志村けん
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志村 けん(しむら けん、1950年2月20日 - )は、日本を代表するコメディアンのひとり。本名、志村 康徳(しむら やすのり)。歌手、俳優でもあり、ザ・ドリフターズ(以下、ドリフと表記)の一員である。愛称は「志村」「しむけん」「けんちゃん」「ケン坊」、ダチョウ倶楽部の上島竜兵や桑野信義からは「師匠」と呼ばれ、また本名から「やっちゃん」、「康べぇ」など。イザワオフィス所属。身長168cm。血液型はA型。
古くは沢田研二、キャンディーズ、最近ではダチョウ倶楽部や矢崎滋、柄本明、藤山直美、意外な所では俳優の金城武など、お笑い芸人・テレビタレント・テレビ番組・俳優・制作関係者など志村の影響を受けた「志村信奉者」が多数おり、現代の「日本の喜劇王」と呼ばれることもある。「憑依芸人」とも呼ばれている。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 付き人からドリフ入り
- 志村憲司(芸名の「けん」は父親の名から由来。)・和子の三男として東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)に生まれる。父は元軍人で、戦後は小学校教諭となり教頭まで務めた。
- 本名の「康徳」は、父親が徳川家康を尊敬していたことにちなむ(『志村けんのだいじょうぶだぁ』より)。
- 小学校時代、運動会で便をもらしたことがあったからか、中学校(東村山第二中学校)時代は文化祭でよくコントをしていたという。彼は、所ジョージ(埼玉県所沢市出身)の遠戚(血縁の遠い親戚)とバンドを組んだこともあった。東京都立久留米高等学校中退。中退の理由は、卒業間際にドリフの付き人になった際、いかりや長介に強引に東北巡業につきあわされ出席日数が足りなくなってしまったためである(本人の証言であるが、様々なプロフィールでは卒業となっている。一説によれば、遅れて卒業したという)。2007年3月のBlogでは、高校3年当時2月に付き人になり、3月の卒業式には参加したことを述べている。
- はじめは由利徹の弟子になろうとした。ついでコント55号かドリフのどちらに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選び、1968年にいかりやの家まで押しかけ、玄関前で12時間正座した末ドリフの付き人となり、いかりやに弟子入りする。
- 付き人(住友建機のコラムであるPower Talk取材時の本人の証言、及び加藤茶の証言によれば、加藤の付き人であったという)時代、1年余りであっけなく脱走(本人の著書では、社会勉強をするため他の付き人に伝言して辞めたというが、いかりやの許可をもらったわけでないため、やはり脱走である。しかし、『SMAP×SMAP』(フジテレビ)のビストロSMAPに出演した際には、この時のことを、いかりやの家に行き、「1年間だけ時間をください。1年経ったら戻ってきます」といかりやに言ったが、当時夫婦喧嘩の最中だったいかりやからは「うるせぇこの野郎」と無視されたとのことである)。戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、志村は加藤の家に行って頼み、加藤が個人的にいかりやに口添えし出戻った。幸い、いかりやから「破門」は免れた。その後暫く、加藤の付き人兼加藤家居候となる。当時無名の付き人だった志村は、運転免許証がないため、当時国民的ヒーロー加藤の運転する車の助手席にふんぞりかえったまま加藤の家に帰り、加藤を差し置いて加藤の母親に晩御飯のメニューを頼み晩御飯を用意してもらい、加藤より先にお風呂に入るという大物ぶりを発揮していた(余談だが、志村はエッセイ『変なおじさん』にて『SMAP×SMAP』を視聴率の高い調子が良い番組である事を評価していた。それと同時に『志村けんのだいじょうぶだぁ』放送開始当時の不毛の月曜日のエピソードも語っていた)。
- ※当時のドリフは積極的に音楽活動を行っていたため、仲間内では『付き人』ではなく『バンドボーイ』と呼ばれていた。
- 1972年、お笑いコンビマックボンボンを立ち上げ、テレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』に出演するも、失敗に終わった(この頃の芸名は「志村健」の表記が多かった。なお「志村健」の芸名は、現在台湾で使用されている)。しかし荒井注の脱退により、ドリフ見習いを経て、1974年、正式にドリフのメンバーに。なお、この時リーダーのいかりやは、荒井やいかりやと同年代の新メンバーの加入を検討していたが、加藤の推薦により若手の志村が起用された。
- ドリフ正メンバーになって2年間ほどはギャグが全く受けなくスランプ状態であった(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)。しかし、1976年『東村山音頭』が子供に受け、ブレイクした後は、全てのギャグが受け始め、ドリフ一番人気の座を獲得。「お笑い界のドン」への道を突き進む。
[編集] 東村山音頭でヒット
- 『全員集合』で「東村山」ギャグをヒットさせ、一躍人気者となる。
- ドリフのコントでは大概がボケ役なので、ボケのイメージが強いが『8時だョ!全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、メインのコントでいかりやの代役としてツッコミ役を演じたこともある。元来マックボンボン時代はツッコミ役であり、「全員集合」の後半コント等でも女性歌手や加藤をボケ役に立て、自らはツッコミ役に回るコントもあった。1980年代後半以降の自らの冠番組でも実際はツッコミ役が相当あり、現在も「バカ殿様」ではダチョウ倶楽部相手にツッコミを入れて落とす事がある。『NHK紅白歌合戦』の応援コーナーでビートたけしとコントを演じた際も、ボケ役はたけしが演じ志村はひたすらツッコんで話を展開させていた。志村の多芸さがうかがい知れる。
- この頃、同じ渡辺プロダクション所属の沢田研二とのコント内でのやり取りと息の合ったコンビネーションが絶大な人気と話題を呼ぶ(志村らドリフはその後渡辺プロ子会社の「イザワオフィス」に移籍)。沢田は現在も志村のギャグセンスを高く評価している。
- 1981年には仲本工事と共に競馬のノミ行為が発覚。謹慎1ヶ月、書類送検されたが、賭けた金額が仲本に比べてはるかに小さかったことから(1万6千円)起訴猶予処分となった。当時の新聞の社会面やトップを飾り、見出しは『ノミ馬券だョ!全員集合』であった。ちなみにこの事件以降暫く「全員集合」などの出演を見合わせ、当時ドリフターズ全員で出演していた永谷園のふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。この話には裏があり、実はいかりやも「志村、俺もノった!」とノミ行為をしていたが、実際捕まったのは仲本・志村の2人である(『ビートたけしのオールナイトニッポン』より)。
[編集] 冠番組へ
- 全員集合終了後は、加藤をボケ役、自らを突っ込み役とした番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に出演。『全員集合』を番組終了に追いやった『オレたちひょうきん族』を逆に番組終了に追い込んだ。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』(日本テレビ)、現在も続く『志村けんのバカ殿様』等でドリフメンバー以外との活動が多くなる。 このころから、ドリフとは一線を画す独自のコントスタイルを確立し、第二の人気ピークとなる。
- 1988年の大晦日には、フジテレビアナウンサーの山中秀樹と共に『デイトライン特別版』のキャスターを担当し注目された。
[編集] 死亡説
- 1996年9月から10月頃、突如として「志村けん死亡説」が流れた。ずっと順調に歩んできたと思われがちな志村だが、死亡説流布の前後にはレギュラー番組がない低迷期があり(アドリブ話芸や天然ボケ系タレントが全盛となり、志村がドリフ以来続けてきた練り込んで演じるタイプの笑いが古くさく感じられた)、テレビで見かけなくなったのが騒動の背景にあると思われる。以下に噂の原因とされるものを列記。
- この4つがミックスされて噂となり、志村の故郷・東村山の女子中高生の間から広まったとされる。最初は「死亡か?」という程度だったが、段々エスカレートして「群馬県のゴルフ場で急死した」、「宇都宮のがんセンター(栃木県立がんセンター)で死んだ」、「死んだことは四十九日法要が過ぎてからでないと公表されない」、「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」等と具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村さんは入院していない」という異例の声明を出し、9月28日には本人がインターホン越しに記者会見し健在をアピールした。インターネットがそれほど発達していなかった当時としては異例にもこの死亡説は全国規模に流れた。
- この説はのちに本人が健在であったことから誤報であることがわかり、直後に収録された『ドリフ大爆笑』では、加藤に「ねぇ、志村けんって死んだんだって」とネタにされ、本人が苦笑しながらつっこんだ。また翌年の『志村けんのバカ殿様』ではお笑いコンビ・猿岩石との「母子コント」で母親役の志村へ「母ちゃんだって、死んでたってウワサになってたよ」などギャグにされていた。対する志村は「その頃、『電波少年』で旅をしていたのになんで知ってんだよ。お前らこそウソついていたらしいじゃねーか。」[1]と、やり返していた。
[編集] その後から現在
- 1998年12月30日夜、TBSの『21世紀プロジェクト~年越し30時間テレビ 今日だけお見せ数々の名番組大集合!~』の後半に、加藤と共に出演。
- 1999年には映画『鉄道員 (ぽっぽや)』に俳優として出演したが、志村を尊敬している松本人志は自身の連載で「(俳優だけは)絶対やってほしくなかった」と述べている。「一コメディアンとして貫いてほしかった」というのが理由であるが、志村は皮肉にも以後コメディアンではない方面での活躍が増える(松本自身も、ドラマに出ない姿勢を貫いていたにも拘らず、『伝説の教師』『明日があるさ』等出演経験有り)。ただし『鉄道員』に関しては「高倉健直々のオファーを断るのも申し訳ない」(高倉本人から直接志村に連絡があった)という理由によるもので、その後、映画やドラマに出演しない姿勢は一貫している。
- 『バカ殿』で共演していた先輩コメディアン東八郎に、「東さんはいい歳になってもなぜ馬鹿な演技ができるのか」と尋ねた時、東から「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面(づら)したりするようになったらおしまい」と言われた。志村はこの言葉に深く納得し、東に尊敬の念を抱いていたと何度も発言しているが、どんどん東の言葉に反する方向に動いているのも皮肉な話である。なお'90年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。トークバラエティ番組に出た時は歓迎されたが、やはり突っ込みが主な仕事であった。(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴)
- 2001年、「けん♀♂けん」として、研ナオコとのデュエット曲『銀座あたりでギンギンギン』をリリース。
- 2001年12月、共演していたタレントで志村の「弟子」的存在だった田代まさしが、男性宅の風呂を覗き見及び覚醒剤所持で逮捕された事に対し、桑野信義と共に激怒、「あいつは最低なことをしたのだから芸能界から消えてもらいたい」と厳しいコメントをした(事実上、田代に対する「破門」)。
- 2002年4月、ハロー!プロジェクト所属のミニモニ。と共に「バカ殿様とミニモニ。姫」として活動。持ちギャグの「アイーン!」を冠した曲を歌った。
- 2004年12月7日に、東京都三鷹市内の自宅に泥棒が侵入し、時計や宝石類1000万円相当と現金40万円を盗まれる被害に遭った。本人は会見で「ちゃんと仕事して金稼いで下さい」と犯人にコメントし、最後に「だいじょうぶだぁー」と締めた。ちなみにペットの犬たちは何故か泥棒に吠えなかったらしく「番犬にならない」と語っていた。またこの事件の際、志村宅に女性のお手伝いさん(住み込みか通いかは不明)がいることが判明し、話題を呼んだ。
- 2005年、ビートたけしと組んで一時間半のコント番組を制作。ダチョウ倶楽部やたけし軍団の一部も参加した。番組の最後には志村が三味線、たけしがタップダンスを披露した。
- 現在では、健康オタク、動物愛好家としても知られ、それに関する番組のレギュラーを持つ。そのためか最近ではお笑いタレントと言うより、コメンテーター色が強くなっている(但し、現在のトーク主流のテレビ番組のあり方については自説としていくつかの雑誌等でのインタビューの中でも疑問符を投げかけている)。
- 最近では、志村ファミリーと言うコント集団の団長としても活躍しており、2006年4月からはこれを発展拡大させた形で「志村けん一座」を組織して舞台に進出する(後述)。
- 酒豪で知られており、クラブで飲んでいる際、ホステスの胸を揉むスケベ親父だと出演者にしばしば暴露されている。ホステスを両脇に座らせ、両手で同時に揉んでいる姿が海亀のようだと評された。
- 女優にも人気があり、ビートたけしが「女優とばっかヤリやがって…チクショウ羨ましい!」と語っていた。
- 2000年代以降、「大御所」化してしまい、コントも安直なエロネタや取り巻きたちとの馴れ合いと化してしまった感があるのが惜しまれる、とのファンの意見もある。
- 2006年8月7日よりブログを開始した。ブログでは独特の口調で私生活を語っていることが話題になり、急激に人気が上昇している。
[編集] エピソード
- 独身。バツイチでもない。
- ドリフ付き人時代に当時付き合っていた彼女が妊娠し、結婚をしようとしていたが彼女の両親に猛烈に反対され泣く泣く妊娠していた子供は堕ろされ別れさせられた。この時、いかりやに「単独行動するんじゃねーよ!」と叱られている。
- 自動車の運転免許証を持っていない。ただ、某番組の企画で教習所で車の運転をしたことがある。
- 芸名の「けん」は、父親の名前「憲司(けんじ)」が由来である。父親は小学校の教頭をしており、厳格な家庭に育った。しかし、志村が中学の頃自宅前で交通事故に遭って以来認識障害(と思われる状況)となり、志村がドリフ入りを決意した頃は物の判断がほとんど出来なかったという。志村の爺さんコントは、「この時期の父親をモデルにしたもの」と本人は著書で明言している。
- 愛称は「けんちゃん」、「しむけん」、「けん坊」。中でも「しむけん」は略語を好む若者の間で定着しているが、「一文字(ら)くらい言えよ」と本人はあまり気に入っていない。ダチョウ倶楽部からは「師匠」と呼ばれている。
- 母は志村和子(しむら かずこ)。母からは「やっちゃん」(本名が康徳のため)と呼ばれている。氷川きよしの大ファンで、番組の企画でコンサート後の楽屋訪問が実現した際には少女のように喜んでいた。バカ殿のコントにも出演したことがある(美しい腰元との甘い一夜を期待したバカ殿が、その閨に忍び込むと…)。
- 兄が2人いる。
- 『全員集合』などで披露した、スイカを異常に速く食べる芸はすでに伝説と化している(実はテレビに映らないスイカの裏側部分は削り取られており、身の部分は薄い。通称「ドリフカット」)。しかし、フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』での放送内で削られていない通常のスイカでも早食いができることを証明した(しかしその時の出演者は誰も見ていなかった)
- 酒とタバコが大好きで、共演者や芸人仲間と一緒に嗜む事が多い。「だいじょうぶだぁ」などのコントに登場する酒は本物を使っている。コント中にタバコを吸っている場面も多く見られた。ドリフ全員がホノルルマラソンに出場した時、志村が途中棄権した後の第一声が「タバコ吸いたい」と言ったほどである。
- 2001年9月24日放送の『世界絶叫映像もろ見え超びっくり人間大集結ギネス来襲スペシャル』(日本テレビ系)で円周11.0mのフラフープを30秒間で24回転し、「世界で最も大きなフラフープを(30秒間)回した人」として当時のギネス世界記録に認定された。2002年1月5日放送の『世界絶叫映像もろ見えびっくり人間緊急来日ギネス爆裂スペシャル』(日本テレビ系)では、志村と同じ記録を持つスペインの女子高生(当時)、ラウラ・リコと対決。志村は11.5mをクリアしたものの、12.0mは16秒で失敗。ラウラ・リコはこれに成功し、世界記録保持者となる。なお、2005年8月現在のギネス世界記録保持者はWの辻希美と加護亜依。
- 未だに独身であるが、昔も今も女性にはモテる。いしのようこと結婚寸前まで行ったという逸話は有名。他にも優香や多くのグラビアアイドルなど、女性との噂は絶えない。また今まで付き合った人の中には、財産の半分を持っていった女性もいたらしい(注:法律上決まりはないが、判例によると同棲期間が長いほど高額な慰謝料が発生する場合がある)。『ダウンタウンDX』出演時に、高校生の頃から10人くらいと同棲経験がある、とコメントした。
- 大の犬好きであり、ゴールデン・レトリバーなどの大型犬を自宅内で数匹飼っていることで有名。しかし前述の通り、番犬にはなっていない様子。
- お笑い以外の番組やCMなどにほとんど出演しないことでも有名であったが、1997年あたりから徐々に他のバラエティ番組へゲスト出演をするようになった。ただし当初は素顔で出演するということが極端に少なく、ほとんどはコント用のかつらにメイクをした姿(変なおじさん、バカ殿等)での出演であった。これは、それまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。「自分自身の事を語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、2002年5月29日にOAされた『わたしはあきらめない』(NHK制作)で本人自身が語っている。しかし、その後ナインティナインやダウンタウンの番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔でトーク番組などにも出演するようになった。
- 2004年、『全員集合』コントで、いかりや長介に攻撃するシーンは「本気でやっていた」と加藤茶に暴露され、本人も認めた(他のメンバーも大同小異であった)。しかし、いかりやはお笑いに関しては完璧主義者だったため、いかりやがそれを求めていた可能性も高い。
- 日本だけでなく、台湾(『だいじょうぶだぁ』)、タイ(『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』)、インド(蚊取り線香のCM)でも知名度が高い。金城武が彼のファンであることは有名である。
- ドリフターズにおける担当はキーボード。過去のバンド演奏でキーボードを弾いている姿が見られる(しかし、高木は「ギターだった俺が荒井の担当だったキーボードになって、ギターしか弾けない志村がギター担当になった」と発言している。このことから、しばらくキーボードを担当していたが、すぐにギター担当になったとも考えられる)。
- 「学生時代、ビートルズの日本公演を観に行った際、その時の前座がドリフだったため、ドリフの付き人になる決心をした」(居作昌果の著書にも記述されている)という噂もあったが、彼が観に行った公演(1966年7月2日昼の部)にドリフは登場しておらず(ドリフの登場は6月30日・7月1日。同公演パンフレットにも明記されている)、単なる噂であったと後に語っている。 ちなみにその日のチケットは、苦労して手に入れたクラスメイトの女の子に「お前より俺の方がビートルズ好きだから!」と頼み込み、譲ってもらったものだった。
- ビートルズの日本公演を観に行った際、持参した一眼レフカメラで1枚のみ隠し撮りをしており、その写真をパネル化して、テレビ番組で公開したことがある。その写真によると、ジョン・レノンが丸いサングラスをかけており、7月2日公演と分かる。同日の公演は、音源・映像とも、一切公式に収録されていない。
- ドリフメンバーでは一番ジョン・レノンに顔が似ている。
- 弟子に「ジョーダンズ」の山崎まさやがいる。
- 日本中央競馬会に所属していた競走馬「アイーンベル」の馬主である(本名の志村康徳名義)。その馬のデビュー日に(ドリフの先輩であり、1981年に志村と共にノミ行為で摘発された)仲本工事がゲスト出演したグリーンチャンネルの番組『競馬場の達人』の収録のために競馬場を訪れており、来賓者席から応援していた。
- 『8時だョ!全員集合』の観客の名フレーズ「志村~、後ろ、後ろ」に関して、番組終了後の特番で「朝からリハーサルやってんだから言われなくてもわかってるんだよ」と述懐している。生放送中の観客席に向かっても言っていた事を特番で加藤茶に暴露される。
- ドリフのリーダーであり、志村の師匠でもあるいかりや長介とは一時期(1989年から1990年代始め頃)不仲と伝えられ、実際、この頃の『大爆笑』ではいかりやと絡むコントは無く、リハも撮りも別々に行われていたらしい。また、雑誌『Switch November 1991 特集・志村けん「笑う男」』誌上では「今のいかりやさんは面白いとは思わない。実際いかりやさんとは2年以上会っていないし…」と語っていた。また当時『ダウンタウンDX』にゲスト出演した加藤茶も、松本にメンバー同士で喧嘩することはないですか、との問いに「…と…(名前の部分はOAでは伏せられていた)は合わないみたい」と言っていた。しかし、いかりやが亡くなった時自宅へ真っ先に向かったのは、加藤茶の他に一番仲が悪いと言われてた志村だった。二人ともショックでしばらく動けなかったという。
- いかりやは弟子である志村が単独で活動・成功しているのが面白くないのではと言われていたが、著書の中で「志村をリーダーに第2のドリフを作って欲しい」としている事からも、近年はむしろコメディアンとしての志村の活躍を快く思っていたという見方が強い。いかりやの息子である浩一も著書で、「自分の見た限りでは、特に不仲を感じることはなかった」「父さんは『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を見ては『こういう方法があるのか』と関心を示していた」と述べている。
- タモリとの共演が少ない。かつて『笑っていいとも!』のテレホンショッキングのゲストとして出演した桑野信義が志村をゲストとして呼ぼうとしたが、「俺、明日ゴルフだから」と断った(それから約10年後、作家の嵐山光三郎の紹介で初めて出演した)。他に、研ナオコとともにけん♀♂けんのユニットを組んだときもゲスト出演している。また、『ジャングルTV~タモリの法則~』にゲスト出演したが、お互いあまり話さなかった。関西ローカルの深夜番組に出演した際、「あの人(タモリ)の笑いはあまり好きじゃない」と語っていた。その後、『ミュージックステーション』にてゲストとしてミニモニ。と共に出演をした際にはタモリに質問されたり、Gacktに何回も振り向かれていた。
- 「あなたは神様ですか?」「とんでもねえ、あたしゃ神様だよ」というギャグは、アメリカの小説『競売ナンバー49の叫び』の養老院のシーンからの引用、という説がある。
- 加藤の話によると、いかりや健在時ドリフの再集合の話が持ち上がるとたびたび嫌がったという。理由としては、いかりやとの不仲説、単独で他のドリフメンバーを遙かに凌ぐ人気と活躍をしながら、ドリフのメンバーに戻れば一番下扱いされることが不満であったと言われる。加藤も「志村がなかなか再集合したがらないんですよ」と言っていた(これが加藤のネタなのかどうかは定かではない)。
- 太地喜和子は、彼の熱心なファンであった。志村の著書によると、若い劇団員に対し、「ね。志村さんのお婆さんは本物に見えるでしょ。先ずは、そう見えるかどうかが大事なのよ。」と言ってくれたという。言われた志村も本当に嬉しかったらしい。しかし、共にシャイな二人が素のままで会ったことはなく、酒が入った状態で会うことが常だったという。
- 『バカ殿』では、本名の志村康徳で構成も担当している。
- コントの勉強のため、かなりの映画を見ている。一時期は「家の床が抜け落ちるくらい映画のビデオテープを買っていた」という。
- 音楽にも造詣が深い。
- ヒゲダンスで使用されたBGMはテディ・ペンダーグラスの『Do Me』のベースラインをサンプリングしたものだが、これは当時ソウル・ミュージックを好んで聴いていた志村が探し出して推薦したものである。
- 本人談によれば、初期のジェリー・リー・ルイスに強い影響を受けたとの事。また、かつて音楽誌『jam』でソウル・アルバムのレビューを書いていたこともある。
- 2007年1月23日放送の『ロンドンハーツ』(テレビ朝日)にて、ロンドンブーツ1号2号の田村淳に「初体験は何時?」と話題を振られ「16歳」と答えた。
- 都立久留米高校のサッカー部にゴールキーパー(レギュラーだったのか補欠だったのかは不明)として在籍。数年後、このサッカー部には後に日本代表選手として活躍する中村憲剛が入部し、話題を呼ぶ。またこのサッカー部は、都立清瀬東高校と合併して東京都立東久留米総合高等学校(仮称)という名前に変わる前、第85回全国高等学校サッカー選手権大会東京都予選グループB決勝にて東海大学菅生高等学校と対決した際、前後半とも粘りロスタイムにカウンターゴールを決め、1対0で東海大菅生に競り勝ち14年ぶり2回目の全国出場の切符を掴み取るという強豪ぶりを発揮した実力派集団であった。
[編集] 出身地東村山市への貢献
- 志村はプライベートで東村山市及び自身の実家に帰ることはほとんどないというが、「東村山音頭」以来地元への貢献は絶大であり、現在に至るまで人気・評価とも極めて高い。
- 東村山ネタで人気が出始めた頃、地元における志村バックアップの動きは元祖「東村山音頭」を企画した東村山市農協が中心であった。その後東村山ネタが全国的なブームになり、東村山市自体も注目を集めるようになったことから、市民をあげて応援するようになっていった。
- 1976年、「東村山市の知名度を高めた」功績が認められ、当時の東村山市長熊木令治から感謝状を貰った。当初志村の東村山ネタについて、市議会議員や教育関係者の中には眉をひそめる向きもあったが、市長から感謝状を贈られたことにより、地元での肯定的な評価が確定した。なお東村山市に名誉市民制度が無かったため最終的には実現しなかったが、名誉市民とする意見も事実出ていた。これに対しいかりやが「東村山非国民」というギャグを使用して笑いを取っていた。なお、この時に西武鉄道東村山駅東口に感謝状授与記念と志村への激励の証としてケヤキが植えられ、通称「志村けんの木」と呼ばれている。
- 1995年、東村山市商工会が主催した西武鉄道東村山駅開業百周年記念イベントで司会を務める。駅前広場に立つ「東村山停車場の碑」前で開かれた式典の後の小規模な催しであったが、東村山市役所に勤務する長兄の紹介で出演が実現した。参加者は志村の思わぬ帰郷に大喜びであったという。
- 東村山市商工会は志村けんにちなみ会の愛称を「あい~ん」にしている。
- 市内の和菓子店「餅萬」(社長が志村の小学校時代の同級生)では志村けんにちなむ「だいじょぶだぁ饅頭」「だいじょぶだぁどら焼き」「だっふんだぁ饅頭」「だっふんだぁどら焼き」を「東村山名物」で販売している。
[編集] 志村けんのギャグ
[編集] 8時だョ!全員集合、ドリフ大爆笑の時代
- 東村山音頭
- カーラースー、なぜ鳴くのー、カラスの勝手でしょー(童謡『七つの子』の替え歌)
- 当初は少年少女合唱団のコーナーで披露されたが、好評を博したため、冒頭のコント内で披露される。突然カラスの操演物(可動式のぬいぐるみ)が登場し、鳴き声を発するのを合図に歌われる。
- 童謡『ぞうさん』の替え歌
- 「かあさん」の部分を男性器の幼児語に変えて歌おうとするが、途中でいかりやにどつかれてしまう。その後「そうよ、短けりゃ、ブタなのよ」という、下ネタでないバリエーションに改められる。
- 赤い靴、履いてたら脱げた(童謡『赤い靴』の替え歌)
- おこっちゃヤーヨ!
- この時の腕のポーズが、後の「アイーン」に影響している。
- ディスコ婆ちゃん
- 1970年代のディスコソング風BGMに乗って激しく踊る。合間にしきりに「あ~ぁ」「ゲェッ!」「サンキューベイベー」と喚く。
- キョーデー・ナンデー
- 加藤茶とのコンビ。お互いを「キョーデー」(兄弟)・「ナンデー」(何だい)と呼び合い、ヤン坊マー坊天気予報の替え歌を歌い始める。「小さなものから~」のところでお互いの股間を指し合うが、途中で2人ともいかりやにどつかれてオチがつく。
- 「俺達○○するかなぁ?」「分かりません」「ピッカピッカの~、一年生、ビシッ!」(加藤茶とのペア)
- 「5秒前!、4、3、2、1」「デーン」「ビシッ!」(加藤茶とのペア)
- ジャンケン決闘
- 「最初はグー」で始まるジャンケン。仲本工事とのペア。後に「最初はグー、またまたグー(または「お次はチョキ」)、いかりやチョー介、頭がパー、正義は勝つ!」になった。最後の「勝つ」の部分はグーを出す。なお、本人および加藤茶によると、「最初はグー」のじゃんけんは、じゃんけんする人数が多すぎる場合にタイミングを合わせるべく、「全員集合」の現場で始まったとのことである。尚これにより多くのジャンケン掛け声の第一声が「最初はグー」で統一されたとか。
- ヒゲダンス
- 私って駄目な女ね
- 桜田淳子との夫婦コント。「全員集合」の後半戦で、桜田がゲスト出演するたび毎回のように披露された。何をやっても駄目な新妻・桜田を、夫・志村が事細かく徹底的に叱りまくり、叱られるたび桜田が「私って駄目な女ね。あなたの妻でいる資格なんてないわ」と泣き崩れる。その度志村がなだめて桜田をおだて、桜田が愛される幸せをかみしめる…というパターンを何度か繰り返す。ところが志村の背広のポケットから“おさわりバー・百恵”という文字の入ったマッチが出てきて(“百恵”は山口百恵のこと。桜田と同じ花の中三トリオで親友かつライバル)、逆に桜田が志村を徹底的に糾弾。志村が「私って駄目な男ね」と泣き崩れてオチがつく。パターン踏襲スタイルの古典的なコントではあるものの、志村と桜田のキャラクターと演技力が余りにも秀逸で、BGMや照明などの舞台効果も高度に計算されているため、何度見ても笑えると評判になった。桜田の演技力やカンの良さには定評があり、こういったショートコントでも名女優ぶりを見せていた。また、このコントは子供に人気があり、このコントを見るがために舞台に足を運ぶ人も沢山いた。
- お食事タイプライター
- 上記の夫婦コントの中などでも度々行われていたギャグ。食事の前に「何かいい音楽ないの?」志村が切り出し、相方がテープレコーダーのスイッチを入れると、ルロイ・アンダーソンの楽曲『タイプライター』が流れてくる。最初は普通に食べているが、余りのテンポの速さにせわしない食べ方になってしまい、「チーン、サッ」の音とともに素早くカメラ目線をしては元に戻るという動作を繰り返す。最後には「やめろよ! 落ち着いて食事ができないじゃないか!」と志村が切れてオチがつくというもの。
- バカ殿様
- 志村、後ろ!
- 志村の後ろにお化け等もしくはいかりやが出てきて志村が気づいていないときに観客(主に子供)が叫ぶ。志村が能動的に行うギャグではなく、観客の偶発的なリアクションだが、同種のコントを披露するたび「志村、後ろ後ろ!」と声が飛んでいた。
- お前、それはないだろう
- 地位が上のいかりやの横暴にじっと平伏しているが、途中でいきなり強気で反論し始める。現在で言う“逆ギレ”。
- 勝手にシンドバット
- 沢田研二の『勝手にしやがれ』とピンク・レディーの『渚のシンドバット』の音をコラージュし、音に合わせて両方の振り付けで踊るが、どんどん滅茶苦茶になっていく。ちなみにサザンオールスターズのデビュー曲はこれがヒントになっている。
- ジュディ・オングの『魅せられて』の物まね
- 例の真っ白な衣装にバックライトが当たり志村のゴツゴツした体型がシルエットになって浮かび上がる。
- 宮崎美子のミノルタのCMの物まね
- ♪今の君はピカピカに光って~。腹の肉をつかんで「宮崎美子!」。仲本や加藤が背景の木を持って補助。
- ジャイアント馬場の物まね
- 「オッポー!」。「ポー」にアクセント。アントニオ猪木のまねで「なんだ、この野郎!」と叫ぶこともあった。
- マダム・ヤン
- 「○○ちゃーん(アイドルの名前)、マダム・ヤーン♪」と歌いながら、奇妙な手つきでからむギャグ。1982年にハウス食品より発売されたインスタントラーメン、「楊夫人」(マダム・ヤン)のCMソングをモチーフにしたもの。
- アー・ミー・マー
- 英語の一人称変格 I・MY・ME からとったもの。それを志村が好きなビートルズの曲"I Me Mine"にヒントを得て変化させたもの。学校コントの英語授業で、いかりやが志村を指名して変格を言わせる際のお決まりとなっていた。以後、ユー・ユア・ヨー(YOU・YOUR・YOU)、ヒズ・ヒム・ヒー(HE・HIS・HIM)、シー・ハッ・ハー(SHE・HER・HER)と続き、シー・ハッ・ハーの時は一段と声を荒げ、おかしな顔をして笑いをとる。
[編集] 加トちゃんケンちゃん、だいじょうぶだぁ以降
- だいじょうぶだぁー、ウェ、ウェ、ウェ
- だっふんだ
- 変なおじさんがコントのオチで言うセリフ。桂枝雀の落語に出てきた「偉い人のくしゃみ」が「だっふんだ」に聞えたのがきっかけ。
- アイーン
- じいさんや、ばあさんや(田代まさしとのコンビ)
- ご、ご、ご、5時!?(いしのようことのコンビ)
- しょうゆ、ラー油、アイラブユー。仲直り!(いしのようことのコンビ)
- ウンジャラゲ(クレージー・キャッツのリカバー)
- ひとみばあさん(メガネをかけた手の震えるばあさんひとみさん。「ひとみと申します。ひぃちゃんと呼んでください」)
- いいよなおじさん(「○○はいいよなぁー」と言って、勝手に人のものを食べたりするが、何故か憎めない)
- いえいえおじさん(小心者で「いえいえ…」と遠慮するが、結果的にヤクザを退治したり、トラブルを解決してしまう。本人は、割と気に入っていたキャラだったそうだが、活躍の場面は限られたそうだった。)
- 「アイーンダヨ!」「イインダヨ!」「グリーンダヨ!」
- キリンの「淡麗グリーンラベル」のCMより。元々はドリフを連想させる外国人タレントによるCMだったが、「本家」の志村が後に合流した。
加トちゃんケンちゃん時代に、「ケンちゃんラーメン」が販売されていたが、CMは撮り直しこそするものの、いつも「ケンちゃんラーメン新発売!」だったため、発売後約8年間もの長きにわたって「新発売」と言われていた。
[編集] 志村けん一座
「理想のお笑い」を追求すべく、2006年4月から東京芸術劇場を振り出しに公演を開始する。第1弾は「志村魂(しむらこん)」と銘打って、前半は「バカ殿様」とコント1本、後半は藤山寛美の作品『一姫二太郎三かぼちゃ』をラサール石井がリメイクした舞台となっている。なお、「バカ殿様」の爺役は地井武男が務める。
- 主な参加タレント
- 主な参加スタッフ
- ラサール石井
- ケラリーノ・サンドロヴィッチ
- 妹尾匡夫
- 朝長浩之
- その他
[編集] 出演
この節では志村自身の出演作品を記述する。
- ザ・ドリフターズとしての出演は、「ザ・ドリフターズ」を参照のこと。
[編集] テレビ
- 志村けんのだいじょうぶだぁII(フジテレビ、水曜日25:08~25:38放送)
- 志村けんのバカ殿様(フジテレビ、不定期で放送)
- 天才!志村どうぶつ園(日本テレビ、木曜日19:00~19:54放送)
- 志村&所の戦うお正月(朝日放送・テレビ朝日、毎年1月1日午後放送)
- 志村けんの南国美女探し(テレビ朝日)シリーズ特番
- 志村けんの激ウマ列島(テレビ朝日)シリーズ特番
- 志村&鶴瓶のあぶない交遊録(テレビ朝日、毎年正月放送)
- 愛のエプロン(テレビ朝日、水曜日19:00~19:54放送) - 準レギュラー
- ダウンタウンDX(日本テレビ) - 不定期出演
[編集] 以前の出演番組
- ぎんぎら!ボンボン!(日本テレビ)
- シャボン玉ボンボン(日本テレビ)
- 志村けんの失礼しまぁーす!(日本テレビ)
- 加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ(TBS)
- KATO&KENテレビバスターズ(TBS)
- 志村けんのだいじょうぶだぁ(フジテレビ)
- 志村けんはいかがでしょう(フジテレビ)
- 志村けんのオレがナニしたのヨ?(フジテレビ)
- けんちゃんのオーマイゴッド(フジテレビ)
- 志村"X"(フジテレビ)
- 志村XYZ(フジテレビ)
- 志村X天国(フジテレビ)
- 変なおじさんTV(フジテレビ)
- 志村流(フジテレビ)
- 志村塾(フジテレビ)
- 志村通
- 神出鬼没!タケシムケン(テレビ朝日)
- 集まれ!ナンデモ笑学校(テレビ東京)
- 発掘!あるある大事典II(関西テレビ)
[編集] ラジオ
- 志村けんのFIRST STAGE~はじめの一歩~(JFN)
- 志村けん&中山秀征のい~んでないの?!(TBSラジオ、終了)
- 沢田研二・志村けんのジュリけん(2001年10月6日 - 2003年3月30日、文化放送)
[編集] 映画
[編集] テレビCM
- パンシロン胃腸内服液(ロート製薬、加藤茶と共演、1984年 - 1985年)
- アースノーマット(アース製薬、1987年 - 1989年)
- ダニアース(アース製薬)
- PCエンジンソフト カトちゃんケンちゃん(加藤茶と共演、ハドソン、1987年)
- フルーツ村(カゴメ)
- あっさり焼肉(カゴメ)
- サッポロボーイ ケンちゃんラーメン(サンヨー食品)
- ツインインバーターエアコン、ツインロータリーエアコン(東芝、1990年)
- ビタシーゴールド(常盤薬品工業、1999年)
- SANKYO(2000年 - 2002年)
- カール(明治製菓、2001年)
- 明治アーモンドチョコ(明治製菓、米倉涼子と共演、2002年)
- アースジェット(アース製薬、2002年 - )
- 日本アジア航空(金城武と共演、2000年 - )
- アリコジャパン(高木ブーと共演)
- ペティオ(ヤマヒサ)
- プチシルマ(レダ、研ナオコと共演、2005年 - )
- 麒麟淡麗グリーンラベル 『ホームランダヨ篇』 『ピクニックダヨ篇』 (キリンビール、2006年)
[編集] CD・レコード
- 東村山音頭(1976年)
- ウンジャラゲ(1988年、植木等が1969年にリリースした曲のカバー)
- けん&マーシー「婆様と爺様のセレナーデ」(1993年、田代まさしとデュエット、『志村けんのだいじょうぶだぁ』発のユニット)
- けん♀♂けん「銀座あたりでギン!ギン!ギン!」(2001年、研ナオコとデュエット、つんくプロデュース)
- バカ殿様とミニモニ姫。「アイ~ン体操/アイ~ン!ダンスの唄」(ミニモニ。と共演、2002年)
- パラパラ東村山音頭(2002年頃、東村山市内限定販売)
[編集] ゲーム
- ハイパーオリンピック殿様版(ファミリーコンピュータ、コナミ、1985年、8時だョ!全員集合のバカ殿様コントで使用されたものが後に市販された)
- カトちゃんケンちゃん(PCエンジン、ハドソン、1987年、加藤茶と共演)
- バカ殿麻雀漫遊記(ネオジオ、モノリス、1991年12月20日)
- 志村けんのバカ殿様 爆笑天下統一ゲーム(ゲームボーイアドバンス、TDKコア、2002年12月6日)
[編集] エッセイなど
- 変なおじさん(日経BP社)
- 変なおじさんリタ~ンズ(日経BP社)
- 志村流 金・ビジネス・人生成功の哲学(マガジンハウス)
- 志村流 遊び術(マガジンハウス)
- 志村けん わたしはあきらめない(KTC中央出版)
- これでカラダだいじょうぶだぁ!~志村けんのズボラ健康塾(アスコム)
[編集] 漫画
- わ~お!ケンちゃん 竹村よしひこ(小学館コロコロコミックス)全6巻(1991年 - 1995年)
[編集] その他
[編集] 関連項目
[編集] ザ・ドリフターズ
[編集] その他
[編集] 番組出演では
- 堺正章(発掘!あるある大事典II)
- 笑福亭鶴瓶(志村&鶴瓶のあぶない交遊録)
- 地井武男(志村けんのバカ殿様)
- 所ジョージ(志村&所の戦うお正月)
- 優香(志村けんのバカ殿様)
[編集] 外部リンク
- 志村けんプロフィール(イザワオフィスサイト内)
- 志村けんオフィシャルサイト
- ken's blog 志村けん公式ブログ
- 東村山市商工会 - 愛称「あい~ん」
- 和菓子処餅萬 - 東村山名物「だいじょぶだァー饅頭」を販売
ザ・ドリフターズ | |
現メンバー: | 加藤茶・高木ブー・仲本工事・志村けん |
元・新生ドリフメンバー: | いかりや長介・荒井注・すわ親治 |
所属レコード会社: | 東芝EMI |
所属事務所: | イザワオフィス・渡辺プロダクション |
渡辺プロダクション3大タレント | |
ハナ肇とクレージーキャッツ(1955年 - 1993年): | ハナ肇(リーダー)・植木等・谷啓・犬塚弘・安田伸・石橋エータロー(1971年脱退)・桜井センリ(1960年加入) |
ザ・ドリフターズ(1964年 - 活動中): | いかりや長介(リーダー)・高木ブー・仲本工事・加藤茶・志村けん(1974年加入)・荒井注(1974年脱退) |
ザ・ピーナッツ(1959年 - 1975年): | 伊藤エミ(姉・ハーモニー)・伊藤ユミ(妹・メロディー) |