赤城宗徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
赤城 宗徳(あかぎ むねのり 1904年(明治37年)12月2日 - 1993年(平成5年)11月11日)は、日本の政治家。衆議院議員。教育者。農林大臣、内閣官房長官、防衛庁長官を歴任した。称号は剣道範士。永年勤続議員表彰受彰。
[編集] 来歴・人物
茨城県真壁郡上野村(後の明野町、現在は筑西市)の代々名主をつとめた家に生まれる。1927年(昭和2年)に東京帝国大学を卒業。地元の上野村村長を経て、衆議院議員に立候補し当選する。当選後、岸信介率いる護国同志会に所属して活動するが、戦後、公職追放を受ける。
1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で立候補し当選。政界に復帰後は吉田ワンマン体制打倒に動き、1954年(昭和29年)自由党を離党し、鳩山一郎を総裁とする日本民主党に参加した。その後、1955年(昭和30年)、保守合同にともない自由民主党に参加、岸派に属した。
1957年(昭和32年)、第一次岸信介内閣の農林大臣として初入閣する。農相に就任した赤城を待ち受けていたのが日ソ漁業交渉であり、赤城は、イシコフ・ソ連漁業大臣との間に「100日漁業交渉」と呼ばれる激烈な交渉を繰り広げた。この漁業交渉がきっかけとなって、後年赤城は日ソ親善協会会長をつとめる。第二次岸内閣で内閣官房長官、そして、安保改訂をめぐる政局では、1959年(昭和34年)に主務大臣である防衛庁長官に就任する。安保をめぐり争乱が起こる中、岸首相に治安維持のため自衛隊出動を打診されるが、“自衛隊を国民の敵に回しかねない”と反対したことで知られる(「どうしてもやれと言うなら、国民に対し責任を取る意味で発令と共に辞表を出します」と答えたという)。
1962年、岸が派閥を福田赳夫に譲る言動を取るとそれに猛反発し、川島正次郎、椎名悦三郎らと川島派を結成し岸と訣別。川島派を継いだ椎名派が解散した後は三木-河本派に加わった。
1971年(昭和46年)、第3次佐藤栄作内閣でも農林大臣をつとめる。1976年(昭和51年)の総選挙で落選するが、1979年(昭和54年)に国政復帰。 1990年(平成2年)に政界を引退。1993年(平成5年)11月11日死去。享年88。
平将門の研究でも知られ、『私の平将門』、『新編 将門地誌』(全三巻)などの著書を著した。
霞ヶ浦高等学校の校長を1956年から1990年まで務めた。1956年から1967年までは学校法人霞ヶ浦高等学校の理事長も兼務した。
衆議院議員の赤城徳彦は孫にあたる。
[編集] 関連事項
内閣書記官長
田中光顕 - 小牧昌業 - 周布公平 - 平山成信 - 伊東巳代治 - 高橋健三 - 平山成信 - 鮫島武之助 - 武富時敏 - 安廣伴一郎 - 鮫島武之助 - 柴田家門 - 石渡敏一 - 南弘 - 柴田家門 - 南弘 - 江木翼 - 山之内一 - 江木翼 - 兒玉秀雄 - 樺山資英 - 三土忠造 - 宮田光雄 - 小橋一太 - 江木翼 - 塚本清治 - 鳩山一郎 - 鈴木富士彌 - 川崎卓吉 - 森恪 - 柴田善三郎 - 堀切善次郎 - 河田烈 - 吉田茂 - 白根竹介 - 藤沼庄平 - 大橋八郎 - 風見章 - 田邊治通 - 太田耕造 - 遠藤柳作 - 石渡荘太郎 - 富田健治 - 星野直樹 - 三浦一雄 - 田中武雄 - 廣瀬忠久 - 石渡荘太郎 - 迫水久常 - 緒方竹虎 - 次田大三郎 - 楢橋渡 - 楢橋渡
内閣官房長官
林譲治 - 西尾末広 - 苫米地義三 - 佐藤栄作 - 増田甲子七 - 岡崎勝男 - 保利茂 - 緒方竹虎 - 福永健司 - 根本龍太郎 - 石田博英 - 愛知揆一 - 赤城宗徳 - 椎名悦三郎 - 大平正芳 - 黒金泰美 - 鈴木善幸 - 橋本登美三郎 - 愛知揆一 - 福永健司 - 木村俊夫 - 保利茂 - 竹下登 - 井出一太郎 - 二階堂進 - 園田直 - 安倍晋太郎 - 伊東正義 - 宮澤喜一 - 後藤田正晴 - 藤波孝生 - 後藤田正晴 - 小渕恵三 - 塩川正十郎 - 山下徳夫 - 森山眞弓 - 坂本三十次 - 加藤紘一 - 河野洋平 - 武村正義 - 熊谷弘 - 五十嵐広三 - 野坂浩賢 - 梶山静六 - 村岡兼造 - 野中広務 - 青木幹雄 - 中川秀直 - 福田康夫 - 細田博之 - 安倍晋三 - 塩崎恭久
|
|
|
|
|
|
|
|
カテゴリ: 日本の閣僚経験者 | 日本の国会議員 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 茨城県の政治家 | 都道府県知事・市町村長 | 1904年生 | 1993年没