パーミャチ・ミェルクーリヤ (防護巡洋艦)
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パーミャチ・ミェルクーリヤ(ロシア語:Память Меркурияパーミャチ・ミルクーリヤ;ウクライナ語:Пам'ять Меркуріяパーミヤチ・メルクーリヤ)は、ロシア帝国で建造された防護巡洋艦(Бронепалубный крейсерブラニパールブヌィイ・クリェーイスィル;Брoнепалубний крейсерブロネパールブヌィイ・クレーイセル)。艦名は何度か変更されており、当初はカグール(Кагулカグール)、のちヘーチマン・イヴァーン・マゼーパ(Гетьман Іван Мазепаヘーチマン・イヴァーン・マゼーパ)、コミンチェールン(Коминтернカミンチェールン)と呼ばれた。
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[編集] 概要
[編集] 帝政時代
パーミャチ・ミェルクーリヤは、1881年に造船計画に基づきドイツの「ヴルカン」株式会社によって計画が立てられたロシア帝国海軍のボガトィーリ級防護巡洋艦の3番艦として設計された。1901年5月4日に黒海艦隊の艦艇リストに記載され、同年9月5日(8月23日)、新ロシアのニコラーイェフ海軍工廠で起工された。翌1902年5月2日、進水、1905年に艦隊に編入された。当初は、露土戦争でのオスマン帝国軍に対する戦勝地名に因んでカグールと命名された。
1907年4月7日(3月25日)、それまでオチャーコフと呼ばれていた同型艦がカグールと呼ばれることになり、元のカグールはパーミャチ・ミェルクーリヤと改称された。パーミャチ・ミェルクーリヤという名はクリミア戦争で活躍したブリッグ、ミェルクーリイ(Меркурий;ロシア語でメルクリウスのこと)に因んだもので、「ミェルクーリイの記念」、「ミェリクーリイの追憶」といった意味であった。
[編集] 世界大戦と革命
1913年1月19日から1914年3月14日までの間、パーミャチ・ミェルクーリヤはクルィームのセヴァストーポリ港において艦体と内部構造の基本的な改修を受けた。
夏に勃発した第一次世界大戦においては、敵の交通や沿岸地帯への急襲作戦任務、トルコ沿岸における偵察及び封鎖部隊の輸送任務に就き、他の艦隊の活動を急襲任務及び機雷敷設で支援した。また、戦艦戦隊を護送し、その対潜防御を実行した。
1915年には、戦艦イェフスターフィイなどとともにサルィーチュ岬沖でオスマン帝国海軍の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリム(Yavuz Sultan Selim)及び軽巡洋艦ミディッリ(Midilli;en:SMS Breslau)との海戦を行った。なお、ミディッリは元はパーミャチ・ミェルクーリヤ同様「ヴルカン」によって設計されたドイツ帝国海軍のマグデブルク級軽巡洋艦の2番艦ブレスラウで、移籍に際してトルコの都市名に変更されたもの。ヤウズ・スルタン・セリムは元はドイツ帝国海軍地中海艦隊のモルトケ級巡洋戦艦の2番艦ゲーベンで、移籍にあたってオスマン帝国第9代スルタンセリム1世に因んで改称したもの。ヤウズは、ロシア帝国海軍黒海艦隊にとっての最大の敵であった。
1916年2月5日から4月18日までは攻撃作戦に参加し、10月にはコンスタンツァ(現ルーマニア)の石油貯蔵所や港湾施設を砲撃した。しかしながら、艦体の損傷のため12月から翌1917年4月の間、セヴァストーポリ軍港のユージュヌィイ・ブーフタ(南の入り江の意味)で艦体と内部構造の修繕を受け、それと同時に武装の近代化が行われた。
その間ロシア中央ではロシア革命が勃発したが、パーミャチ・ミェルクーリヤは二月革命の時点では未だ修理中であり、十月革命もすでに終わったあとの同年12月29日、赤軍黒海艦隊に編入された。従って、パーミャチ・ミェルクーリヤは革命の期間をずっと船台の上で過ごしていた。
[編集] 独立ウクライナ
ロシア中央では革命政権が権力を掌握したが、地方では革命派と反革命派との間に熾烈な内戦が生じた。この国内戦の期間、重要軍事拠点であったセヴァストーポリでは各勢力による激しい取り合いが繰り返された。キエフを中心として建設されたウクライナ民族共和国は当初はロシア連邦の中での自治を宣言していたが、十月革命で思想的・感情的にまったく相容れないボリシェヴィキー政権が誕生し諸々の交渉は決裂、同国は第四次ウニヴェルサルでロシアからの完全な独立を宣言、ボフダン・フメリニツキイ以来の独立ウクライナが誕生した。これに対し、ボリシェヴィキー政権はウクライナへ軍隊を侵攻させた。しかしながら、軍事的にまったく未熟な素人集団であった赤軍はすぐにより強力な中央ラーダ軍によって駆逐され、セヴァストーポリもウクライナ勢力下に入ることとなった。同地にあったパーミャチ・ミェルクーリヤも、1918年1月14日、新たに設立されたウクライナ民族共和国海軍に編入されることとなった。パーミャチ・ミェルクーリヤの艦上には、史上初めてのウクライナ海軍旗が翻めいた。しかしながら、1918年3月28日には一時的に活動を停止され、セヴァストーポリ軍港で保管状態にされた。
[編集] ヘーチマンシュチナ
ウクライナ民族共和国はドイツ帝国軍と同盟を結んで赤軍との戦闘を続けていたが、国家運用の未熟さからドイツ軍の求めた食糧供給が滞ることが頻発した。そのため、ドイツ軍は1918年4月に政治中枢であったウクライナ中央ラーダを解散させ、中央ラーダのウクライナ民族共和国に終止符を打ち込んだ。代わって建設されたのはドイツ傀儡政権によるウクライナ国であった。パーミャチ・ミェルクーリヤの停泊していたセヴァストーポリ軍港は同年5月1日よりドイツ軍の占領を受けた。パーミャチ・ミェルクーリヤは、ドイツ帝国海軍地中海艦隊の特別部隊の陣のための海上兵舎として使用されることとなった。所属はウクライナ国海軍となった。
秋になるとウクライナ国の艦船の名称の変更が始められた。民間船舶はそれ以前にウクライナ名に改称されていたが、海軍艦艇としては1918年9月17日まず初めに砲艦クバーニェツ(Kубанец:ロシアのクバン・コサックのこと)がザポロージェツィ(Запoрoжець:ウクライナのザポロージエ・コサックのこと)に改称、同時にパーミャチ・ミェルクーリヤはヘーチマン・イヴァーン・マゼーパに改称された。この改称の背景には、ウクライナにおけるコサック人気を利用しようとする政策があった。特に後者には、ウクライナ民族主義者の間で英雄として扱われていたコサックのヘーチマン、イヴァーン・マゼーパの名を利用しようとする政治的意図があったと考えられる。ウクライナ国では中央ラーダ時代の政策に対し反動的な保守路線が採られたため地主や元ロシア貴族などには評判が良かったが、中央ラーダを支えた多くのウクライナ人は農民であり、新政府の方針は彼らには極めて評判が悪かった。そのため、首班であるパーヴロ・スコロパーツィクィイは自らコサックの頭領・ヘーチマンであった祖先にあやかり「全ウクライナのヘーチマン」を名乗ることにより、自分がウクライナの正統的な後継者であることに正当性を持たせようとしていた。こうした政策の一環として、パーミャチ・ミェルクーリヤの改称も行われたものと考えられる。
[編集] 白衛軍
しかし、ウクライナ国は唯一の実力ある後ろ盾であったドイツ軍がドイツ革命により休戦、中央ラーダの流れを汲むドィレクトーリヤ勢力とブレスト条約を結んだ上で撤退したことにより一年足らずの短命に終わった。しかしながら、ドィレクトーリヤ政権によって再建されたウクライナ民族共和国も永続はしなかった。同年11月24日にはヘーチマン・イヴァーン・マゼーパは黒海より侵入してきた英仏連合干渉軍に接収され、赤軍に対抗するため南ロシアの白軍(白衛軍、南ロシア軍、義勇軍)に引き渡された。名称は、ロシア的なパーミャチ・ミェルクーリヤに戻された。イヴァーン・マゼーパはロシア史上最大の「裏切り者」であるため、これも当然の措置であった。アントーン・イヴァーノヴィチュ・デニーキン将軍に率いられた白軍は、イギリスやフランスの支援を受け、一時はソヴィエト政府の首府モスクワを窺う勢いを見せた。
しかし、白軍が劣勢となると1919年2月19日にはパーミャチ・ミェルクーリヤは赤軍の戦力に加えられることへの恐れから武装解除され、同年4月22日から24日の間にイギリス軍司令部の命令により主要構造や機関を爆破された。艦底の隔室は水没し、海水がボイラー室と機関室に浸入した。この期間には、戦艦ボリェーヅ・ザ・スヴォボードゥ(旧クニャースィ・ポチョームキン・タヴリーチェスキイ、旧パンチェリェーイモン)など幾隻かの艦が同様の憂き目に会った。
その直後の4月29日、セヴァストーポリは労農赤軍(RKKA;РККА;Рабоче-крестьяеская Красная Армия)ウクライナ艦隊の部隊によって「解放」されたが、6月24日には再び白軍に奪取された。1920年11月14日のピョートル・ニコラーイェヴィチ・ヴラーンギェリ将軍のセヴァストーポリからイスタンブールへの退却に際しては、破壊状態にあったパーミャチ・ミェルクーリヤは港内に放置された。一方、ヴォーリャやギェオールギイ・ポビェドノースィェツのような可動する艦は、ヴラーンギェリ将軍とともにトルコ、のち仏領チュニジアへと逃れることになった。パーミャチ・ミェルクーリヤの姉妹艦ギェニェラール・コルニーロフ(旧カグール、旧オチャーコフ)も将軍に同行した。その翌日となる11月15日、セヴァストーポリは赤軍の手によって「解放」された。
[編集] ソ連時代
残されたパーミャチ・ミェルクーリヤは同年11月20日に労農赤軍の部隊に奪取された。
翌1921年9月、艦は乾ドックに入れられた。装置、内部構造、武装の部品の不足は、旧式艦からの「共食い」で補われることとなった。具体的には、この目的のためにセヴァストーポリにおいて戦艦リェヴォリューツィヤ(1921年6月6日までの旧称イェフスターフィイ)が解体された。また、主要蒸気機関のシリンダーは、同型艦の防護巡洋艦ボガトィーリから移植された。同艦はバルト艦隊において解体に該当していた。ドック入りに伴い、パーミャチ・ミェルクーリヤは黒海艦隊に編入された。
ソヴィエト社会主義共和国連邦の成立に伴い、1922年12月31日にはコミンチェールン(コミンテルン)という共産主義的な名称に変更された。
コミンチェールンはこうして5年の間を無為の内に過ごしたが、1923年6月にようやく戦列に復帰することとなった。甲板上には7門の130 ㎜砲が据え付けられ、それぞれ3 門の76 ㎜高角砲と45 ㎜高角砲も搭載された。排水量は、7838 tにまで増加した。機関出力は、19500 馬力になり、速力は最大12 ノットとなった。日露戦争の時代に計画されたこの蒸気船は戦力的にすっかり老朽化してしまっており、もう練習艦としてしか看做せないようになっていた。コミンチェールンは、同年11月7日に練習巡洋艦として稼動状態に入った。
1925年に「第1次ロシア革命20周年記念」としてセルゲイ・エイゼンシュテイン監督の映画『戦艦ポチョムキン』が撮影された際、コミンチェールンはブロクシフ・ノーミェル・ヴォースェミ(旧戦艦ドヴィェナーッツァチ・アポーストロフ)とともに「代役」として撮影に使用された。「戦艦ポチョムキン」の実艦が解体されてしまったためである。
1930年には近代化が施された。4基のボイラーは撤去され、その場所には学習のために教室が置かれた。第一煙突も1930年代末に撤去された。1941年6月には、機雷敷設艦に艦種を改められた。
[編集] 大祖国戦争
大祖国戦争開戦の初日、コミンチェールンはまたもや黒海艦隊の戦闘単位として復帰させられ、二度目の世界大戦へは機雷敷設艦として参加することとなった。激戦となったセヴァストーポリの防衛では、敵に包囲されたセヴァストーポリからの負傷者の搬送、兵員及び兵器の輸送部隊の護衛、戦略上重要であったケールチュ半島におけるケールチュ=フェオドーシヤ作戦、それらすべてにおいてこの老齢巡洋艦は英雄的な働きを見せた。セヴァストーポリ、オデッサ、ノヴォロッスィーイスクへ、戦闘をしつつも往復した。
1942年3月11日に、巡洋艦は航空機からの爆撃により損傷を受けた。艦尾甲板が貫通され、右舷の一部は破壊、船尾の増設部分の一部は吹き飛んだ。この空襲の際、対空火器により2機の敵機が撃墜された。艦は速度を失さず、任務は続行された。
1942年7月16日、ポチ港の仮泊地において、艦は再度ドイツ空軍機からの2発の爆弾により損害を被った。巡洋艦には大掛かりな修理が必要となったが、戦時においてはこれは不可能であると思われた。コミンチェールンは、陸上部隊編成のために砲を補充するためとして武装を解除されることとなった。
コミンチェールンの武装解除は、8月から9月にかけて実施された。8月17日にトゥアプスェ(ロシア南部黒海沿岸の町)への接近路にある第743・744・746・747沿岸警備砲兵隊へそれぞれ130 mm砲を2門ずつ、第173沿岸警備砲兵隊へ76.2 mm砲を3門、第770沿岸警備砲兵隊へ45 mm砲を3門ずつ、その武装を提供した。艦体は、防波堤建設のためにポチ地区のホビ川河口で沈められた。1943年2月2日には海軍艦隊の艦艇リストから除名された。
[編集] 戦後
1946年3月31日、ソーチから新基地に移動した第626対艇砲兵中隊がその艦体上に置かれた。
艦体は現在まで残されており、これは20世紀初頭ロシアの建艦の記念碑として考えてよいかもしれない。艦底、装甲された主砲砲座や戦闘司令塔などが現存している。旧「パーミャチ・ミェルクーリヤ」即ち「ミェルクーリイの記念」は、今では「パーミャチ・オチェーチェストヴィェンノヴォ・コラブリェストロイェーニヤ」(Память отечественного кораблестроения)、「祖国の建艦の記念」のひとつとなった。
[編集] 要目
- 排水量:7070 t
- 全長:134.1 m
- 全幅:16.61 m
- 喫水:6.81 m
- 発動機:垂直蒸気機関 ×2、ボイラー ×16、スクリュー ×2、19500 馬力
- 速度:21 kn
- 航続距離:735 浬/21 kn、2100 浬/12 kn
- 乗員:565 名
- 武装:45 口径152 ㎜連装砲 ×2、同単装砲 ×8、50 口径75 ㎜単装砲 ×12、7.62 ㎜単装機銃 ×4、381 ㎜水中魚雷発射管 ×2、遮断機雷 ×150
- 装甲:
- 甲板:35 ㎜
- 戦闘司令塔:140 ㎜
- 砲塔:90 ㎜~ 125 ㎜
- エレベーター:35 ㎜
※コミンチェールン時代は各項目大きく異なる(下記外部リンク参照)
[編集] 同型艦
- ボガトィーリ
- オリェーク
- パーミャチ・ミェルクーリヤ(1907年4月7日までカグール、その後パーミャチ・ミェルクーリヤ、ヘーチマン・イヴァーン・マゼーパ、1922年12月31日からコミンチェールン)
- オチャーコフ(1907年4月7日までオチャーコフ、その後カグール、1917年4月13日からオチャーコフ、1919年9月からギェニェラール・コルニーロフ)
[編集] 関連項目
- 艦について
- ボガトィーリ級防護巡洋艦
- 軍関係
- 国家関係
- 情勢
- 艦名について
- カグール
- ミェルクーリイ
- イヴァーン・ステパーノヴィチュ・マゼーパ
- コミンテルン
[編集] 外部リンク
※艦の来歴の事実関係及び要目に関してのみ、以下のページに全面的に依拠