濃人渉
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濃人 渉(のうにん わたる、1915年3月22日 - 1990年10月10日)は、昭和初期から後期(1930年代後半-1970年代前半)のプロ野球選手、プロ野球監督。(1961年5月4日~1962年に「-貴実(たかみ)」と一時改名)。広島県広島市生まれ。
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[編集] 来歴・人物
1932年旧制広陵中(現・広陵高校)で春選抜に出場、明石中の名投手、楠本保に先発全員三振を喫し完封負け初戦敗退。楠本はこの試合を含め合計3度の先発全員三振奪取を記録、他に2度記録した投手すらいない大記録である。夏選手権は広島予選決勝で藤村富美男の大正中(のち呉港中、現・呉港高等学校)に敗れた。卒業後、広島専売局(現・JT広島支局)入社。広島専売はバレーボールの強豪で知られるが、当時は野球も強く濃人以外にも数人のプロ野球選手を輩出した他、1937年に来日した米ニグロ・リーグ、ロイヤル・ジャイアンツ相手に、日本の単独チームとして初めてアメリカのプロ野球チームに黒星を付けた事で日米野球史にその名を残している。1936年プロ野球元年、濃人は名古屋金鯱軍の創設に参加。背番号8。同年2月9日、東京巨人軍との日本初のプロ球団同士の試合(現在のプロ野球組織に属する球団同士の初試合)にも出場。チームは1940年翼軍に吸収合併されて、大洋軍、西鉄軍と変わるがそのまま在籍して戦時下の1943年までプレー。この後召集され負傷。1945年8月6日、故郷広島への原爆投下により被爆。ちなみに、プロ野球界で被爆者健康手帳を持っているのは、張本勲と濃人のみである。
戦後は1946年、同郷の石本秀一、門前眞佐人らと国民野球に参加。グリーンバーグ・結城ブレーブス(茨城県結城市)でプレー(+主将として金策に奔走)。国民リーグで一番のスター選手だった濃人は読売ジャイアンツから歓誘された。巨人軍代表市岡忠男の使い鈴木龍二(のちセ・リーグ会長)から「巨人が君を欲しがっている。千葉茂とコンビを組んだらもっとスターになれるよ」と言われたが、石本に相談すると一喝された。国民リーグは多くの問題を抱え一年で消滅。1948年に金星スターズに石本監督と共に復帰。選手過剰の為、2軍の金星リトル・スターズに在籍し同年現役引退。
その後、広島の社会人野球チーム鯉城園の選手として都市対抗野球出場。のち日鉄二瀬(福岡県嘉穂郡、日本製鉄二瀬鉱業所)監督に就き、厳しい指導で強豪チームにする。また江藤愼一、古葉竹識らを育て「濃人学校」と呼ばれ教祖的な人気を得るなど九州の野球のレベルアップに貢献、11年指揮をとった。1960年に中日ドラゴンズ2軍監督としてプロ球界復帰。1961年に監督就任。生え抜きトレードを敢行しチームを改革、与那嶺要らを入団させ新人権藤博の大車輪の活躍で、巨人より1勝多い72勝をしたにもかかわらず引き分けの差で2位に甘んじる。翌年1962年も3位と健闘したが、親会社(中部日本新聞社)の「六大学出身の監督が欲しい」という理不尽な理由で解任された。
1964年から東京オリオンズのコーチ。1967年途中に監督昇格。球団名がロッテに変わった2年目の1970年、投の成田文男、木樽正明、小山正明、打のアルトマン、榎本喜八、江藤、有藤通世らを率いて独走優勝。しかし日本シリーズは巨人に完敗した。1971年7月13日対阪急戦、日本プロ野球史、最後の放棄試合(フォーフィテッドゲーム)を起こしシーズン途中に二軍監督に降格、シーズン終了後に退団(詳細は後述)。その後地元広島で野球解説者。後の余生は平穏に送った。1990年10月10日死去。享年75。
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | 球団 |
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1961年 (昭和36年) |
2位 | 130 | 72 | 56 | 2 | .562 | 1.0 | 79 | .241 | 2.48 | 45歳 | 中日 |
1962年 (昭和37年) |
3位 | 133 | 70 | 60 | 3 | .538 | 5.0 | 107 | .249 | 2.68 | 46歳 | |
1967年 (昭和42年) |
5位 | 137 | 61 | 69 | 7 | .469 | 14.0 | 87 | .240 | 3.01 | 51歳 | 東京・ロッテ |
1968年 (昭和43年) |
3位 | 139 | 67 | 63 | 9 | .515 | 13.0 | 155 | .262 | 3.32 | 52歳 | |
1969年 (昭和44年) |
3位 | 130 | 69 | 54 | 7 | .561 | 5.5 | 142 | .260 | 3.11 | 53歳 | |
1970年 (昭和45年) |
1位 | 130 | 80 | 47 | 3 | .630 | - | 166 | .263 | 3.23 | 54歳 | |
1971年 (昭和46年) |
2位 | 130 | 80 | 46 | 4 | .635 | 3.5 | 193 | .270 | 3.77 | 55歳 |
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- ※1961年から1962年、1967年から1996年までは130試合制
[編集] エピソード
監督として1970年にロッテをパ・リーグ優勝に導いたが、優勝決定試合で最初に胴上げされたのは、監督の濃人ではなく当時の球団オーナーの永田雅一であった。濃人はこの件でよほど永田を恨んでいたのか、永田が病気で療養していた時一度もお見舞いに行かず、死去した際の葬儀にも出席していない。
1971年7月13日、西宮球場での対阪急戦の7回表。江藤愼一のスイングを巡って審判が判定を「ボール」から「ストライク」に変え、これに納得いかなかった濃人監督は、来場していたオーナー・球団代表の指示もあって試合続行を拒否。放棄試合(フォーフィテッドゲーム)が宣告され0-9で負けた。その没収試合の10日後の7月23日に放棄試合の責任を取らされ二軍監督に配置転換され、シーズン終了後に退団した。後任は大沢啓二二軍監督(後の日本ハム監督、現・評論家)が昇格した。これは日本プロ野球史上初の、一・二軍の監督入れ替えだった。日本プロ野球では1968年に放棄・没収試合は厳禁という規制が出来ていたため、この試合以降放棄試合は起きていない。
鳴り物入りでオリオンズ入りした山崎裕之の入団時の監督で、山崎は新宿大久保の濃人宅の前に住まされ、東京スタジアムまで監督の送迎係をやらされた。濃人はやんちゃな山崎のお目付け役だった。前述のように1971年7月の放棄試合で濃人は二軍監督へ降格となり送迎は終わったが、それまで公私ともに御世話になった恩師として名前を挙げている。(出典:日刊ゲンダイ 2006年8月28日)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1971年は7月23日まで指揮。
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