ポーランドの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポーランドの歴史では、1795年のポーランド王国の消滅までと1918年のポーランド共和国の成立以降において伸縮を繰り返したポーランド地域の歴史について述べる。
目次 |
[編集] ポーランド王国の成立
ゲルマン人の民族移動の後、内陸のポーランド平原にはスラヴ人の一派、西スラヴ人が入り込んで様々な部族に分かれて居住していた。その一部族は、10世紀頃、7世紀頃滅亡した遊牧民族サルマタイの文化を踏襲していた。
9世紀半ば、平原部はポラニエ族を中心に政治的に統一されてゆき、ポーランドの基礎が形成され始めた。その後、962年にポラニエ族の公(首長)となったミェシュコ1世のとき、966年のキリスト教の信仰を採用し、キリスト教国ポーランド公国がヨーロッパの歴史に登場する。ミェシュコの王朝は、その先祖である伝説的な君長の名を取ってピャスト朝(ピアスト朝)と呼ばれる。
当初のポーランド公国はまだ内陸の一部を支配するのみで、北部のバルト海沿岸にはカシューブ人などの西スラヴ人や、プロイセン人などのバルト系民族があった。ミエシュコ1世の子ボレスワフ1世のときポーランド公国の領土は大きく広がり、西ではオドラ川(オーデル川)で神聖ローマ帝国(ドイツ)に接し、南はカルパティア山脈にまで至った。
1000年、ボレスワフ1世は同盟を結んだ神聖ローマ皇帝オットー3世から王への戴冠とポーランドを管区とする大司教座の設置を認められ、1025年にローマ教皇からその許可を得て正式にポーランド王に即位、ポーランド王国を成立させた。
しかし1138年、ボレスワフ3世の死とともにその遺言により、王国は彼の息子たちに分割相続され、ポーランド王国の統一は失われることになった。ポーランドの各地方を相続したピャスト朝の王子たちは公を名乗り、その後2世紀近くに渡って数多くの公国に分かれた分裂時代が続いた。
[編集] 再統一とヤギェウォ朝の成立
分裂時代のポーランド各公国は、王権の弱さから政治的に弱体化した。1241年にはチンギス・ハーンの孫バトゥ率いるモンゴル帝国軍の侵攻を受け、諸侯の連合軍がワールシュタットの戦いで大敗した。
14世紀のはじめ、ヴワディスワフ1世によってポーランドは再統一されたが、東方への進出をはかるドイツ人たちによる外圧に悩まされることになった。ヴワディスワフ1世の子カジミェシュ3世は外交手腕を発揮して外圧をはねのけ、内政改革を推進して国力を高めてピャスト朝ポーランド王国の最盛期を築いたが、後継者を残さずに没した。
当時、ポーランドの北部バルト海沿岸にはドイツ騎士団が進出していた。はじめは同盟の形だったが、そのうちポーランドに反旗を翻した。これに対してポーランドの貴族(シュラフタ)たちは1370年から1382年まではカジミェシュの甥にあたるハンガリー王ラヨシュ1世を国王に迎えアンジュー家のハンガリー王国と同君連合を組み、1386年には異教徒のリトアニア大公国から大公ヨガイラを国王に迎え入れてリトアニアと連合した。ヨガイラはキリスト教に改宗してヴワディスワフ2世として即位し、1572年まで続く彼の王朝はヨガイラのポーランド語音をとってヤギェウォ朝と呼ばれる。
強国リトアニアとの連合により国力を飛躍的に増大させたポーランドは、1410年のタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破って西プロイセンを奪い、1466年には東ポモージェを得るとともに、東プロイセンに残ったドイツ騎士団国家に対しても、騎士団総長をポーランド王の封建的臣下とし、騎士団領をポーランド王に与えられた封土とする契約が結ばれた。これによりポーランドの版図はバルト海沿岸に達する。
[編集] 貴族共和制
ヤギェウォ朝を通じた密接な関係のもとで一体化が進んだポーランドとリトアニアは、1569年にルブリン合同を結び、正式に合邦した(ポーランド・リトアニア連合王国)。またヤギェウォ朝のもとで特権を獲得していたポーランドの貴族(シュラフタ)たちはリトアニアの貴族たちと一体の階層を形成して力をつけ、1572年のズィグムント2世アウグストの死によりヤギェウォ朝が絶えると、ポーランドはシュラフタによる議会である「国会(セイム)」による選挙王制に移行することになる。
この時代には議会を通じたシュラフタの影響力が選挙で選出された国王をも左右するようになり、上級のシュラフタである大貴族(マグナート)による寡頭政治が行われた。このため、その体制は貴族共和制といい、この時代のポーランド・リトアニア王国は「共和国(ジェチボスポリタ)」とも呼ばれる。「共和国」の版図は西では神聖ローマ帝国の境まで至り、東では現在のベラルーシ全域にウクライナ中西部・ロシア西部をあわせたものにほぼ等しく、当時のヨーロッパにおいて屈指の大国であった。
セイムによる政治は当時としては民主的であったが、その議決は全会一致の原則に基づいていたうえ、国王は全ての決定にセイムの承認を求められたので、17世紀以降次第に硬直化していった。また17世紀にはウクライナ・コサックの反乱、新興国スウェーデン王国、ロシア帝国の侵攻が相次ぎポーランド史上「大洪水時代」と呼ばれる未曾有の大混乱が起こり、ポーランドの繁栄は失われていった。
[編集] 独立の喪失
[編集] ポーランド分割
18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、大北方戦争やポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする戦争や内戦が繰り返されるようになった。
ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、ポーランドの衰退をみて1772年、1793年、1795年の三度に渡ってポーランド分割を行った。ロシアが旧リトアニア大公国とウクライナ、オーストリアがガリツィア(現ウクライナ西部・ポーランド最南部)を獲得し、西部はプロイセンが併合した。三度目の分割でポーランド王国の領土は完全に3国に併合し尽くされ、ポーランド王国は消滅する。
最後の分割を前に1794年、タデウシュ・コシチュシュコ(コシューシコ)率いる蜂起軍が決起したのをはじめ、ポーランドではたびたび独立の回復を求める民族蜂起が起こったが、いずれも失敗に終わった。
[編集] ナポレオン戦争
ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。貴族共和制の復活を望む一部のポーランド人は公国を支持したが、実態はフランス帝国の衛星国に過ぎなかった。
1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させた。南部の都市クラクフとその周辺は、クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナン大公国としてプロイセンの支配下におかれた。
ポーランドの民族主義者たちは名ばかりの王国を真に独立させることを目指して運動と蜂起を繰り返すがロシア軍によって鎮圧された。ポーランドの独立を恐れたロシアは王国におけるポーランド語の使用を制限してロシア化政策を推し進めたが、それでも次第に独立を求めるポーランド人民族意識は高まっていった。現在のポーランドの国歌である、Mazurek Dąbrowskiego が作曲されたのはこのころである。
[編集] 十一月蜂起
[編集] クラクフ蜂起
[編集] 一月蜂起
[編集] 独立回復と戦間期のポーランド
第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が起こると、事態は一変した。ロシア革命政府はドイツ帝国とブレスト・リトフスク条約を結んでポーランド、リトアニアなど西部領土の領有権を放棄し、さらに1918年にドイツでも革命が起こり、連合国に降服した。これにより空白となったポーランドは、アメリカ大統領ウィルソンの提唱した十四か条の平和原則に基づき連合国の後援により独立を回復することになった。1918年11月、大戦中に独立運動の軍団を率いてロシアと戦っていたがドイツと対立して収監されていたユゼフ・ピウスツキが釈放されて帰国、彼を国家主席とするポーランド共和国の独立が宣言された。
1919年のベルサイユ条約では敗戦国ドイツからポズナニ・西プロイセンを獲得、また東プロイセンがドイツ領に残された代わりに海への出口として「ポーランド回廊」を割譲されたが、外港のグダニスク(ダンツィヒ)は国際連盟管理地域に置かれた。またロシア(ソヴィエト)方面の国境を確定するため1920年にピウスツキはポーランド・ソ連戦争を起こし、革命の拡大を恐れるフランスの援助を得てソビエトを破り、現在のウクライナおよびベラルーシの西部を獲得した。
ピウスツキは1923年に政党政治に左右されることを嫌って辞任するが、1926年に軍部のクーデターを主導して政権を奪取し、みずから首相と陸相を兼任した。ピウスツキ政権は軍部を権力の基盤とする側近政治を行い、政党と議会を力で押さえ込む独裁体制で、無党派層を中心に絶大な人気を持つピウスツキの権威によって維持された。
[編集] 第二次世界大戦下のポーランド
1935年にピウスツキが没した前後には、西のドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を握り、その軍備強化がポーランドの脅威となっていた。ポーランドはイギリス、フランスと同盟を結んでこれをけん制したが、1939年9月1日、ナチス・ドイツはポーランドへの侵攻を開始した。イギリスとフランスはただちにドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発する。
ポーランド戦では、最新兵器を装備した近代的な機甲部隊を中心とするドイツ軍に対し、偵察部隊などに騎兵を依然として多く残し機械化の遅れていたポーランド軍はたちまちに敗れ、またドイツとポーランド分割の密約を結んでいたソビエト連邦が東部地域に侵攻して、1941年までポーランドのほとんど全土が分割占領された。ポーランド政府はパリに亡命政府を建て、パリ陥落後はロンドンに移った。
1941年にはドイツ軍がソ連支配圏に侵攻して独ソ戦が始まり、緒戦のドイツの勝利によりポーランドの全土がドイツの支配下に置かれる。ドイツの占領下でポーランドは厳しい占領行政のもとに置かれ、反ドイツ的なポーランド人たちに弾圧が加えられた。ポーランド国内では英仏を後ろ盾とする亡命政府系の反ドイツ運動とは別に、ソ連を後ろ盾とする共産主義系のパルチザンが蜂起してドイツ軍に抵抗し、大戦中のポーランド人の犠牲者は数百万人を数えた。また、中世のポーランド王国のもとでヨーロッパやロシアから数多くのユダヤ人(主にアシュケナジム)が流入しており、ポーランドはヨーロッパでも最大規模のユダヤ人人口を抱える国であったが、彼らはアウシュビッツなどの強制収容所に収監され、終戦時は数百万単位のユダヤ人が犠牲になったとされた。(ホロコースト)
独ソ戦でソ連が反撃に転ずるとドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていき、1944年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。ポツダム会談の決定によって新たにポーランド共和国に定められた領土は、東部のウクライナ・ベラルーシ西部をソ連に割譲し、かわりにオドラ川以西のドイツ領であるシロンスクなどを与えられるというものであった。失った東部領は新たに得た西部領の2倍に及び、東を追われたポーランド人が旧ドイツ領から追放されたドイツ人のかわりに西部に住み着く人口の大移動が起こった。
[編集] ポーランド人民共和国時代
大戦終戦後の1945年、ロンドン亡命政府と共産主義系の解放委員会は合同し挙国一致政府が成立した。しかしソ連の強い軍事的な影響力の元に次第に共産主義系の勢力が政府の実権を握るようになり、亡命政府系の政治家は逮捕されたり亡命に追いやられたりしていった。
1948年、ソ連の後援で共産党系のポーランド労働者党とポーランド社会党左派が合同し、ポーランド統一労働者党(共産党)をつくってソ連式の一党独裁、社会主義体制へ移行した。農業の集団化など、ソ連型の経済政策が次々に導入され、1952年には社会主義憲法を制定して国名をポーランド人民共和国に改めた。
1956年にソ連でフルシチョフによるスターリン批判が行われるとポーランドでも国民が動揺しポズナニで労働者の暴動が起こったが、これをきっかけにヴワディスワフ・ゴムウカが共産党第一書記に就任し、彼のもとで自由化が進められた。
しかしゴムウカは徐々に保守化し、1968年にはチェコ事件においてソ連と行動をともにしたことから自由を求める国民の信頼を失った。1970年、賃金問題から発生したグダニスク暴動の責任を問われたゴムウカは失脚し、かわってエドヴァルト・ギエレクが就任した。
ギエレクは経済の開放を進め、西側資本の投資をポーランドに呼び込んだので1970年代前半にはポーランドは非常に高い経済成長を実現したが、無計画な経済政策は債務の増加と物価の上昇を招き、1979年までに成長は沈滞することになった。
[編集] 社会主義体制の終焉
1980年、政府による食肉価格の値上げを発端として全国的な労働者のストライキが起こり、これをきっかけに東側社会主義国で初めての自主管理労働組合である「連帯」が結成された。「連帯」は電気技師レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)を指導者としてまたたく間に勢力を拡大し、政府では1981年にはヴォイチェフ・ヤルゼルスキが首相と党第一書記を兼任して戒厳令をひき事態の打開をはかった。
ヤルゼルスキ政権は体制を維持したまま経済改革を進めて事態を収拾しようとしたが、成果は上がらなかった。1980年代後半にソ連でゴルバチョフ政権が誕生しペレストロイカに入ったことは政権側の改革への動きを後押しし、ヤルゼルスキは改革の推進のため反体制側との協力を決意しポーランドの民主化運動がはじまった。1989年に政権側と反体制側との対話が「円卓会議」によって行われ、大統領制が復活してヤルゼルスキが初代大統領に就任した。
6月には部分的自由選挙が行われ、統一労働者党が惨敗、「連帯」が勝利を収めた。9月、「連帯」のタデウシュ・マゾヴィエツキが首相に就任し、非共産主義系連立政権が発足する。
[編集] 1989年以降のポーランド
マゾヴィエツキ政権は民主化と大胆な経済改革を進め、1990年代以降のポーランドの経済発展の基礎を築いた。1989年12月には憲法が改正されて国名がポーランド共和国に変更され、体制変革は最終局面を迎える。そして翌1990年には大統領選挙で「連帯」のレフ・ヴァウェンサが当選、大統領に就任した。
1991年、議会の初の自由選挙が行われたが、小党が乱立して政権の安定をみなくなった。議会、内閣とヴァウェンサ大統領の対立も明らかになり、首相が次々に交代した。1993年、内閣の不信任にともなって行われた総選挙では旧共産党系の民主左翼同盟が勝利し、1995年の大統領選挙では民主左翼同盟のアレクサンデル・クファシニェフスキ(クワシニェフスキ)がヴァウェンサを破って当選した。
1997年選挙では「連帯」を中心とする連帯選挙行動が勝利し、非共産党系連立政権が成立したが、改革にともなう腐敗から人気を失い、2001年の総選挙では左翼民主連合・労働同盟連合が勝利して再び左派政権が誕生した。2005年の総選挙・大統領選挙では左翼陣営が敗れて再び政権交代が起こり、国会では旧「連帯」系の流れを汲む「法と正義」の少数単独内閣が誕生、大統領職にも同党のレフ・カチンスキが当選を果たした。
このように政権交代が相次ぐ一方で経済の発展と政治的な中央ヨーロッパへの復帰は順調に進んでおり、1999年には北大西洋条約機構(NATO)に、2004年には欧州連合(EU)に加盟した。