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多村 仁(たむら ひとし、1977年3月28日 - )は福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(外野手)である。
[編集] プロフィール
- 出身地:神奈川県厚木市
- 身長/体重:180cm/77kg
- 血液型:B型
- 投打:右投右打
- 球歴:横浜高-横浜(1995年 - 2006年)- ソフトバンク(2007年-)
- 指名順位/年度:4位/1994年
- 背番号:6
- 英語表記:TAMURA
- 推定年俸:9200万
- 守備位置:外野手
- 通称 - タム(一般)、スペランカー、スペ(ネット上)
- 強くてやわらかいリストを活かして広角に打ち分ける本塁打が最大の魅力の長距離ヒッターである。故障は多いが、プロ野球界でもきっての身体能力の高さを誇り、広い守備範囲と強肩にも定評がある。
[編集] 来歴・人物
[編集] 略歴
- 横浜高時代は斉藤宜之、紀田彰一とクリーンアップを組み3年生の春夏連続(1994年)で甲子園に出場。ちなみに夏の県大会決勝戦で勝ちを決めた直後、センターからベンチに駆け戻る途中で足がつってしまい、結局校歌を歌えなかったという逸話がある。
- 1995年 - ドラフト4位で横浜に入団。もともと打力より守備や走力が期待されていた。
- 1997年 - このシーズンの開幕ゲームとなる、4月4日の対中日戦で公式戦初出場。この試合はナゴヤドーム初の公式戦で、多村は7回表に横浜の開幕投手・盛田幸妃の代打として登場。山本昌と対戦したプロ初打席は外野フライに終わった。4日後の4月8日には、対阪神戦で田村勤投手から初安打を放った。オフに1年目から痛めていた右肩を手術。
- 1998年 - 右肩リハビリのため1年を棒に振る。一・二軍とも試合出場なし。翌年も二軍のみ出場。
- 2000年 - 主に代打、途中出場で一軍定着、84試合出場で打率.257、7本塁打。
- 2003年 - 91試合の出場で打率.293、18本塁打、46打点と開花の兆しが見えだす。
- 2004年 - 初めて開幕レギュラーの座をつかむと、一気に開眼。強靭なリストを生かした打撃でホームランを量産し、8月15日に横浜・大洋通じて日本人打者として田代富雄以来23年ぶりとなる30本塁打を達成。10月6日には日本人打者として球団初の40本塁打を達成した。3割・40本・100打点は球団初の記録。
- 2005年 - 打率、本塁打共にリーグトップにたっていたが6月22日に腰痛で登録抹消。登録抹消期間の10日間で一軍復帰する筈だったが、6月29日、自ら車を運転してベイスターズ総合練習場での二軍練習に向かう際、横浜横須賀道路の朝比奈IC付近でスリップして防音壁に激突するという事故(単独)を起こし、車は大破して多村も検査入院した。シーズンを通しては好成績を収めるも、交通事故による欠場への懲戒的措置として現状維持での契約更改を余儀なくされた。
- 2006年 - ワールド・ベースボール・クラシックの日本代表に選出され、好守や特大HRで初代世界一に大きく貢献した。3HR、打点9はチーム本塁打王・打点王だった。公式戦に入っても4月4日の中日戦(横浜スタジアム)で9回裏に岩瀬仁紀から起死回生の同点2ランを放つなど活躍していたが、4月20日から左肋軟骨挫傷のため一月ほど戦線離脱。そして復帰して半月ほど経った6月7日の楽天戦(フルキャストスタジアム宮城)にて本塁突撃時のクロスプレーの際に肋骨を4本折る重傷で長期離脱。シーズンの大半を棒に振ってしまった。オフには持病の腰のヘルニアにブロック注射を打ち、再起を誓ったが、寺原隼人とのトレードでソフトバンク移籍が決まった。
[編集] 通算成績
年 |
所属 |
背番号 |
試合 |
打席 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁打 |
三塁打 |
本塁打 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗塁刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
打率 |
失策 |
95 |
YB |
52 |
─ |
96 |
─ |
97 |
18 |
27 |
26 |
2 |
7 |
1 |
0 |
1 |
11 |
4 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
9 |
0 |
.269 |
0 |
98 |
─ |
99 |
─ |
00 |
55 |
84 |
245 |
226 |
21 |
58 |
6 |
1 |
7 |
87 |
29 |
2 |
0 |
0 |
2 |
13 |
4 |
64 |
3 |
.257 |
1 |
01 |
33 |
54 |
43 |
8 |
7 |
2 |
0 |
1 |
12 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
8 |
2 |
15 |
1 |
.163 |
0 |
02 |
81 |
196 |
183 |
23 |
43 |
8 |
0 |
5 |
66 |
16 |
3 |
1 |
2 |
0 |
9 |
2 |
54 |
1 |
.235 |
1 |
03 |
91 |
260 |
242 |
29 |
71 |
12 |
0 |
18 |
137 |
46 |
14 |
7 |
1 |
0 |
12 |
5 |
65 |
7 |
.293 |
2 |
04 |
6 |
123 |
492 |
449 |
80 |
137 |
26 |
2 |
40 |
280 |
100 |
10 |
7 |
1 |
1 |
39 |
2 |
126 |
8 |
.305 |
3 |
05 |
117 |
499 |
450 |
71 |
137 |
26 |
2 |
31 |
260 |
79 |
2 |
4 |
0 |
1 |
43 |
4 |
108 |
6 |
.304 |
3 |
06 |
39 |
145 |
127 |
24 |
35 |
3 |
0 |
8 |
62 |
20 |
5 |
1 |
0 |
1 |
14 |
3 |
29 |
5 |
.276 |
1 |
07 |
H |
通算 |
586 |
1918 |
1746 |
258 |
495 |
77 |
5 |
111 |
915 |
296 |
36 |
20 |
4 |
6 |
138 |
22 |
470 |
31 |
.284 |
11 |
年 |
位置 |
試合 |
刺殺 |
補殺 |
失策 |
併殺 |
守備率 |
1997 |
外 |
7 |
5 |
1 |
0 |
0 |
1.000 |
2000 |
外 |
72 |
130 |
5 |
1 |
1 |
.993 |
2001 |
外 |
27 |
27 |
2 |
0 |
0 |
1.000 |
2002 |
外 |
69 |
84 |
3 |
1 |
1 |
.989 |
2003 |
外 |
85 |
122 |
2 |
2 |
1 |
.984 |
2004 |
外 |
119 |
243 |
6 |
3 |
2 |
.988 |
2005 |
外 |
115 |
240 |
5 |
3 |
1 |
.988 |
2006 |
外 |
34 |
58 |
0 |
1 |
0 |
.983 |
[編集] 個人記録
[編集] 高校時代の戦績・記録
- 1994年 - 全国高等学校野球選手権大会
- 2回戦、対那覇商高戦、2対4で敗戦。(2打数 0安打 0打点 1三振 0四死球 0本塁打)
[編集] 怪我等一覧
- 中学生の時、体育祭のリレーで靭帯を損傷。
- 高校生の時、急激な体の成長により左ひざを損傷。
- 2003年5月14日 左手親指の靭帯断裂により2軍落ちする。
- 2003年8月5日 腰痛により途中交代。
- 2003年8月11日 左手首痛によりスタメン落ちする。
- 2003年8月22日 脱水症状をおこす。
- 2003年9月15日 肩痛によりスタメン落ちする。
- 2003年9月23日 発熱によりスタメン落ちする。
- 2003年9月25日 スタメン復帰するも死球で途中交代。
- 2003年10月6日 風邪によりスタメン落ちする。そのままスタメンに戻ることなく全日程が終了する。
- 2004年2月27日 ポスター撮影中にジャンプして右足関節を捻挫する。
- 2004年4月30日 試合中に突然風邪をひいて退場。診療所で点滴を受ける。
- 2004年5月3日 キャッチボール中にぎっくり腰を発症し、登録抹消される。
- 2004年8月28日 膝を強打したため途中交代。
- 2004年9月19日 握手会で左掌に炎症をおこし、その後2日連続でスタメン落ちする。
- 2005年2月11日 肩に野球バックを掛けたまま数百人にサインしたたため、左肩内出血をおこす。
- 2005年3月30日 開幕直前だったがインフルエンザに罹り緊急入院。
- 2005年4月24日 サードゴロの間一塁へヘッドスライディングして右肩を負傷する。
- 2005年5月6日・7日 ゴールデンウィーク中からの発熱を押して出場するも無理がたたり気管支炎に悪化し欠場。
- 2005年5月20日 センターからバックホームする際、右肘を痛める。
- 2005年6月14日 自打球を右足甲に当て途中交代。
- 2005年6月21日 靴紐を結ぼうとした際にぎっくり腰を発症する。
- 2005年6月29日 交通事故により左肩関節挫傷・左外傷性複視・網膜震盪症と診断され、1ヶ月間欠場。
- 2005年9月28日 事故の後遺症検査の後、体調不良を訴え欠場。
- 2006年4月7日 耳に炎症性アテロームと呼ばれる出来物ができ、39度の高熱を出す。
- 2006年4月9日 4月8日に出塁した際、帰塁時に首・肩を痛めたため代打のみの出場となる。
- 2006年4月17日 左太腿に違和感を覚えたため診察を受けた結果、内転筋の軽い肉離れと診断される。
- 2006年4月19日 打撃練習中にファウルを打ち上げた際、左肋軟骨を挫傷する。
- 2006年4月20日 長期故障を危惧したため、一軍登録抹消が決定する。
- 2006年5月26日 整体師に体のずれを直してもらったが、翌日両腿と脇腹の張りにより途中交代。
- 2006年6月3日 バウンドが変わった打球を追いかけた際に左足首を捻挫し途中交代。
- 2006年6月7日 本塁へ突入した際、捕手と激突。左肋骨の7・8・9・10番の4カ所を骨折し、左手薬指の靱帯を負傷した。
- 2006年8月19日 決勝適時打を打ちお立ち台に上がるも翌日腰痛によりスタメン落ちする。
- 2006年8月27日 走塁中に左足の内転筋に強い張りを感じたため途中交代。
- 2006年9月10日 湘南シーレックスで再調整のため今季3度目となる登録抹消。
- 2006年10月24日 右腰に痛みを感じたため、24日の秋季練習(ベイスターズ練習場)を欠席。病院でエックス線検査を受ける。
- 2006年10月30日 右腰のヘルニアのため、神経ブロック注射を受ける。
- 2007年4月4日 サードゴロで一塁へ全力疾走。一塁を駆け抜けた際に左太もも裏側が硬直し途中交代。
[編集] エピソード
- 本人は外野守備・ファッションにこだわりがあり、特に後者については規則が厳しいはずの横浜高校時代から髪を染めるなどしていたという。彼の公式サイト名の由来、用具にも刻まれている「6TOOLS(6ツール)」(は、メジャーリーグでよく言われる5TOOLS(5ツール=打率、本塁打、足、守備、肩)に多村自身が自負するファッションセンスを加えたのが由来とされる。
- 身体能力が高く、高いレベルの成績を残しているが、まだタイトルには恵まれていない。
- 彼の怪我は野球の試合や練習中にとどまらず、ポスター撮影中にジャンプして右足関節を捻挫したり、プロ野球再編問題に伴うストライキの際に握手会で左掌の炎症を起こしたりしている。あまりの故障の多さから体質が弱いのではないかと一部のファンの間から思われているため、揶揄と親しみを込めて「スペランカー」(主人公がわずかなミスで死んでしまうゲーム)と呼ばれていたり、怪我などをすることを「スペる」と言ったりされる。
- 横浜時代の背番号6の前任者中根仁は多村より10歳上で、「多村が一人前になったら引退する」と公言していた。ちなみにソフトバンクの背番号6の前任者は同じくセ・リーグからトレード移籍した鳥越裕介である。
- 2005年の交通事故の際、スリップした瞬間に諦めてハンドルから手を離そうとしたが、家族の顔が頭に浮かんだため、最後まで手を離すことはなかった、と述べている。
- 2005年12月5日、NTVスポーツうるぐす「2005アンラッキー王決定戦」の収録に西口文也、普天王とともに参加。多村の紹介の際、2ちゃんねるプロ野球板の多村のスレッドのテンプレート【スペランカー履歴】[1]をそのまま引用したと思われるボードが登場。釣り対決を行ったものの、釣れたのは魚の「ウロコ」のみ。最後に神社でお祓いしてもらったものの、おみくじで「凶」を引いてしまった。その影響かどうかは不明だが、実際に2006年シーズンが始まると怪我に苦しむことになってしまった。
- これまで一度も何らかの代表チームに選ばれたことが無く、WBC日本代表に選ばれた際自宅に届いた「選出通知」を額に入れて飾っているという。
- 松中信彦がインタビューなどで多村の話題が出ると必ず「彼は怪我が多いので」と話しているため、2007年シーズンはこのイメージを払拭できるかどうかが鍵である。
- ソフトバンクでは神奈川県出身の斉藤秀光、高橋徹、福田秀平やチームスタッフらと「神奈川県人会」を結成している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク