板東英二
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板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日 - )は旧満州国(現在の中国東北部)生まれ、徳島県板野郡板東町(現在の鳴門市大麻町)育ち。プロ野球選手、野球解説者(ニッポン放送、中部日本放送、毎日放送に出演)、タレント、司会者、俳優。スターダストプロモーションに業務委託している芸能事務所オフィスメイワークに所属し、同社社長でもある。愛称は「板ちゃん」。妻は福岡藩家老の子孫で旧男爵家の出身、5歳年上の姉さん女房。
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[編集] 来歴・人物
板東中学卒業後、1956年、徳島商高に入学。その年の夏の甲子園に出場するも1回戦で敗れた。1958年、再び夏の甲子園に出場。秋田商高(エースは後に国鉄→サンケイで活躍した石戸四六)、八女高を下して迎えた準々決勝・魚津高戦。18回で25の三振を奪うが相手投手・村椿輝雄も譲らず、0対0のまま引き分け再試合となった(「18回引き分け再試合」が適用された最初の試合)。この再試合も完投し勝利。準決勝では作新学院高を破ったが、決勝で力尽き柳井高に敗れた。この1大会で記録した83奪三振は高校野球の一大会通算奪三振記録であり、現在もいまだに破られていない。
1959年、中日ドラゴンズに入団。同期入団には王貞治(巨人、現ソフトバンク監督)、張本勲(東映、現解説者)、村山実(阪神、1998年死去)、足立光宏(阪急)、田中俊幸(南海、後にプロ野球審判員)、江藤愼一(中日、ロッテ、大洋、太平洋)がいる。「巨人キラー」として活躍し、プロ11年間で77勝65敗の成績を残す。とりわけ1960年代後半には、「投手分業制」を提唱する近藤貞雄コーチの勧めで抑え投手となり、中日の初代リリーフエースとなった。オールスターゲームにも3回出場している。
プロ野球時代の目立った記録としては1961年に21歳で開幕投手となっており、現在も中日の開幕投手の最年少記録として残っている。また、1966年8月26日の巨人戦において、たった1球投球しただけでチームを勝利に導いた。これによりセリーグで初の1球勝利投手に輝いている。1968年に右肘軟骨除去手術を受け、翌年1969年限りで現役を退き、その後は野球解説者、タレントとして活躍。現在に至る。
[編集] 野球関連のエピソード
- 前述のように魚津高との試合で「延長18回引き分け再試合」が初めて適用されたが、このルールが導入されるきっかけを作ったのも板東である。魚津高との試合のおよそ4ヶ月前、春季四国大会が行われたが、この時板東は徳島商高のエースとして、高知商高戦で16回、さらに翌日の高松商高戦で24回を1人で投げ抜いた。この事態を重く見た高野連はこの年の夏の甲子園から「延長18回を終えて引き分けの場合はその時点で試合を終了し、後日再試合を行う」ことを決定した。また、この延長戦の際、あまりの悲壮な投げ合いに、球審が感極まり、途中から声を出せなくなり、動作のみでコールし、「無声延長戦」と呼ばれた。
- 延長18回引き分け再試合になった理由を、後に板東は「四国のピッチャーは速球派でガンガン来るタイプがほとんどで、魚津高の村椿のような、打たせて取る軟投派のピッチャーとは対戦が無かったので、タイミングが合わず、戸惑ったまま試合をしたから」と発言している。なお、延長18回で決着がつかず、翌日再試合が決まった日の夜、村椿は宿舎に帰るやいなや、食事も摂らず、すぐ横になり眠ってしまったのに対し、板東は宿舎に戻った後、しっかり食事をし、風呂に入った上で寝たそうである。
- 同期入団でバッテリーを組んだ元ヤクルトの名スカウト・片岡宏雄もいつも相部屋で、板東のあまりのおしゃべりで具合を悪くした、と回想録で語っている。
- 板東は「プロ入りした時点ですでに肘にネズミ(遊離軟骨)があり、肘に自転車のチューブを薄く切ったものを巻き付けた状態で投げていたので、長いイニングを投げるのが苦痛になっていた」と語っている。
- 板東が現役だった当時の日本では「リリーフ=敗戦処理」の考えが根強く、抑え投手の重要性がそれほど認識されていなかったこと、また同じ時期に「8時半の男」として注目を集めていた宮田征典(巨人)の陰に隠れてしまったことは、板東にとって不幸であった。現役時代の映像がほとんど残っていないのは、板東にとってトークのネタであると共に悔恨事でもある。そのため島田紳助からは「板東さんは『僕はプロ野球で77勝してる』って言っているんですけど、ほとんどがオープン戦やら高校時代の勝ち星で、本当はプロで4勝ぐらいしかしてない」とネタにされている。
- 現役時代の映像が少ない中で、打者としてバッターボックスに立つ映像が残っている。
- オープン戦ながら後のヤンキースの名物コーチとなったドン・ジマー(当時東映)とも対戦したことがある。
- アニメ巨人の星で、中日・星一徹コーチが名を挙げて賞賛したことでも知られる。実際は、大リーグから来日して日本野球をバカにしていたアームストロングオズマに日本野球を知らしめるために、板東・星野仙一と他1名にオズマを討ち取らせて、彼の傲慢な心を折る役目を果たした。
- 現役引退は権藤博と同時期であった。このとき板東はスカウト、権藤はマネージャー転身を勧められたが2人とも自分に合わないと断っているが、2人とも勧められた仕事が逆であれば球団に残ったと語っている。これが縁というわけでもないだろうが、この2人は仲がよく現在も交流が続く。肘の故障は相当悪く、引退の直接の引き金になったといわれる。現在も肘はまっすぐに伸びない。引退後20年以上たってテレビ番組で腕相撲参加を言われたときも肘の故障を理由に断っている。
- 1974年当時野球解説をしていたCBCラジオで昼ワイド番組、「ばつぐんジョッキー」のパーソナリティも担当。大いに好評を博し、他の曜日の担当者・上岡龍太郎と中日対阪神で盛り上がる。そしてこの年、この番組に当時愛知県在住の大学生だった山本正之が「燃えよドラゴンズ!」を録音テープで投稿し大きな人気を呼んだため、急遽番組企画としてレコードを吹き込んだところ、中日の優勝も相まって大ヒットを記録した。未だに同球団の正式な球団歌は知らなくとも、この歌は知っているというドラゴンズファンは多い。ちなみにこの歌に長嶋茂雄は、「この歌いいよね。元中日の板東君が歌ってるんでしょ?」と本人の前で天然ボケな発言をしている。
- 苗字は板(いた)の「板東」だが、坂(さか)の「坂東」と誤記されることも多い。
- 若い世代は板東が元プロ野球選手であることを知らない場合が多く、テレビの野球解説でもっともらしい解説を板東が行ったことに対し、視聴者から「(タレントにすぎない)板東が何故偉そうに解説しているのか」等の抗議電話が相次いだことがあるらしい。
[編集] 現役時代の年度別成績
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗戦 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 与四死球 | 奪三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1959年 | 中日 | 33 | 1 | 1 | 1 | 4 | 4 | 97 | 89 | 6 | 29 | 69 | 34 | 3.15 |
1960年 | 中日 | 44 | 6 | 0 | 3 | 10 | 11 | 174.2 | 145 | 17 | 36 | 126 | 51 | 2.62 |
1961年 | 中日 | 47 | 8 | 4 | 2 | 12 | 10 | 193.1 | 166 | 14 | 52 | 108 | 56 | 2.60 (11) |
1962年 | 中日 | 28 | 2 | 1 | 0 | 2 | 9 | 88.2 | 85 | 10 | 28 | 56 | 42 | 4.25 |
1963年 | 中日 | 30 | 2 | 1 | 1 | 3 | 1 | 73.2 | 77 | 2 | 28 | 39 | 25 | 3.04 |
1964年 | 中日 | 53 | 2 | 0 | 0 | 6 | 7 | 140.1 | 144 | 13 | 47 | 73 | 48 | 3.09 (14) |
1965年 | 中日 | 55 | 0 | 0 | 0 | 12 | 7 | 156.1 | 120 | 11 | 48 | 87 | 39 | 2.25 (6) |
1966年 | 中日 | 60 | 0 | 0 | 0 | 13 | 5 | 133 | 103 | 14 | 31 | 91 | 38 | 2.57 (10) |
1967年 | 中日 | 51 | 0 | 0 | 0 | 14 | 6 | 119.2 | 110 | 11 | 30 | 72 | 34 | 2.55 |
1968年 | 中日 | 18 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 21.2 | 29 | 3 | 11 | 12 | 16 | 6.55 |
1969年 | 中日 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 22.1 | 23 | 1 | 12 | 15 | 9 | 3.68 |
通算成績 | 435 | 21 | 7 | 7 | 77 | 65 | 1220.2 | 1091 | 102 | 356 | 748 | 392 | 2.89 |
[編集] タイトル・表彰
- オールスターゲーム出場 3回(1960年、1966年、1967年)
[編集] 芸能界
1984年に当時のプロ野球や自分の現役時代の裏話を集めた「プロ野球知らなきゃ損する」「プロ野球これだけ知ったらクビになる」を執筆。それぞれその年の1位、2位のベストセラーとなり、以後人気シリーズとなる。また、この年、TBS「金曜日の妻たちへII 男たちよ、元気かい?」でドラマ初出演し、俳優デビューを果たした。
翌1985年には人気ドラマ「毎度おさわがせします」に中山美穂の父役で出演し、その後、金妻シリーズの第3作目「金曜日の妻たちへIII 恋におちて」にも小川知子演じる山下由子の夫、山下宏治役で出演して好評を得た。そしてこの金妻シリーズは板東が後に俳優としての道を歩む大きな一歩になったのは言うまでもないであろう。1989年には、向田邦子原作の映画『あ・うん』で高倉健と共演し、翌年の第13回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しており、その演技は高く評価されている。
また、演じている役のほとんどが関西出身の設定である事から関西弁で演じている(ただし、華麗なる一族では標準語)。また、金妻シリーズや「金曜日には花を買って」「毎度おさわがせします」で共演した縁で香坂みゆきや篠ひろ子、佐藤B作とは現在でも親交が深く、後に始まった「土曜大好き!830」で香坂は女性アシスタントとして板東とタッグを組み、篠はこの番組の第1回と最終回の放送で記念ゲストとして、B作もこの番組のゲストとして何度も迎えられている。
1980年代以降、クイズ番組に司会・解答者どちらとしても多く出演(『クイズのりもの講座』、『わいわいスポーツ塾』、『マジカル頭脳パワー!!』など)。現在は『世界ふしぎ発見』に解答者として出演するほか、2007年1月から3月まで放送していたのTBSの「華麗なる一族」の第4話で水谷通産大臣役として出演したこともある(クイズ番組の一部で関西弁と標準語を使い分けている)。
黒柳徹子とは『世界・ふしぎ発見!』で初めて共演したが、始めから黒柳を「おばん」(関西弁でおばさんの意味)(黒柳談。当初は「おばはん」を聞きなれないため、こんばんはの意味の「おばん」と解釈した)呼ばわりし、黒柳を驚かせたが、関係は良好のようである。関西での板東の番組のゲストに名乗り出ることもあり、正しくない関西弁で板東の素顔を語っている。
特に1990年代には、司会を務めた日本テレビ系のクイズ番組『マジカル頭脳パワー!!』では、パネラー達との絶妙なやりとりが人気となり、ピーク時には毎週20%を超える高視聴率番組となった。
2000年、元付き人だった桂春彦から7億円を脅し取られそうになったが、この元付き人は逮捕され未遂に終わった(現在は、破門も解け地道な活動を行っている)。桂春彦は以前『土曜大好き!830』の「健康大好き!」というコーナーに板東のアシスタントとして出演していた。春彦に懲役2年・執行猶予3年の実刑判決が下された事を聞き「今回の件は弁護士に任せているので詳しく話せませんが、福田君(本名)には、ちゃんと罪を償って欲しいと思っています。」と真剣な表情でコメントし、春彦に対して決別を宣言した事は有名(板東も本音は春彦が刑務所に入って反省して欲しいと望んでいた様である)。春彦が判決で板東の「人生に愛はいらない。金だ金」と明らかにした為、板東は自身の付き人教育が疑われ「春彦さんが板東さんを脅したのも板東さんにも落ち度があったのでは?」等の関係者からも声があった。現在でも賛否両論の声が相次いでいる。
『パネルクイズアタック25』(朝日放送・テレビ朝日系)の司会を務めていた児玉清が病気により出演できなくなった時、代理司会として2週にわたり抜擢されたこともある。児玉清以外にこの番組の司会を務めたのは、先にも後にも板東英二ただ一人だけである。
出身地の徳島県に近い事もあってか、関西地区の各メディアの番組にも多数出演するようになる。1980年代に関西テレビ土曜昼に放送されていた『ノンストップゲーム』では司会として横山ノックや桂文珍と共に人気を博す。
タレント業が波に乗る以前、板東は2代目桂枝雀の弟子になりたいと門を叩いたことがあるが、激怒されたらしい(詳細不明)。そのため、板東は枝雀を恐れていた。
[編集] 現在
中部地方限定のローカル番組である『そこ知り板東リサーチ』において、毒舌ぶりを発揮しながら東海三県を渡り歩く番組は好評で、いつの間にか名古屋の顔として定着してきている。確定申告の時期になると、名古屋国税局に出向く姿がイメージキャラクターとして映像が使われている。
2005年3月12日放送の『晴れ・どきドキ晴れ』で愛知万博のアクセス口・名古屋市名東区藤が丘に現在住んでいることを公表した。毎週のように東京や大阪にも仕事で飛び回る多忙ぶりである。また、現在はニッポン放送・MBSラジオのプロ野球解説者(いずれも本数契約)とサンケイスポーツ専属のプロ野球評論家として活躍している。彼が試合の解説・評論をする時には早くから球場に入って、両軍の選手・監督などを精力的に取材を行うそうである。
王貞治(現・ソフトバンク監督)よりも入団時の契約金が高かった(小切手に「1」だけ書き込まれ、「後は好きなだけ0を書いてください」と言われた、と話したこともある)ことをいまだにトーク番組で自慢しており、最近ではフジテレビのジャンクSPORTSに出演したときもそのことを語った。王とは「同学年で甲子園のスーパースター」という共通点があったこともあり仲が良く、巨人と中日が対戦する前日には2人で夕食を食べに行くほどだった。また板東が金妻シリーズに出演していた当時、巨人監督だった王は「俺も1度出てみたいよ」とうらやましがったという。
プロ野球に関しては地域によって発言がコロコロと変わり、関西で放送されてるちちんぷいぷいにおいて、渡邉恒雄巨人軍会長を「もうボケたじじぃが出てくんな」と過激発言をし、同じ出演者の元NHKアナウンサー宮川俊二に至っては「もう、お亡くなりになられた方がいいですね」と発言をしスタジオを凍りつかせてしまった。
タレント業もさることながら、自身(の事務所メイワーク)が運営するECサイト「板東商店.com」や、テレビ・プラス社との共同事業で運営するこだわりの食材ECサイト美味!ニッポンなどを手がけるなど、手広く事業を行っている。特に美味!ニッポンは放送番組との連動企画で、この番組に関連したブログ板東英二の感動!味日記を執筆するなど、積極的な姿勢で取り組んでいる。
また、服装や遅刻に関してのマナーはかなり厳しく、中でも桂春彦がそれが原因で、事務所を解雇され、その腹いせに春彦に恐喝されている。しかし、その厳しさはオール巨人らタレントに多大な影響を与えており、一目を置かれている。
[編集] 現在の出演番組
- 世界・ふしぎ発見!(TBS)
- おはよう朝日です木曜(ABCテレビ)
- クイズ!紳助くん(ABCテレビ)
- ちちんぷいぷい木曜(毎日放送)
- プロ野球珍プレー・好プレー大賞(フジテレビ)
- MBSタイガースナイター (MBSラジオ)
- ニッポン放送ショウアップナイター (ニッポン放送)
- サンケイスポーツ評論家
- そこが知りたい 特捜!板東リサーチ(CBCテレビ)
- 晴れ・どきドキ晴れ(CBCテレビ)
- 板東英二の虹スタ!(テレビ愛知)
- 板東英二の欲バリ市場(バザール)(毎日放送)
- 板東英二金曜生BAN BAN(毎日放送ラジオ)
- 板東英二の南山マスターズ(CBCテレビ)
- 板東英二の美味!ニッポン(テレビ大阪)
[編集] 過去の出演番組
- クイズのりもの講座(1984年 フジテレビジョン)
- パネルクイズアタック25(1984年 ABCテレビ・テレビ朝日 児玉清の代理司会※番組自体は現在も放送されている)
- 金曜日の妻たちへII 男たちよ、元気かい?(1984年 TBS)
- 金曜日の妻たちへIII 恋におちて(1985年 TBS)
- 毎度おさわがせします(1985年 TBS)
- 金曜日には花を買って(1986年~1987年 TBS)
- ノンストップゲーム(関西テレビ放送)
- 板東英二のビデオ自慢(ABCテレビ・テレビ朝日)
- 土曜大好き!830(1987年~1997年 関西テレビ・フジテレビ)→土曜ぴーぷる(1997年~1998年 関西テレビ・フジテレビ)
- わいわいスポーツ塾(1987年~1992年 TBS)
- マジカル頭脳パワー!!(1990年~1999年 日本テレビ)
- 敏感!エコノクエスト(1991年 毎日放送・TBS)
- 板東英二のわがままミッドナイト(毎日放送)
- 板東英二のズバリ奥まで90分!(毎日放送)
- 純粋!?男女交遊(テレビ朝日)
- 平成初恋談義(フジテレビジョン)
- クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!(1993年 日本テレビ放送網 逸見政孝の代理司会)
- スーパークイズスペシャル(1991年~1999年 日本テレビ放送網 1993年秋からはメイン総合司会として出演)
- ナイトinナイト(水曜日)・板東英二の水曜は白ごはん(ABCテレビ)
- ええにょぼ(1993年 NHK)
- 興味しんしん丸(1995年~1996年 ABCテレビ・テレビ朝日)
- 板東・八方ヨジキンTV(関西テレビ)
- 板東のクリックパパ(毎日放送・TBS)
- 奇跡体験!アンビリバボー(1997年~1998年 フジテレビジョン 初代司会 ※番組自体は現在も放送されている)
- 土曜の奇跡! TVのチカラ→奇跡の扉 TVのチカラ(2002年~2003年 テレビ朝日 初代司会 ※番組自体は現在も放送されている)
- 板東英二のGOODスマイル(2002年~2005年 テレビ大阪)
- 板東英二のバンバンストライク(2004年~2005年 ニッポン放送)
- 踊る踊る踊る!さんま御殿!!春3時間スペシャル(2007年4月10日 日本テレビ放送網)
[編集] 出演した映画
- 父(1988)
- あ・うん(1989)
- まあだだよ(1993)
- 億万長者になった男(1994)
- 四十七人の刺客(1994)
- 鉄道員 (ぽっぽや)(1999)
- あらしのよるに(2005)
- バルトの楽園(2006)
[編集] 出演したCM
[編集] 著書
- 「赤い手」
- 「プロ野球知らなきゃ損する」
- 「プロ野球これだけ知ったらクビになる」
- 「プロ野球殺られても書かずにいられない」
- 「プロ野球ここを喋る奴はウチから出て行け」
- 「プロ野球この極秘事項を知ったら100倍面白い」
- 「プロ野球とても言えなかった機密事項」
- 「板東英二のもっと言わせろ、プロ野球!」
- 「プロ野球ことしは黙ってられないゾ」
- 「アッコとバンちゃんの言いたい放題」
[編集] トピックス
- 現役時代、ある試合で板東がリリーフとしてマウンドに登場すると、ネット裏にいた観客から、板東自身と、板東を起用した近藤コーチを野次る声が聞こえた。怒った板東はきっちり抑えると、一目散にネット裏に向かい、ネットをよじ登って野次の主のいる方向へ散々唾を吐きかけた。ふと隣で同じようにネットによじ登って唾を吐き飛ばしている者がいることに気づき、横を見るとそれは近藤コーチであったという。
- 大阪・西天満にビル所有し、日産・プレジデントを購入。また、最近はトヨタ・istを購入した。中日入団時から現役引退後を見据えていたのか、現役時代からサウナの経営やジュークボックスの販売をしていたほどで、財テクに長けていたことでも知られている。1990年代前半のバブル崩壊に伴い大きな経済的損失を出した。人気司会者である島田紳助に財テクを教え込んだとも言われている(紳助はその後、不動産などの面でも大きな収益を得ている)。
- 1982年のペナントレースは中日と巨人が熾烈な優勝争いを展開したが、日本テレビの徳光和夫アナウンサー(当時)が「ズームイン!!朝!」で「もし、万が一我が読売巨人軍が優勝できなかったら私は丸坊主になります」と発言。同じく同番組に出演していた広島テレビの脇田義信アナウンサー(故人)も広島が優勝しなかった場合の丸坊主を公約した。結局中日が優勝し、徳光と脇田は中京テレビのリポーター・きくち教児(ローカルタレント)と板東から丸坊主にされた。
- 1985年のペナント開幕前に上岡龍太郎と、当時上岡が司会をしていたKBS京都の番組・タイガースフィーバー内で「阪神タイガースが優勝したら番組視聴者をハワイ旅行へペアでプレゼントする」と発言。その年阪神は日本一に輝き、テレビ視聴者にハワイ旅行をペアでプレゼントした。同様に島田紳助も「タイガースが優勝したら丸坊主にする」と約束したが、紳助は「仕事上丸坊主はまずいので勘弁してください」ということで、放送関係者などに「日清どん兵衛」を配った。
- NHKの「ええにょぼ」では戸田菜穂が演じるヒロインの父親役を演じたが、自らがガンで息を引き取るシーンでその日が終了した直後、朝8:30に自ら司会を務める民放の番組の冒頭に大アップで登場し、にこやかに自分の臨終を報告したのが、彼の芸域の広さを物語っている。
- 阪神の星野仙一シニアディレクターは板東より年齢が7歳も年下(学年は6つ下)であり、中日の先輩後輩にも関わらず、板東は星野のことを「監督!」と呼び、敬語でしゃべる(板東は中日監督に就任する前の星野を著書やテレビ番組でそのまま「星野」と呼んでいた)。また星野は板東に対し「板ちゃん」と呼び、敬語を使わない。これについて明石家さんまからは「板東さん、チームの先輩だから『星野』って呼んだらいいのに」とネタにされるが本人は変える気は無いようだ。だがソフトバンクの王監督のことは同学年のライバル・親友であることから「王監督」とは言っておらず、「王」と呼び捨てにしている。更に10歳年下の和田アキ子にも「板ちゃん」と呼ばれているが、板東は和田を「アッコ」と呼んでいる(ちなみに年下である明石家さんまや島田紳助などからは「板東さん」と呼ばれてるが、同じ年下であるやしきたかじんなどからは「板ちゃん」と呼ばれている)。
- ずるいゴルフをすることも知られ、周りと喋りながら自分のボールをクラブで引きずることがある。2003年の正月にはオーストラリアで板東・さんま・星野の3人でゴルフをし、何時も通りのせこいプレイをしていたところをさんまに見つかり突っ込まれ、その返答として板東が発した「勝ちたいんや」という言葉がその後、阪神優勝の合言葉として使用される事になった。板東は自分の発した言葉が想像以上にヒットし、「勝ちたいんやドリンク」などの商品名にも使われ始めた事から、当時さんまに会う度、「あれは僕の言葉なのに・・・」とか「あの(ゴルフの)こと、もっとテレビでしゃべってほしい」とせがんでいたそうである。その後、「勝ちたいんや」は流行語となった。上方芸人が多数参加する、お笑い芸人を対象としたゴルフ大会に何故か毎年参加している。また、90年代に東西の芸人が集結し、数度に渡って行われていたコンペ「素人名人会」でも他の出場者から「部外者」「出場資格なし」とネタにされながら「オブザーバー」出場を認められていた。
- めちゃ×2イケてるッ!の1コーナー「やべっち寿司」に出演したときにカレービビンバを食べ、「これは商品化したほうがいい!」と本気で矢部に勧めていた。
- ある日、板東は島田紳助と株式投資の相談をしていた。そのとき、当時、大阪府知事であった横山ノックが、板東らに「養命酒、いけるぞ~!!」と通りかがりに発言した。板東と紳助は、ノックの一言が「政治家が投資関連の情報をもっていて、政治家の立場上はっきり言えないのでヒントを与えてくれた」と思い込んだ。早速、板東と紳助は養命酒製造株式会社の株式を購入した。しかし、養命酒の株価は下落して、結果的に投資は失敗した。後日、紳助が「養命酒(の株を買ったが失敗して)でエライ目(酷い目)にあいましたよ、養命酒はいいと教えてくれたのはどうでした?」とノックに言ったが、ノックの方は「身体に一番いいんだ!」と返答した。ノックはただ養命酒が健康に良いと言ったつもりだった。
- 新大阪でゆで卵を6つ買い、東京に着いたら全部食べてしまうほどゆで卵が大好物。
- 20年近く徳島県からは彼以外に芸能人として成功した人物が現れなかったために、徳島県で有名人を一人挙げろといわれると県民はほぼ確実に板東英二を挙げる。また、このことから、「徳島人はコケる」というありがたくないジンクスを生んでしまっていた。しかし、近年になり大杉漣やアンジェラ・アキ、チャットモンチーが全国区の知名度になったこともあり、県内では「板東英二以来の芸能人」として話題になっている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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