サイレンススズカ
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![]() 天皇賞(秋)本馬場入場時のサイレンススズカ (1998年11月1日、東京競馬場にて撮影) |
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性別 | 牡 |
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毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1994年5月1日 |
死没 | 1998年11月1日 |
父 | サンデーサイレンス |
母 | ワキア |
生産 | 稲原牧場 |
生国 | 日本(北海道平取町) |
馬主 | 永井啓弐 |
調教師 | 橋田満(栗東) |
競走成績 | 中央 15戦9勝 香港 1戦0勝 |
獲得賞金 | 4億5598万4000円 +23万1000香港ドル |
サイレンススズカ(Silence Suzuka、香港表記:無聲鈴鹿)は日本の競走馬。主な勝ち鞍は宝塚記念。1998年JRA賞特別賞受賞。同年6連勝で臨んだ天皇賞(秋)にて故障を発生し、予後不良と診断、安楽死処分された。大逃げというレーススタイルで勝ち続けた異例の一流馬である。
目次 |
[編集] 出自
1993年の種付けシーズンに、当初生産者は母ワキアにバイアモンを種付けしたが受胎しなかった。そこで同年春のクラシック戦線で産駒が大活躍したトニービンを配合しようとしたが、種付け当日のトニービンの予定は既に埋まっていた。繁殖牝馬の発情の機会は一度逃すと、次がいつになるかわからない。そこで、当時まだ産駒がデビューしておらず種牡馬としての実力は未知数であったが、社台スタリオンステーションが推薦したサンデーサイレンスを種付けした。
牧場時代のあだ名は母の名から「ワキちゃん」。父(青鹿毛)にも母(鹿毛)にも似ず栗毛だったことと、当時はサンデーサイレンス産駒の活躍馬に栗毛の馬がほとんどおらず心配されたらしいが、イシノサンデー(栗毛)がGI皐月賞を勝ったことで安心したという。育成中は小柄でおとなしく牝馬のような馬体だった。走るのが大好きなのか、速く走れば早く休めると思っていたのかはわからないが、放牧地ではとにかく速く走っていたという。
[編集] 現役時代
[編集] 4歳時・春シーズン
5月生まれということもあり育成牧場では成長に合わせてじっくりと鍛えられ、3歳の冬になって栗東トレーニングセンターの橋田満厩舎に入厩した。調教では、後にオープンを勝つ5歳準オープンのアドマイヤラピスに併せ馬で先着し、坂路では破格の一番時計を出すなど、いずれもこの時期の未出走馬としては常識外れのパフォーマンスを見せ、すぐに関係者内で広く知られる存在となる。
デビューは1997年2月1日までずれ込んだが、2着のパルスビート(後に重賞2着3回)に7馬身差の圧勝。調教師の橋田には、新馬戦ではなくいきなり500万条件の特別に出走させる考えもあったといい、陣営の自信のほどが窺われる。この年のサンデーサイレンス産駒に大物が不在だったこともあり、この勝利のインパクトの大きさから、「遅れてきたサンデーサイレンスの大物」、「ダービーはこの馬」とまで評価された。
その勢いを駆って、皐月賞への優先出走権を獲得すべく、2戦目にして初遠征でトライアルの重賞弥生賞に出走したが、まだまだ精神的に幼く輸送中の車の中でずっと寂しい思いをし続けていたらしく、担当厩務員が傍を離れて不安を覚えたようでゲートをくぐってしまい外枠発走となってしまう。その後の発馬でも約10馬身出遅れ、詰めるだけでも困難なほどの差を先行馬群につけられ、並の馬であればそのまま最後尾を一周してくるだけの状況となった。しかし3コーナーで先行する馬群に追いつき、4コーナーでは3番手に進出して、あわや勝ち負けになるかという競馬を見せる。さすがに最後は力尽きてランニングゲイルの8着(14頭中)に敗れ皐月賞への出走は叶わなかったものの、負けてなおその高い能力を示す内容であった。
その後自己条件の500万下で1.1秒差の圧勝を飾り、続く日本ダービートライアルのプリンシパルステークスも連勝して、東京優駿(日本ダービー)に出走する。しかし陣営が抑えて(レースのVTRを見れば、非常にかかっていることが判る)走ることに執着したことが裏目にでたのか、終始折り合いを欠き、サニーブライアンの9着に敗れた。この反省から陣営は抑える競馬を捨て、逃げに活路を見出すことになった。
[編集] 4歳時・秋シーズン
秋初戦は神戸新聞杯に出走する。直線も半ばで後続に大きな差がついており、鞍上の上村洋行は勝ったと思い追うのをやめてしまったところ、この年の菊花賞優勝馬となるマチカネフクキタルの強襲によって2着に敗れてしまう。このため、デビューからここまで主戦騎手を務めてきた上村は降板させられる。次走は距離適性や気性の問題などから菊花賞ではなく、天皇賞(秋)を選択し、鞍上は河内洋に変更された。ここでは1000m通過が58秒5というハイペースの大逃げで見せ場を作った。勝ったエアグルーヴからは1秒差の6着に敗退するものの、3着のジェニュインらとほとんど差のない6着であったこと、5歳時の大逃げスタイルの原型を確立させたこと等、当馬にとって大きな意味を持つレースとなった。
次走は京阪杯に向かう予定だったが、香港国際カップに選出されたため急遽中2週でマイルチャンピオンシップへ向かった。キョウエイマーチと競り合い、1000mが56秒台という驚異的なハイぺースになり直線で馬群に沈むと、生涯で唯一の2桁着順となる15着に敗れた。出走予定がドタバタした上に、鞍ズレのというアクシデント、そして何より中2週という酷なローテーションでありながらハイペースは過酷すぎたようで、その後香港国際カップに出走するため香港に遠征したものの体調不良を起こしていた。同日の香港マイルの勝ち時計を上回る1600m通過タイムで逃げるが、失速し5着に敗れる。
この年は、陣営のやることなすことの多くが裏目に出たことや、騎乗ミス、ローテーションの急変更などでまさに踏んだり蹴ったりの一年であった。また、調教師の橋田は5月生まれということもあり、同世代の馬よりも成長が遅れていたと語っていた。4歳時の成績は決して一流馬のものではなく、見せ場は作るが結果はさっぱり、といったものでG1競走においては掲示板にすら載ることができなかった。しかし、境勝太郎元調教師が雑誌で「来年はGIを勝てる馬だ」と予言する。また、香港国際カップで騎乗した武豊はサイレンススズカの類まれな素質に気づき、もう一度だけこの馬に乗せてもらえないかと申し出たという。そして、この1年目に培った「大逃げ」というレーススタイルと、香港遠征で組んだ武豊とのコンビが、翌年の快進撃を導くこととなる。
[編集] 5歳・春シーズン
年が明けて初戦のオープン特別バレンタインステークスを2着に4馬身差の勝利。武が重賞ではなくオープン特別のために東上するのは異例のことであった。その後中山記念、小倉大賞典(小倉競馬場の改修に伴う中京競馬場での時期を遅らせた代替開催)、金鯱賞と重賞を連勝。ほとんど馬なりで逃げ切った小倉大賞典もさることながら、とりわけ金鯱賞でのパフォーマンスは圧巻で、神戸新聞杯で後塵を拝したマチカネフクキタルや後に香港国際カップを制するミッドナイトベット相手にに現在の中距離戦では珍しい大差勝ちを中京2000mのレコードタイムのおまけつきで収めている。この時中京競馬場では、あまりの大差に4コーナーを回った時点で既に拍手と喝采が贈られ直線では大勢の観客から笑いがこぼれると言う珍事が起こった。ラジオたんぱのレース中継では、4コーナーを回る時に「さあ、拍手に見送られて~」と実況されている。
レースの内容も最初の2戦こそ、ただ我武者羅に走って能力だけで勝っているだったものの、その後は息を入れることを覚えたためか二の脚を使えるようになるなど非常に内容もよくなっていっており、「逃げて差す」スタイルも完成した。調教師の橋田もこの姿に、「今なら安心して見ていられると」と語っていた。また、このあたりから最大の目標を天皇賞(秋)に見据え始めた。
夏場に向けて中3週(月1度)でレースに使ってきたため流石に疲労がたまっていたこともあり、当初は金鯱賞の後に放牧される予定ではあったが、ファンの期待にこたえるため、体調もよく、「今の出来なら」ということで春競馬の総決算となる宝塚記念へ出走することになる。主戦の武が先約のあったエアグルーヴに騎乗したため南井克巳に乗り替わった。この年見せた中距離での圧倒的パフォーマンスから、天皇賞(春)を制したメジロブライト、名牝エアグルーヴを抑え1番人気に支持される。南井が初騎乗であるということと距離を考えて金鯱賞に比べ抑えぎみな競馬ではあったが、ステイゴールド以下の追撃を3/4馬身しのいで逃げ切り、初のGI制覇となった。とはいえグリーンベルトの恩恵(※)を受けているとも考えられ、今までのレース内容から考えれば少々納得のいかないレースであったのも否めない。やはりローテーションにやや無理があったとも考えられるほか、一部では南井が抑えずにいけば4コーナーで息を入れる時間が増えもっと楽に勝てていたとの声もあった。もっとも、陣営もこの宝塚記念のタイトルを本当に欲しいと思っていなかったとも思われる(八大競走を参照)。
※当時GIなどの週には、芝コースの内ラチが外されるレースがあり、内側の走路にグリーンベルトと呼ばれる痛みの少ない芝が生えそろった部分があり、先行馬に有利な条件となっていた。その後これは問題視され、この措置は廃止された。
[編集] 5歳・秋シーズン毎日王冠
目標である天皇賞(秋)へのステップとして選んだ秋初戦の第49回毎日王冠は、NHKマイルカップ優勝馬エルコンドルパサーと朝日杯3歳ステークス優勝馬グラスワンダーの2頭の無敗の外国産4歳馬が出走するというハイレベルなメンバー構成となった。サイレンススズカは連勝中の勝ちっぷりや、直前の坂路調教でテレビ解説者が「速すぎる」と言うほどの時計を出していたことなどから、単勝1.4倍の圧倒的1番人気に支持され、2番人気にグラスワンダー、3番人気にエルコンドルパサーが続いた。
59キロの斤量が心配されたが、レースではそれを感じさせずにここでも1000m通過が57秒7のハイペースで逃げながら、後半にさらに後続を突き放す内容で快勝。2着はエルコンドルパサーで、何とか着差を2馬身半に詰めるのがやっとであり、3着のサンライズフラッグには2着からさらに5馬身の差をつけての貫禄の逃げ切り勝ちであった。一方のグラスワンダーは4コーナーで一気に仕掛けるも、休み明けがたたってか失速し、5着に終わった。エルコンドルパサーに騎乗していた蛯名正義は「影さえも踏めなかった」とコメントしている。この時点では格が違っていた。ハイペースで先行しながら、上がり3ハロン (600m) のラップタイムが、出走馬中で最速だったエルコンドルパサーからわずか0.1秒遅いだけであり、逃げ馬の常識を根底から覆す結果となった。レース後、武は「1000mを56秒台で通過しても平気な馬ですから、今日は比較的ゆったり行けましたね。直線で確認のために一応後続を見ましたが、全然交わされる気はしませんでした」と語った。なお1000m通過57秒7というのは、常識的に考えれば明らかに無謀なペースである。この勝利で中距離においては名実共に当時の最強馬となったといっても過言ではなく、宝塚記念で実力に疑問を投げかけていたファンや「勝って来たのは相手が弱かったから」と言っていたファンを黙らせた。これによりかねてから最大の目標にしてきた天皇賞(秋)に王手をかける形になった。
このレースは「3強対決」と大いに盛り上がり、GII競争にもかかわらず東京競馬場には13万人の入場があり、通常GI勝利の際に行われるウイニングランが行われた。出走馬のレベルやレース内容から、現在でも名レースの一つに数えられている。またこのサイレンススズカの圧倒的パフォーマンスに対し、当時の国際クラシフィケーション会議から日本のGIIとしては異例の122ポンドという高いレイティングが与えられた。ただ、3強対決ということで勝てる自信はあるのかというレース前の質問に騎手の武は「この馬の強さは、現時点では世界一だと思う」と冷静に答えていた。ちなみに他馬より成長が遅かったが、この時期にようやく馬体が完成し筋力がついたことから春から比べて、十分に仕上げた上で16kgも馬体重が増えていて、同レースも楽勝だったため、まだまだ完全に能力を出し切っていないと言われていた。
[編集] 5歳時・秋シーズン天皇賞(秋)
次走はいよいよ最大目標であった天皇賞(秋)で、同レースは特殊なコース形態である東京2000mのコースで行われるため逃げ馬にとっては外枠を引くと不利なことが多いが、抽選の結果は絶好の最内1番枠からの発走となった。『平成10年11月1日東京11レース1枠1番1番人気』の“1並び”で、そのスピードからスポーツ新聞には、同日に開催されていたF1日本GPにかけて“F1ホース”と呼ばれていた。相手関係も、前年の優勝馬エアグルーヴがエリザベス女王杯に回り、毎日王冠で下したエルコンドルパサー・グラスワンダーは外国産馬のため当時の天皇賞への出走資格はなく、強力なライバル不在や得意の左回り、サイレンススズカの最も適性距離とされていた2000mということで、単勝1.2倍の圧倒的1番人気に支持され、観衆の中には「今日は天皇賞の馬券を買いにきたのではない。サイレンススズカの勝つところを見に来た」と言う者までいたという。なお、このレース後には距離への挑戦も含めてジャパンカップへ参戦し、翌年はアメリカへ遠征するプランが発表された。多くのTVや競馬紙も上記の有利な条件も踏まえて、サイレンススズカが負ける要素を探すものの、殆どが苦し紛れの論理であり、怪我さえしなければサイレンススズカは確実に負けないという意見が殆どであった。さらに武はレース前に「今回もオーバーペースで逃げるつもりです」と堂々と宣言し、他の馬など意識してないような自信満々の発言までしており、レース前からサイレンススズカが勝つことはまるで既成事実であるかのようになっていた。
デビュー以来最高といっていい状態で出走したサイレンススズカは、抜群のスタートでグリーンベルトに導かれ快調に飛ばし、前走を上回る1000m57秒4の超ハイペースで大逃げをうち3コーナー手前では2番手に10馬身、さらにそこから3番手までが5馬身と大きく引き離し、テレビの中継カメラが目いっぱい引かなければすべての出走馬が映り切らないほどであった。いつものパフォーマンスを考えれば勝利を疑う余地はなく、もはや多くの人の関心はいったいどのくらいのタイムで勝つのかというまでになっていたが、そこで悲劇は起きた。
3コーナーを過ぎ、東京競馬場の名物大ケヤキの辺りを過ぎたところで突然サイレンススズカが失速。左前脚手根骨粉砕骨折を発症し、競走中止。予後不良と診断され安楽死処分となった。これを府中の悲劇と呼ぶファンもいる。また、フジテレビの競馬中継を担当した塩原恒夫アナウンサーはレース中咄嗟に父の名にかけた沈黙の日曜日という言葉を発し、強い印象を残した。事実、このレースで1着のオフサイドトラップがゴールした後も競馬場が異様な雰囲気に包まれていた。
皮肉なことに、オフサイドトラップは本来母ワキアに種付けられるはずだったトニービン産駒だった。勝ったオフサイドトラップの時計(1.59.3)に関して後に武豊は、「サイレンスがそんなに早くバテる訳ない。やっぱり千切っていたね」という無念のコメントを残した。また、そのとき解説をしていた大川慶次郎も無事に走りきれていれば8、9馬身は前で走っていたと解説し、同時に「これだから競馬には絶対がない」と語っていた。また、勝利したオフサイドトラップ騎乗の柴田善臣はインタビューで「笑いが止まらない」と答え、もちろんこの発言は、サイレンススズカに向けてのものではないことは確かであるものの、一部競馬ファンの間で物議を醸した。
[編集] 死後
粉砕骨折の詳しい原因はわかっておらず、武は「原因は分からないのではなく、ない」とレース後マスコミに対してコメントした。よく言われた意見は、皮肉にもサイレンススズカのあまりのスピードに骨が金属疲労のような症状を引き起こしレース中に爆発したというものである。ただし、短距離競走ではサイレンススズカと同様のスピードでレースが展開するものの、引退まで無事に走りきる馬(彼の母ワキアもそうであった)がほとんどであり、スピードそのものというよりは、むしろこのスピードで中距離を走り続けた結果とも取れる。
レース後の武の落胆ぶりは相当なもので、同じレースに出ていた福永祐一も「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している。また、この日の晩、ワインをあおり泥酔した武の姿が目撃されている。
サイレンススズカの死後、エルコンドルパサーやグラスワンダーの活躍によりサイレンススズカのの評価はさらに上がることになった。中でもエルコンドルパサーは、この年のジャパンカップで勝利し、翌年はフランスのG1、G2で1勝ずつをあげ、なおかつ凱旋門賞ではモンジューの半馬身差2着と勝ちに等しい内容であった。このエルコンドルパサーに日本国内で土をつけたのはサイレンススズカだけである。
サイレンススズカの墓は生まれ故郷である北海道・平取町の稲原牧場に建てられている。追悼歌「天馬のように(星野豊:作詞/作曲 因幡晃:歌)」も作られた。
[編集] 競走成績
年月日 | 競馬場 | レース名 | 格 | 頭数 | 枠順 | 人気 | 着順 | 騎手 | 斤量 | 距離 | 馬場 | タイム | 着差 | 1着(2着)馬 |
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1997 02.01 | 京都 | 4歳新馬 | 11頭 | 1 | 1 | 1着 | 上村洋行 | 55kg | 芝1600 | 良 | 1.35.2 | 1.1秒 | (パルスビート) | |
03.02 | 中山 | 弥生賞 | GII | 14頭 | 16 | 2 | 8着 | 上村洋行 | 55 | 芝2000 | 良 | 2.03.7 | 1.5秒 | ランニングゲイル |
04.05 | 阪神 | 4歳500万下 | 500 | 12頭 | 5 | 1 | 1着 | 上村洋行 | 55 | 芝2000 | 重 | 2.03.0 | 1.1秒 | (ロングミゲル) |
05.10 | 東京 | プリンシパルS | OP | 16頭 | 11 | 2 | 1着 | 上村洋行 | 56 | 芝2200 | 良 | 2.13.4 | クビ | (マチカネフクキタル) |
06.01 | 東京 | 日本ダービー | GI | 17頭 | 8 | 4 | 9着 | 上村洋行 | 57 | 芝2400 | 良 | 2.27.0 | 1.1秒 | サニーブライアン |
09.15 | 阪神 | 神戸新聞杯 | GII | 11頭 | 8 | 1 | 2着 | 上村洋行 | 56 | 芝2000 | 良 | 2.00.2 | 0.2秒 | マチカネフクキタル |
10.26 | 東京 | 天皇賞(秋) | GI | 16頭 | 9 | 4 | 6着 | 河内洋 | 56 | 芝2000 | 良 | 2.00.0 | 1.0秒 | エアグルーヴ |
11.16 | 京都 | マイルCS | GI | 18頭 | 10 | 6 | 15着 | 河内洋 | 55 | 芝1600 | 良 | 1.36.2 | 2.9秒 | タイキシャトル |
12.14 | 沙田 | 香港国際C | GII | 14頭 | 4 | 8 | 5着 | 武豊 | 56.5 | 芝1800 | 良 | 1.47.5 | 0.3秒 | Val's Prince |
1998 02.14 | 東京 | バレンタインS | OP | 12頭 | 12 | 1 | 1着 | 武豊 | 55 | 芝1800 | 良 | 1.46.3 | 0.7秒 | (ホーセズネック) |
03.15 | 中山 | 中山記念 | GII | 9頭 | 9 | 1 | 1着 | 武豊 | 56 | 芝1800 | 良 | 1.48.6 | 0.3秒 | (ローゼンカバリー) |
04.18 | 中京 | 小倉大賞典 | GIII | 16頭 | 14 | 1 | 1着 | 武豊 | 57.5 | 芝1800 | 良 | R1.46.5 | 0.5秒 | (ツルマルガイセン) |
05.30 | 中京 | 金鯱賞 | GII | 9頭 | 5 | 1 | 1着 | 武豊 | 58 | 芝2000 | 良 | R1.57.8 | 1.8秒 | (ミッドナイトベット) |
07.12 | 阪神 | 宝塚記念 | GI | 13頭 | 13 | 1 | 1着 | 南井克巳 | 58 | 芝2200 | 良 | 2.11.9 | 0.1秒 | (ステイゴールド) |
10.11 | 東京 | 毎日王冠 | GII | 9頭 | 2 | 1 | 1着 | 武豊 | 59 | 芝1800 | 良 | 1.44.9 | 0.4秒 | (エルコンドルパサー) |
11.01 | 東京 | 天皇賞(秋) | GI | 12頭 | 1 | 1 | 武豊 | 58 | 芝2000 | 良 | 競走中止 | オフサイドトラップ |
[編集] 評価
死んだことでかえって過剰に神格化されているという批判はあるが、その派手なレース内容から日本競馬史上最高の1頭というファンは多い。競馬関係者の評価も軒並み高く、中でも様々な名馬に乗った武豊がオグリキャップと並んで一番強い馬と発言している(ただし、ディープインパクトに乗る前の発言である)。また、小さな子供に「強い馬は?」と聞かれると武は迷わず「サイレンススズカ」と答えていた。武はNumber誌上でも、5歳時はハイペースで逃げつつゴールまでなかなかペースが落ちないというパフォーマンスを見せていたことから、「一番勝ちやすい馬だった気がします。」とコメントしている。また、サンデーサイレンスの後継種牡馬としても現役時から大きな期待を受けており、サイレンススズカが亡くなった後に「サンデーサイレンスの最良の仔であり最高の後継種牡馬になり得た」(社台ファーム吉田照哉)、「文句なしに競走馬として最高の1頭であり種牡馬としても最高の資質があった」(ラフィアン岡田繁幸)といった評価もされた。アメリカから種牡馬として購入のオファーもあった。ちなみに、なぜこのように種牡馬として大きな期待がかかっていたかというと、種牡馬としての必要条件に2000mでのレコード勝ちがないと成功しないと言われているからである。余談ではあるが、最近同じ父を持つ三冠馬のディープインパクトが種牡馬になったが、これが当てはまってはいないので、はたして成功するのかどうかが注目されている。
ファンの評価も高かったようで、そのレース内容から、GI競走1勝の成績にもかかわらず、2000年に行われたアンケート「20世紀の名馬Dream Horses2000」において4位にランクインした。
[編集] 特徴
最大の特徴は他の馬の追随を許さない大逃げと、最後まで衰えない末脚にある。5歳の時にようやく息を入れることを覚え、そのころあたりから大逃げをしながら最後をまとめられるようになった。主戦騎手を務めた武豊によると、一般的な、スタートから意識して後続と大きな差を開ける大逃げと異なり、他の馬との絶対的なスピードの差から大逃げの形になっているだけという。つまりはこの馬にとっては普通のハイペースはマイペースなのである。そのため同馬は、レース後半も後続馬よりいい脚を使うこともまれではなかった。これには走り方にも特徴があるようで、科学的に解明されているわけではないが、他の馬よりも無駄の無い走り方であるため自然と速く走れるといわれていた。
このサイレンススズカのスピードがスプリントやマイルの一流馬のスピードと比べて抜けているわけではないが、スプリント・マイル戦のスピードで中距離でも走れることが最大の強みである。岡部幸雄は「仮に鈴をつけに行く(=逃げ馬のさらに前を行って、ペースを狂わせること)としても、そのためにはGIを勝てるスプリンターが必要で、そんな馬をそれだけのために中距離戦に出して惨敗させることはできないから、現実として不可能」というコメントをしている。適正距離が2000から2200mまでという見方もあるが、4歳時にも2200mのレースをバテずに走りきるなど出来ていたため、息を入れながら走ることを覚えた5歳時には恐らくはもう少し長い距離でも走れることを見越して、ジャパンカップへの出走を決定していたものと思われる。武豊騎手は仮に天皇賞(春)でも道中3秒差をつける逃げを展開できれば勝てるはず、というコメントを残している。
また、だからといって追い込み馬のような瞬発力がないというわけでもなく、追い込み、差しの戦法でも十分に通用する瞬発力を持っており、実際のところは当初はその瞬発力を生かそうと陣営は抑えて走らせていた。
大逃げをしながらも途中で相手を引き付けて走る場合と、引き付けずに飛ばしていく場合があった。ただ、これは後続馬のポジション選択による見た目の問題も大きく、最後の3レースとなった宝塚記念、毎日王冠、天皇賞は全てはじめの3ハロンが34秒6で揃っている。
また、右回りが苦手とされているが、あまり内容がよくないとは言えGIレースを獲っていることから、実際のところ致命的な弱点であったかどうかも不明。調教師の橋田は5歳時のサイレンススズカはどんな条件でも負ける気がしなかったと語っている。
[編集] エピソード
- 当歳のころから馬房で長時間左回りにクルクル回り続ける癖があり、一種の自主トレーニングになっていたとも言われる。狹い馬房の中をあまりにも速いスピードで旋回するので見ている側は事故が起こるのではと心配するほどだったが、結局最期まで何も起きなかった。止めさせようと担当厩務員が馬房に入ると途端に中止するので、自己抑制ができないほどの興奮という原因ではなかったようであるが癖が治ることもなかった。これがレースでの落ち着きの無さを生み出す原因と考えられ、矯正しようと馬房に畳を吊しては見たものの、体の柔らかいサイレンススズカは狭いスペースでも、以前と同様にくるくると回り続けた。そこでさらに畳の数を増やしたところ、今度は馬房の中で動くスペースがなくなってしまい、反対に膨大なストレスを溜め込んでその後のレースに大きな影響を与えてしまい、「悪いことをした」と、4歳の冬に元に戻された。この癖が理由であるためか、左回りの東京競馬場、中京競馬場でのレースぶりは、右回りのその他の競馬場でのレースよりも鮮やかであった。
- 4歳時のレースぶりから気性が荒いという印象を持つファンもいるが、蹴り癖を示す赤いリボンもつけられておらず、実際には人を恐れない穩やかな気性の馬であったらしい。5歳時からは、返し馬の際最も観客に近く、報道カメラマンも多数並んでいる外ラチ沿いを常歩で進んでいるが、興奮しやすい性格の馬にはできないことである。弥生賞のゲートくぐり事件の際も厩務員が離れるのを不安に思って追いかけてしまった結果という大変人懐こい性格を見て取れる。
- 天皇賞での事故の際は、普通なら立っていることもままならないほどの重症であったのにもかかわらず、外ラチまで移動したことを「鞍上の武を守ったのだろう」と囁かれている。仮にこの時にサイレンススズカが転倒していれば、そのスピードに加えて、この時先頭でラチ沿いを走っていたために後続馬に接触されることは必至で、命は無かったかもしれないといわれている。
- 犬のような感じで、いっしょに連れて歩きたくなる馬と武豊騎手談。当時の武豊展の広告は武豊騎手とサイレンススズカのツーショットであった。ただし、同馬の死後は、トラウマになっているのかサイレンススズカの名前は一切といっていいほど口に出さない。
- 主戦騎手の武豊によると、前進意欲がものすごいためにどうしてもかかってしまうそうである。性格に問題があるというよりは、真面目でがんばりすぎるためにかかってしまうとのこと。
- ハイペースで逃げ第4コーナーで一回息を入れなおして再び加速して後続馬を引き離すといういわゆる二の脚を使うことから、武豊はサイレンススズカのことを逃げて差す馬と発言していた。
- 上記で二の脚を使うとはあるが実際の上がり3ハロンは実はそれほど速いわけではない。これは3ハロンが600mであるため、最後の直線の距離ではなくゴールから600メートル手前であるためである。コースによっては第4、3コーナーからゴールまでの距離であるなどコースによってまちまちである。サイレンススズカは3コーナーから4コーナーにかけて息を入れる(=ペースを落とし最後の直線に備える)ため、イメージよりも上がり3ハロンが遅いと感じられることがある。ただ、他の馬もサイレンススズカに勝とうとするにはある程度のハイペースで道中を進まねばならず、そこで脚を使うために結局最後のスパートでは瞬発力を失っているのである。なお、毎日王冠で上がり3ハロンが2番目に速かったのは、東京競馬場の直線が長いため、上がり3ハロンのコーナーを占める割合が少ないためである。
- 武豊はスピードを活かすために、空気抵抗のより少ない流線型の“サイレンススズカ専用ゴーグル”を使用していた。
- 当初は毎日王冠の出走は調整不足や直前に脚をぶつけていたこともあり見合わせることも検討されていた。しかし、ここで回避して天皇賞(秋)で勝ったとしても、「エルコンドルパサーやグラスワンダーに負けると分かっていて尻尾を巻いて逃げた」と後々いわれてしまうということで出走した経緯がある。
- 調教師の橋田と武豊の交流が生まれたのが同馬の香港からのレースだそうであり、以後は武に様々な馬に騎乗依頼を出している。
- 誕生日の1994年5月1日は、F1ドライバーのアイルトン・セナがレース中に事故死した日で、セナもサイレンススズカと同様に、ポールポジションからいち早く飛び出してそのまま先頭をキープして勝利することが多かった。レース中の事故でこの世を去ってしまった点もサイレンススズカと同様であった。そのためF1を知る競馬ファンにおいて「サイレンススズカはアイルトン・セナの生まれ変わりだったのではないか」もしくは「セナが乗り移っていた」と語る者も多い。一部のファンがサイレンススズカに対して使うニックネーム「音速の貴公子」はまさしくセナの愛称であり、セナに対するオマージュ的要素を含んでいるとも言えよう。蛇足ながら、時系列としてはサイレンススズカの生誕の方がセナの死去よりも早い。
[編集] 血統
[編集] 血統背景
父サンデーサイレンスについては同馬の項を参照のこと。
母ワキアは、自身は1200mに勝ち鞍の集中したスプリンターであるが、その父Miswakiはスピードに優れたMr.Prospectorの系統の中では、産駒の距離適性に幅のある存在であり、また母Rascal RascalはSilver Hawk(グラスワンダーの父)との間に英ダービー馬Benny the Dipを出すなど、スタミナも潜在的に持っている。ワキアの産駒は全て中央競馬で複数の勝利を上げ、唯一残した牝馬のワキアオブスズカも重賞馬スズカドリームを出すなどその全ての産駒が勝ち上がっている。この実績から繁殖牝馬として極めて優秀な資質を持っていたと評価されている。
[編集] 血統表
サイレンススズカの血統 サンデーサイレンス系(ヘイルトゥリーズン系)/(Turn To4×5=9.38%) | |||
父
*サンデーサイレンス Sunday Silence 1990 青鹿毛 アメリカ |
Halo 1969 黒鹿毛 アメリカ |
Hail to Reason | Turn To |
Nothirdchance | |||
Cosmah | Cosmic Bomb | ||
Almahmoud | |||
Wishing Well 1975 鹿毛 アメリカ |
Understanding | Promised Land | |
Pretty Ways | |||
Mountain Flower | Montparnasse | ||
Edelweiss | |||
母
*ワキア Wakia 1989 鹿毛 アメリカ |
Miswaki 1978 栗毛 アメリカ |
Mr.Prospector | Raise a Native |
Gold Digger | |||
Hopespringseternal | Buckpasser | ||
Rose Bower | |||
Rascal Rascal 1981 黒鹿毛 アメリカ |
Ack Ack | Battle Joined | |
Fast Turn | |||
Savage Bunny | Never Bend | ||
Tudor Jet F-No.9-A |
- ワキアオブスズカ(姉) - 父ダンスオブライフ。中央競馬2勝。スズカドリームの母。
- コマンドスズカ(弟) - 父コマンダーインチーフ。中央競馬5勝。
- ラスカルスズカ(弟) - 父コマンダーインチーフ。中央競馬4勝。天皇賞(春)2着・阪神大賞典2着
近親
- Benny the Dip(叔父)- イギリスダービー優勝。父Silver Hawk
- クリプティックラスカル(叔父) - フォアラナーステークスなど米GIII3勝。父Cryptoclearance。日本で種牡馬として供用中。
- スズカドリーム (甥)- 中央競馬2勝。京成杯優勝・毎日杯3着。調教中に故障発生安楽死。父サンデーサイレンス。