赤星憲広
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[[Image:||赤星憲広]] |
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愛称 | レッドスター 赤い彗星 |
国籍 | ![]() |
出身地 | 愛知県刈谷市 |
出身校 | 亜細亜大学 |
誕生日 | 1976年4月10日 |
身長 | 169 cm |
体重 | 62 kg |
血液型 | |
守備位置 | 中堅手 |
打席 | 左 |
投球 | 右 |
背番号 | 53 |
年俸 | |
デビュー年 | 2001年 |
キャリア | 2001年- |
所属球団 | 阪神タイガース |
前所属球団 | |
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赤星 憲広(あかほし のりひろ、1976年4月10日 - )は、平成期(2000年代~)の阪神タイガースに所属するプロ野球選手。愛知県刈谷市出身。ポジションは外野手(中堅手)。右投左打。身長170cm、体重62kg。
プロでの通算ホームラン数は、3本(2006年終了時点)と非常に少なく、並みの選手ほどの力強さも持たないが、高打率と俊足を生かした盗塁や守備力で高い評価を得ている。打席ではファールで10球近く粘るなどの粘り強さにも定評があり、出塁した時は盗塁の警戒で神経をすり減らされるため、相手チームのバッテリーにとっては嫌らしいバッターといえる。盗塁における技術は12球団屈指であり、世界の盗塁王福本豊から後継者として認められ、様々なアドバイスを受けている。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] プロ入り前
大府高校時代には、俊足と安定した打撃を生かしてチームの中心選手となる。1番打者・赤星が出塁すると、2番打者は全くスイングを行わずに二盗、三盗が成功するのを待ち、その後スクイズを行うという独特の戦法で2度のセンバツ出場を果たした。しかし、ともに初戦敗退。 2年次には二塁手として出場も逆転2点タイムリーエラー、3年次にはポジションを遊撃手に移し、チームの大黒柱となるが、初回にまたもタイムリーエラーとなる悪送球。甲子園の2試合で3失策を犯す。高校通算16本塁打。亜細亜大学に進学後、2年次の明治神宮大会では三塁手として出場した赤星がまたもタイムリーエラー。0対1で敗北する。3年からは外野手に転向。4年秋には3試合連続本塁打を記録するなどパンチ力も身に付け、明治神宮大会で優勝する。ベストナイン3回、野村謙二郎の52盗塁に次ぐ東都大学史上2位となる48盗塁を記録。その後JR東日本に入社、都市対抗では東京ドームの白い屋根の中にボールを見失い、平凡なフライを三塁打にしてしまう。これがきっかけとなりチームは大敗した。その後シドニーオリンピック野球日本代表に選出された。
[編集] 野村阪神時代
当時阪神タイガース監督であった野村克也が直接観戦していた試合で活躍。当初阪神スカウト陣はノーマークだったが監督の鶴の一声で2000年、ドラフト4位で阪神に入団。「ホームランバッターがいないなら足で稼ぐ。あの足は戦力になる」と監督から期待を寄せられる。センターを守っていた新庄剛志がFA宣言して阪神を退団したため、入団発表の記者会見の席で「新庄さんの穴を少しでも埋められるようにがんばります」と、強気な発言で自分を追い込もうとしたが、緊張のため誤って「新庄さんの穴は僕が埋めます!」と豪語してしまい、翌日のスポーツ新聞ではドラフト1位の藤田太陽の会見以上の話題となった。
背番号は2か26を希望していたが希望の背番号は与えられず、53番に決まった時も、「俺はゴミ(53)か、誤算か」と嘆いたが、53盗塁達成を目標に設定し、盗塁王を狙うと切り替えた。5月にはレギュラーに定着。その後は1番を打っていた上坂太一郎、3番を打っていた濱中おさむ、そして2番の赤星の3人で平成の新少年隊を結成し、活躍。新人歴代4位となる39盗塁をマーク。阪神では1956年の吉田義男以来45年振りとなる盗塁王を獲得し、新人王も獲得。阪神の選手としては呉昌征以来となる入団1年目の盗塁王獲得、そして盗塁王と新人王のダブル受賞は史上初の快挙。新庄が常連となっていたゴールデングラブ賞も受賞し、入団会見の通り、本当に新庄の穴を埋めて余りある大活躍を見せた。
[編集] 星野阪神時代
2年目の2002年は好調なスタートを見せたが、自打球を当てて骨折したことで長期リタイア。盗塁王争いが低レベルであったことが幸いし、巨人の仁志敏久や中日の荒木雅博と競い結局26盗塁ながら2年連続で盗塁王を獲得するも、打率は2割5分台に低迷し、成績を大きく下げてしまった。翌2003年に金本知憲がFAで広島から移籍、キャンプ中の星野仙一監督は事あるごとに「赤星は(金本、桧山、濱中に次ぐ)4番目の外野手」「打撃は赤星より濱中の方が上。このままならばセンターは濱中だ」と公言していたが、星野の狙い通り、この発言に奮起した赤星はシーズンに入ると2番打者に定着。オールスターに初出場し、さらに61盗塁をマーク、3年連続盗塁王に輝き、打率も初の3割を記録した。さらに規定打席到達者の中で唯一守備率10割(年間失策0)の日本タイ記録を樹立。2001年以来2年ぶりのゴールデングラブ賞も受賞し、チーム18年ぶりの優勝に貢献する。優勝が決定した9月15日の広島戦ではライトオーバーのサヨナラ打を放った。
[編集] 岡田阪神時代
岡田彰布監督が就任した2004年には自己新記録となる64盗塁(4年連続盗塁王)、2年連続の打率3割を記録する。しかし、チームは4位と不満の残る成績だった。王座奪回を目指した2005年のシーズンは4月21日の巨人戦で通算200盗塁を達成。4月度の月間MVPにも選出された。その後は交流戦で肋骨を骨折したこともあったが活躍を続け、打率は常に3割をマーク、チームも2年ぶりの優勝を飾る。10月1日のヤクルト戦では福本豊以来2人目となる3年連続60盗塁で通算250盗塁を達成、さらにセ・リーグ史上初の5年連続盗塁王に輝いた。しかし2006年は2番セカンド藤本が送りバントで赤星を進塁させるというプレースタイルに変更後赤星の盗塁数が激減。結局は6年連続盗塁王の記録を諦めるしかなかった(2位後退)。反面、藤本は送りバントによって2番セカンドとしての役目を果たし、一時は犠打ランキング首位にもなった(シーズン記録は19だが前年より+12と大幅UPの自己新記録)。また、打率・出塁率ほか打撃面の成績も著しく低下したためにファンからV逸の一番の戦犯のような扱いを受けた。とはいえ打率.236安打152四球60出塁率.344は決して悪い数字ではない。むしろ盗塁王を維持してるシーズンと比べてもあまり変わらない為にチームのプレースタイルの変更(つまりはチーム事情)による盗塁のセーブと見るのが自然だろう。2007年は1番鳥谷をアシストする2番になった為に盗塁数は更に激減するかと思われる(3番シーツは赤星のアシストよりも打撃に専念と思われる為)。
[編集] 成績・記録
[編集] 年度別打撃成績
年度 | 所属 | 背番号 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000 | 阪神 | 53 | 128 | 524 | 438 | 70 | 128 | 9 | 4 | 1 | 148 | 23 | 39 | 12 | 24 | 4 | 50 | 8 | 64 | 1 | .292 |
2002 | 78 | 343 | 310 | 36 | 78 | 7 | 4 | 0 | 93 | 12 | 26 | 7 | 5 | 1 | 15 | 12 | 56 | 5 | .252 | ||
2003 | 140 | 635 | 551 | 90 | 172 | 17 | 7 | 1 | 206 | 35 | 61 | 10 | 24 | 1 | 45 | 14 | 76 | 15 | .312 | ||
2004 | 138 | 633 | 570 | 96 | 171 | 20 | 6 | 0 | 203 | 30 | 64 | 12 | 11 | 1 | 49 | 1 | 85 | 3 | .300 | ||
2005 | 145 | 689 | 601 | 119 | 190 | 15 | 9 | 1 | 226 | 38 | 60 | 12 | 8 | 3 | 69 | 8 | 90 | 3 | .316 | ||
2006 | 142 | 642 | 566 | 84 | 152 | 13 | 3 | 0 | 171 | 20 | 35 | 13 | 9 | 1 | 60 | 6 | 94 | 2 | .269 | ||
通算 | 771 | 3466 | 3036 | 495 | 891 | 81 | 33 | 3 | 1047 | 158 | 285 | 66 | 81 | 11 | 288 | 49 | 465 | 29 | .293 |
年度 | 長打率 | 出塁率 | OPS | 得点圏 |
---|---|---|---|---|
2001 | .338 | .372 | .710 | .275 |
2002 | .300 | .311 | .611 | .255 |
2003 | .374 | .378 | .752 | .292 |
2004 | .356 | .356 | .712 | .291 |
2005 | .376 | .392 | .768 | .333 |
2006 | .302 | .344 | .646 | .253 |
年 | 位置 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
2001 | 外 | 125 | 243 | 9 | 2 | 1 | .992⑤ |
2002 | 外 | 78 | 156 | 4 | 2 | 0 | .988 |
2003 | 外 | 140 | 233 | 10 | 0 | 2 | .1000① |
2004 | 外 | 138 | 254 | 5 | 2 | 3 | .992④ |
2005 | 外 | 145 | 264 | 12 | 5 | 1 | .982⑭ |
2006 | 外 | 141 | 277 | 12 | 2 | 4 | .993④ |
[編集] タイトル
[編集] 記録
[編集] アマチュア時代の成績
- 大府高校:甲子園出場2回(1993年春、1994年春)
- JR東日本:シドニーオリンピック野球日本代表
[編集] プレーの特徴
- 高校時代、大学時代は前述にもあったように内野手としてエラーを連発していたが、外野手に転向してからは俊足を生かした広い守備範囲には評価が高く、どちらかというと弱肩だが正確な返球には評価が高い。
- 社会人時代には日本代表としてシドニーオリンピックにも出場。プロのメンバーが揃っていたため、選手としては活躍できなかったが投手の牽制の癖を見抜く眼力を生かしてベースコーチや代走として活躍した。
- 2000年春には日本代表候補としてロッテのキャンプに参加するが、打撃の非力さが顕著だった。当時ロッテの主軸打者だった初芝清が引退後ラジオの解説でその時の様子を「打撃練習で打球がケージから出ない」と評していた。翌年のキャンプには阪神の選手として参加するが、打球は内野の頭すら越えないほど深刻だった。猛練習の末、プロ屈指の外野手となるが、後に濱中に「あの赤星さんがプロで活躍できるなんて、失礼ながら全く思いませんでした」と言われた。
- 2000年、野村監督が俊足の選手を『F1セブン』と命名し、話題を呼んだ。赤星はその「1号車」で、藤本敦士(2号車)、沖原佳典(現楽天、3号車)、上坂太一郎(4号車)、平下晃司(現ロッテ、5号車)、松田匡司(のちダイエー→近鉄、6号車)、高波文一(のち西武、現楽天、7号車)らとともに俊足7人衆に数えられた(なお、田中秀太がF1セブンの一員に入っていないのは、野村監督が秀太をF1セブンに加えるのを忘れたためらしい)。
- 2004年の日米野球で7盗塁を決めるなど大活躍。これに目をつけたボストン・レッドソックスのデビッド・オルティズ選手から「スーツケースに入れて連れて帰りたいよ。お前なら入るだろ?」と声をかけられた。
- 2005年6月15日の西武戦では肋骨三本を折る重傷を負ったが、翌日の試合を休んだ後、戦線に復帰すると言う鉄人ぶりを見せた。これは前年、左手首を骨折していたにも拘らず試合に出場した金本知憲の影響である。「金本さんの姿勢を見て、レギュラーとして試合に出続ける意味を知った」と話しており、2005年から金本同様、フルイニング出場への執念を燃やすようになった(実際は6月12日の北海道日本ハムファイターズ戦で途中交代をした為、シーズンフルイニング出場は未達成)。
- 2005年9月7日の中日戦(ナゴヤ)(俗に言う9.7の決戦)で、九回裏一死一塁・三対三の同点の場面で荒木雅博の平凡なセンターフライをまさかの落球。ライト中村豊のカバーで即サヨナラ負けには至らなかったものの、その時の赤星は顔面蒼白だったという。その後、守護神・久保田智之の力投で大ピンチを脱出した後の赤星は、泣きながら安堵していたらしい。
- 2005年にはイチローを抜く、年間単打165のプロ野球記録を達成するが、同年の阪神全試合終了後にヤクルトの青木宣親がその記録を更新、169まで伸ばしたため、赤星の日本記録は「3日天下」となった。
- ゲームの実況パワフルプロ野球シリーズでは、肩力が弱肩(評価はE。またはF)となっている。これに対しパワプロのユーザーでもある赤星は「もっと肩の評価を上げてもらうように頑張ります」などと発言、その甲斐あってか、後に発売された実況パワフルプロ野球12決定版では肩力Dに上方修正された。ちなみにパワプロでは自分は6割バッターとのこと。また、2005年の交流戦の際、対戦したことがないパ・リーグの投手の球種は、パワプロのデータを参考にしていたという。
- 打球がレフト方向へ飛ぶことが多いので、相手チームが三塁線寄りの前進守備シフト(いわゆる「赤星シフト(あかほシフト)」)を敷く傾向がある。そのため、レフトのファウルゾーンに飛んだライナーが捕られてしまうような事がある。
- ホームランを打つことは滅多にないが(ヒットして出塁して盗塁するのがプレースタイルな為)、2005年に放った1本は広い甲子園球場のライトスタンドに放ったものである。これまで通算3本の本塁打を放ったが、2001年は広島市民球場(ただしレフトスタンドに放っている)、2003年は明治神宮球場と狭い球場で放ったものだった。
- 本塁打を放った3試合の全てでチームは敗戦している。
- ルーキーイヤーの2001年から2006年まで、本塁打数は1本、0本、1本、0本、1本、0本と隔年で1本ずつ放っている。
- ナゴヤドームを極端に苦手にしており、2005年・2006年に犯した7つの失策のうち、上記の9.7の決戦も含め4つが同球場においてのものである。
[編集] エピソード
- 愛称は、名前にちなんで「レッドスター」。または「赤い彗星」とも呼ばれている。
- 今や阪神でも屈指の人気選手であるが、未だに独身であり、浮いた話は聞かれない。そのためか特に女性からの人気が高く、自らの公式サイトで「最近不眠症に悩んでいる」と書いたところ、女性ファンから「添い寝してあげたい」というメッセージが多数寄せられた。
- 社会福祉活動にも熱心であり、毎年、自身が盗塁1つを決める毎に車椅子を1つ贈る、という活動も行っている。その理由は「ハンディキャップのある人でも、球場に来て野球を観戦して貰いたい」との思いから。2004年シーズンは、64盗塁にちなんで65台(うち1台は盗塁王のタイトルぶんで、電動リクライニング機能つき)の赤い車椅子を寄付しており、その功績が認められ、社会福祉活動に貢献したプロ野球選手に贈られる「ゴールデンスピリット賞」を受賞した。
- タイガースに指名される以前は中日ドラゴンズファンで、特に星野仙一の大ファンだった。小学生時代はサッカーも熱心にやっており、サッカーで愛知県代表のFWに選ばれたこともある。今もサッカーは好きらしく、2005年はサッカー好きの同僚である井川慶(現ニューヨークヤンキース)とともにガンバ大阪を応援していた。
- 大学4年の時、駅のホームから転落した女性を救助したことがある。
- 大学時代に社会科の教員免許、社会人時代にJR東日本での車掌資格を取得している。
- 2003年ABC系列で放送された明石家さんま、星野仙一司会の優勝特番によるとJR東日本時代、私服で通勤中に痴女に遭った事がある。股間を触られる等して不覚にも反応してしまったが、停車後説得して痴漢行為をやめさせた。
- プロ野球選手になる前は、よく千葉マリンスタジアムのライトスタンドでロッテを応援していたということを2005年のロッテとの交流戦の際に明かしている。
- 2003年7月24日新大阪駅ホームでファンのサイン責めに応じている時に、背後から来た女性ファンにハサミで髪の毛を切られそうになった。
- 2004年12月25日大阪市内で開催されたクリスマスショーで阪神ファンのマナーの悪さに苦言を呈し、阪神ファンのマナー向上を訴えた。
- 2005年、自ら理事長となり、少年野球チーム「レッドスター・ベースボールクラブ」を設立するなど、フィールド外でも活躍している。
- 2005年9月29日にリーグ優勝が決定した際、祝勝会の会場にレイザーラモンHGのコスチュームで登場し、話題と腰をふりまくった。
- 2006年5月3日、村上世彰率いる村上ファンドが阪神電鉄本社に対し取締役選任を要求する株主要求を突きつけた事に対し、その翌日「気分が悪いです。村上さんはファンの事を考えていないと思う。お金儲けの事しか考えていないような人に球団を持って欲しくないです。」と厳しく批判した。
- 2006年シーズン終了後に「試合が終わった後、車でつけられるんです」と、このシーズン中12回尾行されたことを告白し、一部の阪神ファンにマナー是正を求めた。
- 前述の通り「53」という背番号には当初いい印象がなかったというが、その後かつてのチームメートの吉田剛のように背番号に愛着を持つようになり、2006年オフに背番号変更を打診されるが、これを断った。
- 星野仙一や田淵幸一からは「あかぼし」と間違って呼ばれる(正しくはあかほしと濁らない)。ちなみに就任時はレッドと呼ばれていた。
- ファン感謝デーの時にFUJIWARAから「本当は身長169cm」疑惑を掛けられ、その場で測定される。その結果本当に169cmであることが判明する。このとき本人は「170cmの方が聞こえが良いじゃないですか」と1cmサバを読んでいたことを告白する。
- 足に絶対の自信を持っており、盗塁王がとれなければ引退するとまで言ったことがある。
- 高校時代に視力が0.3と近視になったためにコンタクトレンズを使っている。眼の健康には気を遣っているようで、カメラマンにあまりフラッシュを焚かないよう頼んでいるとのこと。雑誌「ナンバー」の「慧眼のアスリート」のコーナーでのインタビューで語った。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 阪神タイガース公式サイト - 球団公式によるプロフィール
- 赤星憲広RedStar53
- 赤星憲広後援会
00 秀太 | 0 中村豊 | 1 鳥谷敬 | 2 野口寿浩 | 3 関本健太郎 | 4 アンディ・シーツ | 5 濱中治 | 6 金本知憲 | 7 今岡誠 | 8 浅井良 | 9 藤本敦士 | 12 三東洋 | 13 中村泰広 | 14 能見篤史 | 15 太陽 | 16 安藤優也 | 17 金村大裕 | 18 杉山直久 | 19 筒井和也 | 20 正田樹 | 21 岩田稔 | 22 藤川球児 | 24 桧山進次郎 | 25 渡辺亮 | 26 江草仁貴 | 27 岡崎太一 | 28 福原忍 | 29 小嶋達也 | 30 久保田智之 | 31 林威助 | 32 前田忠節 | 33 葛城育郎 | 34 橋本健太郎 | 35 坂克彦 | 36 ライアン・ボーグルソン | 37 野原将志 | 38 橋本良平 | 39 矢野輝弘 | 40 桟原将司 | 41 上園啓史 | 42 下柳剛 | 43 上坂太一郎 | 44 藤原通 | 45 清水誉 | 46 鶴直人 | 47 吉野誠 | 48 相木崇 | 49 若竹竜士 | 50 高橋光信 | 51 桜井広大 | 52 赤松真人 | 53 赤星憲広 | 54 ジェフ・ウィリアムス | 55 喜田剛 | 56 田村領平 | 57 大橋雅法 | 58 高橋勇丞 | 59 ダーウィン・クビアン | 60 小宮山慎二 | 61 辻本賢人 | 62 玉置隆 | 63 大城祐二 | 64 庄田隆弘 | 65 水落暢明 | 66 大和 | 67 伊代野貴照 | 68 横山龍之介 | 92 エステバン・ジャン | 99 狩野恵輔
80 監督 岡田彰布 | 91 島野育夫 | 84 久保康生 | 76 吉竹春樹 | 71 中西清起 | 87 正田耕三 | 85 広澤克実 | 86 和田豊 | 83 嶋田宗彦 | 81 吉田康夫 | 90 続木敏之 | 78 二軍監督 平田勝男 | 88 立石充男 | 70 星野伸之 | 82 葛西稔 | 73 町田公二郎 | 89 山脇光治 | 72 平塚克洋 | 97 加藤安雄 | 74 伊藤敦規 | 75 遠山奬志 | 79 筒井壮 |