茨城県立土浦第一高等学校
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茨城県立土浦第一高等学校(いばらきけんりつつちうらだいいちこうとうがっこう)は、茨城県土浦市真鍋にある県立高等学校。
茨城県立土浦第一高等学校 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 茨城県 |
設立年月日 | 1897年4月22日 |
創立記念日 | 1897年4月22日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 定時制課程 |
単位制・学年制 | 学年制による教育 |
学科 | 普通科 |
所在地 | 〒300-0051 |
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電話番号 | 029-822-0137 |
FAX番号 | 029-826-3521 |
外部リンク | 公式サイト |
目次 |
[編集] 概要
1897年に県内2番目に設立された旧制中学が前身(旧制茨城尋常中学(現水戸一高)土浦分校)。通称は、土浦一高(つちうらいちこう)であり、県内では一高が複数あるが、校内及び土浦市とその周辺では一般的に一高(いちこう)と略される。他の一高と区別する必要がある場合においては「土一(つちいち・どいち)」と略される。また高校野球など他校との試合で「一高」同士での対戦の場合、応援では「土高(つちこう)」と略して区別する。現在では茨城県立水戸第一高等学校と茨城県立竹園高等学校とともに茨城公立御三家の一角を担う茨城県下トップの進学実績を誇る進学校である。東京大学合格者数で全国屈指の実績を収めているほか、筑波大学の合格者数は全国上位をキープし続けており、全国的にも公立進学校の代表格とされる。
文部科学省サイエンス・パートナーシップ・プログラムとして筑波大学との連携講座を実施している。また、フルブライト基金(日米教育基金)のマスターティーチャープログラムに参加しており、アメリカの高校生と研究交流をしている。
旧本館は1976年に全国の旧制中学の建造物として初めて国の重要文化財に指定されている。
しかし、つくばエクスプレスの開通や、常磐線の増発に伴い、近年、茨城県中央部~南部にかけて 俗に言う茨城都民化が進行して、優秀な人材が東京都に流失し、同校が長年守ってきた全国の公立高校で東京大学合格者数一位の座から陥落し、進学実績に陰りが見えてきているとされる。
[編集] 沿革
- 寛政11年(1799年) 土浦藩主土屋英直が藩校郁文館を創建
- 明治04年(1871年) 廃藩置県により土浦藩藩校郁文館廃館
- 明治05年(1872年)10月 新治県権令中山信安が郁文館跡地に英学校化成館創設
- 明治06年(1873年) 英学校化成館事実上消滅
- 明治07年(1874年)01月 英学校化成館跡地に新治師範学校創設
- 明治08年(1875年)05月 新治県と茨城県合併により茨城師範学校土浦分校に
- 明治11年(1878年)08月 土浦分校に予備科設立
- 明治12年(1879年)04月 県議会で予算認められず土浦分校廃校
- 明治16年(1883年)08月23日 師範学校分校跡に茨城第二中学設立
- 明治19年(1886年)07月28日 勅令15号中学校令の中学は一県一校規定により廃校
- 明治24年(1891年)12月14日 勅令243号により原則規定に変更され、再び道が開かれる
- 明治27年(1894年) 第17回通常県会で土浦分校増設建議案上程、審理未了に
- 明治28年(1895年) 第18回通常県会で土浦分校増設建議案上程、可決
- 明治30年(1897年)04月22日 茨城県尋常中学校土浦分校設置、新治郡役所楼上にて授業開始
- 明治30年(1897年)12月03日 進修会発足
- 明治32年(1899年)12月21日 新築校舎(立田町、現土浦二高校舎)に移転
- 明治32年(1899年)10月 下妻分校と初の野球対外試合
- 明治33年(1900年)01月12日 進修創刊号、発火演習実施
- 明治33年(1900年)04月01日 茨城県立土浦中学校として独立、龍ヶ崎分校(現竜ヶ崎一高)設置
- 明治35年(1902年)03月28日 第1回卒業式挙式(卒業生39名)
- 明治37年(1904年)01月01日 校旗制定
- 明治37年(1904年)07月 水戸中、龍ヶ崎分校と県下連合野球大会実施
- 明治38年(1905年)03月05日 真鍋町現在地校舎(国の重要文化財)に移転
- 明治40年(1907年)04月22日 4月22日を創立記念日に設定
- 明治42年(1909年)10月30日 校訓制定式
- 明治43年(1910年)11月01日 御真影下賜
- 明治44年(1911年)01月01日 校歌制定
- 大正03年(1914年)10月04日 土浦中学育英会設立
- 大正12年(1923年)09月01日 関東大震災
- 大正14年(1925年)05月12日 陸軍の現役将校配属実施(陸軍中尉中野正太着任)
- 大正15年(1926年)02月12日 日本初の金メダリスト織田幹雄来校、10種競技の実技
- 昭和02年(1927年)10月 明治大学主催全国中学校柔道大会優勝
- 昭和12年(1937年)02月06日 満州事変支那事変における本校卒の戦死者慰霊祭
- 昭和16年(1941年)05月22日 土浦中学校進修報国団結成
- 昭和18年(1943年)01月21日 中学校令により修学年限を4年に短縮
- 昭和19年(1944年)01月18日 決戦非常措置学網により通年動員開始
- 昭和21年(1946年)11月02日 新校訓制定
- 昭和22年(1947年)11月02日 創立50周年記念式典、講堂落成式挙行
- 昭和23年(1948年)03月08日 新学制による通信制設置
- 昭和23年(1948年)04月01日 学制改革で高等学校に、全日制普通科、定時制開始
- 昭和24年(1949年)01月03日 進修復刊第1号刊行
- 昭和24年(1949年)10月30日 第一応援歌制定
- 昭和25年(1950年)04月06日 初の女子生徒入学
- 昭和29年(1954年) この頃一高体操確立
- 昭和30年(1955年) この頃進学要覧作成
- 昭和32年(1957年)08月12日 夏の甲子園出場(唯一の出場)、1回戦勝利、2回戦敗退
- 昭和32年(1957年)10月27日 新校旗樹立式
- 昭和39年(1964年)03月31日 通信制が水戸一高に統合、廃止
- 昭和40年(1965年)05月15日 水戸一高との定期戦(土水戦)開始
- 昭和41年(1966年) 文化祭が一高祭の名前で実施される
- 昭和44年(1969年)04月01日 理数科設置
- 昭和44年(1969年)12月03日 歩く会実施(それまではマラソン大会)
- 昭和51年(1976年)02月03日 旧本館が旧制中学の校舎として日本で初めて国の重要文化財に指定
- 昭和52年(1977年)05月12日 水戸一高との定期戦一時中断決定
- 昭和53年(1978年)09月19日 一高オリンピック開始
- 昭和53年(1978年)12月03日 竹園高等学校設置準備、本校同窓会室にて始まる
- 昭和55年(1980年)03月30日 新本館竣工
- 昭和61年(1986年)03月25日 文化財旧本館保存修理工事
- 平成08年(1996年)08月24日 同窓会館着工
- 平成09年(1997年)11月01日 創立百周年(茨城県尋常中学校土浦分校創設以来)記念式典
[編集] 校訓
- 自主・協同・責任(現校訓、昭和21年制定)
- 至誠・剛勇・自重・愛敬・勤倹(旧校訓、明治42年制定)
[編集] 校歌・応援歌
- 校歌
今では全国的にも珍しい2拍子の校歌である。 制定は明治44年。茨城県立水戸第一高等学校の校歌と共に、旧制中学時代の気風や雰囲気を今に伝える格調高い校歌として有名。
- 作詞 堀越晋
- 作曲 尾崎楠馬
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- 一、沃野(よくや)一望数百里 関(かん)八州(はっしゅう)の重鎮(しずめ)とて
- そそり立ちたり筑波山(やま) 空の碧(みどり)をさながらに
- 湛(たた)へて寄する漣波(さざなみ)は 終古(しゅうこ)渝(かは)らぬ霞浦(かほ)の水
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- 二、春の彌生(やよい)は桜川 其(そ)の源の香(か)を載(の)せて
- 流(ながれ)に浮(うか)ぶ花筏(はないかだ) 葦(あし)の枯葉に秋立てば
- 渡る雁(かりがね)声冴(さ)えて 湖心(こしん)に澄むや月の影
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- 三、此の山水の美を享(う)けて 我に寛雅(かんが)の度量あり
- 此の秀麗の気を享(う)けて 我に至誠の精神(こころ)あり
- 東国(あづま)男児(おのこ)の血を享(う)けて 我に武勇の気魄(きはく)あり
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- 四、筑波の山のいや高く 霞ヶ浦のいや広く
- 嗚呼(ああ)桜水(おうすい)の旗立てて わが校風を輝かせ
- 亀城一千の健男児 亀城一千の健男児
- 第一応援歌
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- 一、霞ヶ浦に 陽は映えて
- 希望は踊る この朝
- 見よ溌剌と 青春の
- 闘志に燃えて こぞり立つ
- 亀城健児の 血はたぎる
- おお競え 土浦一高第一高
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- 二、流れ豊かな 桜川
- 映して清き 旗の下
- 見よ風を切り 地を蹴って
- あいうち競う 晴の技
- 亀城健児の 気は上がる
- おお競え 土浦一高第一高
- 第二応援歌
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- 一、大空高く 沸き上がる
- この大歓声の 示すわの
- 見よ土浦一高の 校旗の下に
- 胸は高鳴る 腕は鳴る
- いざゆけ一高 無敵の一高
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- 二、勝運常に 我にあり
- この輝く胸に ふり仰ぐ
- 見よ土浦一高の 校旗の下に
- 晴の王座を 得てここに
- 勝ち時上げん 無敵の一高
[編集] 旧学区
茨城県第4通学区(平成5年入学生より17年度入学生まで)
- 土浦市(13.5万)
- 石岡市(8万)
- 龍ケ崎市(8万)
- 取手市(11万)
- 牛久市(7.5万)
- 稲敷市(5万)
- かすみがうら市(4.5万)
- 東茨城郡:小川町・美野里町・新治郡玉里村(現・小美玉市)
- 西茨城郡:岩間町(現笠間市)
- 稲敷郡:美浦村(1.8万)、阿見町(4.8万)、河内町
- 北相馬郡:利根町
学区内の人口はおよそ70万人であった。隣接学区(茨城県第2・第3・第5通学区及び千葉県第3・第4・第5通学区の一部)は定員の30%以内で入学が認められていた。平成5年(平成8年卒業生)まではつくば市が学区内であったが、龍ケ崎、取手など県南の南部地域が学区外であり、優秀な層は一部が理数科(学区内外で入試に差がなし)に入学し、大半が千葉県や私立高校に流出していたが、学区が当時のように変更されてから解消されたといわれている。そのため学区変更後に大学進学実績が急伸した。ただしそれにより、またさらには1クラス削減されたことによりつくば地区の中位層が締め出され、つくば地区で不満が高まっていた。2005年度の入試では学区内の倍率は1.4倍程度だったのに対し、学区外の倍率は1.7倍を超える倍率であったように学区内と学区外での倍率格差が顕著であった。合格最低点についても年によってまちまちであるが10~20点の差があった。この学区間倍率格差については、茨城県教育庁内の水戸一高閥による土浦一高弱体化工作説や、地元土浦市の有力者たちによるつくば市出身者締め出し説などの陰謀論もささやかれていた。平成18年度から県内1学区制に移行すなわち学区が廃止されたことに伴い、格差の解消が期待されており、学区廃止後の入学生が初めて受けることになる平成21年度大学入試の動向が注目されている。
[編集] 著名な出身者
本校出身者は地元の政界、経済界、医師界、教育界のみならず、全国的レベルで活躍している。特に戦前から中央官庁、三菱財閥、日立製作所、海軍関係、県庁に強く、今も多数の卒業生がその方面で活躍している。近年は筑波大学の教官になる者が増加している。
[編集] 政官界
- 岡田勝男(茨二) 陸軍獣医総監、陸軍獣医学校長、陸軍大学校卒
- 高須四郎(中03) 海軍大将、第一艦隊司令長官(一時連合艦隊司令長官を臨時代行)、海軍大学校長、勲一等旭日大綬章、海軍兵学校卒、海軍大学校卒
- 中島喜代宣(中03) 海軍少将、八海山丸砲艦長、軍令部参謀、海軍大学校教官、海軍兵学校卒、海軍大学校卒
- 川並密(中08) 陸軍中将、通信兵監、陸軍大学校24期卒
- 久保田芳雄(中12) 海軍少将、聯合艦隊機関長、軍需省局長、マサチューセッツ工科大学卒
- 国府田清(中18) 海軍大佐 空母鳳翔艦長、海軍兵学校卒、海軍大学校卒
- 色川幸太郎(中19) 最高裁判所判事、大阪弁護士会会長、東大法卒
- 池田峰雄(中28) 衆議院議員、共産党
- 伊藤繁雄(中29) 海軍軍医長、東大医卒
- 坂本庄一(中32) 日本技能教育開発センター理事長、労働官僚、東大経済卒
- 宮崎仁(中37) 経済企画庁事務次官、アラビア石油社長、大蔵官僚、東大工卒
- 坂上吉男(中38) 最高検察庁検事、東大法卒
- 古森利貞(高05) 外務省外交資料館長、広州総領事、東京教育大文卒
- 塙哲夫(高05) 駐エクアドル大使
- 平山保雄(高11) 最高検察庁検事
- 福岡右武(高13) 前橋家庭裁判所所長、最高裁判所調査官、東大法卒
- 小幡政人(高15) 国土交通事務次官、鉄道運輸機構理事長、運輸官僚、東大法卒
- 雨貝二郎(高16) 人事院研修所長、人事院公平局長、ダイエー前会長、通産官僚、東大経済卒
- 井上雅夫(高16) 特許庁審判長、東北大工卒
- 渡辺孝男(高20) 参議院議員、公明党、東北大医卒
- 田宮尚子(xx) つくば市議会議員、民主党、東邦大学卒
- 青山大人(xx) 茨城県議会議員、民主党、慶應義塾大学卒
- 櫻井富夫(xx) 茨城県議会議員・学校法人常総学院理事長、自由民主党、早稲田大中退
[編集] 財界
- 平田公敏(併中2) 日本税理士連合会会長、東大卒
- 武井大助(中03) 安田銀行社長、文化放送社長、大日本帝国海軍主計中将、海軍経理学校教頭、海軍省経理局長、一橋大学申酉事件の中心人物、勲一等旭日大綬章、東京高商(現一橋大)卒
- 岡野保次郎(中09) 三菱重工業社長、日本原子力文化振興財団理事長、東大卒
- 高杉晋一(中09) 三菱電機初代社長、日経新聞私の履歴書、東大卒
- 田山正雄(中31) 東洋製紙(現王子製紙)社長、東農大卒
- 森義昭(高01) 三菱電機商品販売社長、菱電印刷社長、元三菱電機、一橋大経済卒
- 海上明(高04) キッコーマン顧問、興風会館館長、一橋大経済卒
- 入江俊昭(高04) 日本モトローラ社長、米モトローラ上級副社長、大河内記念賞受賞、東大工卒
- 北島正和(高05) 古河電池社長、東大法卒
- 土井修(高06) 東洋製油(現Jオイルミルズ)社長、東大工卒
- 高安裕之(高10) 松坂屋代表取締役、早大政経卒
- 糸賀勲(高11) 日本信託銀行社長、元東京三菱銀行役員、東大卒
- 飯塚哲哉(高18) ザインエレクトロニクス社長、創業者、元東芝部長、東京大学客員教授、東大工卒
[編集] 学界
- 山口生知(中11) 海軍兵学校教授、寺田寅彦門下、地球物理学者、東大理卒
- 神立誠(中26) 東京大学名誉教授、東京大学出版会理事長、学士院賞受賞、元日本学術会議会員、東大農卒
- 市村正二(中30) 茨城大学長、県立歴史館長、常磐大学長、東大文卒
- 野田起一郎(中43) 近畿大学長(04年まで10年間)、名誉学長、日本癌治療学会会長、東北大医卒
- 駒林誠(中49) 気象大学校長、日本気象協会常務理事、東大理卒
[編集] 文化芸術スポーツ
- 熊岡美彦(中06) 画家、「緑衣」で帝国美術院賞、東京芸大卒
- 永瀬義郎(中07) 版画、帝展入選、日本版画協会創立会員、日本創作版画のパイオニア、東京芸大卒
- 高田保(中12) 作家、コラムニスト、「ブラリひようたん」、早大文卒
- 下山千秋(中12) 作家、思想家、「天国の記録」、「街のルンペン」、早大文卒
- 鶴岡義雄(中36) 日本芸術院会員、二科会理事長、日本芸術院賞、総理大臣賞、サロン・ドートンヌ会員、東京芸大卒
- 飯田美郎(中39) 日展会員、美術工芸彫金家、東京芸大卒
- 福田輝男(中39) 洋画家、仁科展審査員、ローマ美大卒
- 田坂昴(中44) 文芸評論家、三島由紀夫研究
- 中村篤生(中49) 東京音楽大学校友会会長、東京音大卒
- 木内幸男(高03) 常総学院高等学校野球部前監督、甲子園優勝3回、準優勝2回の名将
- 岡田将雄(高06) 名古屋テレビ放送解説委員、國學院大文卒
- 真家弘之(高06) 日本テレビスポーツ担当部長、日大芸卒
- 一色邦彦(高06) 彫刻家、高村光太郎賞受賞、東京大学、東京芸大講師、東京芸大卒
- 柳生博(高07) 俳優、日本野鳥の会会長、東京商船大卒
- 安藤統男(高10) プロ野球阪神タイガース監督、現阪神OB会会長、慶大野球部主将、慶応大法卒
- 佐賀純一(高11) 作家、医師、ニューズウィーク誌「世界が尊敬する日本人100人」に選出、慶応大医卒
- 一色史彦(高11) 建築文化史家、茨城県郷土文化顕彰会理事長、東京大学講師、東大工卒
- 薄井ゆうじ(高19) 作家、『樹の上の草魚』で第15回吉川英治文学新人賞受賞
- 小室みつ子(高28) 作詞作曲家、TM NETWORKなどへ歌詞の提供、慶応大法卒
- 青木宗道(高29) 筑波山神社権禰宜、國學院大文卒
- 鷹岬諒(高34) 漫画家、名古屋大卒
- 栗山微笑子(高36) 俳優、声優、翻訳業、東京外大卒
- 小松崎康弘(高36) 脚本家、シナリオライター、國學院大卒
- 大川敦子(高39) 名古屋テレビアナウンサー、お茶の水大卒
- 大和田秀樹(高40) 漫画家、東北大卒
- 大山尚行(高42) 中核派全学連委員長、東北大卒
- 鈴木健一(高42) NHKアナウンサー(福岡放送局)、法政大卒
[編集] 元生徒
[編集] 校長、教員
教諭は土浦一のOBが多く、筑波大、早稲田大、東北大、理科大、東京外大などの出身が多い。OBが教諭となって母校に戻ってくることから自由な雰囲気が保たれているともいえる。教諭の異動は主に県南地域が多いが、水戸一、県教育委員会への異動では栄転といわれる。校長は県や近隣の他校校長から転身してくることが多く、退職後は土浦一OBが理事長をしている常総学院の校長として迎えられるケースが多い。
[編集] 歴代校長
- 分校、今井恒郎(本校(旧制茨城尋常中学)校長)、土浦分校主任は畑勇吉(明治30年~32年)
- 分校、井手佐三郎(本校(旧制茨城尋常中学)校長)、土浦分校主任は福山義春(明治32年~33年)
- 初代 福山義春(明治33年~37年)、帝国大学(現東京大学)卒、水戸中学校長、熊本県出身
- 2代 遣沢恒猪(明治37年~39年)、高等師範(現筑波大)卒、前任は龍ヶ崎中学校長、高知県出身
- 3代 幸津國太郎(明治39年~大正8年)、前任は太田中、香川県、東京府、宮崎県出身
- 4代、臼井弘 (大正8年~14年)
- 5代、桜井信郎(大正14年~昭和5年)、前任は鉾田中
- 6代、塚田節 (昭和5年~昭和11年)
- 7代、宗光杢太郎(昭和11年~昭和21年)
- 8代、今宮千勝(昭和21年~22年)
- 9代、小田文雄(昭和22年~24年)
- 10代、渡邊文弥(昭和24年~30年)
- 11代、長島俊三郎(昭和30年~32年)、中19卒
- 12代、上野剛 (昭和32年~34年)
- 13代、山本英 (昭和34年~39年)
- 14代、長南俊雄(昭和39年~40年)、中21卒、前任は土浦三高校長
- 15代、山口勇吉(昭和40年~43年)、中27卒
- 16代、橋本一郎(昭和43年~47年)、中31卒、後に水戸一高校長、東京文理大卒(現筑波大)卒
- 17代、田中義雄(昭和47年~49年)
- 18代、遠藤俊夫(昭和49年~55年)、中38卒、国立教育会館分館長、東大経済卒
- 19代、岡野全之(昭和55年~59年)、中39卒、多賀高工(現茨大工)卒
- 20代、大貫力 (昭和59年~61年)、後に水戸一高校長、国立教育会館つくば分館長
- 21代、横田尚善(昭和61年~63年)、中44卒、東京高師(現筑波大)卒
- 22代、毛利方雄(昭和63年~平成2年)
- 23代、清水健三(平成2年~4年)、前任は牛久栄進高校校長
- 24代、大曽根宏亮(平成4年~6年)、高4卒、退官後常総学院校長、東北大文卒
- 25代、青山和義(平成6年~10年)、高8卒、退官後常総学院校長、東京教育大(現筑波大)卒
- 26代、長瀬宗男(平成10年~13年)、高11卒、前任は県高校教育課、茨城大教育卒
- 27代、三輪志郎(平成13年~15年)、高13卒、前任は牛久高校校長、國學院大文卒
- 28代、山田隆士(平成15年~17年)、高15卒、前任は県教育長教育次長、慶応大文卒
- 29代、村松輝美(平成17年~)、高19卒、前任は牛久栄進高校校長、東京教育大卒
[編集] 生徒
通学する生徒は、土浦市及びその周辺(かすみがうら市、石岡市)の日立製作所関連などの工業団地、病院関連の子弟、東京のベッドタウンである牛久市、龍ケ崎市、取手市などの平均所得帯の高い地域の子弟、稲敷郡(阿見町)などの大学関連施設、工業団地の子弟、そしてかつて学区外であったつくば市の研究学園都市(国立研究機関)及び病院関係の子弟などが多い。地区別東大合格者数は例年土浦石岡阿見地区で7、8名、つくば地区(主に学園地区)で10名、牛久龍ケ崎取手地区で10名ほどである。
[編集] 進学先
国立大学では東京大学、一橋大学、東京工業大学、東北大学、筑波大学、国立大医学部、私立大学では慶應義塾大学、早稲田大学、東京理科大学への進学が多いのが特徴である。東京大学への累計進学者数は1000名を超える。筑波大学への合格者数は筑波大学の開校以来2回を除き全国1位。進学数は例年おおよそ、東京、一橋、東京工業大学に50名、その他旧帝大に30~40名、筑波大に40~60名、国立医に20名、横国外大お茶千葉に20名、早慶に80名ほどである。主な大学の最高合格数は東大が43名(平成9年)、東工大が21名(平成8年)、東北大が32名(平成15年)、慶應義塾大学が76名(平成16年)、早稲田大学が144名(平成16年)などである。
[編集] 文化祭
- 第○会場委員会といった縦割り組織が存在し官僚化しているとの声もあるものの活動はとても盛ん。ゲート委員会のゲートは毎年OBからも期待されている。
- 運営、第一会場(体育館)、第二会場(校舎)、第三会場(同窓会館内アリーナ)、広場(赤の広場)、宣伝広報、販売、ゲート、放送の9つの委員会が中心となっている。
- 同校の合唱部によるミュージカルや、演劇部による演劇は年々来場者を増やしていて定評がある。
販売委員会ではイリアンジャヤ、えびす屋、インドール、桜水庵といった名前の店を出店している。 また模擬店としてハンバーガー、ドーナツ、ケーキも販売している。
[編集] 特徴
- 旧本館は国の重要文化財に指定されているが、近年まで倉庫代わりに使われていた。1980年ぐらいまでは通常の教室として使われていた(1983年に新校舎が完成)。床が汚かったため、かなりの数の生徒が平気で土足で授業をうけていた。
- 元帥陸軍大将閑院宮載仁親王お手植えの松の木(五葉松)がある。
- 学年は赤青緑のシンボルカラーがあり、赤の学年、青の学年、緑の学年といった呼ばれかたをする。学年により方針が全く異なり、別の学校のようでもある。
- 文理分けは、昨今の日本の高校には珍しく3年次に行われる。このため広い知識を得ることができるが、毎年生徒側からは、履修科目への不満の声が上がる。
- 一高の武器は英語であると言われている。また、サイドリーダーなどの宿題の量が膨大である。
- この学校の文芸部は部員数が日本一であり、現在の部誌は所在地にちなみ「真鍋」という名前で、盛んに活動を行っている。
- 高校1年の1学期の期末テストでいきなりセンター試験の長文が出される年もある。
- 文化祭である一高祭は毎年とても盛り上がる。2日間で行われ、両日共に一般公開あり。6月の頭に催されるため、準備期間の居残り、休日登校などを通して新クラスの結束や親睦が深まる。
- 歩く会がある。例年30キロほどを学校に向かって歩く。山越えのある年もある。
- 部活動が盛ん、体育系の部活の加入率は6割を超える。
- 一高オリンピックという名の(普通の)体育祭がある。一高オリンピックが始まる頃には「ラインクロス」という声が学校の至るところで聞かれる。一高オリンピックが始まった理由は土水戦(水戸一高との交流会)が中止になったからなのであるが、中止になった理由が土浦一高が駅から遠く、水戸一高の生徒が来にくいからというのは今ではつまびらかにはされていない。
- 伝統的に修学旅行がない。その理由は旅行先の寺院に生徒が落書きをしたからなど、いろいろ伝えられているが、実際のところは戦時中に県からの補助金がストップし、それ以来ずっと修学旅行がないとする説が有力である。
- 冬季には希望者のみの3泊4日のスキー旅行がある。このスキー宿泊は主として1年生が参加するものであるが、2年生も参加することがある
- 校内の雰囲気はかなり開放的で、基本的な生活のルールさえ守れれば、相当自由に活動ができる。
- 1つの部屋に全ての教員が机を並べる典型的な職員室はなく、教科ごとに部屋が分かれている。
- 教員が出張などで不在であっても、教員間で授業時間を交換したりして、できる限り自習時間を作らないようにしている。このため頻繁に時間割が変更になり、年度当初に決定された時間割どおりに授業が行われる日はあまりない。
[編集] 旧本館
昭和51年に全国の旧制中学の建造物として初めて国の重要文化財に指定された。 玄関の屋根裏から発見された棟札も重要文化財に指定されている。 竣工は1904年(明治37年)12月7日であり、設計者は駒杵勤治、施工は石井権蔵。駒杵は東京帝国大学工科大学建築学科を首席で卒業し、卒業後茨城県営繕技師として赴任。のちに県技師。1902年(明治35年)12月から1905年(明治38年)3月までのわずか2年3ヶ月の在任期間内に土浦中学校本館、 太田中学校(現太田一高)講堂(重要文化財)、水戸商業学校(現水戸商業高校)本館(一部移築、国の登録有形文化財)、竜ケ崎中学(現竜ケ崎一高)講堂(現存せず)、水海道中学(現水海道一高)講堂(現存せず)、麻生警察署(現存せず)、下館警察署(現存せず)などを手がける。 土浦中学旧本館はギリシャ建築の三様式の一つであるコリント派の建築物であり、アカンサスの葉をモティーフにした柱頭に特徴がある。
[編集] 高校大学連携講座
- 平成16年12月25日26日:筑波大学生物学類=土浦一高連携講座
- 「ゲノムがつくる多様な生き物の世界」
- 講師 筑波大学生物科学系 坂本和一助教授(土浦一高OB)
- 平成16年11月9日:第16回科学実験講座 「昆虫の感覚と行動の不思議」
- 講師 東京大学大学院情報理工学系 神崎亮平教授
- 平成15年11月7日:第15回科学実験講座
- 「DNAの抽出と単離および電気泳動法によるDNAとたんぱく質の分子量の決定」
- 講師 茨城大学理学部地球生命環境科学科 高妻孝光助教授
- 平成14年11月8日:第14回科学実験講座 「水の不思議」
- 講師 茨城大学理学部地球生命環境学科 森聖治助教授
[編集] 他校との交流
- 水戸一高の対抗戦、土浦一が一高祭を6月に繰り上げた関係で定期戦の日程を9月実施提案したが、水戸一が従来どおりの5月実施を提案し、それぞれ相手方の提案を検討する事になったが水戸一の評議会で否決され、土浦一でもアンケートで賛意が得られずに中断して、そのまま今も一時中断したままである。
- 水戸一高、竜ヶ崎一高、下妻一高との県下中学連合野球大会100年記念親善試合実施
- 水戸一高、竜ヶ崎一高、下妻一高と校歌祭実施
[編集] 舞台とした作品
[編集] 関連高校
- 茨城県立水戸第一高等学校=水戸一高の分校として土浦一高は設立、対抗戦は一時中断中、ライバル校
- 茨城県立竹園高等学校=進学実績茨城県公立トップ3の一つ
- 栃木県立宇都宮高等学校=北関東旧制5大中学(水戸一、土浦一、宇都宮、前橋、高崎)の一つ
- 群馬県立前橋高等学校=同上、高崎高校と対抗戦実施中
- 群馬県立高崎高等学校=同上、前橋高校と対抗戦実施中
- 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校=旧制土浦中学龍ヶ崎分校として開校、文武両道で知られる
- 茨城県立下妻第一高等学校=茨城尋常中学の兄弟分校(下妻分校)として同期設立、県西地区の中心校の一つ
- 千葉県立千葉高等学校=進学実績関東公立トップ3(浦和、土浦一、千葉)の一つ
- 埼玉県立浦和高等学校=同上