サッカー日本女子代表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サッカー日本女子代表は日本サッカー協会により組織される女子サッカーのナショナルチーム。「なでしこジャパン」という愛称が定着している。
日本女子代表はオリンピックには3大会中2回、FIFA女子ワールドカップには全4回とも出場している。とくにワールドカップについては男子の日本代表よりも先に出場している。
目次 |
[編集] 名称
男子代表が特定の愛称を持たないのに対して、女子代表では「なでしこジャパン」という愛称が定着している。
愛称制定というアイデアはJFAの女性スタッフからの提案がきっかけである。それは「「日本代表」では男子のイメージが定着しているが、オーストラリア女子代表が「Matildas(マチルダス)」という愛称で親しまれており、日本でも同様に愛称をつけてみるのがいいと思う。そしてこれを契機に女子代表の認知度を高め、女子サッカーの発展につなげたい。」というものであった。
このころJFAでも「女子サッカーの発展なくして日本サッカーの発展なし」との考えによりキャプテン・ヘッドクオーターズ(CHQ)で「女子サッカーの活性化」に積極的に取り組んでいたのでこのアイデアを採用することにした。
やがてこのことがマスコミに伝わり、のちに公募により制定となった。そして2004年5月14日にJFAから愛称募集が発表されると、翌5月15日から締切日の6月20日までに約2,700通の応募があり、2回の予備選考を経て7月5日の審査委員会による最終選考で愛称を「なでしこジャパン」と決定し7月7日に発表した。
- 審査委員長(以下肩書きは当時)
- 川淵三郎(財団法人日本サッカー協会キャプテン)
- 審査委員
この愛称は、アテネオリンピックのアジア予選として行われた「AFC女子サッカー予選大会2004」の際に「大和撫子」ということばがよく使われていたため、それをもとに「世界に羽ばたき、世界に通用するように」との願いを込めて「ジャパン」とした。
ちなみに次点(優秀賞)には、日本サッカー協会のシンボルである八咫烏(やたがらす、やたのからす)にちなんだ「ヤタガールズ」、ユニフォームの色(ブルー)とレディー(L)を組み合わせた「エルブルー」、ブルーと夢(ドリーム)を組み合わせた「ドリームブルー」があった。
愛称制定後、最初の試合となった7月30日のキリンチャレンジカップ・カナダ戦(国立霞ヶ丘競技場)では3-0で勝利し、全国にその名を印象づけた。
命名に際し、日本サッカー協会は「なでしこジャパン」を商標登録を申請し、2005年3月11日付けで登録された。また2004年新語・流行語大賞の候補60語にもノミネートされた。
[編集] 歴史
(詳細は日本の女子サッカーを参照のこと)
1960年代から70年代に掛けて、日本ではサッカー競技を行う女性が増え始め、やがて全国各地にチームが誕生すると各地域ごとに小規模なリーグによる対戦が行われるようになった。
1980年には全日本女子サッカー選手権大会が始まり、翌1981年ごろから日本女子代表チームとして海外チームとの試合が行われるようになる。当初は各地域の選手ごとに編成された「選抜チーム」を臨時に任用された監督が指揮するというものであったが、1986年に鈴木良平が初の女子代表専任監督に就任すると、日本全国のチームを対象とする「全日本」チームが編成されるようになる。そして1989年には女子の全国リーグである「日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)」が誕生し、1991年の第1回FIFA女子世界選手権・中国大会にも参加した。
[編集] 日本女子代表と国際大会
女子サッカーがオリンピック種目となったのは1996年のアトランタ大会からである。当時は前年に行われた第2回FIFA女子世界選手権・スウェーデン大会の上位8カ国に出場権が与えられたが、日本はグループリーグでドイツに 0-1 、ブラジルに 2-1 、スウェーデンに 0-2 の成績を収め、かろうじてベスト8入りし出場権を獲得。しかし本大会ではグループリーグでドイツに 2-3 、ブラジルに 0-2 、ノルウェーに 0-4 と3戦全敗に終わり決勝リーグ突破はできなかった。
だがJFAは、次に行われるシドニーオリンピック(2000年)に照準をあわせ、1994年から23歳以下(U-23)の選手による「シドニープラン」により女子代表の強化を図っていたため、この成績に満足したのではと思われる。
ところが現実には思惑通りに行かなかった。前回同様に五輪予選を兼ねて行われた第3回FIFA女子世界選手権・アメリカ大会で日本女子代表は、初戦にカナダと 1-1 と引き分けたものの、つづくロシアに 0-5 、ノルウェーに 0-4で敗戦。ベスト8入りを逃したため、目標としていたシドニー五輪出場を逃す。すると女子サッカーへの関心は瞬く間に低下し、L・リーグの観客動員は急速な落ち込みをみせることになる。やがてそれはL・リーグからの相次ぐチームの脱退を引き起こし、日本の女子サッカーは衰退の危機に瀕することになった。
2002年8月、マカオ男子代表の監督を務めていた上田栄治(もとベルマーレ平塚監督)を代表監督に起用。女子サッカーの再起を期するべく2004年アテネオリンピックに向けたチーム再編を図った。しかし就任当初は敗戦つづきで、とくに2003年の第4回FIFA女子ワールドカップ(「FIFA女子世界選手権」改め)・アメリカ大会のアジア地区予選を兼ねて6月にタイのバンコク行われた「第14回アジア女子選手権」では3位決定戦で格下の韓国にまさかの敗戦を喫してしまい、本戦最後の座を賭けてメキシコ(北中米カリブ海地区)との「FIFA女子ワールドカップUSA2003予選 プレーオフ」(ホーム・アンド・アウェー方式)に進出することになった。7月5日にメキシコのアステカスタジアムで行われた第1戦は、観客10万人のほとんどが地元・メキシコを応援する状況で、しかも慣れない高地ゆえに多くの選手が体調不良という状態のなかで 2-2 の引き分けとした。そして7月12日に国立霞ヶ丘競技場で行われた第2戦では当時の日本女子サッカーで最多となる12743人の観客を集め、澤穂希と丸山桂里奈のゴールにより 2-0 で勝利し出場権を獲得した。この二戦により得た「薄氷の勝利」は新聞、テレビなど各マスメディアにも大きく取り上げられ、結果として女子サッカーに注目が再び集まるきっかけとなったのである。9月に行われた本大会ではアルゼンチン戦でFW大谷未央がハットトリックを決めるなど 6-0 で勝利したものの、ドイツに 0-3 で敗戦。つづくカナダ戦は先制しながらも 1-3 でグループリーグ敗退となった。
これらに基づき、上田栄治監督はDFラインを3バックから4バックに変更するなどのチーム再編を積極的に行った。アテネ五輪では出場チーム数が10に拡大したため、アジア地区は出場枠2カ国をめぐっての地区予選「AFC女子サッカー予選大会2004」を日本で実施。3グループに分かれての一次リーグではベトナムを 7-0、タイを 6-0 で降し、つづく決勝トーナメントでは強豪国である北朝鮮を圧倒的不利の予想を覆す 3-0 で降し、韓国を降した中国とともに2度目の五輪出場を果たした。北朝鮮戦では観客31324人を集め、女子サッカーでの記録を更新。テレビ朝日系列での放送視聴率も関東エリアでは平均視聴率16.3%、最高瞬間視聴率(放送終了直前の午後9時16分)は関東地区で31.1%、関西地区で23.0%であった。これは北朝鮮とはそれまで1勝1分け7敗というデータとオリンピック出場が決定する試合であるとの情報が事前に大きく宣伝されていたことも一因ではないかと思われる。
アテネ五輪本大会では3グループに分かれての予選リーグにおいて優勝候補のひとつ、スウェーデンを 1-0 で破る活躍を見せた。つづくナイジェリア戦では0-1で敗れたものの、他グループ3位との総得点差で決勝トーナメントに進出。決勝トーナメント初戦では、こちらも優勝候補のアメリカ代表と対戦し 1-2 で敗退し、ベスト8に終わったが、3試合を通して警告(イエローカード)・退場(レッドカード)が0ということにより「フェアプレー賞」を受賞した。
これら一連の活躍により日本国内での女子サッカーに対する認知度が高まり、国内のトップリーグである日本女子サッカーリーグ(略称:L・リーグ)の人気も上昇し観客が飛躍的に増加。とくに五輪後には「なでしこリーグ」という愛称も採用され、ますます注目を浴びる存在になっている。さらに「なでしこ」という名称を用いた女性向けのサッカー教室や大会、そして2005年から「なでしこスーパーカップ」も開かれ、女子サッカーのブランド名として活用されるようになった。
2004年10月、日本サッカー協会は前月に退任した上田栄治の後任に大橋浩司を新監督として任命した。11月から代表合宿を行い、12月18日のキリンチャレンジカップで台湾(チャイニーズタイペイ)と対戦。11-0という大量得点に加え、被シュート0という内容で上々のスタートを切った。なおこの試合のチラシやプログラム、応援用のブルーシートにはナデシコの花をイメージした模様がはじめて描かれた。
一方、ユニバーシアード女子日本代表は、ユニバーシアードにおいて2003年大邱大会で銀メダル、2005年イズミル大会で銅メダルを獲得した。また、イズミル大会では監督に本田美登里(岡山湯郷Belle(L・リーグ)監督)を任命。日本では各年代を通じて初の「女性代表監督」であり、銅メダル獲得により女性サッカー指導者もレベルアップしていることが証明された。
2006年にカタールの首都・ドーハで行われた第15回アジア競技大会では、阪口夢穂、永里優季という新戦力が活躍し、グループリーグで強豪の中国を破り決勝トーナメント進出。最後は決勝で同じく強豪の北朝鮮にスコアレスでPK戦まで持ち込んだものの敗れ、準優勝となった。
[編集] 監督・コーチ
[編集] 監督
- 鈴木良平(1986年 - 1989年)
- 鈴木保(1989年 - 1996年・1999年)
- 宮内聡(1997年 - 1999年)
- 池田司信(2000年 - 2001年)
- 上田栄治(2002年 - 2004年)
- 大橋浩司(2004年 - )
なお1981年6月と9月に市原聖曠が、1984年10月に折井孝男が監督を務めたが、大会ごとに選抜チームを率いての就任のため歴代監督には含まれない。
[編集] 女子ワールドカップの戦績
(詳細は「FIFA女子ワールドカップ」を参照)
[編集] 第1回FIFA女子世界選手権(1991年)
(詳細は「1991 FIFA女子ワールドカップ」を参照)
- 開催期間:11月16日~30日
- 開催地:中華人民共和国
- グループリーグB組4位(4チーム) 3戦0勝0分3敗
[編集] 第2回FIFA女子世界選手権(1995年)
(詳細は「1995 FIFA女子ワールドカップ」を参照)
- 開催期間:6月5日~18日
- 開催地:スウェーデン
- グループリーグA組3位(4チーム) 3戦1勝0分2敗
- 決勝トーナメント 準々決勝敗退(ベスト8):決勝リーグ進出によりアトランタオリンピック出場権獲得
[編集] 第3回FIFA女子世界選手権(1999年)
(詳細は「1999 FIFA女子ワールドカップ」を参照)
- 開催期間:6月19日~7月10日
- 開催地:アメリカ合衆国
- グループリーグC組4位(4チーム)3戦0勝1分2敗:グループリーグ敗退によりシドニーオリンピック出場ならず
[編集] 第4回FIFA女子ワールドカップ(2003年)
(詳細は「2003 FIFA女子ワールドカップ」を参照)
- 開催期間:9月20日~10月12日
- 開催地:アメリカ合衆国
- グループリーグC組3位(4チーム) 3戦1勝0分2敗
[編集] 第5回FIFA女子ワールドカップ(2007年)
(詳細は「2007 FIFA女子ワールドカップ」を参照)
- 開催期間:9月10日~9月30日
- 開催地:中華人民共和国
[編集] オリンピックの戦績
(関連項目:サッカー競技 (夏季オリンピック))
女子サッカーがオリンピックに登場するのは1996年のアトランタ大会から。この年から男子は23歳以下(U-23)の「オリンピック代表」の大会となったが、女子はフル代表が参加する。
アトランタ大会とシドニー大会は前年に行われたFIFA女子世界選手権(FIFA女子ワールドカップ)の上位8チームが参加。アテネ大会からは10チームに参加枠が増え、各地区で予選が行われた。
[編集] アトランタ大会(1996年)
(詳細はアトランタオリンピックにおけるサッカー競技参照)
予選リーグ敗退
- 監督:鈴木保
- 登録選手
[編集] シドニー大会(2000年)
- 開催期間:9月13日~28日
- 第3回女子世界選手権の成績により参加できず
[編集] アテネ大会(2004年)
(詳細はアテネオリンピック (2004年) におけるサッカー競技参照)
- 開催期間:8月11日~26日
- 予選リーグ(E組)
- 8月11日 ○ 1-0 スウェーデン (得点:荒川恵理子)
- 8月14日 × 0-1 ナイジェリア
- 決勝トーナメント
- 8月20日(準々決勝)× 1-2 アメリカ (得点:山本絵美)
- 監督:上田栄治
- 登録選手
[編集] AFC女子アジアカップ(AFC女子選手権)の戦績
(関連項目:AFC女子アジアカップ)
- 1975 : 参加せず
- 1977 : 参加せず
- 1979 : 参加せず
- 1984 : グリープリーグ敗退
- 1983 : 参加せず
- 1986 : 2位
- 1989 : 3位
- 1991 : 2位
- 1993 : 3位
- 1995 : 2位
- 1997 : 3位
- 1999 : 4位
- 2001 : 2位
- 2003 : 4位
- 2006 : 4位
[編集] FIFAランキング
- 2003年から公表。現在は原則として3ヶ月ごとに発表される
(参考:FIFA女子ランキング)
発表年月日 | 順位 | 変動 | AFC内 ランク |
変動 |
---|---|---|---|---|
2003年7月16日 | 14位 | -- | 3位 | -- |
2003年8月29日 | 14位 | → | 3位 | → |
2003年10月24日 | 14位 | → | 3位 | → |
2003年12月15日 | 14位 | → | 3位 | → |
2004年3月15日 | 14位 | → | 3位 | → |
2004年6月7日 | 13位 | ↑ | 3位 | → |
2004年8月30日 | 13位 | → | 3位 | → |
2004年12月20日 | 13位 | → | 3位 | → |
2005年3月25日 | 12位 | ↑ | 3位 | → |
2005年6月24日 | 11位 | ↑ | 3位 | → |
2005年9月16日 | 11位 | → | 3位 | → |
2005年12月21日 | 11位 | → | 3位 | → |
2006年3月17日 | 11位 | → | 3位 | → |
2006年5月19日 | 13位 | ↓ | 3位 | → |
2006年9月15日 | 13位 | → | 3位 | → |
2006年12月22日 | 10位 | ↑ | 3位 | → |
2007年3月16日 | 9位 | ↑ | 2位 | ↑ |
[編集] キャップ・得点ランキング
2006年7月30日現在
[編集] キャップ
位 | 名前 | キャップ数 | 期間 |
---|---|---|---|
1 | 澤穂希(#) | 109 | 1993- |
2 | 酒井與恵(#) | 86 | 1997- |
3 | 大部由美 | 85 | 1991-2004 |
4 | 磯﨑浩美(#) | 84 | 1997- |
5 | 高倉麻子 | 79 | 19??-1996 |
5 | 山郷のぞみ(#) | 79 | 1997- |
7 | 野田朱美 | 76 | 1984-1996 |
7 | 半田悦子 | 76 | 1981-1996 |
7 | 木岡二葉 | 76 | 1981-1996 |
10 | 大谷未央(#) | 66 | 2000- |
[編集] 得点
位 | 名前 | 得点数 | キャップ数 | 期間 |
---|---|---|---|---|
1 | 澤穂希(#) | 57 | 109 | 1993- |
2 | 長峯かおり | 48 | 64 | 1983-1996 |
3 | 大谷未央(#) | 32 | 66 | 2000- |
4 | 大竹奈美 | 30 | 45 | 19??-19?? |
4 | 木岡二葉 | 30 | 76 | 1981-1996 |
[編集] 関連項目
- 日本サッカー協会
- サッカー日本代表
- FIFA女子ランキング
- FIFA女子ワールドカップ
- サッカー競技 (夏季オリンピック)
- サッカー競技 (ユニバーシアード)
- AFC女子アジアカップ
- FIFA U-20女子ワールドカップ
- 日本女子サッカーリーグ(L・リーグ/なでしこリーグ)
- 全日本女子サッカー選手権大会
- 女子サッカー
- Gatas Brilhantes H.P.(交流チーム)
[編集] 外部リンク
女子サッカーサイト - 日本サッカー協会による公式ページ。
|
|||
---|---|---|---|
|
サッカー・ナショナルチーム(男子) | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
アジア:AFC | |||||||||||
アラブ首長国連邦 | イラン | イラク | オーストラリア | 韓国 | サウジアラビア | 北朝鮮 | 中国 | 日本 |
|||||||||||
アフリカ:CAF | |||||||||||
南米:CONMEBOL | |||||||||||
北中米カリブ海:CONCACAF | |||||||||||
オセアニア:OFC | |||||||||||
欧州:UEFA | |||||||||||
アイルランド | イタリア | イングランド | オーストリア | オランダ | ギリシア | クロアチア | スイス |
|||||||||||
サッカー・ナショナルチーム(女子) | |||||||||||
アイルランド | イタリア | イングランド | オーストリア | スウェーデン | スペイン | デンマーク | ドイツ |