与那嶺要
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与那嶺 要(よなみね かなめ、1925年6月24日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島生まれのプロ野球選手(外野手)・監督・打撃コーチ。沖縄系ハワイ移民の日系2世。本名はWallace Kaname Yonamine、愛称「ウオーリー」。左投げ左打ち。
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[編集] 来歴・人物
フェリントン・ハイスクールから1947年、アメリカンフットボールのサンフランシスコ・フォーティナイナーズ(当時はNFLとは別のAAFCというリーグに所属していた)に入団。しかし度重なる怪我に見舞われ現役続行を断念し、1950年に野球に転向、マイナーリーグ3Aのサンフランシスコ・シールズに入団した。
1951年、前年松竹ロビンスにリーグ優勝を奪われ戦力強化を急いでいた読売ジャイアンツのスカウトを受け、シーズン途中に来日・入団。その年規定打数(今で言う規定打席)不足ながら打率3割をマーク。1952年から1960年まで規定打席に到達し首位打者3回、最高殊勲選手(MVP)1回など大活躍し第2期巨人黄金時代を支えた。1番・与那嶺、2番・千葉茂は当時球界屈指の1・2番コンビだった。1960年オフに巨人を自由契約(自由契約のいきさつについては後述)となり中日ドラゴンズに移籍。2年間プレーし1962年に引退。
1963年~1966年中日打撃コーチ、1967年~1969年東京オリオンズ(1969年からロッテ)打撃コーチ。1970年から中日ヘッドコーチを務め、1972年監督に昇格。1974年、古巣巨人のV10を阻止し1954年以来となる20年ぶりのリーグ優勝を果たした。1977年限りで退任。その後1978年~1979年に古巣・巨人の二軍外野守備・走塁コーチ、1980年に巨人打撃コーチ、1981年~1982年南海ホークス打撃コーチ、1983年~1984年西武ライオンズ打撃コーチ、1985年~1988年に日本ハムファイターズヘッドコーチを務めた。1994年野球殿堂入り。
アメリカ仕込みのスライディング、タックルなどの激しいプレースタイルは、当時「スカートをはいたお嬢様野球」と揶揄された日本プロ野球に新風を吹き込んだ。また、セーフティーバント(バントヒット)などの新しい戦術は、与那嶺によってもたらされたと言われる。出身地であるハワイ州のホノルル国際空港内には、功績を称え、サンフランシスコ・フォーティナイナーズや巨人の選手時代、また中日監督時代のユニフォームなどが展示されている。
1988年シーズンを最後にアメリカ合衆国へ帰国。以降故郷のハワイ州で悠々自適の日々を送っていたが2006年マスターズリーグ参加を機に18年ぶりに再来日した。
[編集] エピソード
- 1950年代前半頃、広島総合球場での対広島戦で小競り合いになると地元の広島ファンが降りて来たが中にはヤクザがいてなんと「ヨナミネ、町歩いちょーたらぶっ殺すけぇのぉ!!!!(与那嶺、町中を歩いていたらぶっ殺すからな!!!!)」と脅された。この体験は本人にとってトラウマになっていて「広島はヤクザが多くてホント恐いヨ」と後に自著で口にしていたほどである。
- 不調になると、2時間以上入浴して考え込んでいたという。
- 1960年限りで巨人を退団し中日に移籍したのは、水原茂監督の後任として就任した川上哲治が彼を戦力外と見なし、自身のチーム構想に組み入れなかったことが原因とされている。そのため川上を激しく敵視していて、中日監督時代には川上率いる巨人との試合で劣勢になると「哲のヤロー!!チックショー!!」や試合前のミーティングで「哲に負けるな!」と片言の日本語で吠えまくっていたといい、1974年に川上率いる巨人を破ってセントラル・リーグ優勝を決めた際には「とうとうやったヨ、哲やっつけたヨ。Happyネ。長い間日本にいて良かったヨ、本当に良かったよ…」と大はしゃぎしていたほどだという。
- 日本語は日常会話であれば充分理解できるものの、読み書きはほとんどできず、細かな表現にはつたない部分もあった。中日監督時代の遠征の際、ある選手が門限を破って帰ってきたのを見つけた与那嶺は「今晩は、寝ないで反省しろ!」と叱り付けたかったのを上手く言えず、「こんばんは」を何度も繰り返すばかりで言葉が先に進まず、結局何も言えないまま自室に帰してしまったことがある。周りにいた者たちは「なぜ監督は挨拶していったのだろう?」と不思議がったという。(※ 松本幸行の後日談)
- ウオーリーはお寿司の干瓢巻きが大好きで、「カンピョマキ」とおかしな日本語で食べに行こうとよく誘われたと、当時選手だった板東英二が語っている。
- 読み書きはできなくても、周囲の人に新聞を読み伝えてもらい、スポーツ紙記者の考えなどはきちんと頭に入れていた。
- ただ、「毎年開幕戦の前に家に全員招待してくれて、与那嶺夫人の手料理を振る舞ってもらった」と谷沢健一が語るように、非常にアットホームな優しさも持っている。その後1978年に二軍外野守備・走塁コーチとして巨人に復帰し、1980年には打撃コーチを務めたが、同年オフの長嶋監督解任に伴い球団に辞表を提出。この時の長嶋解任には川上が関わっていたという説があり、与那嶺はそれに反発してコーチを辞任したのではないかと見られている。
- なお与那嶺は、川上との過去の確執から現在に至るまで一度も巨人OB会に参加したことがない。
- 少年時代の王貞治が後楽園球場に観戦に来た際に、巨人の選手にサインを所望したところ与那嶺だけがそれに応じた。この経験から王はできる限りサインの要望に応じる姿勢を貫いたと言われている。後年このエピソードを問われた与那嶺は、それらしい少年にサインをした記憶があると返答した。
- ホームスチール11回は日本プロ野球界歴代1位。
[編集] 打撃成績
- 通算試合 1219試合
- 通算打率 .311
- 通算安打 1337本
- 通算本塁打 82本
- 通算打点 482打点
- 通算盗塁 163盗塁
- 通算犠打 79個
- 通算犠飛 21本(1954年より集計開始)
- 通算四球 522個
- 通算死球 20個
- 通算三振 553三振
- 通算併殺打 68個
[編集] タイトル・表彰・記録
- 首位打者 3回(1954年、1956年~1957年)
- 最高殊勲選手(MVP) 1回(1957年)
- ベストナイン 7回(1952年~1958年)
- オールスターゲーム選出 8回(1952年~1959年)
- 野球殿堂入り(1994年)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
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1972年 | 昭和47年 | 3位 | 130 | 67 | 59 | 4 | .532 | 7 | 123 | .232 | 3.29 | 47歳 | 中日 |
1973年 | 昭和48年 | 3位 | 130 | 64 | 61 | 5 | .512 | 1.5 | 108 | .242 | 2.98 | 48歳 | |
1974年 | 昭和49年 | 1位 | 130 | 70 | 49 | 11 | .588 | ― | 150 | .264 | 3.75 | 49歳 | |
1975年 | 昭和50年 | 2位 | 130 | 69 | 53 | 8 | .566 | 4.5 | 133 | .271 | 3.18 | 50歳 | |
1976年 | 昭和51年 | 4位 | 130 | 54 | 66 | 10 | .450 | 21.5 | 138 | .266 | 4.50 | 51歳 | |
1977年 | 昭和52年 | 3位 | 130 | 64 | 61 | 5 | .512 | 15.5 | 176 | .275 | 4.38 | 52歳 |
- 監督通算成績 780試合 388勝349敗43分 勝率.526
- ※1972年から1996年までは130試合制
[編集] 関連項目
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
- 濃人渉
- 杉浦清
- 西沢道夫
- 中利夫
- ドン・ブレイザー
- 広岡達朗
- 高田繁
- 東海ラジオ ガッツナイター(タイトルが氏の発する「野球はガッツ」という名言からこの番組の表題が付いたとされている)
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- ※カッコ内は監督在任期間。
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