光延東洋
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光延 東洋(みねのぶ とうよう、1897年(明治30年)10月9日 - 1944年(昭和19年)6月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。岡山県高梁市出身。
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[編集] 略歴
旧制大阪府立北野中学校より海軍兵学校第47期入校。入校時成績順位は151名中第4位、卒業時成績順位は115名中首席。
光延は海軍兵学校の成績が優秀であったにも拘わらず何故か海軍大学校甲種課程を履修していない。ヨーロッパへの出張と駐在を繰返し井上成美や下村正助なども光延を高く評価していた。イタリアが降伏しスイスに業務連絡の為に移動中にパルチザンの襲撃に遭遇し銃殺され戦死扱となる。
[編集] 人物像
[編集] 年譜
- 1897年(明治30年)10月9日- 岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市)生
- 1916年(大正5年)8月31日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位151名中第4位
- 1919年(大正8年)10月9日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位115名中首席・任 海軍少尉候補生・装甲巡洋艦「常磐」乗組
- 1920年(大正9年)5月20日- 帰着
- 1921年(大正10年)12月1日- 海軍砲術学校普通科学生
- 1922年(大正11年)4月8日- 海軍水雷学校普通科学生
- 1923年(大正12年)12月1日- 戦艦「長門」分隊長心得
- 1924年(大正13年)12月1日- 任 海軍大尉・海軍航海学校学生
- 1925年(大正14年)12月1日- 第19号駆逐艦艤装員
- 1926年(大正15年)2月5日- 1等駆逐艦「睦月」航海長兼分隊長
- 12月1日- 給油艦「能登呂」航海長
- 1927年(昭和2年)12月1日- 連合艦隊兼第1艦隊司令部参謀兼副官
- 1928年(昭和3年)12月10日- 航空母艦「鳳翔」航海長兼分隊長
- 1929年(昭和4年)11月30日- 海軍兵学校教官兼監事
- 1930年(昭和5年)12月1日- 任 海軍少佐・在フランス日本大使館附海軍駐在武官府補佐官補
- 1932年(昭和7年)12月1日- 帰朝
- 1933年(昭和8年)3月10日- 重巡洋艦「那智」航海長兼分隊長
- 9月1日- 海軍省軍務局第1課
- 1934年(昭和9年)9月7日- ロンドン軍縮会議予備交渉専門委員
- 1935年(昭和10年)2月12日- 帰朝
- 1936年(昭和11年)3月5日- 帰朝
- 1937年(昭和12年)12月1日- 第3航空戦隊参謀
- 1938年(昭和13年)8月15日- 支那方面艦隊司令部参謀 兼臨時特務部員
- 1939年(昭和14年)3月15日- 上海在勤海軍武官府補佐官
- 12月15日- 兼 支那方面艦隊司令部附
- 1940年(昭和15年)1月25日- 海軍軍令部出仕
- 1944年(昭和19年)6月5日- スイス業務出張
- 6月9日- イタリア山中に於いてパルチザン襲撃に依り銃殺 戦死扱 享年46 海軍少将特別進級
[編集] 参考文献
- 戦史叢書・第79巻 中国方面海軍作戦(2) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井 篤・豊田隈雄編・中央公論新社) ISBN 4-12-4900040-6 C0320
- 高木惣吉日記と情報(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 米内光政(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300413-4 C0093
- 井上成美(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300414-2 C0093
- 軍艦長門の生涯(阿川弘之著・新潮文庫) ISBN 4-10-111007-7 C0193(上巻) ISBN 4-10-111008-5 C0193(中巻) ISBN 4-10-111009-3(下巻)
- 深海の使者 (吉村 昭著・新潮文庫) ISBN 4-10-1111707-1 C0193
- 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野寺 誠編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)