加地亮
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加地 亮(かじ あきら、1980年1月13日 - )は、ガンバ大阪所属のプロサッカー選手。兵庫県三原郡西淡町(現南あわじ市)出身。ポジションはディフェンダーおよびミッドフィールダーで、右サイドを得意とする。あだ名はKING KAJI。 2006年4月12日、長男が誕生した。
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[編集] 競技歴
西淡町立御原中学校卒業後、兵庫県におけるサッカーの名門、滝川第二高等学校に入学。滝川二高で高校総体(インターハイ)、高校選手権に出場。卒業後の1998年、Jリーグのセレッソ大阪に加入。
1999年にはU-20日本代表に選出され、ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権に出場、準優勝を果たした。しかしセレッソ大阪では出場機会が減り、2000年にJ2の大分トリニータにレンタル移籍、同チームで2年間を過ごした。
2002年、J1のFC東京に移籍。同時期に監督として就任した原博実の掲げる攻撃的4バックの右サイドとして重用され、レギュラーの座を獲得するに至った。同年8月のコンサドーレ札幌戦でJリーグ初ゴール。
翌2003年、日本代表メンバーに初選出される。このときは、所属するFC東京の原監督からも「加地でいいの?」と言われるほど意外な抜擢であった。チュニジアとの親善試合で初出場を記録。
2004年には日本代表の右サイドとして完全に定着し、チームはドイツワールドカップアジア地区1次予選を突破、さらに中国で開催されたアジアカップでも優勝を果たした。クラブでは同年のナビスコカップ決勝において、PK戦の最終キッカーとして優勝を決めるゴールを記録した。
2005年6月に開催されたコンフェデレーションズカップのメキシコ戦では柳沢敦の技ありゴールを見事アシストしチームに貢献した。 ブラジル戦では右サイドを猛然と攻め上がり、オフサイドではあったがゴールを決め、存在感をアピールした。同年8月、W杯アジア最終予選イラン戦でAマッチ初ゴールを記録。しかし同年秋には、従来からあった右足首の遊離軟骨に加え、衝突性外骨腫による痛みのためJリーグオールスターサッカーを辞退することになり、一時は日本代表からも遠ざかった。
2006年からガンバ大阪に完全移籍。代表との両立でチームへの合流は遅れたが、開幕戦となった浦和レッズ戦で鮮やかな左足のボレーシュートの同点弾を叩き込むなど、好スタートを切った。また、ワールドカップドイツ大会の日本代表にも選出された。同大会直前のドイツとの親善試合でシュバインシュタイガーのタックルで負傷してしまい第一戦は出場できなかったが、第二戦以降は先発出場した。
ドイツW杯終了後、代表監督がオシムに代わってからも、持ち前の持久力とチームに貢献するプレースタイルが評価され、ジーコ時代の代表選手が軒並み落選する中、三都主アレサンドロ・遠藤保仁・川口能活らと共に代表選出を果たした。
[編集] 評価
右サイドにおいてなされるその驚異的な運動量を生かしたオーバーラップや、幾度となく繰り返される前線への飛び出し等の攻撃的な動き、そして中盤のタレント群を活かすため「囮(おとり)の動き」を精力的にこなす献身性に評価が集まる。FC東京時代、同じ右サイドで攻撃的ミッドフィールダーである石川直宏とのコンビネーションは、原博実監督の追求するサイド攻撃を具現化したものであり、チームの特徴ともなっていた。
時折、ものすごいシュートを撃つことがある。前述のガンバ移籍後の開幕ゲーム、対浦和戦で決めたゴールは、ディフェンスラインの裏へ抜け出したとこに飛んできた浮き球を胸のトラップ一つで三都主アレサンドロをかわし、そのまま左足ボレーで流し込んだ。また、J1初ゴールとなったコンサドーレ札幌戦でのゴールは相手DFがクリアしたボールをミドルレンジから直接狙い弾丸シュートをねじ込んだ。ワールドカップ壮行試合となったキリンカップ、スコットランド戦では40メートルほど離れた距離から左足で豪快なミドルシュートを放ったが、惜しくもポストにあたった。
欠点としては、クロス精度の低さが挙げられる。Jリーグにおいてもアシスト数がかなり少なく、西野朗監督に「加地がアシストしたところを見た記憶がない」と揶揄された(事実、2006年のリーグ戦アシスト数は0)。
日本代表としては、初選出後しばらくは目立った働きができず、一部のサポーターから不要論も聞かれた。しかし代表チームでも1,2を争うほどのスタミナを生かした動きが徐々にチームにフィットし、ジーコ元日本代表監督の我慢強い起用もあって、チームとサポーターからの信頼を得始める。そして2004年中盤以降には、ジーコジャパンの右サイドバックと言う定位置をほぼ不動のものとした。2005年終盤には前述したケガの影響もあり、一時サンフレッチェ広島の駒野友一が彼のポジション争いに名乗りを上げるも、結局2006年に入ってからワールドカップ直前までの全試合で加地は先発を果たした。こうしたことからも、加地に対するジーコの信頼は(左サイドの三都主アレサンドロと並び)極めて厚いと言える。どのような状況でも手を抜くことなく最後まで走り続ける精神力とスタミナは今後の日本代表にも必要なファクターと考えられ、さらなる飛躍を期待されるプレーヤーである。
[編集] エピソード
- 日本での少年サッカー教室を急遽キャンセルしたロベルト・カルロスの代わりに子供たちの前に申し訳なさそうに現れ、「ロベカルがいいー」という子供たちの不満顔を前に「ロベカルじゃなくてごめんな」と謝った。
- ピッチ脇の倒れたペットボトルを美しく並べなおしたり、疲れてしゃがみ込むフリをして靴紐を結びなおす等、憎めない一面を持っている。(一時期はSB(サイドバック)ならぬPB(ペットボトラー)とも呼ばれていた)
- 小さな頃は大阪ガスの社員になりたかった。
- 健康オタク。遠征先には特別な水をペットボトルで送っているらしい。しかし、その水を飲みすぎて夜中にトイレに起きてしまう。首につけているのはArkRingというトルマリン系のネックレスでメーカー通販で買える。
- 子ども好きでサッカー選手引退後は保育士になりたいらしい。
- FC東京時代のチームメイトである土肥洋一いわく「加地の大丈夫は大丈夫じゃない。」とのこと。
- 2004年のナビスコカップ決勝のPK戦ではキッカーの5人目に誰もなりたがらなかったため、加地自身が立候補した。結果は見事にPKを決めクラブに初タイトルをもたらした。しかし、当時の監督だった原博実いわくキッカーは金沢浄に任せたかったらしい。ちなみにGKの土肥は加地が絶対はずすと予想しており、怖さのあまりPKを見てられなかったらしい(試合のVTRを見ると加地のPKから目をそらす土肥の姿が確認できる)。
- 一部のファンからはKINGKAJI、カジー、ロベカジなど多数の愛称で親しまれている。
(いずれの呼称も三浦知良やブラジル代表の両サイドバック、カフー&ロベルト・カルロスの名前をもじってつけられたものである。) - また、ネット上でよく使われる愛称は「加地さん」と何故かさん付けである。上記エピソードの他、愛称の多さに見られるように、彼の人柄の良さから自然と定着した愛称である。
- 2004年1月21日、1歳年下の高校時代のサッカー部のマネージャーと入籍。7年越しの交際の末のゴールであった。入籍日は日本代表の背番号でもある21日を選んだ(偶然にもこの日は大安)。披露宴は翌年の正月に行われた。婦人は入籍までは実家の神戸の民宿を手伝っており、長年の遠距離恋愛の末のゴールでもあった。
- 前述の通り長男が誕生した日のAFCチャンピオンズリーグ 対大連実徳戦で加地がPKを得ると遠藤が決め、ガンバ大阪の選手たちがゆりかごダンスで祝った。
- 2007年3月、親善試合の為来日したペルー代表のウリベ監督が知っている選手として加地の名前をあげようとしたが名前を記憶していなかった為、「ジャキンという名前だったかな」と語った。
- 前代表監督のジーコが、現在指揮を執っているフェネルバフチェに連れてゆきたい日本人として加地の名を挙げた(週刊ポスト3/30日号)。中盤に比べサイドの人材難に恵まれており、日本人選手の特徴は熟知しているのでチャンスはあるだろうと語っていた。フェネルバフチェにロベルト・カルロスが移籍との情報が伝わるとネット上では「加地さんとロベカルの最強両SB誕生」「CL制覇も夢ではない」との(ネタ)意見が多数書き込まれた。
[編集] 所属チーム
- 1992年 - 1995年 西淡町立御原中学校
- 1995年 - 1998年 滝川第二高校
- 1998年 - 1999年 セレッソ大阪
- Jリーグ初出場: 1998年7月25日Jリーグ ファーストステージ第13節(vsアビスパ福岡)
- 2000年 - 2001年 大分トリニータ(J2)
- Jリーグ初得点: 2000年3月12日Jリーグ ディビジョン2第1節(vsモンテディオ山形)
- 2002年 - 2005年 FC東京(J1)
- 2006年 - ガンバ大阪(J1)
- Jアウォーズ2006 ベストイレブン受賞
[編集] 個人成績
年度 | チーム | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
J・J1 | J2 | ||||||||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1998年 | C大阪 | J1 | 29 | 15 | 0 | - | 1 | 1 | 1 | 0 | |
1999年 | C大阪 | J1 | 17 | 9 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |
2000年 | 大分 | J2 | 22 | - | 34 | 3 | 1 | 0 | 2 | 0 | |
2001年 | 大分 | J2 | 22 | - | 41 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | |
2002年 | FC東京 | J1 | 20 | 20 | 1 | - | 6 | 0 | 1 | 0 | |
2003年 | FC東京 | J1 | 20 | 22 | 0 | - | 6 | 0 | 2 | 0 | |
2004年 | FC東京 | J1 | 20 | 22 | 0 | - | 1 | 0 | 3 | 0 | |
2005年 | FC東京 | J1 | 20 | 25 | 0 | - | 0 | 0 | 2 | 0 | |
2006年 | G大阪 | J1 | 21 | 29 | 1 | - | 0 | 0 | 5 | 1 | |
2007年 | G大阪 | J1 | 21 | - | |||||||
通算 | 142 | 2 | 75 | 3 | 19 | 1 | 18 | 1 |
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 1999年 - ワールドユース(ナイジェリア大会)
- 2004年 - AFCアジアカップ中国大会
- 2005年 - FIFAコンフェデレーションズカップドイツ大会
- 2006年 - ワールドカップドイツ大会
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 49試合 1得点(2003-2006)
年度 | 試合 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|---|
出場 | 得点 | ||
2003年 | (16) | 1 | 0 |
2004年 | (22) | 20 | 0 |
2005年 | (20) | 14 | 1 |
2006年 | (19) | 14 | 0 |
通算 | 49 | 1 |
[編集] 背番号
日本代表での背番号は21、ガンバ大阪での背番号も21である。前所属チームFC東京での背番号は20、また大分トリニータ在籍時の背番号は22だった。
宮本恒靖がザルツブルグに移籍する際、宮本がつけていた背番号5の後継者に加地の名が上がったが、加地本人が「背番号は21のままがいい」と言ったことでこの話は無しになった。(結局5番は今シーズンからシジクレイがつけている)
[編集] 関連項目
ガンバ大阪 - 2007 |
---|
0 ガンバボーイ | 1 松代直樹 | 2 中澤聡太 | 3 入江徹 | 4 實好礼忠 | 5 シジクレイ | 6 山口智 | 7 遠藤保仁 | 8 家長昭博 | 9 マグノ・アウベス | 10 二川孝広 | 11 播戸竜二 | 13 安田理大 | 14 平井将生 | 15 青木良太 | 16 前田雅文 | 17 明神智和 | 18 バレー | 19 中山悟志 | 20 寺田紳一 | 21 加地亮 | 22 藤ヶ谷陽介 | 24 横谷繁 | 25 岡本英也 | 26 伊藤博幹 | 27 橋本英郎 | 28 植田龍仁朗 | 29 木村敦志 | 30 下平匠 | 31 倉田秋 | 32 星原健太 | 33 玉置慎也 | 監督 西野朗 | クラブ | |
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日本代表 - 2006 FIFAワールドカップ | ![]() |
---|---|---|
1 楢崎正剛 | 2 茂庭照幸 | 3 駒野友一 | 4 遠藤保仁 | 5 宮本恒靖 | 6 中田浩二 | 7 中田英寿 | 8 小笠原満男 | 9 高原直泰 | 10 中村俊輔 | 11 巻誠一郎 | 12 土肥洋一 | 13 柳沢敦 | 14 三都主アレサンドロ | 15 福西崇史 | 16 大黒将志 | 17 稲本潤一 | 18 小野伸二 | 19 坪井慶介 | 20 玉田圭司 | 21 加地亮 | 22 中澤佑二 | 23 川口能活 | 監督 ジーコ |
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