風見章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
風見 章(かざみ あきら、1886年2月12日 - 1961年12月20日)は、日本の昭和期の政治家。立憲民政党、国民同盟、日本社会党に所属の衆議院議員。当選9回。第1次近衞内閣書記官長、第2次近衞内閣司法大臣。茨城県水海道町(現 常総市)出身。水海道市名誉市民。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] 生い立ち~政界進出以前
茨城県水海道町高野の農家に、二男三女の末子として生まれる。1898年、旧制土浦中学校(現 茨城県立土浦第一高等学校)に入学(風見は入学者の中で最も弱年であり、周囲は年上ばかりだったという)。その後、家からの距離が遠かったため下妻中学(現 下妻一高)に転入する。しかし、禁令を無視して野球試合の応援に行き、それをとがめ首謀者の取調べを行なおうとした校長への排斥運動に加わって放校となった。風見は生涯を通してスポーツにはあまり関心はなかったようである。職員たちの官僚的な態度に反発してのことだろう。 その後水海道中学(現 水海道一高)に編入。水海道中学では、他校を放校されての編入ということで白眼視されたが、やがてその人柄や学力が認められ友人もできていき、同校の第1回卒業生となった。卒業後早稲田大学高等予科政治経済学部に入学。早稲田大学雄弁会に所属し、そこで中野正剛、緒方竹虎らと親交を持った。 1909年早大を卒業した風見は国際通信などの職を転々とした後、1923年から5年間、信濃毎日新聞主筆として労働者や農民の側に立ったリベラルな意見を発表した。ちなみに、風見が衆議院議員総選挙に出馬したとき主筆の職を受け継いだのは桐生悠々であった。
[編集] 政界進出後(戦前・戦中)
1928年、茨城3区から総選挙に出馬するも落選。30年に立憲民政党からトップ当選、32年には脱党し国民同盟に参加。 1937年、首相となった近衛文麿は当時全く面識の無かった風見を書記官長に抜擢。風見は日中戦争の終結を目指すが、内閣発足一ヵ月後に盧溝橋事件が勃発した。近衛内閣の不拡大路線は挫折し、和平は実現しないまま内閣総辞職となる。 1940年5月、軍部の力を抑制し中国との戦争を早期に終結させようと、近衛を党首とする新党の結成を目指す新体制運動を、有馬頼寧らと共に開始。近衛がこれに賛同し、7月発足した第2次近衛内閣で風見を司法大臣にした。しかし、運動は10月大政翼賛会の結成に至り、風見は12月に大臣を辞任。書記官長時代に風見が内閣の嘱託に抜擢した、書記官長就任以前からの盟友の尾崎秀実が41年10月にゾルゲ事件で逮捕されるなど政治的に苦境に立たされたこともあり、42年4月の翼賛選挙に出馬せず、その後帰農。
[編集] 戦後
1946年、GHQによって公職追放の処分を受けるが51年に解除。翌年の総選挙に無所属で当選し政界復帰。以後5回連続で当選する。54年1月には憲法擁護国民連合の代表委員となり、翌年1月左派社会党入党、10月の左右社会党統一時に党顧問となる。日ソ、日中国交回復国民会議理事長、アジア・アフリカ連帯委員会代表委員として活躍。57年には訪中して周恩来首相(当時)と会談した。また、岸信介内閣の台湾政権支持、長崎市の中国国旗侮辱事件に際し、1958年7月14日、中島健蔵、細川嘉六、伊藤武雄と連名で中国侵略への「反省声明」を発表した。 憲法擁護、日ソ・日中の国交回復などに力を尽くした風見だったが、59年より体調を崩し、翌年9度目の当選を果たすも、1961年12月20日に亡くなった。享年七十五。22日の衆議院本会議では、冒頭に全議員が1分間の黙祷を行い、弔詞を贈ることを決議し、同郷の赤城宗徳議員が追悼演説を行なった。また、風見の危篤の知らせを受けた水海道市議会は18日に臨時市議会を開き、名誉市民条例案を満場一致で可決し、その第一号に 風見を推戴した。
[編集] その他
- 気品ある書を書く人物でもあり、白洲次郎別邸武相荘の一室には今も風見の「武相荘」の額が飾られている。また、母校水海道一高の校長室には校訓額が飾られている。
- 著書に『近衛内閣』、『鬼怒川雑記』などがある。
[編集] 関連人物
[編集] 外部リンク
内閣書記官長
田中光顕 - 小牧昌業 - 周布公平 - 平山成信 - 伊東巳代治 - 高橋健三 - 平山成信 - 鮫島武之助 - 武富時敏 - 安廣伴一郎 - 鮫島武之助 - 柴田家門 - 石渡敏一 - 南弘 - 柴田家門 - 南弘 - 江木翼 - 山之内一 - 江木翼 - 兒玉秀雄 - 樺山資英 - 三土忠造 - 宮田光雄 - 小橋一太 - 江木翼 - 塚本清治 - 鳩山一郎 - 鈴木富士彌 - 川崎卓吉 - 森恪 - 柴田善三郎 - 堀切善次郎 - 河田烈 - 吉田茂 - 白根竹介 - 藤沼庄平 - 大橋八郎 - 風見章 - 田邊治通 - 太田耕造 - 遠藤柳作 - 石渡荘太郎 - 富田健治 - 星野直樹 - 三浦一雄 - 田中武雄 - 廣瀬忠久 - 石渡荘太郎 - 迫水久常 - 緒方竹虎 - 次田大三郎 - 楢橋渡 - 楢橋渡
内閣官房長官
林譲治 - 西尾末広 - 苫米地義三 - 佐藤栄作 - 増田甲子七 - 岡崎勝男 - 保利茂 - 緒方竹虎 - 福永健司 - 根本龍太郎 - 石田博英 - 愛知揆一 - 赤城宗徳 - 椎名悦三郎 - 大平正芳 - 黒金泰美 - 鈴木善幸 - 橋本登美三郎 - 愛知揆一 - 福永健司 - 木村俊夫 - 保利茂 - 竹下登 - 井出一太郎 - 二階堂進 - 園田直 - 安倍晋太郎 - 伊東正義 - 宮澤喜一 - 後藤田正晴 - 藤波孝生 - 後藤田正晴 - 小渕恵三 - 塩川正十郎 - 山下徳夫 - 森山眞弓 - 坂本三十次 - 加藤紘一 - 河野洋平 - 武村正義 - 熊谷弘 - 五十嵐広三 - 野坂浩賢 - 梶山静六 - 村岡兼造 - 野中広務 - 青木幹雄 - 中川秀直 - 福田康夫 - 細田博之 - 安倍晋三 - 塩崎恭久
|
|
|
|
|
|
カテゴリ: 日本の歴史関連のスタブ項目 | 人物関連のスタブ項目 | 1886年生 | 1961年没 | 日本の閣僚経験者 | 日本の国会議員 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 茨城県の政治家 | 日本のジャーナリスト