新館の流れを汲む私立日新館を設立した。
県令・山吉盛典は1879年、福島・若松・三春・平に中学校を開設したが、県議会の反対により11ヶ月で廃校になる。1884年、福島・若松・平に県立中学校が再び開校されるが、1886年、政府の1県1中学校の中学校令の発布により福島中学校 (現福島県立安積高等学校) を残して廃校した。
このため若松では旧藩士らが「私立」の形で会津中学校設立を目指す。会津若松市初代市長・秋山清八は県議会議員時代、福島県知事を勤めたのち警視総監に栄転した折田平内に設立の旨を訴えた。折田は1887年、「会津中学校設立趣意書」を書き、会津地域の郡長や在京有力者に働きかける。この活動により最終的に文部大臣・榎本武揚が動き、明治天皇から御下賜金300円を受ける。会津では旧会津藩士で東京高等師範学校 (現筑波大学) 校長であった山川浩、その弟で東京帝国大学 (現東京大学) 総長の山川健次郎、福島県裁判所検事・高木盛之輔らが山里を訴えて回った。
1888年、磐梯山の噴火などもあり寄付金集めは難航したが、旧藩士らが国からの就産金を贈り一気に開校へ。47,850円 (現在の価値に換算して2億円程度) の創立資本金をもって会津高校の前身である私立会津中学校の開校が実現した。
[編集] 沿革
- 1890年2月17日 - 設立許可。
- 1890年4月3日 - 私立会津中学校として開校、開校式挙行。
- 1891年10月7日 - 会津尋常中学校と改称。
- 1894年10月7日 - 現在の学鳳高校地に校舎竣工。竣工式挙行。
- 1899年 - 中学校令改正、会津中学校と改称。
- 1901年4月28日 - 県へ移管、福島県立会津中学校と改称。補習科設置。
- 1921年 - 補習科閉科。
- 1935年3月28日 - 新校舎引き渡しを前に火災により全焼。
- 1936年1月25日 - 新校舎竣工、現在地へ移転。
- 1941年 - 尋常科準訓導養成所を併設。
- 1943年 - 戦時措置により、修業年限を5年から4年に変更。
- 1946年 - 修業年限5年制復活、尋常科準訓導養成所を閉所。
- 1948年4月1日 - 学制改革により、福島県立会津高等学校となる。普通科、通信教育科を設置。
- 1951年 - 男女共学開始、女子生徒13名が入学。
- 1952年 - 通信教育科定時制特別課程を設置。
- 1955年 - 男女共学廃止、再び男子校へ。
- 1962年 - 通信教育科定時制特別課程を閉課。
- 1963年 - 火災により、校舎の3分の2を焼失。
- 1965年 - 新校舎へ移転、学而講堂竣工。
- 1966年 - 通信教育科を会津中央高校へ統合。
- 1969年 - 理数科を設置。
- 1982年 - 理数科を閉科。
- 1989年 - 安積第二高校の通信制協力校となる。
- 1997年 - 学而講堂を取り壊し、南体育館が竣工。図書館冷房工事。
- 2000年 - 創立110周年記念式典挙行
- 2002年4月1日 - 男女共学再開。
[編集] 設置課程
[編集] 校章・校歌
- 校章は会津の「会」の旧字体「會」を松葉で囲んだもので、1903年に制定された。
- 校歌は1922年に「駒のいななき」が制定されるが、戦前の軍国主義的な歌詞を含むものであった。1948年、民主主義にふさわしい新校歌をつくるべきとの意見が多くなり、校歌制定委員会を設置。委員会での審議の結果、作詞を同校出身の外交官で詩に堪能だった柳澤健に、作曲を古関裕而に依頼することに決定。1949年、現在の校歌が発表された。
- 校歌のほか、応援歌2曲と凱旋歌、学而会歌、青春歌(創立110周年を記念して作られた。作詞作曲ともに生徒)がある。
[編集] 学校行事
- 4月 - 入学式、前期始業式、対面式、実力考査、中田浜強歩大会
- 5月 - 前期第1回考査
- 6月 - OB講演会
- 7月 - 前期第2回考査
- 8月 - 実力考査(下旬)
- 9月 - 前期第3回考査、前期終業式
- 10月 - 後期始業式、創立記念マラソン大会
- 12月 - 後期第1回考査
- 1月 - 実力考査、高校入試I期選抜
- 2月 - 後期第2回考査
- 3月 - 卒業式、高校入試II期選抜、後期終業式
[編集] 強歩大会
- 毎年4月下旬に行われ、学校から飯盛山方面を通り猪苗代湖畔・中田浜の学而会館、そこから更に学校まで戻る総延長40キロ以上の道のりを半日かけて歩く大会である。
[編集] 文化祭
- 「学而祭」と呼ばれる。1948年に提案され、第1回学而祭が翌1949年9月23日から3日間開かれた。現在は、一般の市民も招き3日間にわたって開かれる公開学而祭が3年ごとにあり、その他の年は校内での開催であったが、2003年からは「青春祭」と呼ばれる体育祭を開催している。公開学而祭では生徒らの自主的な発表・運営のほか、各界の著名人を招いての講演が催される。第一回講演会にはノーベル賞受賞者である湯川秀樹が招かれた。その他桑原武夫、広中平祐、秋山仁などが過去に講演した。
[編集] 生徒会活動
- 会津高校では、生徒会は「学而会」と呼ばれ、生徒による自治組織として活動している。1893年に発足。1941年5月22日からしばらく解散状態となる。この間「修練会」と名前を変え、戦時色の濃い勤労奉仕をしていたが、1945年の役員選挙とともに復活した。
[編集] 部活動
- 野球部
- バレーボール部
- 卓球部
- 水泳部
- バスケットボール部
- 剣道部
- 柔道部
- 山岳部
- 弓道部
- 空手部
- テニス部
- ソフトテニス部
- 陸上競技部
- 端艇部
- バドミントン部
- サッカー部
- スキー部
- 社会弁論部
- 物理部
- 化学部
- 生物部
- 美術部
- 合唱部
- 吹奏楽部
- 写真部
- 地歴部
- 電氣部
- 工芸部
- 英語部
- 演劇部
- 家庭生活部
[編集] 著名な出身者
[編集] 政界
- 伊東正義 - 衆議、内閣官房長官 (大平内閣)、外相 (鈴木内閣)、自民党政調会長・総務会長、農水事務次官
- 川島廣守- 警視庁公安部長、警察庁警備局長、内閣官房内閣調査室長、同副長官事務担当、セ・リーグ会長、日本野球機構コミッショナー、野球殿堂
- 渡部恒三 - 衆議、厚相 (中曽根内閣)、自治相 (海部内閣)、通産相 (宮澤内閣)、衆院副議長、民主党最高顧問。
- 丹羽七郎 - 内務次官
- 菅家一郎 - 会津若松市長
- 山内日出夫 - 前会津若松市長
- 早川廣中 - 元会津若松市長
- 平出孝朗 - 福島県議会議員
- 小熊慎司 - 福島県議会議員
- 芳賀一太 - 元福島県議会議員
[編集] 学界
- 松本信一 - 京都帝大医学部教授、京大名誉教授、大阪医大学長、日本医学会会頭。皮膚疾患の詳細な病態症候学の研究により1965年シャウディン-ホフマン賞受賞
- 小室直樹 - 評論家、社会学者、政治学者、経済学者、法学者。著書に『ソビエト帝国の崩壊』など多数
- 渡部潤一 - 天文学者、国立天文台天文情報公開センター広報普及室長、同センター助教授、総合研究大学院大学助教授
[編集] 文化界
- 高羽哲夫 - 松竹カメラマン。「男はつらいよ」「学校」各シリーズ、「幸福の黄色いハンカチ」などを撮影
- 柳澤秀夫 - NHK記者、同解説委員主幹、ニュースウオッチ9総合司会
- 室井光広 - 小説家、文芸評論家。『おどるでく』で第111回芥川賞受賞
- 塩原恒夫 - フジテレビアナウンサー
- 三瓶宏志 - NHKアナウンサー。NHK放送センター東京アナウンス室所属
- 山口隆 - 歌手、ロックバンドサンボマスターのボーカル