斉藤和巳
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斉藤 和巳(さいとう かずみ、男性、 1977年11月30日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)である。1996年から1999年までの登録名はカズミ。
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[編集] 概要
- 身長・体重:192cm、96kg
- 投打:右投右打
- 出身地:京都府京都市
- 血液型:B型
- 球歴・入団経緯:南京都高 - ダイエー・ソフトバンク(1996年~)
- プロ入り年度・ドラフト順位:1995年・1位
- 背番号:66
- 英語表記:K.SAITOH(カズミ時代は「KAZUMI」、2000年9月に行われた試合にも「KAZUMI」のユニフォームを着用したことがある。)
- 推定年俸:2億5000万円(2007年度)
- 守備位置:投手
- 2006年シーズン終了時点で通算73勝20敗、驚異的な勝率(.785)を誇る日本を代表する先発投手である。これは沢村賞の由来となった沢村栄治の通算勝率(.741)を超えている。
- MAX152km/hの角度のある直球とカーブ、スライダー、2種類のフォークが武器の不動のエース。190cmを超える長身であるが、長身の投手としては珍しく、上から投げ下ろさずに前に大きく踏み込んで投げるタイプである。決め球の高速フォークはMAX146km/hというハイスピードで落ちる。
- 和田毅、新垣渚、杉内俊哉と共にホークス先発4本柱を構成するが、年長者であり実績面でも精神面でも一歩抜きん出ている斉藤はその筆頭とされており、信頼も厚い。
- 常にチームの勝利を優先し、そのために野手との距離を縮めようとコミュニケーションを取ったり、試合では打者のことを考えテンポ良く投げ込むことを意識するという。また気迫を全面に出し、不調による途中降板やチーム敗退時に悔しさからベンチにグローブを叩きつけたり、勝負どころを抑えると雄たけびをあげガッツポーズを何度も繰り出したりする姿がよく見られる。
[編集] 来歴
[編集] 入団~下積み時代
南京都高から1995年のドラフト1位でダイエーホークス(当時)に入団。2年目の1997年に一軍初登板を果たすが、ルーズショルダー(肩関節不安定症)のため故障も多く伸び悩み、一時は球団から打者転向を打診された。二軍戦では実際に代打で打席に立ったこともある。しかし投手にこだわり転向を固辞。その後も1998年に右肩手術し長期離脱。2000年にプロ初勝利を含む5勝を挙げたが、2001年には再び右肩痛で戦線離脱し勝利を挙げられなかった。
2002年シーズン終盤、先発に定着し4勝をあげると、王貞治監督からエースに指名された。
[編集] エース時代
[編集] 2003年
2003年3月28日、対ロッテ戦において初の開幕投手を勝利で飾る。ノーアウト満塁からでも三者連続三振で切り抜けるなど粘り強い投球でプロ野球新記録となる先発登板16連勝を記録するなど20勝3敗の好成績で最多勝、最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン、沢村賞のタイトルを獲得。この年は同じく20勝をあげてリーグ優勝に貢献した阪神タイガースの井川慶も沢村賞に選出され、史上初めてセ・パ両リーグから同時に沢村賞投手が誕生した。また、防御率は2.83で投球回、自責点とも松坂大輔(西武)と全く同じ、こちらも史上初の最優秀防御率2人同時受賞となった。なお、パ・リーグの20勝は1985年佐藤義則(阪急)以来の快挙。セ・パ両リーグから20勝投手が出たのは1982年の北別府学(広島)、工藤幹夫(日本ハム)以来のことである。前年まで通算わずか9勝ながら、エースとして精神的にも大きく成長。杉内俊哉、和田毅、新垣渚ら若手の多い投手陣をまとめ上げた。チームはこの先発陣に強力打線を武器にリーグ優勝、日本一に輝いた。
[編集] 2004年
2年連続の開幕投手となったが、前年から一転して不調。苦しみながらもなんとか10勝はあげたが、防御率6.26は規定投球回に達した投手の中ではプロ野球史上最悪という不名誉な記録を作ってしまった。
[編集] 2005年
キャンプ中に既に開幕投手に指名されていたものの開幕直前に右肩痛で離脱。開幕投手を和田毅に譲った。開幕から1ヵ月遅れて4月27日の日本ハム戦(札幌ドーム)に初登板し、7回と2/3を1失点に抑え初勝利。ここから破竹の連勝を続け、8月24日の千葉ロッテ戦(千葉マリン)で自身二度目の14連勝を達成。プロ野球史上初めて14連勝以上を複数回達成した投手となった。8月31日の千葉ロッテ戦(ヤフードーム)では7回と1/3を3失点に抑え15勝目。1981年の間柴茂有(日本ハム)以来となる開幕15連勝の日本タイ記録となった。9月7日のオリックス戦(大阪ドーム)で日本記録の更新を狙ったが、勝利投手の権利がかかる5回裏に5点リードを追いつかれた。ここで降板していれば勝ち負けがつかず、次回に記録を持ち越すこともできたが続投。しかしこれが裏目に出て、6回裏にオリックスに勝ち越し点を許した。その後中継ぎも打ち込まれ6-13で大敗し、連勝がついに途絶えてしまった。しかしシーズンを通してこれが唯一の敗戦となり、16勝1敗で2度目の最高勝率のタイトルを獲得。12月24日の契約交渉の際にホークス投手陣初の複数年となる3年7億5000万円+出来高で契約。
[編集] 2006年
この年から二段モーションの規制が厳しくなり、さらに城島健司、トニー・バティスタの退団による打線の弱体化もあり苦戦が予想されたが、WBCの選考から外れ調整に努めた甲斐もありモーションの途中で停止しない新しい投球フォームをマスター。3度目の開幕投手となった3月26日の対ロッテ戦を勝利で飾った。
その後も順調に勝ち星を重ね、5月26日の中日戦(ヤフードーム)で、2005年5月11日の広島戦(ヤフードーム)以来の完封勝利。同時に交流戦で対戦した他リーグ(斉藤の場合はセ・リーグ)全球団から勝利した投手第1号となった。さらに6月8日の巨人戦(ヤフードーム)では、脇谷亮太に投手内野安打を許したのみの自身初の無四球1安打完封勝利。しかも脇谷を牽制でアウトにしたため打者27人で終了させる準完全試合(ワンヒッター)を達成。王監督に「野球の神様が降臨しているようだった」と言わしめた。交流戦にはめっぽう強く、2年間の交流戦通算成績は12試合に登板して10勝1敗、防御率1.89である。
レギュラーシーズンでチームは3位に終わったが、斉藤は勝利数、防御率、奪三振、勝率の主要四冠を制覇。完投数こそ松坂大輔(西武)に及ばなかったものの、完封数もリーグトップで1981年江川卓以来となる投手五冠を達成した。2度目のベストナインに選ばれ、MVP投票でも1位票では受賞した小笠原道大を上回った。ちなみに、防御率1.75はパ・リーグでは1992年の赤堀元之(近鉄)、石井丈裕(西武)以来14年ぶりの1点台。この年は黒田博樹(広島)も防御率1.85を記録し、セ・パ両リーグから防御率1点台の投手が出たのは1969年江夏豊(阪神)、木樽正明(ロッテ)以来37年ぶりのこととなった。
この年の終盤の斉藤・松坂によるタイトル争いは非常に熾烈で、勝利数では常に斉藤と1勝差で松坂がいて、防御率でも2人とも1点台を維持、特に奪三振数は両者が登板する度に順位が入れ替わっていた。
プレーオフでは、10月7日の西武との第1ステージ1回戦で松坂との熾烈な投げ合いとなり8回4安打1失点と好投したが、打線が松坂に完封を喫する。チームはその後連勝して西武を下すものの、北海道日本ハムファイターズとの第2ステージ初戦に敗れ、1勝のアドバンテージを持つ日本ハムに王手をかけられてしまう。後がないチームのために自ら志願し10月12日の第2ステージ第2戦に2000年以来となる中4日登板。8回まで2塁すら踏ませない投球を見せたが、またも打線の援護がない。
0-0で迎えた9回裏2アウト1・2塁、カウント・ノーストライク1ボールから稲葉篤紀に安打性の当たりを打たれる。セカンド・仲澤が追いつくが、2塁への送球が逸れてセーフとなり、2塁内野安打となってしまう。送球を受けたショート・川崎が体勢を崩している間に二塁走者・森本稀哲が生還。結局サヨナラ負けとなってしまい、鬼神のような投球も遂に報われることはなかった。一連の出来事をマウンドから見ていた斉藤は、25年ぶりの優勝に沸く日本ハムナインの横で糸が切れたように崩れ落ち、マウンドを動けず号泣。そのままズレータとカブレラに両脇を抱きかかえられてベンチに戻っていった。その一部始終をテレビ中継の解説で見ていた千葉ロッテ・里崎智也は「捕手としては辛い、同じチームメイトだったら声もかけようがない」と表現している。試合後の記者会見では「今年に限って言えば日本ハムの方が(我々より)強かった」とエースらしく勝者を称えた。結局2試合で16回2/3に2失点(防御率1.08)という内容ながら1点の援護ももらえず、またもポストシーズンでの勝ち星はお預けとなった。ここまでポストシーズン(日本シリーズ・プレーオフ)では9試合に登板し未勝利である(0勝5敗 防御率3.45)。
沢村賞審査委員の満場一致で2度目の沢村賞に選ばれ、パ・リーグで初めて沢村賞を複数回獲得した投手となった。なお完投数以外の審査項目をすべて満たしており、その完投数もポストシーズン(プレーオフ)での2完投を考慮すれば2桁に届くので、事実上すべての項目を満たしたともいえる。近年では投手分業と中6日先発の遵守に加え打高投低の傾向もあり、沢村賞の審査項目ひとつひとつが大きな難関となっており、すべての項目を満たして受賞したのは1993年の今中慎二(中日)が最後である。
2006年日米野球出場選手選考のためのファン投票(先発投手部門)において、松坂大輔(西武)に次いで2位だった。監督推薦で出場予定であったが、右肩の炎症のために辞退した。
[編集] 通算成績(2006年シーズン終了時点)
- 138試合 73勝 20敗 881.1投球回 防御率3.59 奪三振775
太字はリーグ最優秀成績
年度 | 試合 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗北 | 勝率 | 打者 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 四球 | 死球 | 奪三振 | 失点 | 自責 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | --.-- | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | --.-- |
1997 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 6 | 2/3 | 2 | 0 | 1 | 1 | 1 | 2 | 2 | 27.00 |
1998 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 19 | 3 2/3 | 6 | 0 | 3 | 1 | 1 | 3 | 3 | 7.36 |
1999 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 6 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 3 | 2 | 2 | 18.00 |
2000 | 22 | 0 | 0 | 5 | 2 | .714 | 399 | 89 1/3 | 92 | 9 | 46 | 1 | 77 | 44 | 41 | 4.13 |
2001 | 7 | 1 | 0 | 0 | 1 | .000 | 104 | 22 1/3 | 28 | 4 | 11 | 1 | 16 | 11 | 11 | 4.43 |
2002 | 10 | 0 | 0 | 4 | 1 | .800 | 282 | 70 1/3 | 53 | 4 | 21 | 3 | 63 | 24 | 23 | 2.94 |
2003 | 26 | 5 | 1 | 20 | 3 | .870 | 801 | 194 | 174 | 19 | 66 | 8 | 160 | 62 | 61 | 2.83 |
2004 | 22 | 3 | 1 | 10 | 7 | .588 | 612 | 138 | 139 | 22 | 59 | 6 | 120 | 100 | 96 | 6.26 |
2005 | 22 | 4 | 1 | 16 | 1 | .941 | 636 | 157 0/3 | 135 | 14 | 41 | 10 | 129 | 54 | 51 | 2.92 |
2006 | 26 | 8 | 5 | 18 | 5 | .783 | 790 | 201 | 147 | 10 | 46 | 8 | 205 | 50 | 39 | 1.75 |
通算 | 138 | 21 | 8 | 73 | 20 | .785 | 3645 | 881 1/3 | 777 | 82 | 294 | 40 | 775 | 352 | 329 | 3.38 |
[編集] タイトル・表彰
- 最多勝(2003年、2006年)
- 最優秀防御率(2003年、2006年)
- 最優秀投手(旧最高勝率)(2003年、2005年、2006年)
- 最多奪三振 (2006年)
- 沢村賞(2003年、2006年)
- ベストナイン(2003年、2006年)
- 最優秀バッテリー賞(城島健司と2003年、的場直樹と2006年)
[編集] エピソード
- ドラフト1位入団で、エースと呼ばれ主力投手であるが背番号は入団以来66のままである。これは入団当初、根本陸夫専務(当時)から「1軍で活躍して背番号が軽くなるように頑張れ」と言われたことが大きく影響しており、本人も愛着がある。また、怪我のために二軍でくすぶっていたころから、妻(※当時。この女性とは2001年結婚・2006年離婚)とともに自分を支えてくれていた彼女の祖父(故人)のためでもある。葬儀の際に背番号66のユニフォームを着せてあげたことから、「背番号を変えたら天国から見ているじいちゃんが俺だと分からなくなる」という理由で背番号を変えないのだという。
- 的場直樹とはプロ入り前から面識があり、斉藤がホークスに入団内定する頃に球を受けていたという。それ以降二人には奇妙とも言える縁があり、斉藤のプロ初勝利の時の捕手が的場であり、二人が怪我をした時のリハビリ期間も一緒であった。ちなみに斉藤は、雑誌の的場との対談企画で当時を振り返り、的場がホークスに入ると決まった時、「(当時、城島健司がいたため)よう来たなぁ、どうすんねん。こいつ、運悪いなぁ。」と思ったが、「この悪い運をこの縁で何とかしてやろうと思った。」と発言している。
- 2006年、城島がFA退団し的場が新正捕手の最右翼だったが、特に中盤以降山崎勝己の台頭で的場は先発を外れることが多くなった。しかし斉藤は自分の先発する試合に的場を指名した。これはお互い2軍でくすぶっていた時代からの気心知れた仲であり、深く信頼しあっているということがあると思われる。また、エースに成長した斉藤が的場の正捕手定着を期待しているということも伺える。斉藤のめざましい活躍もあり、斉藤・的場は最優秀バッテリー賞に選ばれた。
- 2006年夏、フライデーに当時の妻とは異なる女性とのツーショット写真が掲載される。8月に正式に離婚が成立するが、11月発売の週刊ポストには元妻と娘に対して不誠実とする内容の記事が発表された。その中で、離婚は斉藤からの申し出であると球団が認めた。
[編集] 今後の展望
- 斉藤は2006年シーズン終了時点で138試合登板で73勝している。現在の充実ぶりを考えれば2008年シーズンには通算100勝を達成することも可能で、松坂大輔・上原浩治が持つドラフト制度導入後での最速100勝記録(191試合)を更新することが期待されている。
[編集] CM
- ソフトバンクモバイル「ホワイトプラン」 『ホワイト・バット篇』、『ホワイト・身長篇』 (2007年1月~)
- ソフトバンクモバイル「911SH」、「911T」 (2007年3月17日~)
- 川﨑宗則、的場直樹と共演
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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89 監督 王貞治 | 80 秋山幸二 | 88 森脇浩司 | 81 新井宏昌 | 85 杉本正 | 82 高山郁夫 | 84 大石友好 | 87 井出竜也 | 92 山川周一 | 76 二軍監督 石渡茂 | 71 鳥越裕介 | 79 五十嵐章人 | 75 山村善則 | 77 藤田学 | 74 岩木哲 | 95 川村隆史 |