岸田吟香
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岸田 吟香(きしだ ぎんこう、1833年6月15日(天保4年旧暦4月28日)、一説に同天保4年旧暦4月8日(1833年5月26日)-明治38年(1905年)6月7日)は、日本の新聞記者、実業家、教育家。美作国久米郡垪和(はが)村大字中垪和字谷大瀬毘(現岡山県北条郡旭町→美咲町)出身。日本ではじめての従軍記者。目薬「精錡水」(せいきすい)を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。幼名辰大郎。名前は大郎、大郎左衛門、達蔵、称子麻呂、清原桜、作良(さくら)、さくら、まゝよ、銀次あるいは銀次郎などがある。また墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸大郎、岸桜、小林屋銀次、岸田銀治、岸田屋銀治、京屋銀治郎、桜井銀治郎などとも名乗った。号は吟香、東洋、桜草。筆名には吟道人がある。
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[編集] 略歴
1833年6月15日(天保4年4月28日)、美作国久米北条郡垪和村に岸田修治郎の子として生まれた。 家は富裕な農家であった。 1852年(嘉永5年)19歳、江戸に入り、翌年、津山藩儒昌谷精渓の赤松塾に入門。 その紹介で同年、林図書頭に入門。しばらくのちには、三河挙母藩に中小姓として召し抱えられたが、脚気をわずらい帰国。 1856年(安政3年)、23歳で大坂に出て藤沢東畡に漢学を学び、翌年には江戸の藤森天山(名は恭助、大雅、号は天山、弘庵、1799年? - 1862年)に入門する。 しかし、1858年(安政5年)、25歳のとき、藤森天山が幕府に追われるとかれと、翌年には関係する吟香も疑われたため上州伊香保へ一時避難した。 その後、三河挙母藩で儒官に昇任するが、まもなく脱藩し上州を経て江戸に入り、深川の妓楼の箱屋、湯屋の三助などをしながら妓楼の主人となり吉原に住む。このころ、きままに暮らすをもじり「ままよのぎん」と名乗っていたが、転じて「銀次」となり、仲間内で「銀公」と呼ばれるようになったことから「吟香」と称するようになったという。また、その字面は陸游の詩の一節、「吟到梅花句亦香」からとったものであるともいう。
1863年(文久3年)、30歳のとき眼を病み、箕作秋坪の紹介で、横浜の宣教師・医者J・Cヘボン(平文、James Curtis Hepburn,1815年-1911年。明治学院大学創立者。ヘボン式ローマ字の考案者。)をたずね、のちかれの『和英語林集成』編纂を手伝うようになった。 『和英語林集成』は、吟香が命名したもので、英語話者の日本語学習、日本語話者の英語学習に効果的だとして好評を博した。 また、同時期、米国領事館附通訳ジョセフ・ヒコ(アメリカ彦蔵、浜田彦蔵、1837年 - 1897年)について英語を学び、外国新聞を飜訳する『海外新聞』を発行する。
1866年(慶応2年)、33歳、『和英語林集成』の印刷刊行のためにヘボンと上海へ渡航、翌年5月までの9カ月を美華書館で印刷、校訂につとめた。この美華書館は、アメリカ長老会が1860年に上海に進出・設立した印刷所で、第6代館長ウィリアム・ギャンブル (William Gamble) のもと、当時アジア最高の印刷所であったが、片仮名の活字がなかったために吟香の版下に基いて鑄造しなければならなかった。1867年(慶応3年)5月、34歳、辞書は完成し、7月に横浜の居留地で発売された。 同年日本へ帰国すると、まもなくヘボンより処方を教授された眼薬「精錡水」の販売をはじめた。
1873年(明治6年)、40歳、東京日日新聞に迎えられ主筆として活躍する。1874年(明治7年)、台湾出兵の際には従軍記者として赴き『台湾従軍記』を連載、読者の好評を博した。 文筆活動の傍ら、諸事業を拡大し実業家としても活躍。「精錡水」では、東京日日新聞の紙面に新聞広告をうち、売り上げ向上に活用しており、これは新聞広告の商業的活用の嚆矢となった。
1877年(明治10年)、44歳、東京日日新聞社を退社すると東京銀座に楽善堂をひらき売薬業に専念する。 1880年(明治13年)、中国に上海に渡り楽善堂支店をひらくと販路を各地にひろげる成功をおさめた。
そのような商業的成功のかたわら、かれは日中間の将来を考え人材育成にもつとめている。 楽善堂には中国を舞台に活動することを志す人々が集い、吟香は物心両面でかれらを援助した。 このなかには、荒尾精、宗方小太郎、井手三郎、中西正樹、浦敬一、石川伍一、高橋謙、山内嵓等がおり、のちにかれらは吟香の援助をうけつつ日清貿易研究所(1890年9月-1894年8月)、東亜同文会(1898年11月)、東亜同文書院(1901年4月)設立の中心として活動することになる。 岸田自身も日清の友好・貿易のために、1880年(明治3年)2月榎本武揚・長岡護美・曽根俊虎らと興亜会(亜細亜協会)を組織している。
中国については、商業的な活動だけでなく欧米の医療技術普及についても活動をおこなっており、中国各地に病院を設けた同仁会(1902年〔明治35年〕6月設立)にも積極的に参画した。 この、一方的に欧米式の医療をひろめるだけではなく、中国伝統の医学である漢方薬にも注目し、これを日本において普及させてもいる。 また、現在でいう福祉活動にも積極的であり、盲人教育への関心もつよく、前島密・中村正直・山尾庸三らと、1880年(明治13年)に授業を開始した楽善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)を創設している。
晩年は『清国地誌』の編纂につとめたが完成をまたず、1905年(明治38年)6月7日死去、齢72であった。墓は東京の谷中墓地(谷中霊園)にある。
妻勝子とは子宝に恵まれ、7男5女をもうけた。長男銀次は吟香より先に没し、次男の艾生が吟香の名を継いだ。第9子、四男劉生は洋画家である。
[編集] 年表
- 天保4年4月28日(1833年6月15日)一説に同年4月8日(5月26日)、美作国久米郡垪和(はが)村大字中垪和字谷大瀬毘(現岡山県北条郡旭町→美咲町)に生まれる。
- 天保9年(1838年)5歳、美作国久米郡垪和(はが)村中垪和畝の宝寿寺住職に学ぶ。
- 弘化2年(1845年)12歳、美作国久米郡坪井の安藤善一(簡斎)に入門。
- 嘉永6年(1853年)20歳、江戸の津山藩儒昌谷精渓に入門、その紹介で林図書頭に入門。
- 安政2年(1855年)22歳、三河挙母藩の中小姓となり、大郎と改名(大郎左衛門とも)。年末、脚気悪化のため帰国療養。
- 安政3年(1855年)23歳、大阪に出て藤沢東畡に入門。
- 安政4年(1856年)24歳、江戸で藤森天山に入門。
- 安政6年(1859年)26歳、藤森天山に連座して幕府に追われ上州伊香保へ避難。まもなく、江戸に戻り結婚するが流行病で1カ月ほどで妻を亡くす。
- 文久元年(1861年)28歳、三河挙母藩で儒官に昇任するが、脱藩し上州を経て江戸に入る。銀次と名乗り、湯屋の三助などして深川で生活し妓楼の主人となって吉原にうつり住む。
- 文久3年(1863年)30歳、横浜でヘボンの『和英語林集成』編纂を助けるはじめ、知り合ったジョセフ・ヒコに英語について学ぶ。年末、深川に居を移す。
- 文久4年(1864年)31歳、日本最初の新聞『新聞紙』をジョセフ・ヒコ、本間潜蔵とともに創刊。年末、うたと結婚し浅草にうつる。
- 慶応元年(1865年)32歳、横浜にうつり、ヘボンの手伝いを本格的に行い始める。
- 慶応2年(1866年)33歳、『和英語林集成』の印刷のためにヘボンとともに上海へ渡航(第1回渡清)。美華書館でカナ鉛活字を作る。
- 慶応3年(1867年)34歳、『和英語林集成』が刊行される。このころ「精錡水」の販売をはじめる。
- 慶応4年(1868年)35歳、汽船買いつけのために上海に渡る(第2回渡清)も目的達せず。上海に「精錡水」の取次所を設置。帰国後、『横浜新報・もしほ草』をヴァン・リードと発刊。横浜東京間の定期航路を運営。
- 明治2年(1869年)36歳、氷製造販売開始。横浜海産物問屋小林屋の娘小林勝子16歳と結婚し上野観成院早川久満方に起居。
- 明治3年(1870年)37歳、北海道函館で氷の製造開始。横浜に玩具古物の店をひらく。
- 明治4年(1871年)38歳、横浜氷室商会設立。
- 明治5年(1872年)39歳、「東京日日新聞」創刊に関係する(該紙は吟香が上海で作った鉛活字を使用している)。岡山に帰省。
- 明治6年(1873年)40歳、関西遊覧しつつ東京日日新聞へ記事を送る。伊香保での病気療養ののち、「東京日日新聞」に主筆として入社。
- 明治7年(1874年)41歳、台湾出兵に従軍する。『台湾従軍記』を連載する。大倉喜八郎にクリスチャンであることを告白。「東京日日新聞」編集長となる。
- 明治8年(1875年)42歳、横浜から東京尾張町を経て秋には銀座にうつる。
- 明治9年(1858年)43歳、明治天皇東北北海道巡幸に随行。
- 明治10年(1859年)44歳、このころ「楽善堂」の屋号をかかげはじめる。
- 明治11年(1878年)45歳、明治天皇北陸東海巡幸随行。
- 明治13年(1880年)47歳、「精錡水」販売のために上海にわたり「楽善堂支店」開設し夏に帰国(第3回渡清)。
- 明治15年(1882年)49歳、上海渡航(第4回渡清)年内に帰国。中国で科挙用の袖珍本を出版し多大な利益を得る。
- 明治16年(1883年)50歳、上海渡航(第5回渡清)、翌年まで中国に滞在。
- 明治17年(1884年)51歳、年末帰国。
- 明治18年(1885年)52歳、上海渡航(第6回)。
- 明治19年(1886年)53歳、上海渡航(第7回)。漢口へ駐在武官として赴任する途中の荒尾精が吟香をたずね、のち漢口楽善堂を開設し大陸での諸調査を援助することになる。
- 明治21年(1888年)55歳、上海渡航(第8回)、漢口旅行を経て翌年帰国。
- 明治24年(1891年)58歳、四男劉生誕生。
- 明治27年(1894年)61歳、勲六等に叙される。
- 明治30年(1897年)64歳、日本薬学会常議員となる。病死した荒尾精の同志たちとともに「同文会」設立する。
- 明治31年(1898年)65歳、「東亜会」と「同文会」が合併し「東亜同文会」成立。評議委員となる。
- 明治32年(1899年)66歳、「善隣訳書館」(内外書物の中国語版を出版する)設立。
- 明治33年(1900年)67歳、近衛篤麿とともに「国民同盟会」を組織。
- 明治34年(1901年)68歳、近衛篤麿とともに「東亜同文医学会」を組織。
- 明治35年(1902年)69歳、東亜同文医学会を発展させ「同仁会」を組織。
- 明治38年(1905年)72歳、6月7日死去。
[編集] 新聞と吟香
[編集] 横浜新報もしほ草
横浜新報もしほ草は、慶応4年(1868年)吟香が35歳のときに創刊された。ヴァン・リードと吟香、ふたりで創刊したかたちであったが、実質記事は吟香が書いていた。本紙にはヴァン・リードの名だけがあって、吟香の名は見当たらない。この様に吟香は筆禍をのがれるために、ヴァン・リードを隠れ蓑にしていたふしがある。これはヴァン・リードが生活していた横浜居留地が治外法権に設定されていて、幕府も手が出せなかったためである。記事は漢字と平仮名の混じった平易な文で書かれた。これは『呉淞日記』にもあらわれている特徴である。『もしほ草』には、広告記事が一切なく、この点、ジョセフ・ヒコ『海外新聞』B・M・ベイリー『万国新聞紙』とは異なっている。また、ヘボンの日本最初の義足手術の記事を書いたりもした(沢村田之助の記事を参照のこと)。さらに、親日派のフランス人、レオン・ド・ロニー(Leon de Rosny,1837年-1914年)のパリで刊行した邦字新聞『よのうはさ』(たった1号きりでおわってしまった)を紹介している。『もしほ草』の体裁は木版刷り、半紙四つ折、四六判、一行20字詰め、一面10行、唐紙片面刷りの袋表紙、萌黄色の絹糸二箇所綴じであった。
『もしほ草』第1号序文には、平易な文体の大切さをのべたあと、「…余が此度の新聞紙は日本全国内の時々のとりさたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海、香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且月の内に十度の余も出板すべし。それゆゑ諸色の相場をはじめ、世間の奇事珍談、ふるくさき事をかきのせることなし。また確実なる説を探りもとめて、決して浮説をのせず。…」と編輯方針をかいている。
『もしほ草』は明治初期に刊行された他の新聞(たとえば柳河春三『中外新聞』・栗本鋤雲『郵便報知新聞』・成島柳北『朝野新聞』ら元幕臣)とは違い、吟香は民間人であったから、比較的自由に記事が書けた。しかし以下のような吟香の記述がある。「たゞ耳から耳へ聞き伝へたまゝを書き、或は毎度西国方が勝った事ばかりでは、江戸の人気は投ぜぬから、態と官軍が負けたと書くことがある、官軍が負けたと書けば売れ高が餘程多くなり、『もしほ草』なども売捌屋が大分儲けた」江戸の民は佐幕派が多く、おもねらないと売れなかったのである。
『もしほ草』は『中外新聞』と競い当初はかなり売れたが、後続が次々とでてくるしそのうち振るわなくなり、42号で廃刊となった。吟香は、明治3年7月ごろには『もしほ草』をはなれたらしい。
[編集] 東京日日新聞
東京日日新聞(以下、東京日日)は、前『江湖新聞』にいた戯作者條野伝平(採菊、天保3年(1832年) - 明治35年(1902年))、貸本屋番頭西田伝助(菫坡、天保9年(1838年) - 明治43年(1910年))、浮世絵師落合芳幾(天保4年(1833年) - 明治37年(1904年))の三人によって創刊された。東京日日は、いまは毎日新聞となっている。
三人は、成長していた東京日日のため(その200号は2000部であった)、明治6年(1873年)岸田吟香をまねき、主筆にすえた。吟香の記事は質がよく巷に評判をよび、東京日日の評価はあがった。明治7年(1874年)5月、東京日日は社屋を移転したが、このとき部数は8500となっていた。
福地源一郎(桜痴、天保12年3月23日(1841年5月13日) - 明治39年(1906年)1月4日)は、條野伝平の『江湖新聞』(当時すでに廃刊されていた)時代の上司であった。東京日日のさらなる発展には桜痴が必要であろう、ということで桜痴をよび、吟香は主筆の座を譲った。この時期吟香は、桜痴、成島柳北、石井南橋と並び、世に四大記者のひとりと数えられるほどの立場にあった。
吟香は、明治7年(1874年)、台湾出兵に従軍し、見聞した。吟香は戦況と台湾の風土を平易な美文でしるし、大衆はよろこんでこれを読んだ。このとき、東京日日の発行部数は15,000に達した。これが日本における従軍記者の歴史の始まりであった。
その後も吟香は明治天皇の巡幸の様子を記した、「東北御巡幸記」を連載するなどますます健筆を振るったが、明治10年(1877年)、東京日日を退社した。この後、吟香は新聞界とは関わらなかった。
[編集] 実業家としての顔
吟香は実業家としても成功している。慶応3年(1867年)、吟香は回漕業者をはじめる。江戸松坂屋彌兵衛と横浜鹿島屋亀吉の合資であった。毎日江戸横浜間を往復し、とても早かった。購入した汽船は稲川丸といい、よく働いたが、これが築地海岸にて爆発沈没し、廃業した。吟香の次の事業は『もしほ草』であるが、これは上記を参照のこと。『もしほ草』と同時期、横浜に骨董玩具店をひらいたり、函館を視察しノウハウを得、1871年(明治4年)江戸で氷室商会を創設して氷を販売しもした。
明治10年(1877年)東京日日をやめた吟香は、本業を目薬「精錡水」の製造・販売とし、東京銀座2丁目1番地に楽善堂を設立した。吟香は新聞広告を活用し、またまた世間の評判を呼び、持てはやされた。吟香が人生で一番金を得たのが、この仕事である。明治11年(1878年)、吟香は上海に渡航し、支店をつくった。上海は、吟香が『和英語林集成』を印刷した、思い出の地である。
[編集] 清と吟香
すたぶ
[編集] 教育者としての顔
すたぶ
[編集] 参考図書
- 東亜同文会内対支功労者伝記編纂会(代表中島真雄)『対支回顧録:下巻列伝』東亜同文会内対支功労者伝記編纂会、1936年7月10日第3版(1936年4月18日初版発行)
- 大学史編纂委員会『東亜同文書院大学史』滬友会、1982年5月30日 非売品
- 杉浦正『岸田吟香:資料から見たその一生』汲古書院、1996年7月 ISBN 4-7629-5019
- 秋山勇造『明治のジャーナリズム精神』五月書房、2002年 ISBN 4-7727-0367-5
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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