浜崎真二
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浜崎 真二(はまさき しんじ、 1901年(明治34年)12月10日 - 1981年(昭和56年)5月6日)は、広島県呉市三津田出身。大正から昭和中期(1920年代-1960年代前半)のアマチュア野球選手、プロ野球選手(投手)・プロ野球監督。実弟・浜崎忠治も鶴岡一人らと広島商業で夏春連覇した時の選手(投手・内野手)。のちに中日ドラゴンズに在籍、その後審判として有名な平和台事件の主審を務め歴史的判断を下した事でも知られる。
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[編集] 来歴・人物
[編集] 中等野球
呉海軍工廠で働く人達が家を建てた呉市西の山の手・三津田の生まれ。藤村富美男や鶴岡一人、広岡達朗など呉出身の著名選手は皆この近辺の出。呉海軍工廠はバレーボール日本最初の実業団チームで、バレー黎明期の強豪として知られたが、野球も強くその影響で浜崎も野球を始め、小学校卒業後、高等科2年を経て旧制広島商業に入学した。当時のエースは石本秀一で、広商の予科2年時の1917年(大正6年)、外野手の補欠として第3回夏の全国中等学校野球優勝大会(現全国高校野球選手権大会(鳴尾球場))に出場した。翌1918年(大正7年)は米騒動で全国大会は中止。浜崎の実家も米屋で被害を被った。
同年夏、友達が学校をさぼって海水浴に行き無期停学となり、これに巻き込まれ自身も広商の本科1年で退学した。この後呉海軍工廠に半年間就職して野球を続け、前述の友達に誘われ1919年(大正8年)、神戸商業に入学。1922年(大正11年)、第8回夏の全国中等学校優勝野球大会(鳴尾球場)に出場。サウスポーの快速球エース兼3番として勝ち進むが、決勝で当時最強を誇った和歌山中学に終盤八・九回、味方のエラー連発で8点取られ大逆転負け、準優勝。七回まで4点のリードに、地元夕刊誌は「神戸商業優勝」を伝える新聞を配ってしまい、テレビもラジオも無い時代、翌朝の朝刊を見るまで多くの人は大逆転されたと知らなかったという。結局、浜崎はまったく異なる学校で、2度全国大会に出場したことになり、これは浜崎が唯一の記録と思われる。
[編集] 早慶戦復活
1923年(大正12年)、慶應義塾大学に進学。当時早慶戦は中止されていた時代、野球部は全部で15人だったという。新人ながら主戦投手に抜擢され、更に打者としても活躍した。この年の関東大震災は満州遠征で免れた。1925年(大正14年)国民的関心時だった「早慶戦復活」最初の試合でKOされ、神宮球場が完成した1926年(昭和元年)も勝てず、慶応は二年間早稲田大学に勝てなかったが、"陸の王者"の歌詞で知られる慶応大学応援歌「若き血」が出来た1927年(昭和2年)、浜崎が早稲田を2試合連続完封して雪辱を果たした。慶応の米国遠征でも米チームを押さえアメリカでも有名人となるなど、昭和初頭の慶応野球部黄金時代の礎石を創った。
1929年(昭和4年)慶応卒業後、「お前は内地向きじゃない」と言われ満州鉄道に入社。満鉄倶楽部で投打の中軸として毎年都市対抗野球に出場し、その勇姿を見せ野球ファンを喜ばせた。1931年(昭和6年)、1934年(昭和9年)と二度来日したジョー・ディマジオ、ベーブ・ルース(昭和9年のみ)ら米大リーグ選抜チームと対戦する全日本軍(日本選抜チーム)にいずれも選ばれ好投した。のちに巨人軍の母体となったこのチームに残らないか、と誘われたが18戦全敗した事で、苅田久徳や宮武三郎ら周りの選手に「ヤツらに歯が立たないことがよく分かっただろ」と吹きまくって水原茂らとさっさと満州に帰った。太平洋戦争勃発直前の1941年(昭和16年)には明治神宮野球大会に監督兼投手として出場。2試合連続完封して全国制覇し「41歳のエース」と謳われた。身長は154センチ(浜崎自身は自著で五尺二寸と述べているが151センチ説もある)で、当時としてもかなり小柄な選手で、プロ野球史でも最も小さい選手と思われる。
[編集] 45歳でプレーイング・マネージャー
大会から帰ると太平洋戦争が勃発。満鉄と満州国が出資して設立された満州映画に入社。甘粕正彦理事長の元で働くが、俳優としてでは無く社員のスポーツ振興の為雇われた。甘粕は1945年(昭和20年)、終戦直後青酸カリで自決した。ロシア支配下の大連で満人との地位が逆転、トンカツ屋をするなど苦心し1947年(昭和22年)、大連から引き揚げると当時別府星野組、大日本土木など新興勢力として台頭していた土建屋の一つ熊谷組の監督に要請され一旦就任。しかし後から前年中日の監督をやってしくじった早稲田出身の竹内愛一を総監督で迎えると言われ辞退した。たまたま後楽園に野球を見に行ったら慶応の後輩で当時阪急の代表をしていた村上実に誘われ、何と45歳で選手兼総監督としてプロ野球に入団。当時の監督は西村正夫で、この年阪急は4月まで阪急ベアーズとして戦い、5月から阪急ブレーブスとチーム名を変更したが、浜崎は直後の6月の入団だった。この年秋、オープン戦を巨人と帯同し、三原脩に口説かれ青田昇を巨人に返す。翌年1948年(昭和23年)、監督となり更に翌1949年(昭和24年)には2位と健闘。「若い投手には任せてられない」と、1950年(昭和25年)5月7日に登板し、48歳4ヶ月の日本プロ野球史上最年長勝利を記録。
同年11月5日には消化試合の余興として、対戦相手の毎日監督湯浅禎夫(48歳1ヶ月)と先発投手として投げ合い、敗戦投手となった。この時の48歳10ヶ月での出場は日本プロ野球最年長記録である。この頃八百長に関与する選手が多く、これの撲滅に自身も神戸の親分から3ヶ月追いかけ回されるなどチーム作りには苦心。戦後初の黒人選手を入団させたり、丸尾スカウトにまだ高校生の梶本隆夫と契約させたりしたが、小林一三社長が余り金にならない野球の埋め合わせに西宮球場で競輪を開催するなどの消極策をとり(競輪が人気を集めて開催日が増え、芝がひどく荒れたと言われている)、1950年(昭和25年)の二リーグ分裂時には他球団による引き抜きの草刈り場となった。特に病気を治してやった永利勇吉ら捕手全員を他球団に奪われ最もひどい被害を受けた。有望選手争奪戦にはことごとく敗れ、後年、自著で「小林社長がもう少し野球に金をかけてくれたら、阪急の低迷は長くはならなかったのでは」と恨みをしつこくつづった。1953年(昭和28年)には乏しい戦力ながら、球団に直訴して獲得した伊勢川真澄捕手らの活躍もあり、優勝争いを演じたが終盤失速し2位に終わった。約6年指揮を執ったが1回も優勝出来なかった事で責任をとり辞任した。
[編集] 高橋・国鉄監督
1954年(昭和29年)、パ・リーグの永田雅一総裁の画策で前年までの7球団から追加された高橋ユニオンズの創設で監督に就任。既存の7球団から若い選手を預かり育てて、元の球団に選手を返すという計画を立てたが、各球団のお古選手や酒豪選手を押し付けられ、更に高橋龍太郎オーナーが大日本麦酒(現在のアサヒとサッポロの源流)の経営者だったため、各地のビヤホールで選手が飲み放題を繰り返し、トンボ鉛筆がスポンサーに加わり、トンボユニオンズとチーム名を改称した1955年(昭和30年)には開幕11連敗を始め伝説的な敗戦数を記録、ノイローゼとなりシーズン終盤の9月20日、124試合で退任した。後を継いだ笠原和夫もチームを立て直すことは出来ず、当時あった罰則規定の勝率3割5分に及ばず(42勝98敗、勝率はジャスト3割)罰金500万円を課せられた。唯一よかったことはヴィクトル・スタルヒンが、この年300勝を記録したことだった。
その後、毎日の二軍コーチをしながら、スポニチや報知新聞、朝日放送の評論家・解説者を務めた。1960年(昭和35年)には、慶応の後輩・水原茂に巨人投手陣の立て直しを頼まれ投手コーチを務めた。非常に暗いチームを憂い水原には「もっと選手の中に飛び込んでいけ」と進言したが、この年リーグ優勝を逃し水原は退陣、浜崎も身を引いた。この後サンケイスポーツやフジテレビの解説を務め、これが縁で水野成夫社長から直談判を受け1963年(昭和38年)豊田泰光加入後の国鉄スワローズ監督を務めた。
国鉄とサンケイの力関係が微妙で、また立教大学出身の砂押邦信一派が非協力的だったこの年、天皇と言われた金田正一にも厳しく接するなどで、今日のスワローズの礎を築いたといわれる。プロ野球黎明期に非常に指導者として評価の高かった人物で、阪急フロントとしっくりいってなかった1950年(昭和25年)には、長老・小西得郎がネット裏から見た浜崎の野球に惚れ込み、松竹ロビンスに監督復帰する際、浜崎を助監督に就ける事を強く要請したが、当時は引き抜きが大きな問題となっていた時期で結局流れたという逸話も残る。
一方、山城高校に吉田義男(後の阪神タイガース監督)を見に行って「こんな小さいのはダメだ」と獲らなかったり(確かに吉田選手はプロ野球選手としては背は低かったが、浜崎監督はもっと低かった)、ヘビースモーカーで試合中にも関わらずベンチでタバコを吹かしていたとか、大差をつけられると采配を人任せにしてベンチからいなくなったとの証言もあり、指導者としての評価は難しい人物でもある。監督時代は「雷おやじ」と呼ばれ、野球評論家時代にも辛口批評で「球界彦左」「球界のご意見番」などと呼ばれた名物男だった。
苅田久徳の自伝の中に浜崎を指し「私以上の毒舌もの」との件があるが、晩年の1978年(昭和53年)に記した浜崎の自著「48歳の青春」の中でも国鉄時代のコーチ・藤村富美男(阪神OBで初代ミスタータイガースと呼ばれた)を「外見の印象とは違う幼稚園の子供のようなサインを出す小心者」とか阪急・近鉄監督時代の西本幸雄が、和歌山県出身者と毎日時代の仲間でコーチングスタッフを固めるのを「縁故のある者ばかり呼び集めてもダメ」などと切り捨てている。
1978年(昭和53年)、野球殿堂入り。1981年(昭和56年)5月6日死去。享年79。
[編集] 通算成績
- 30試合 5勝 5敗 0完投 105投球回 防御率4.03
[編集] 監督通算成績
- 1219試合 535勝 639敗 29分 勝率.456
[編集] 著書・参考文献
- 48歳の青春/浜崎真二 ベースボール・マガジン社(1978年8月)
- 真説 日本野球史/大和球士 ベースボールマガジン社(1977年7月)
[編集] 関連項目
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- ※カッコ内は監督在任期間。