アニメーション映画
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アニメーション映画(アニメーションえいが)は劇場及び映画館等で公開されるアニメーションによる映像作品。略してアニメ映画とも言う。劇場での公開も考慮されて製作されたものは劇場用アニメーション映画または劇場版アニメとも言う。
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[編集] 解説
アニメーション映画は、実写映画、特撮映画などと対比させた言葉で、「劇場用アニメ映画」は、テレビアニメ、OVAなどと対比させた言葉とも考えられる。
アニメーション映画は、映画館のみならず劇場、屋外劇場などで上映することを目的に作成されたものでもある。そのため、アニメ映画と劇場版アニメはほぼ同義語になっている。テレビアニメとして放映される作品の場合は、通常のテレビシリーズと区別するために、「劇場版」または「映画」とタイトルに付くことがある。テレビシリーズとは別に1本で完成された作品にするため、一部を除き、その殆どは映画用に作成されたオリジナルストーリーとなっている。
テレビが登場するまでは、アニメとはもっぱら映画館で上映されるものであり、アメリカではテレビ時代になってからも繰り返し劇場短編作品がテレビで放送される。テレビが普及する以前には、ニュース映画とともに短編アニメが一般映画(本編)の前座として上映された。多くの短編劇場アニメはこの時代に製作されたものである。ディズニーが初の長編アニメ『白雪姫』を製作するまで、アニメと言えば、ストーリーを楽しむというより絵が動くことを楽しむアトラクション的な短編アニメが常識であった。
近年、映画館での公開終了後、地方の公共団体、自治体に貸し出され、星空映画会などのイベントで無料公開されることが多くなった。
[編集] 日本の主なアニメ映画の歴史
日本の劇場用アニメ映画の歴史は古く、研究者によると、大正期の1916年から始まる下川凹天、北山清太郎、幸内純一の3人の漫画家、画家が手がけたペーパーアニメーションと切紙アニメーションが日本の最初期に制作されたアニメーションとされている。これは1910年代に輸入されて好評を博した海外の短編アニメーションを受けて、日本の映画会社が依頼して制作された10分ほどの短編作品で、いずれも現存しない。セルアニメーションの導入が遅れた日本では切り紙アニメーションが発達し、この分野では大藤信郎賞にその名を残す大藤信郎が国際的な評価を得た。セルアニメーションでは1943年には政岡憲三の『くもとちゅうりっぷ』などがある。
第二次世界大戦を迎えると、それまで個人工房により乏しい予算で小規模に行なわれて来た日本のアニメーション制作に対して、軍部より予算が投下され、戦時色の強い国威発揚的な内容ながら、瀬尾光世の『桃太郎の海鷲』(1942年)、『桃太郎 海の神兵』(1944年)といった作品が制作。後者は日本初の長編アニメーションと位置付けられている。日本において、娯楽色の強いアニメーション映画が普及したのは、東映動画が登場する1960年代になってからである。東映動画の誕生を持って、日本は年に1本から2本のペースで長編アニメが制作されるというアニメではアメリカに次ぐ存在となった。
[編集] 1960年代
『白蛇伝』(1958年)を筆頭に、『安寿と厨子王丸』(1961年)、『わんわん忠臣蔵』(1963年)、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)、『空飛ぶゆうれい船』(1969年)、『長靴をはいた猫』(1969年)、『海底3万マイル』(1970年)、『どうぶつ宝島』(1971年)など、東映動画と虫プロダクションが長編アニメを世に送り出した。
これらのシリーズは「東映まんがまつり」などのようなお正月などの定番映画として低年齢層向け映画として普及することとなる。これらの映画の多くは映画館だけではなく、小学校の上映会などにも貸し出されて、多くの子供たちが観賞する機会を得ることになる。またこういった長編アニメ映画の小学校などでの無料公開は、後の星空映画会などへと引き継がれていくこととなる。
一方で、これまで長編アニメではフルアニメーションを基本として来た東映動画が、1966年の「東映まんがまつり」の『サイボーグ009』からは、3コマ撮りによるテレビアニメとの中間的位置付けの作りの「B作」と呼ぶ路線が開始となる。従来のフルアニメは「A作」として区別されるようになり、1963年の『鉄腕アトム』開始によるテレビアニメ時代の幕開けの影響を如実に受けるようになった。
尚、1969年公開の『千夜一夜物語』から始まった虫プロによる「アニメラマ三部作」を忘れてはならない。「アニメラマ三部作」は「東映まんがまつり」と逆の位置にあり、大人向けに作られていた。1970年代には『クレオパトラ』、『哀しみのベラドンナ』が公開されている。
[編集] 1970年代
この時代になって、ついに東映動画は劇場アニメでもフルアニメーションの制作を中止。「東映まんがまつり」は『マジンガーZ』などテレビで人気を得たアニメの劇場用新作という路線に転換した。一方で、虫プロダクションが倒産して、劇場向け長編アニメといえば東映動画の独壇場だった日本アニメ界において、変化が起きるのは1970年代後半である。
1970年代後半になると、主にテレビアニメをオリジナルアニメ化した作品が登場する様になる。1974年にはテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』が放送される。テレビでの本放送時にはあまり人気が無かったが、再放送によりヒットすると、1977年にテレビ放送を編集した劇場版が公開され、初日から徹夜する客が出る等の大ヒットを記録する。翌1978年には『さらば宇宙戦艦ヤマト-愛の戦士たち-』が公開され空前の大ヒットを記録し、この2作品によって子供をターゲットとしていたアニメ映画というものが、年齢層を超えて楽しめるものであると認識される様になり、この後、劇場用アニメ映画が数多く作られることとなる。
『宇宙戦艦ヤマト』シリーズは2作目以降、オリジナル作品が制作されることとなるが、これらの続編ではテレビを意識してか、シネマスコープサイズではない比率の映画が作成されている。
1979年には『ルパン三世 カリオストロの城』、『銀河鉄道999』が公開されるなど、1970年代後半には数多くの作品が公開された。
『科学忍者隊ガッチャマン』『未来少年コナン』『アルプスの少女ハイジ』などアニメブームに乗って、テレビアニメを再編集した長編アニメが劇場で公開されたのもこの時期の特徴である。これはアニメブームを当て込んだものである一方で、東映動画以外の制作会社はそれまでもっぱらテレビアニメの制作を専門として劇場向け長編アニメを制作するノウハウが無く、急な需要に応えるだけの余力に欠けていたことが原因である。観客の側にとっても、ビデオデッキとレンタルビデオ店の普及が1980年代の半ばだったこともあり、再放送以外では人気テレビアニメを再鑑賞できる唯一の機会という側面があった。
また、『宇宙戦艦ヤマト』の舛田利雄を始めとして、1980年代初めまでのアニメブームは実写畑の映画監督をアニメに起用した例が多い。恩地日出夫『地球へ…』(1980年)、浦山桐郎『龍の子太郎』(1979年)。これは一説には、当時アニメ映画に馴染みの無かった地方の映画館主を納得させるためだったと言われる。
[編集] 1980年代
1980年代に入ると、『風の谷のナウシカ』(1984年)が大ヒットし、この後スタジオジブリを立ち上げた高畑勲や、宮崎駿らが2年に1本程度の間隔で『天空の城ラピュタ』(1986年)、『となりのトトロ』(1988年)などのオリジナル劇場用アニメ映画を公開し、好評を博した。
また、1980年から毎年春休みにドラえもんの映画作品が公開されている(2005年を除く)。
『機動戦士ガンダム(ファーストガンダム)』の劇場版三部作が1981年から1982年にかけて公開されたのが話題を呼んだ。
当初、機動戦士ガンダムは1979年にテレビシリーズとして放映されたが、不人気となり打ち切られた。が、再放送などで人気をさらに集め、劇場版の公開、さらにはガンダムのテレビシリーズの続編である『機動戦士Zガンダム(1985年)』の放映にまで至った。
サンリオは1979年の『星のオルフェウス』に引き続き、『シリウスの伝説』(1981年)などで、大予算をかけて、1970年代に入って途絶えていたフルアニメーションによるアニメ映画を制作、海外市場に打って出ようとした。
1980年代はまたビデオが普及した時代でもある。1980年代半ばのビデオデッキとレンタルビデオ店の普及はアニメ映画の製作にも変化をもたらした。オリジナルビデオアニメ(OVA)の興隆は、OVAを劇場アニメとして単館系で公開したり、逆にマニア向けの企画を一旦劇場アニメとして公開して、後のビデオ販売でも製作費の回収を計るというビジネスモデルが成立したのである。その受け皿として、短命に終わったものの、この時期に東京ではアニメを専門に上映する映画館が誕生。これまで劇場アニメとして通用しなかった企画がビデオ販売を前提として通るようになる。また、OVAの存在は、これまでテレビアニメで下請け的立場に甘んじていた中小のアニメ制作会社がOVAの制作に乗り出すことで、徐々に制作能力を高めることを可能とした。Production I.Gもそんなスタジオの一つで、1980年代に出発してOVAの制作とテレビの下請けをこなしながら、1990年代以降は劇場映画の制作で飛躍したのである。
[編集] 1990年代
1990年代には劇場用アニメ映画は大きく飛躍し、数多くの作品が作られている。1993年に映画『クレヨンしんちゃん』シリーズの第1作『クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王』が、1997年に映画『名探偵コナン』シリーズの第1作『名探偵コナン 時計じかけの摩天楼』が、1998年に『劇場版ポケットモンスター』シリーズの第1作『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』が公開された。3作とも現在まで毎年制作され続けている人気シリーズとなった。
また、ほぼ毎年のようにアニメ映画が日本映画の興行成績のトップに輝いている。1989年の『魔女の宅急便』を始めとして、1991年は『おもひでぽろぽろ』、1992年は『紅の豚』、1994年は『平成狸合戦ぽんぽこ』、1995年は『耳をすませば』、1997年は『もののけ姫』、1999年は『劇場版ポケットモンスター 幻のポケモン ルギア爆誕』、2000年は『劇場版ポケットモンスター 結晶塔の帝王 ENTEI』、2001年は『千と千尋の神隠し』と、その年の日本映画の興行成績のトップを記録している。
[編集] 2000年代
1998年以降は劇場用アニメ映画が日本映画の興行成績の上位をほぼ独占している。この中には『ポケットモンスター』等数多くのヒット作品が誕生し、全米を含めて海外でも大きく公開されるようになる。1999年にアメリカで公開された『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(米題は"Pokemon: The First Movie")は日本映画としては初めて「全米ナンバー1ヒット」となり全米年間映画興行成績トップ20にランキング入りをはたした。
また宮崎駿監督の『もののけ姫』(1997年)、『千と千尋の神隠し』(2001年)は2作続けて日本映画の興行成績の記録を更新し、またアカデミー賞でオスカーを受賞したり、ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞するなど世界的にも認められ、アニメーション映画は現在の日本映画を代表する存在となっている。
日本のアニメーション映画はヨーロッパやアジア各国では次々にヒットを飛ばしているが、アメリカでは現在のところ、日本の劇場用アニメ映画が興行的に成功した例は少ない。空前のヒット作といわれた『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』でも興行収入8574万ドルであり、アメリカにおいて大ヒットの基準とされる興行収入1億ドルには及ばない。『千と千尋の神隠し』は興行収入1000万ドルである。またアメリカでの日本アニメ映画は公開される数がまだまだ圧倒的に少ない上、1作あたりの公開される劇場数も(『ポケットモンスター』『遊☆戯☆王』などの例外を除き)多くの場合は少ない。
2002年には『Pia♥キャロットへようこそ!! -さやかの恋物語-』が公開された。これは史上初のアダルトゲームを原作とする劇場用アニメである。
2004年には、押井守(『イノセンス』)、大友克洋(『スチームボーイ』)、宮崎駿(『ハウルの動く城』)と巨匠たちの作品が続いた。
テレビアニメで人気を博した作品が映画化されるのは現在も主流だが、『ラーゼフォン 多元変奏曲』(2003年)、『劇場版灼眼のシャナ』(2007年)のようにメディアミックスの一環として映画化される作品も現れている。
[編集] 日本国内の歴代アニメ映画収入ランキング
[編集] 世界のアニメーション映画
世界最初の純粋なアニメーション映画は、フランスの画家エミール・コールの製作した、『ファンタスマゴリー』(1908年、原題:Fantasmagorie)だと考えられている。コールはアメリカのブラックトン(後述)の用いていたコマ撮り実写映画の技法に着目し、そこから実写部分を排した完全なアニメーション作品を創作した。『ファンタスマゴリー』の動画は白い紙に黒インクで描かれ、ネガフィルムのまま黒地に白い線のアニメーション映画として上映された。
[編集] アメリカ合衆国
20世紀初頭のアメリカ合衆国では、ジェームズ・スチュアート・ブラックトンが、アニメーション映画の先駆的作品とも言える、黒板に描かれたチョークの絵を用いた『愉快な百面相』(1906年、原題:Humorous Phases of Funny Faces)や、幽霊屋敷の怪奇現象をトリックにより再現した『幽霊ホテル』(1907年、原題:The Haunted Hotel)などのコマ撮り実写映画を撮影していた。
アニメーションの父ウィンザー・マッケイはブラックトンに触発され、寄席でのヴォードヴィル公演に使用する目的で、『リトル・ニモ』(1911年、原題:Little Nemo)等の短編アニメーション映画を製作した。これらの作品は映画館でも上映され、アニメーションの商業的利用に対する先鞭を付けた(しかしながら、マッケイ自身は商業アニメーションに対しては否定的であった)。また、マッケイの『恐竜ガーティ』(1914年、原題:Gertie the Dinosaur)に登場するガーティは、世界最初の個性を備えたアニメーションキャラクターとして評価されている。
前述のように、テレビが大衆化する以前にはニュース映画の前座として短篇アニメが大量に作られた。これらの短編から、世界中で広く知れ渡っているディズニーのミッキーマウスやドナルドダック、MGMのトムとジェリー、フライシャー・スタジオのベティ・ブープ、ワーナー・ブラザースのバックスバニーなどの人気キャラクターが生まれた。
映画史上に残る偉業を数多く成し遂げた『白雪姫』(1937年)は世界初の長編アニメーション映画となった(ただし、アルゼンチンでは1931年に長編アニメーション『ペルードポリス』が公開されている)。またディズニーは以降も名作の長編アニメーションを作りつづけた。
- これらの詳細はアメリカン・アニメーションの黄金時代を参照せよ。
1980年代からコンピュータ・グラフィックスによるアニメ製作が模索されはじめ、トイ・ストーリー(1995年)を始めとする、3Dのコンピュータグラフィクスによる劇場用アニメーションも、ピクサー社などを始めとして、数多く製作されてきている。
ウォルト・ディズニー以外にアメリカにおけるアニメーションに大きな影響を与えた人物にテックス・アヴェリー(本名フレデリック・ビーン・アヴェリー)がいる。テックス・アヴェリー派の中心人物でエキセントリックなキャラクター、動きを得意とする。代表的なキャラクターにドルーピーなど。ジム・キャリー主演の映画『マスク』など後のアメリカ映画、アメリカコミックスに大きな影響を与えた。
[編集] ロシア
ソ連時代に長編アニメ映画で「せむしの仔馬」等が製作されている。旧ソ連ではスターリンの指示によりディズニーのようなアニメを作ることが求められていた。スターリンの死後、ロマン・カチャーノフが児童向け作品であるチェブラーシカをアニメーション化するなど、ロシアアニメ界に貢献し高い評価を得ている。
[編集] チェコ
チェコは、伝統的に人形劇が盛んであり、経済的理由からセルを使うことが困難であった。従って人形アニメーションが盛んである。代表的な作家にイジー・トルンカ(1912年-1969年)など。彼の代表作は『真夏の夜の夢』(1959年)、『手』(1965年)など。『手』は68年のソ連介入を予見させるものだとして高い評価を受けている。
[編集] 中国
中国では1941年に、アジア初の長編アニメーション映画『鐡扇公主』が、萬籟鳴と萬古蟾兄弟により制作された。