上原浩治
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男子 野球 | ||
銅 | アテネオリンピック (2004年) | 野球 |
上原 浩治(うえはら こうじ、1975年4月3日 - )は大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手(現役期間 1999年 - )セントラル・リーグ、読売ジャイアンツ所属の投手。背番号は19 。右投右打。186cm、86kg、B105 W87 H108。血液型 B型。
トルネード気味のノーワインドアップから投げられるノビのある直球に、スライダー、カットボール、落差・変化方向の違う数種類のフォークを投げ分け(稀にカーブ)、高い制球力とスタミナを武器にしたテンポの良い投球が持ち味。
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[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
実父隆一氏が監督を務める少年野球チーム「寝屋川アスナローズ」で野球を始める。中学校(寝屋川市立第十中学校)では野球部が無かった為に陸上部に所属。その後東海大学付属仰星高等学校に合格し念願の野球部に入部したものの、建山義紀の控えもしくは外野手としての出場が多かったため、高校時代は全く無名の選手であった。当時注目を集めていた大阪の高校生投手にはPL学園の松井和夫(後の稼頭央)がいた。1浪して大阪体育大学に進学後は投手に専念し、阪神大学リーグにおいてリーグ優勝5回(1年春、2年春秋、3年秋、4年春)に貢献するなど、4年間で36勝4敗、最優秀投手賞4回、特別賞2回という圧倒的な成績を挙げ、大学4年次には一気にドラフト注目の的となっていた。彼の名を一躍轟かせたのは、大学3年時に日本代表に選ばれた1997年のインターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となったことである。以降松坂大輔と並ぶドラフトの目玉とみなされ多くの球団が獲得に乗り出すが、学生時代からメジャー志向が強かったゆえ各球団とも早々に手を引いた。最終的には大リーグのアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツでの争奪戦となったが、結局周囲の説得などもあり1998年ドラフトで読売ジャイアンツに1位指名(逆指名)され、入団する。
- メジャー希望が適わない現在に至っては、ドラフト時にメジャーに進むべきだったのではないかという皮肉な結果に終わっている。
[編集] プロ入り後
ルーキーイヤーの1999年から先発ローテーションの一角を担うこととなる。1999年4月4日の阪神タイガース戦でプロ初登板。同年4月13日の広島東洋カープ戦でプロ初勝利を挙げる。5月16日の横浜ベイスターズ戦でプロ初完投。9月14日の中日ドラゴンズ戦でプロ初完封。5月30日から9月21日までで記録したシーズン15連勝は歴代4位タイ。新人投手の記録としては1966年に堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに更新する。最終的には20勝4敗の成績を上げ、両リーグを通じて1990年の斎藤雅樹以来9年ぶり、新人投手としては1980年の木田勇以来19年ぶりの20勝投手となる。この年最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手主要4部門を制し、史上9人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成する。また、新人王と沢村賞も受賞する。
2000年は7月2日の広島東洋カープ戦で右太もも肉離れを起こし登録抹消。事故や転倒なども重なり9勝7敗に終わる。
2001年は4月13日の横浜ベイスターズ戦で今度は左太ももの肉離れで離脱。早期復帰を果たすも万全でなく、後半戦では右ひざの故障もあって低迷、10勝7敗に終わる。
2002年は1年を通してローテーションを守りチームの優勝、日本一に貢献。自身が目標としていた200イニング登板を達成(204イニング)し17勝5敗の成績で最多勝、沢村賞、ベストナインを獲得(ただし、最多奪三振だけは井川慶に奪われた)。シーズン後に行われたメジャーリーグ選抜との親善試合に登板、当時絶頂期であったバリー・ボンズから3打席連続三振を奪い、メジャーリーグからのスカウトの注目を集める。
2003年も2年連続で200イニング登板を達成し16勝5敗。前年同様、井川慶と熾烈なタイトル争いを演ずる。
2004年は長嶋ジャパンの一員として、アテネオリンピック野球日本代表に選出。防御率0.50で銅メダル獲得に貢献。その間ペナントレースではチームを離れていた事もあり、シーズン最終成績は13勝5敗に留まったものの、防御率2.60を記録し2度目の最優秀防御率賞を受賞。9月14日に元モデルの山﨑美穂と結婚。またシーズン後に行われたメジャーリーグ選抜との親善試合にも登板。東京ドームで行われた第1試合でロジャー・クレメンスとともに登板した後、会食をするなど親交を深める。その後もオフシーズンに一緒にトレーニングを行うなど、いまだに親交は深い。
2005年は年間を通して不調に苦しみ、9勝12敗で初めてのシーズン負け越しとなる。
2006年のシーズン開幕前に行われたワールド・ベースボール・クラシックには日本代表として参加し3戦2勝の活躍をした。アメリカ戦で5回1失点の好投を見せるが、2番手の清水直行が2失点で上原の勝ち投手の権利をなくしてしまう。大一番となった準決勝の韓国戦でも7回を無失点に抑え、初開催での優勝に大きく貢献したがその後のシャンパンファイトではイチローには背中や顔面、松坂大輔には顔面にシャンパンをかける等とロッカールームを盛り上げていると同時に1人で暴走して仕舞い翌日の記者会見では「まあ、確かに失礼な事は事実ですけど」と素直にイチローに謝った。同大会開催に先立ち、アメリカでは2004年に当時引退を表明していたロジャー・クレメンスから金字のサイン入り黒グローブを受け取ったエピソードが紹介されていた[1]。この大会での2勝を加え、国際試合の成績は大学時代から数えて21戦12勝無敗である。その信頼感からか国際大会の最初の試合に先発することが多く、北京オリンピック野球日本代表のエースとして活躍することを監督を務める星野仙一をはじめ、投手コーチの大野豊らから大いに期待されている。同年のシーズンでは8月25日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)において、ドラフト制以降では松坂大輔と並ぶ最速タイ、191試合目での100勝をあげている。しかし、このシーズンも8勝9敗で2年連続1桁勝利で負け越しという屈辱を味わうこととなった。
入団当初からメジャーへの希望を持ち続けており、2004年~2005年オフにもポスティング移籍を直訴してきたが、所属球団の見解、経済的事情と対立し断念。現在も『ポスティングの12球団統一ルール』の施行を主張している。投手としての最盛期にメジャーに進んだ松坂大輔とは、対照的に30歳を過ぎているが、体に対して人一倍気配りをしており、メジャー志向はいまだに強い。
2000年から2006年まで7年連続開幕投手を務めたが、2007年はキャンプ中に古傷をいためたこともあり開幕に間に合わず、8年連続開幕投手はならなかった(2007年の開幕投手は内海哲也)。
[編集] プロ時代の戦歴
[編集] 年度別成績(2006年シーズン終了時)
年度 | 所属 | 試合数 | 完投 | 完了 | 当初 | 完封勝 | 無四球 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 勝率 | 投球回数 | 四球 | 死球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999 | 巨人 | 25 | 12 | 0 | 13 | 1 | 4 | 20 | 4 | 0 | .833 | 197 2/3 | 27 | 4 | 179 | 49 | 46 | 2.09 |
2000 | 20 | 6 | 0 | 14 | 1 | 2 | 9 | 7 | 0 | .563 | 131 | 23 | 1 | 126 | 53 | 52 | 3.57 | |
2001 | 24 | 4 | 0 | 18 | 1 | 1 | 10 | 7 | 0 | .588 | 138 2/3 | 31 | 5 | 108 | 66 | 52 | 4.02 | |
2002 | 26 | 8 | 0 | 18 | 3 | 4 | 17 | 5 | 0 | .773 | 204 | 26 | 6 | 182 | 65 | 59 | 2.60 | |
2003 | 27 | 11 | 0 | 16 | 1 | 3 | 16 | 5 | 0 | .762 | 207 1/3 | 26 | 5 | 194 | 76 | 73 | 3.17 | |
2004 | 22 | 2 | 0 | 20 | 0 | 0 | 13 | 5 | 0 | .722 | 163 | 23 | 5 | 153 | 54 | 47 | 2.60 | |
2005 | 27 | 6 | 0 | 21 | 2 | 4 | 9 | 12 | 0 | .429 | 187 1/3 | 22 | 0 | 145 | 73 | 69 | 3.31 | |
2006 | 24 | 5 | 0 | 19 | 0 | 3 | 8 | 9 | 0 | .471 | 168 1/3 | 24 | 1 | 151 | 67 | 60 | 3.21 | |
通算 | 195 | 54 | 0 | 139 | 9 | 21 | 102 | 54 | 0 | .654 | 1397 1/3 | 202 | 27 | 1238 | 503 | 468 | 3.01 |
-
- 2006年まで。
- 各年度の太字はリーグ最高。
年度 | 中日 | 阪神 | ヤクルト | 横浜 | 広島 | 交流戦 | ||||||||||||||||||
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試 | 勝 | 敗 | 防 | 試 | 勝 | 敗 | 防 | 試 | 勝 | 敗 | 防 | 試 | 勝 | 敗 | 防 | 試 | 勝 | 敗 | 防 | 試 | 勝 | 敗 | 防 | |
1999 | 3 | 2 | 0 | 1.73 | 7 | 5 | 2 | 2.39 | 5 | 4 | 1 | 1.92 | 6 | 5 | 1 | 2.73 | 4 | 4 | 0 | 1.16 | ─ | |||
2000 | 5 | 3 | 1 | 3.47 | 2 | 2 | 0 | 0.50 | 6 | 2 | 2 | 3.57 | 4 | 2 | 2 | 3.41 | 3 | 0 | 2 | 9.00 | ─ | |||
2001 | 5 | 3 | 1 | 2.58 | 5 | 3 | 1 | 1.70 | 6 | 2 | 2 | 5.52 | 3 | 0 | 1 | 7.71 | 5 | 2 | 2 | 5.33 | ─ | |||
2002 | 6 | 5 | 1 | 2.11 | 6 | 1 | 3 | 3.98 | 2 | 2 | 0 | 1.20 | 5 | 5 | 0 | 1.88 | 7 | 4 | 1 | 2.89 | ─ | |||
2003 | 3 | 1 | 1 | 5.24 | 4 | 2 | 1 | 2.67 | 7 | 5 | 1 | 2.57 | 4 | 3 | 1 | 3.77 | 9 | 5 | 1 | 2.92 | ─ | |||
2004 | 5 | 3 | 2 | 1.70 | 3 | 0 | 0 | 1.22 | 5 | 5 | 0 | 3.23 | 4 | 1 | 2 | 3.60 | 5 | 4 | 1 | 2.82 | ─ | |||
2005 | 5 | 2 | 3 | 3.11 | 6 | 2 | 2 | 3.51 | 3 | 1 | 2 | 1.96 | 3 | 1 | 1 | 3.98 | 4 | 1 | 1 | 4.63 | 6 | 2 | 3 | 3.00 |
2006 | 4 | 1 | 3 | 5.00 | 6 | 2 | 1 | 1.93 | 3 | 1 | 1 | 3.50 | 4 | 3 | 0 | 2.32 | 4 | 1 | 2 | 5.47 | 3 | 0 | 2 | 1.88 |
通算 | 試 | 勝 | 敗 | 防 | 試 | 勝 | 敗 | 防 | 試 | 勝 | 敗 | 防 | 試 | 勝 | 敗 | 防 | 試 | 勝 | 敗 | 防 | 試 | 勝 | 敗 | 防 |
36 | 20 | 12 | 2.95 | 39 | 17 | 10 | 2.45 | 37 | 22 | 9 | 2.98 | 33 | 20 | 8 | 3.25 | 41 | 21 | 10 | 3.57 | 9 | 2 | 5 | 2.61 | |
投球回 | 自責点 | 投球回 | 自責点 | 投球回 | 自責点 | 投球回 | 自責点 | 投球回 | 自責点 | 投球回 | 自責点 | |||||||||||||
259 | 85 | 286 | 78 | 262 2/3 | 87 | 243 1/3 | 88 | 277 1/3 | 110 | 69 | 20 |
[編集] タイトル
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- 1999年
-
- 1999年、2002年
-
- 1999年、2004年
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- 1999年、2003年
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- 1999年、2002年
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- 1999年、2002年
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- 1999年、2003年
[編集] エピソード
- 大学時代、門倉健投手と投げ合い、門倉を見に来ていたスカウト達に上原の名を知らしめた。奇しくも、その門倉とは2007年シーズンより同僚となった。(門倉がFAにて巨人に移籍したため)
- 数種類のフォークを意識的に投げ分け、先発として殆ど直球とフォークのみで投球を組立てられる器用さは球界でも特異な存在で、球界屈指のフォークの使い手であると言える。ちなみにアマチュア時代はフォークを殆ど投げず、典型的なスライダー投手だった。
- 背番号の19は、大学受験に失敗し浪人生活を送った19歳の1年間を忘れない、という意味が込められている。
- 自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は、松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。「雑草魂」は鈴木啓示の座右の銘「草魂」のモディファイである。同様に「リベンジ」も松坂だけの言葉ではなかった。余談だが鈴木啓示自身も「投げたらアカン」で流行語大賞を受賞している。
- 直球は一時MAX150km/hに手が届こうかという速さだったが、フォームを現在のものに改造してからは140km/h前後が限界になった。しかしテイクバックの小さなフォームはタイミングが取り辛く、ノビが良いので打者には150km/h前後に感じると言う。ヤクルトの古田敦也からは松坂より速く感じると評されたこともある。
- また、投球間隔の速さや無駄なボール球を出さないコントロールの良さから、彼の投げる試合は早く終わることでも有名である。1999年7月4日の横浜ベイスターズ戦では1時間59分、2005年5月10日のオリックス・バファローズ戦では2時間7分で完投勝利を挙げた。
- 2001年9月に2度リリーフ登板を経験している。
- 川上憲伸とは互いを認め合う仲で、川上はカットボール、上原はフォークとお互いの勝負球の握り方などの情報を交換し合っている。ただし両者はペナントレースでは敵同士であるため、一部のファンや解説者がこの件に関して批判を浴びせている。
- 黒田博樹とも仲が良い。黒田が受けた肘のクリーニング手術を受けるべきかと聞いて、「絶対にやるべき、4月に。」と言われ「開幕しているじゃないですか。」と笑いながら返すなど、二人の仲の良さが伺えた。
- 前田幸長とは「ピッチボーイズ」と言うユニットを結成している。ちなみに、二人は2000年9月24日の巨-中(巨人優勝決定の試合)に先発し、投げ合った。
- 相応の結果を出していることも手伝い、選手の先頭に立ち、球団にも言いたいことをはっきり物を言っている。「俺がチームの中で一番練習している」、「はっきり言って若い奴らには負ける気がしない」、「プロに入ったということで満足している奴らが多すぎる」と低迷気味のチームに喝を入れるような厳しい発言をしている。
- チームメイトの高橋由伸とは、生年月日が一緒であり、高橋尚成とは1日違いである。
- 登板時のBGMはPRIDEのテーマを使用している。
[編集] 涙の敬遠
ルーキーイヤーの1999年10月5日、上原はヤクルトとの最終戦に登板した。すでに中日の優勝が決まった後の消化試合であり、専らの注目はタイトル争い。両チームに所属する松井秀喜(現ニューヨーク・ヤンキース)が41本、ペタジーニが42本と本塁打王を激しく争っていた。上原自身も中日の野口茂樹(現巨人)と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっていた。この年ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取ることに成功する。しかし、この間松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けたことで、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチから敬遠の指令を受ける。指示に従いストレートの四球で歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を蹴り上げ、目に浮かんだ涙をユニホームの袖で拭っていた。9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びたものの、上原は2失点で完投勝利し20勝目を挙げる。その話題性とも相まってこの涙はニュース等で大きく取り上げられ、タイトル争い、四球合戦の正当性について議論を巻き起こした。なお、シーズン終了後にこのペタジーニを抑えて賞を受賞した際、「受賞出来たのは涙のお陰」と発言してネタにしていた。また上原自身はマウンドを蹴り上げたことに関して、「どんな理由があるにせよ、マウンドを蹴り上げたあの行為は投手のすることではなかった」とテレビ番組でコメントしている。
この上原の涙に関して、一部の巨人首脳陣は「軍法会議物だ!!」と大激怒しているが、この件に関して上原に何らかの処分が下った事は無い。
[編集] 人身事故
プロ入り後2度、自家用車で人身事故を起こしている。
- 2000年7月27日午後6時ごろ、上原の運転する乗用車が川崎市内でオートバイに衝突。Uターン禁止の道路で急に上原の車がUターンしたことが原因。轢かれた被害者のライダーが重症を負って苦しんでいるのを尻目に加害者の上原は車から全く降りずに球団に長時間電話をかけ続け、見つけた通行人が消防署や警察署に通報。この事故について、球団から厳重注意の上謹慎10日間の処分を受けた。また、業務上過失傷害で書類送検され罰金30万円の略式命令を受けている。
- 2006年3月23日、東京都内で自家用車を運転中に清掃車に追突。運転中の男性に軽傷を負わせた。業務上過失傷害と道交法違反の疑いで書類送検され、起訴猶予処分となった。
[編集] 関連項目
[編集] 出演
- エキサイト・スタジアム(2006年10月-、TBSラジオ)
- 上原浩治のスポーツBOMBER!(2003年10月-2004年3月、TBSラジオ)
[編集] 外部リンク
00 川中基嗣 | 0 木村拓也 | 2 小笠原道大 | 5 ルイス・ゴンザレス | 6 小坂誠 | 7 二岡智宏 | 8 谷佳知 | 9 清水隆行 | 10 阿部慎之助 | 11 久保裕也 | 12 鈴木尚広 | 13 林昌範 | 15 辻内崇伸 | 17 姜建銘 | 19 上原浩治 | 20 豊田清 | 21 高橋尚成 | 22 福田聡志 | 23 脇谷亮太 | 24 高橋由伸 | 25 李承燁 | 26 内海哲也 | 27 門倉健 | 28 金刃憲人 | 29 前田幸長 | 30 西村健太朗 | 31 小関竜也 | 32 円谷英俊 | 33 野間口貴彦 | 35 亀井義行 | 36 岩舘学 | 37 斉藤宜之 | 38 上野貴久 | 39 吉武真太郎 | 40 村田善則 | 41 木佐貫洋 | 42 ジェレミー・パウエル | 43 真田裕貴 | 44 大道典嘉 | 45 小田嶋正邦 | 46 野口茂樹 | 47 松本哲也 | 48 矢野謙次 | 49 デーモン・ホリンズ | 50 吉川元浩 | 51 古城茂幸 | 52 十川孝富 | 53 實松一成 | 54 三浦貴 | 56 加藤健 | 57 三木均 | 58 星孝典 | 59 深沢和帆 | 60 深田拓也 | 61 坂本勇人 | 62 越智大祐 | 63 会田有志 | 64 酒井順也 | 65 梅田浩 | 66 田中大二郎 | 67 加登脇卓真 | 68 栂野雅史 | 69 寺内崇幸 | 90 深町亮介 | 92 木村正太 | 93 東野峻 | 96 伊集院峰弘 | 100(育成選手) 佐藤弘祐 | 101(育成選手) 山本光将 | 102(育成選手) 山口鉄也 | 103(育成選手) 芦沢明 | 104(育成選手) 下山学 | 106(育成選手) 林羿豪 | 107(育成選手) 隠善智也 | 108(育成選手) 作田啓一 | 109(育成選手) 鈴木誠 | 110(育成選手) 大抜亮祐 | 129(育成選手) ウィルフィン・オビスポ
88 監督 原辰徳 | 87 尾花高夫 | 78 伊原春樹 | 85 斎藤雅樹 | 81 篠塚和典 | 84 内田順三 | 71 伊勢孝夫 | 89 村田真一 | 83 西岡良洋 | 76 白坂契 | 82 木村龍治 | 77 二軍監督 吉村禎章 | 70 小谷正勝 | 72 香田勲男 | 98 玉木重雄 | 75 岡崎郁 | 86 岸川勝也 | 79 福王昭仁 | 73 緒方耕一 | 74 西山秀二 | 94 木樽正明 | 95 宮本英治 | 97 伊藤博 | 99 内藤重人 | 111 藤田浩雅 | 130 金杞泰 |
1 岩村明憲 | 2 小笠原道大 | 3 松中信彦 | 5 和田一浩 | 6 多村仁 | 7 西岡剛 | 8 今江敏晃 | 9 金城龍彦 | 10 宮本慎也 | 11 清水直行 | 12 藤田宗一 | 15 久保田智之 | 17 福留孝介 | 18 松坂大輔 | 19 上原浩治 | 20 薮田安彦 | 21 和田毅 | 22 里崎智也 | 23 青木宣親 | 24 藤川球児 | 25 新井貴浩 | 27 谷繁元信 | 31 渡辺俊介 | 40 大塚晶則 | 41 小林宏之 | 47 杉内俊哉 | 51 イチロー | 52 川﨑宗則 | 59 相川亮二 | 61 石井弘寿/馬原孝浩 |
89 監督 王貞治 | 84 武田一浩 | 85 辻発彦 | 86 鹿取義隆 | 87 大島康徳 | 88 弘田澄男 |
読売ジャイアンツ 1998年ドラフト指名選手 |
---|
1位:上原浩治 / 2位:二岡智宏 / 3位:加藤健 / 4位:安原政俊 / 5位:酒井純也 / 6位:玉峰伸典 / 7位:進藤実 / 8位:高野忍 |