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サッカーの世界大会である第6回FIFAワールドカップは1958年にスウェーデンで開催された。ブラジルは決勝でスウェーデンを5対2で破り、史上4カ国目の初ワールドカップ優勝を果たした。この大会で当時弱冠17歳のペレが世界の舞台にデビューを果たした。
ソビエト連邦が初めて大会に参加したほか、イギリスを構成する4カ国、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドが初めて予選ラウンドに参加した。1954年から大会の方式が変えられた。前回と同じように16チームが地域予選を突破して大会に参加し、4カ国ずつ4つのグループに分けられた。しかし、グループ内では他の全てのチームと必ず1度対戦するようになり、また延長戦も廃止された。勝ち点は、勝ちで2点、引き分けで1点、負けで0点と定められた。2位と3位のチームが同じ勝ち点で並んだ場合には、プレーオフが実施され、得失点差は決勝ラウンド突破に影響を与えないことになった。
ブラジル代表のペレは対ソ連戦まで試合に出ることは無く、チームは2対0で勝ったものの得点やアシストを決めることも無かった。ブラジルは勝ち点5でグループDを1位で突破し、ソ連とイングランドが勝ち点3で並んだため、プレーオフが実施された。アナトリー・イリーインが後半22分に得点を決め、1対0でソ連が決勝ラウンドに進出した。オーストリアは3連敗で予選ラウンドで姿を消した。
グループAでも北アイルランド対チェコスロバキアのプレーオフが行われ、2対1で北アイルランドが勝利し、予選ラウンドを突破した。西ドイツが勝ち点4で1位通過し、アルゼンチンは予選ラウンドで敗退した。グループCでは、ウェールズがプレーオフでハンガリーを下し、1位通過のスウェーデンとともに決勝ラウンドに進出した。前回準優勝のハンガリーは、1956年のハンガリー動乱の影響から主力選手が亡命し、代表チームとしての力が大きく低下していた。
イギリスを構成する国の中でスコットランド代表がもっとも強豪国ぞろいのグループBに入り、結果的に1引き分け2敗でグループ最下位で大会を去った。フランスはジュスト・フォンテーヌが6得点を決め、グループ1位で通過した。ユーゴスラビアが2位になり、勝ち点差1でパラグアイが3位になった。プレーオフが行われなかったのはこのグループだけである。
準々決勝でもジュスト・フォンテーヌは2得点を決め、フランスは北アイルランドに4対0の大差で勝利した。西ドイツ代表のヘルムート・ラーンは決勝点となる1得点を決め、ユーゴスラビアを1対0で下すのに貢献した。スウェーデンは2対0でソ連に勝利した。ブラジル対ウェールズではペレが得点を決め1対0でブラジルは準決勝に進出した。
準決勝でスウェーデンは西ドイツを3対1で下し、決勝に進出した。フランス対ブラジル戦では、得点王となるジュスト・フォンテーヌが1得点を決めたが、ペレがハットトリックを決め、5対2と一方的な展開となった。3位決定戦でジュスト・フォンテーヌは4得点を決めて、西ドイツを6対3で下し、この大会でのゴール数を13とし、得点王となった。この記録は現在でも破られていない。
決勝戦はソルナのロースンダスタジアムで行われ、約5万人が観戦した。開始わずか4分でスウェーデンは1得点を決めリードを奪ったが、ババが即座に1点を決めて追いつき、ハーフタイム前に1得点を決めて、ブラジルが逆転した。後半はペレが支配して2得点を決め、チームメートのザガロが合間に1得点を決めて、完全に試合を決めた。スウェーデンは1得点を返したものの、終わってみれば準決勝と同じ5対2であり、ブラジルは初めてジュールリメ杯を手にした。欧州開催で南米勢が優勝した、唯一の大会となっている。
- 優勝 : ブラジル
- 準優勝 : スウェーデン
- 3位 : フランス
- 4位 : 西ドイツ
[編集] 出場国
ヨーロッパ
南米
北中米カリブ海
[編集] 第1ラウンド
[編集] グループ A
[編集] グループ B
[編集] グループ C
チーム |
勝ち点 |
試合数 |
勝 |
引 |
負 |
得点 |
失点 |
スウェーデン |
5 |
3 |
2 |
1 |
0 |
5 |
1 |
ウェールズ |
3 |
3 |
0 |
3 |
0 |
2 |
2 |
ハンガリー |
3 |
3 |
1 |
1 |
1 |
6 |
3 |
メキシコ |
1 |
3 |
0 |
1 |
2 |
1 |
8 |
|
|
[編集] グループ D
[編集] 決勝トーナメント
[編集] 準々決勝
[編集] 準決勝
[編集] 3位決定戦
[編集] 決勝
1958ワールドカップ
優勝国: |
ブラジル
初優勝 |