大西新蔵
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大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月17日 - 1988年(昭和63年)1月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。東京都江戸川区出身。
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[編集] 略歴
旧制東京府立第三中学校より海軍兵学校第42期入校。入校時成績順位は120名中首席、卒業時成績順位は117名中第3位。
東京府立第三中学校を2番で卒業したが、当時の制度では東京府立指定中学校を上位3番以内の卒業者に対し、旧制第一高等学校に無試験で入学可能という例外的特典が存在したため、大西も将来の進路に就いて相当苦慮した形跡が見られる。当時の旧制高等学校から帝國大学への進学は多額の学費がかかる事情から周囲の反対もあり断念、学費無料の海軍兵学校を選択したという。然し海軍兵学校に入学願書郵送の際に封書に切手を基本料金分しか貼らず、かつ書留扱で送付しなかった為に料金不足で返送され、改めて翌年受験した経緯があったが、もしこの願書が問題なく受理されていれば大西は府立第三中学校5年次在籍中に前年度たる第41期に合格入校した可能性が高い。
海軍兵学校在校中の成績は極めて優秀だったが、第三中学校の勉学に比較すれば海軍兵学校とは実に安易な事を教育する機関なのだと思ったそうである。
海軍兵学校教官を経てドイツ駐在となるが、当時のドイツはナチス党が急進した時代であり大西に当時のナチスに対する心証は嫌悪感以外何物でもなく、他のドイツ駐在陸海軍武官と異なり大西はドイツに対して親近感を抱いていない。
第8艦隊参謀長在任中の1942年(昭和17年)第1次ソロモン海戦で敵重巡洋艦5隻を数十分で撃破する戦果をあげたが、輸送船団攻撃を省略した戦術に対する内外の批判に対しては不快感を隠さず、戦後戦記作家の批判に『賣文の輩』と称し彼らの会見インタヴューの類には絶対に応じなかった。
昭和18年3月18日にニューブリテン島ラバウルで実行されたとされている外国人大量殺害容疑で当時の司令長官だった三川軍一と共にオーストラリア政府からB級戦犯に指名されるが軍事裁判の結果両名共容疑無しと認定され不起訴となる。
[編集] 人物像
- 旧名は『留吉』だったが大西は此の名前が気に入らず海軍中尉時に先祖の名を継承するという名目で『新蔵』に改名した。
- 常に高所大所から冷ややかで醒めた視線で見ていたとされている。
[編集] 年譜
- 1892年(明治25年)7月17日 - 東京府南葛飾郡小松川村(現東京都江戸川区)生
- 1898年(明治31年)4月1日 - 南葛飾郡立松川尋常小学校入学
- 1906年(明治39年)4月1日 - 東京府立第三中学校入学
- 1911年(明治44年)3月31日 - 東京府立第三中学校卒業
- 9月11日 - 海軍兵学校入校 入校時成績順位120名中首席
- 1912年(明治45年)7月16日 - 学術優等章受章
- 1914年(大正3年)12月19日 - 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位117名中第3位・任 海軍少尉候補生・2等巡洋艦「宗谷」乗組
- 1915年(大正4年)4月20日 - 練習艦隊遠洋航海出発 香港~サイゴン~シンガポール~豪州~ラバウル~トラック~ヤップ~パラオ~小笠原方面巡航
- 1916年(大正5年)12月1日 - 2等巡洋艦「千歳」乗組
- 1917年(大正6年)7月2日 - 2等巡洋艦「津軽」乗組
- 12月1日 - 海軍中尉・海軍砲術学校普通科学生
- 1918年(大正7年)3月8日 - 『留吉』を『新蔵』に改名
- 1919年(大正8年)9月25日 - 装甲巡洋艦「常磐」乗組 少尉候補生指導官
- 1920年(大正9年)5月20日 - 帰着
- 1921年(大正10年)11月29日 - 海軍砲術学校高等科修了
- 1922年(大正11年)12月1日 - 2等駆逐艦「樅」砲術長
- 1923年(大正12年)12月1日 - 海軍大学校選科学生 東京帝國大学法文学部派遣ドイツ語聴講生
- 1925年(大正14年)12月1日 - 任 海軍少佐
- 1926年(大正15年)3月1日 - 戦艦「扶桑」分隊長
- 12月1日 - 海軍大学校甲種第26期学生
- 1927年(昭和2年)2月7日 - 大正天皇御大葬霊柩車警護
- 1928年(昭和3年)11月25日 - 海軍大学校甲種卒業 卒業時成績順位22名中第4位
- 12月10日 - 海軍兵学校教官兼監事
- 1930年(昭和5年)12月1日 - 任 海軍中佐
- 1931年(昭和6年)4月1日 - 在ドイツ日本大使館附海軍駐在武官補佐官 軍事一般 軍隊教育研究従事
- 1933年(昭和8年)5月14日 - 帰国
- 1934年(昭和9年)11月15日 - 海軍大学校戦略科統率学教官
- 1935年(昭和10年)11月15日 - 任 海軍大佐
- 1937年(昭和12年)4月20日 - 給油艦「襟裳」特務艦長
- 1939年(昭和14年)11月15日 - 軽巡洋艦「利根」艦長
- 1940年(昭和15年)10月15日 - 戦艦「長門」艦長
- 1941年(昭和16年)8月11日 - 第7潜水戦隊司令官
- 10月15日 - 任 海軍少将
- 1942年(昭和17年)6月5日 - 海軍軍令部出仕
- 1943年(昭和18年)3月29日 - 海軍軍令部出仕
- 1944年(昭和19年)9月10日 - 海軍省教育局長兼海軍大学校教頭兼海軍大学校研究部長
- 10月15日 - 任 海軍中将
- 1945年(昭和20年)5月5日 - 海軍兵学校副校長兼教頭兼監事長
- 10月15日 - 予備役編入
- 1947年(昭和22年)1月15日 - B級戦犯容疑で身柄勾留
- 10月18日 - 起訴却下無罪
- 1949年(昭和24年)3月25日 - 石川島重工業入社
- 1950年(昭和25年)7月31日 - 石川島重工業退職
- 1956年(昭和31年)3月15日 - 日本交通公社入社
- 1964年(昭和39年)9月30日 - 日本交通公社退職
- 1988年(昭和63年)1月21日 - 死去 享年95
[編集] 主要著作物
- 海軍生活放談 日記と共に六十五年 (原書房)
- 海軍後に遺るもの(機関誌水交)昭和28年・第3号
- 九三式魚雷命中す(機関誌水交)昭和30年・第19号
- 日本海軍の精神教育 (1~8) (機関誌水交)昭和36年・第90~97号
[編集] 参考資料
- 戦史叢書・第98巻 潜水艦史 (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第38巻 中部太平洋方面海軍作戦(1) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第62巻 中部太平洋方面海軍作戦(2) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井 篤・豊田隈雄編・中央公論新社) ISBN 4-12-4900040-6 C0320
- 高木惣吉日記と情報(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 連合艦隊の栄光(伊藤正徳著・光人社NF文庫) ISBN 4-7698-2128-X C0195
- 軍艦長門の生涯(阿川弘之著・新潮文庫) ISBN 4-10-111007-7 C0193(上巻) ISBN 4-10-111008-5 C0193(中巻) ISBN 4-10-111009-3 C0193(下巻)
- 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野寺 誠編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)