鶴岡一人
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鶴岡 一人(つるおか かずんど、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は山口県大島郡生まれ、広島県呉市五番町(現・西中央)育ちのプロ野球選手(内野手)・プロ野球監督、野球解説者。戦後の1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずんど)」。愛称は鶴岡親分またはツルさん。初代ミスターホークス、ドン鶴岡とも呼ばれた。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の一人。
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[編集] 来歴・人物
1931年、広島商業の遊撃手として春の選抜で全国制覇。旧制法政大学では、華麗な守備の三塁手として鳴らし法政初の連覇に貢献するなど、花形スター・主将として活躍。1939年南海軍に入団。背番号5。卓越した統率力から入団1年目にして主将に抜擢され、3番三塁手として同年本塁打王を獲得。またノーステップで一塁に送球するプレーが人気を集めた。 翌年1940年に召集され、陸軍高射砲連隊へ入隊、5年間従軍。日本内地を転々とした後、終戦間際の1945年8月には、特別攻撃隊の出撃地となった鹿児島県の陸軍知覧航空隊機関砲中隊長を務め、低空で飛んでくる米軍機を撃ち落とした。この時に長として200人の部下を率いた経験がのちの指揮官哲学を生んだといわれている。
戦後の1946年に復員。(同時に妻の家へ婿入りし山本に改姓するも、1959年に妻の死により山本家から籍を抜いて鶴岡姓に戻る。)1946年から1952年までプレーイングマネージャー。戦後の混乱状態の中、野球のみならず選手の生活の面倒までを細やかに世話するなど人間性に優れ「鶴岡親分」と慕われた。放棄試合をしたのにも関わらず人徳に考慮し罰金を免除すると言われるほどであった。選手のプロ意識を向上させるために言った「グラウンドにはゼニが落ちている」という名セリフはつとに有名。
1946年は、1番・安井亀和、2番・河西俊雄(後阪神、近鉄の名スカウト)3番・田川豊(後のパ・リーグ審判)の俊足トリオでかき回し、4番鶴岡、5番・堀井数男が返すという「機動力野球の元祖」で巨人を1勝差でかわし、戦後プロ野球再開初年度の優勝を南海(当時グレートリング)の初優勝で飾った。自身も打点王を獲ってMVPを獲得。1948年は兼任ながら青田昇(巨人)、小鶴誠(大映)と三つどもえの首位打者争いを繰り広げたが、最終打席に敬遠で歩かされ青田と六毛差の三位に終わった。この年と前述の1946年、1951年と計3度MVPを獲得している。1952年限りで引退。
[編集] 常勝南海を築く
鶴岡は1953年から専任監督となり、1968年まで通算23年間に渡って指揮を執った。テスト生から岡本伊三美(後の近鉄監督)、野村克也(現・楽天監督)、広瀬叔功、森中千香良らを、また無名だった飯田徳治(後のサンケイ監督)、森下整鎮、皆川睦雄、村上雅則、国貞泰汎らを育て、大学のスター選手だった蔭山和夫、大沢啓二(後のロッテ・日本ハム監督)、穴吹義雄、杉浦忠やジョー・スタンカなど優秀な外国人選手を入団させ彼らを率い強い結束力で常勝南海の時代を築いた。戦力を的確に把握し常に新しい才能を入れることで「100万ドルの内野陣」や巨人に対抗するため「400フィート打線」などを形成した。
また「尾張メモ」で知られる元毎日新聞記者の尾張久次を1954年にプロ野球初の専属スコアラーとして採用し、メジャーリーグにも無かった世界初の「データ野球」を導入したことでも知られる。1959年の日本シリーズ・対巨人において大沢外野手の守備がことごとくピンチを救ったことが語られているが、これは巨人各打者のデータによって1球ごとに野村捕手からサインを出し守備位置を変えるという、それまでの野球に例をみない作戦が実ったものであった。
優勝通算11回、日本一2回、1959年、宿敵巨人を4連勝で下した後の涙の御堂筋パレードは有名。二リーグ分裂後初めて大阪に日本一の優勝旗を掲げた。また自らの人脈をフルに生かした情報網を築き選手発掘にも精力的に動き、稲尾和久、長嶋茂雄、山本一義、長池徳士、田淵幸一、山本浩二らにアマチュア時代から目をつけ、長嶋については南海へは入団契約直前までこぎつけていた。またホームグラウンドの大阪球場建設にも尽力した。球界ではゼネラルマネージャー(GM)と言えば根本陸夫が語られることが多いが、編成や契約金などの細やかなバランスにもかかわった鶴岡は、松木謙治郎や三原脩らとともにGMの先駆と言っていいだろう。
同一球団の監督として日本プロ野球史上最長の23年間指揮をとり、通算最多勝の1773勝(1140敗81分け)、最高勝率.609を記録。300試合以上経験者中、唯一の6割台である。特に1950年パ・リーグとなってから1968年辞任するまでの19年間では優勝9回(うち日本一2回)、2位9回、3位以下はわずか1回(4位・1967年)。2位に終わったシーズンもそのうち5シーズンは1位と1ゲーム差以内という驚異的な成績で、南海黄金時代を築いた名監督である。開幕から連敗続きだった1962年には「指揮官が悪いと部隊は全滅する」との言葉を残して休養。同年8月から復帰した。
1965年11月13日には正式に球団勇退を表明。一人の人間がいつまでも監督をしていては発展は望めないと考えての決断だったが、後任に指名した蔭山和夫が4日後の11月17日に急死という憂き目にあう。勇退を表明してから後に鶴岡へはサンケイと東京から監督就任要請があり、17日に東京で両球団のオーナーに会いどちらの監督に就任するか返答する予定だった。蔭山の急死を受け鶴岡は勇退を撤回し、改めて南海と3年契約を結んだ(南海蔭山新監督急死騒動)。1968年オフまで任期を全うし、後任は飯田徳治にバトンタッチした。
我が国のプロ野球史上、今日まで正真正銘のプレーオフが行われたケースは一度もないが、面白いことに彼は監督初年度の1946年と最終年度の1968年の2度、プレーオフ寸前まで行ったケースを体験している。しかし前者が拾い物の優勝だったのとは逆に、後者は最終戦で力尽き敗れる、といった対照的な結果となった。なおこの最終戦が、鶴岡にとっての最後の指揮となった。
[編集] 監督退任後
監督勇退後も、その手腕を買われ他球団から監督就任を請われていた。1968年オフには阪神から藤本定義の後任監督として要請があったが、交渉の席で球団組織に言及すると阪神側は及び腰になり交渉は決裂。彼の親しい知人は「阪神は真剣に迎えようとしていない。だから本気にしなかったんだ。」と話していた。その後1970年オフに近鉄から三原脩の後任監督として要請があったが、「三原さんが近鉄ナインにどんな野球を教えたか興味あるが、1年間監督業を務める体力がない。」として辞退したが、古巣の南海を敵にして戦うのは本意ではないというのが真相だったようだ。
1969年から死去するまでNHKの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家。その後も川上哲治と共に球界の首領(ドン)として並び称される存在であった。しかし1977年長きに渡り対立を伝えられていた野村克也が南海監督を解任され、記者会見で「(鶴岡)大老にぶっ飛ばされた」と発言するなど確執が表面化。またこの時江夏豊、柏原純一など野村を慕う主力選手が次々に退団する事態を招いた。以後の南海は急速に弱体化し、親会社の消極的な球団経営もあって最下位が指定席となるほどの低迷を続け、やがて1988年オフに球団売却される惨めな末路をたどった。鶴岡自身は野村を評価しており、監督解任騒動は鶴岡に近い球団関係者が仕掛けたものと言われるが、マスコミはこの件を終始「鶴岡が野村を嫌って南海から追い出した」というニュアンスで取り上げることが多く、これによって晩年の鶴岡が球界での発言力を失っていったことは否定できない。
少年野球の国際交流にも尽力、1970年に本拠地を大阪球場とするボーイズリーグを創設した。当時、少年野球のグラウンドにプロの本拠地球場を使うのは非常に珍しく、画期的なことであった。監督時代の1965年に野球殿堂入り。2000年3月7日、20世紀最後のシーズンを前に心不全のため死去、享年83。
2000年3月9日、大阪の本願寺津村別院(北御堂)で行われた告別式当日は1000人以上のプロ野球関係者などが参列、大勢の南海電鉄社員らが御堂筋の南海電鉄本社から大阪球場跡にずらりと整列し、鶴岡をのせた車を黙礼で送った。告別式の弔辞で杉浦忠が「親分、御堂筋が見えますか」と、鶴岡への追悼の言葉を述べた。(杉浦は鶴岡の後を追うように翌年の2001年に死去)。
長男は常勝PL学園の礎を築き、法政大学監督や近鉄、マリナーズのスカウトなども務めた鶴岡泰(山本泰)。彼は法政大学卒業時の1967年のドラフトで南海から12位で指名されたが、父から猛反対されプロ入りは断念した。
[編集] 選手時代年度別成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1939年 | 南海 | 92 | 330 | 54 | 94 | 13 | 9 | 10 | 55 | 21 | 0 | 1 | 66 | 24 | .285(7) |
1946年 | グレートリング | 104 | 388 | 75 | 122 | 23 | 8 | 4 | 95 | 32 | 1 | - | 72 | 13 | .314(6) |
1947年 | 南海 | 118 | 428 | 64 | 118 | 20 | 4 | 10 | 65 | 16 | 3 | - | 80 | 24 | .276(9) |
1948年 | 南海 | 125 | 449 | 65 | 137 | 28 | 3 | 8 | 68 | 23 | 0 | - | 70 | 22 | .305(3) |
1949年 | 南海 | 114 | 425 | 71 | 123 | 23 | 2 | 17 | 77 | 15 | 0 | - | 62 | 30 | .289(21) |
1950年 | 南海 | 55 | 140 | 25 | 40 | 7 | 2 | 5 | 25 | 5 | 0 | - | 21 | 11 | .286 |
1951年 | 南海 | 91 | 338 | 44 | 105 | 21 | 1 | 2 | 58 | 19 | 0 | - | 28 | 11 | .311(3) |
1952年 | 南海 | 55 | 183 | 35 | 51 | 10 | 1 | 5 | 24 | 12 | 1 | - | 20 | 11 | .279 |
通算成績 | --- | 754 | 2681 | 433 | 790 | 145 | 30 | 61 | 467 | 143 | 5 | 1 | 419 | 146 | .295 |
[編集] タイトル・表彰
- 本塁打王(1939年)
- 打点王(1946年)
- MVP 3回(1946年、1948年、1951年)
- ベストナイン(1951年)
- 野球殿堂入り (1965年)
- オールスター出場 2回 (1951年、1952年)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1946年 | 昭和21年 | 1位 | 105 | 65 | 38 | 2 | .631 | ― | 24 | .273 | 3.08 | 30歳 | グレートリング・南海 |
1947年 | 昭和22年 | 3位 | 119 | 59 | 55 | 5 | .518 | 19 | 24 | .231 | 2.39 | 31歳 | |
1948年 | 昭和23年 | 1位 | 140 | 87 | 49 | 4 | .640 | ― | 45 | .255 | 2.18 | 32歳 | |
1949年 | 昭和24年 | 4位 | 135 | 67 | 67 | 1 | .500 | 18.5 | 90 | .270 | 3.95 | 33歳 | |
1950年 | 昭和25年 | 2位 | 120 | 66 | 49 | 5 | .574 | 15 | 88 | .279 | 3.38 | 34歳 | |
1951年 | 昭和26年 | 1位 | 104 | 72 | 24 | 8 | .750 | ― | 48 | .276 | 2.40 | 35歳 | |
1952年 | 昭和27年 | 1位 | 121 | 76 | 44 | 1 | .633 | ― | 83 | .268 | 2.84 | 36歳 | |
1953年 | 昭和28年 | 1位 | 120 | 71 | 48 | 1 | .597 | ― | 61 | .265 | 3.02 | 37歳 | |
1954年 | 昭和29年 | 2位 | 140 | 91 | 49 | 0 | .650 | 0.5 | 82 | .250 | 2.50 | 38歳 | |
1955年 | 昭和30年 | 1位 | 143 | 99 | 41 | 3 | .707 | ― | 90 | .249 | 2.61 | 39歳 | |
1956年 | 昭和31年 | 2位 | 154 | 96 | 52 | 6 | .643 | 0.5 | 68 | .250 | 2.23 | 40歳 | |
1957年 | 昭和32年 | 2位 | 132 | 78 | 53 | 1 | .595 | 7 | 98 | .252 | 2.68 | 41歳 | |
1958年 | 昭和33年 | 2位 | 130 | 77 | 48 | 5 | .612 | 1 | 93 | .248 | 2.53 | 42歳 | |
1959年 | 昭和34年 | 1位 | 134 | 88 | 42 | 4 | .677 | ― | 90 | .265 | 2.44 | 43歳 | |
1960年 | 昭和35年 | 2位 | 136 | 78 | 52 | 6 | .600 | 4 | 103 | .247 | 2.88 | 44歳 | |
1961年 | 昭和36年 | 1位 | 140 | 85 | 49 | 6 | .629 | ― | 117 | .262 | 2.96 | 45歳 | |
1962年 | 昭和37年 | 2位 | 133 | 73 | 57 | 3 | .562 | 5 | 119 | .253 | 3.27 | 46歳 | |
1963年 | 昭和38年 | 2位 | 150 | 85 | 61 | 4 | .582 | 1 | 184 | .256 | 2.70 | 47歳 | |
1964年 | 昭和39年 | 1位 | 150 | 84 | 63 | 3 | .571 | ― | 144 | .259 | 3.12 | 48歳 | |
1965年 | 昭和40年 | 1位 | 140 | 88 | 49 | 3 | .642 | ― | 153 | .255 | 2.80 | 49歳 | |
1966年 | 昭和41年 | 1位 | 133 | 79 | 51 | 3 | .608 | ― | 108 | .245 | 2.59 | 50歳 | |
1967年 | 昭和42年 | 4位 | 133 | 64 | 66 | 3 | .492 | 11 | 108 | .235 | 3.04 | 51歳 | |
1968年 | 昭和43年 | 2位 | 136 | 79 | 51 | 6 | .608 | 1 | 127 | .243 | 2.92 | 52歳 |
- ※1 太字は日本一
- ※2 1958年から1960年、1962年、1966年から1996年までは130試合制
- ※3 1961年、1965年は140試合制
- ※4 1963年から1964年までは150試合制
[編集] 監督通算成績
- 2994試合 1773勝1140敗81分 勝率.609 ※史上最多勝利
[編集] 背番号
- 5(1939年)
- 30(1946年~1968年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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